第10話

小六の初詣の日、寒がっていた私に上着をかぶせてくれたお父さん。あの日は家族全員でお詣りをした。


 酒を呑んで暴力を振るうようになった父と、涙で綺麗な髪がぺったりとく頬に張り付いていたお姉ちゃん。お姉ちゃんをかばうように、お母さんは覆いかぶさる。

 私はそれをただ見ていた。

 父は部屋に引きこもるようになり、家族で初詣やらなんやらに出かけることはなくなった。何の予定もない、私が中一の頃の正月。お母さんは目を覚まさなくなったあの日。原因なんて今もわかっていないが、あの頃は私は父を恨んだ。

「笑うの、咲希。そうすればみんな救われる。誰かの支えになれる。ほらこうやって、華が咲くみたいに。遥華と咲希の名前にはそういう意味が込められているの」

 私の憧れだったお母さん。私を支えてくれた、笑顔を教えてくれた、守ってくれたお母さん。私はお母さんが、前のお父さんが、お姉ちゃんが、家族が大好きだった。

 私はお母さんみたいな人になりたかった。


 痛々しい痣を抑え、床に座りこむお姉ちゃん。

 もうやめて、そう叫んでお姉ちゃんと父の間に立つ。

 「昔のお父さんに戻って」精いっぱいの笑顔を父に向ける。誰かの支えになれると信じていた。

 うるさい、声と共に飛んできた大きな手が、強く強く私の頬を打つ。私は飛ばされ、床に倒れた。私が殴られたのに、お姉ちゃんが悲鳴を上げた。

 また暴力を振るう父。私はその様子を、不格好に固まった笑みのまま何もできずに見ていた。


お母さんから教わった笑顔というものは、素晴らしいものだと思っていた。でも、誰も救えない。

無力さに、背徳感に、悪意に、私は笑う。自己嫌悪のような自分への攻撃。

 人を殴って笑う人たち、傷つけた元カノを笑う人たち、他人の悪口で盛り上がって笑う人たち。

 私が、誰かの支えになりたくて笑いかける笑顔も、それらと同じ笑顔。

 笑顔はきっと、何かへの攻撃なんだ。素晴らしいものでも、美しいものでもない。

 

 

 私が幸せになってほしいと願う人だけでも、幸せになれるように、その支えになりたいと思っていた。そのための私の笑顔も、幸せになってと笑うその笑顔も……、私、何のために笑ってたんだっけ。



 大丈夫?と聞く先輩に、私は笑って答える。笑顔で手を振り、私たちは別れた。

 図書館の前を通り過ぎる。前に雪絵ちゃんと勉強した椅子が見える。私と椅子の間にあるガラス、そこに私が映っていた。

 私はこんな風に笑っていたのか。……みんなと同じだ。私はいつから不格好な笑みを浮かべていたのだろう。もしかしたら初めからずっと、そうだったのかもしれない。



 ノックをする。

「なに?」

 ドアと越しの呑気なお姉ちゃんの声。

「いや、お風呂空いたから……」

 昼間の光景がよみがえる。私はどうお姉ちゃんと顔向けしたらいいだろう。

「ねえ、お姉ちゃん」

 ドアに向かって話しかける。

「どした?」

「ごめん、何でもない」

 内開きのドアに体重がかかったような音が聞こえた。

「そっか。そういえば今日さー、ヤンキーに絡まれてヤバかったんだけど、先生駆けつけてくれて助かったんだよねー」

「……そっか」

「咲希、ありがとね。咲希のおかげで助かった」

 私があの場にいたこと、知っていたんだ。

「私っ……なにも、なにもしてない。逃げただけで」

「大丈夫。咲希のおかげで助かったよ」

 返す言葉が見つからない。

「咲希はさ、いつも無茶しすぎなんだよ。自ら危険に飛び込まなくったっていいし、そんなに思いつめなくていい」

「でも……」

「自分を犠牲にしてまで人の幸せの支えになろうとするのって少し違うと思う。それって素晴らしいことかもしれないけど、咲希の身が心配。咲希、そんなに思いつめなくても、案外人の支えになれてるよ。私、何度も咲希に救われてる。咲希の笑顔好きだったよ」

 好きだったよ、か。

 私の笑顔なんて……

「最近、咲希笑えてない。あの日からだんだんそう。どうしようもない父親だけどさ、それ以上に私、自分のことが許せない。咲希が私をかばったから……。私だけが殴られればよかった。咲希が傷つかないのなら、私はどうなっても構わないのに。私が……私が咲希から笑顔を奪った」

 涙ぐんだようなお姉ちゃんの声。

 違う、そんなことない。そんなことないのに。私は、お姉ちゃんの支えになりたい。自分のことなんてどうだってよかったのに。

 なにが自己犠牲の上にある人の支えだ。お姉ちゃんだってそうじゃないか。私が傷つかないように、代わりに傷ついている。

 今日だって、私が勇気出して、不良の前に立ちはだかったら……お姉ちゃんの怪我は少なかったんじゃないのか。大丈夫って言うなら、ドアを開けて怪我のない顔を見せてよ。

お姉ちゃんは、傷ついてるじゃないか。

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