最終話
変わらない日常。返事の帰ってこない家に行ってきますを言う。最近、父の暴力は止んだ。でも引きこもってばかりいる。
まだ暑い九月初めの空の下、お姉ちゃんと二人、並んで歩く。そこに会話はない。悲しそうで、辛そうな横顔だ。理由は全部知ってる。でも私には何もできない。笑いかけることもできなくなってしまった。何をしても来ない幸せ。
いつまでもみんな元気で、笑って過ごせますように。そんな願いすらも放棄するほど、神は傲慢なのだろうか。
小さく手を振ってお姉ちゃんと別れる。すたすた行ってしまうお姉ちゃんを見ると、悲しくなる。お姉ちゃんは学校では、私と喋ったり一緒にいることがない。
自分の頬に触れる。
教室は、この時期だけどクーラーがかかっていて涼しかった。
「おはよー」
笑顔で教室に入った。私の外と中の温度差には気づかないふりをする。
内容なんて無い。意味の伝達をなさない、言語ですら無い何か。その何かで会話ごっこをする。
担任は相変わらず、ちょくちょく家庭状況を聞いてくる。私は笑って大丈夫ですと返事をする。
男子が誰を好きか、かわいいか話している。たまに私の名前が聞こえる。
お昼の放送で流行りの音楽が流れる。
女子のグループが私の悪口を言っている。
図書館へ行き、青春小説を読む。
「先生、咲希さんの笑顔、とてもすてきだと思います。人と関わってく中でそれは強力な武器になると思います」
知ってた。その通りだよ。武器になることは知ってる。私が笑えば、男女関係なく大半の人は私のことをよく思ってくれる。いい人だと思ってくれる。それのなにが悪い。
まだどこかで、笑顔は純粋で綺麗なものと信じている私がいる。一方で、少し腹黒い私だっている。笑顔は人を救うと本気で信じていた。作り笑いでも張り付いた笑みでも、誰かを救えるならいいと思っていた。だって私にはそれしかない。
「咲希いいよなー。優しいしー、笑顔素敵、マジ天使」
名前も曖昧な男子がそう言った。笑えない冗談だ。どこがいいんだ。顔面に張り付いた、不格好にひきつった笑みのどこが。
笑顔の君が好きだと、君と笑っていたいと叫ぶ、歌も小説も全部クソくらえだ。愛が、笑顔が美しいのはフィクションだけだ。
私はもう笑えない。純粋無垢に、人の幸せを願って笑うなんてできない。笑顔は所詮まやかしなんだ。側だけ取り繕った悪意だ。
なら、私はどうしたらいい。
人の支えになりたいと思い気持ちさえ、ウソなんじゃないかと思えてくる。
……いや、それは嘘じゃない。自分に言い聞かせる。
笑わなきゃ。笑顔が何であれ、不格好であれ、それが人を救うなら、何度でも笑ってやる。そのために私は笑う。私が壊れるまで。私が幸せになってほしいと願う人が幸せなら、私はそれでいい。それが私の幸せだ、私の支えだ。
また、家族で初詣に行くことのないお正月が過ぎた。私は中三になり、お姉ちゃんや先輩は高一になった。
別に何も変わらない。お母さんは目を覚まさない。父は引きこもっている。お姉ちゃんはどこか悲しそうな眼をしている。先輩も最近はそうだ。
そして私は笑う。すっかり顔に張り付いてしまった笑顔の仮面が、私の顔になった。
結局枯れて、すっかり先のほうまで腐ってしまったサボテン。よくもったほうだと思う。腐ったそれを、庭に持っていく。
植木鉢を傾けると、ドサッと音がして、あっけなく地面に落下する。土にまみれたサボテン、明日にはきっと忘れているだろう。
植木鉢は洗って、空のまま机に置いてある。
春過ぎだというのにひどく寒い。今年の桜は雨ですぐ散ってしまった。
私は布団をかぶる。
寒い、それと、おなかが減った。
テレビでニュースがやっている。いまだに病気なのか何なのかすらわかってないやつ。体は健康だけれど、目を覚まさない。その人数が増えているらしい。
私は今日も笑っている。理由は……笑わなければいけないから。
「咲希、最近おかしい。大丈夫なの?」
不安そうな顔をする先輩に、大丈夫、と笑顔を向ける。このひきつった笑みを先輩に向けてしまうのは、なんだか心が痛かった。前までそうじゃなかったのに、先輩やお姉ちゃんの前ですら普通に笑うことができなくなっていた。
先輩と久しぶりにたい焼きを食べに来た。……こんな味だったっけ。甘さも温かさも感じない。だけど、おいしいと言って笑って見せる。なんで笑うんだろう。
怖かったのは、笑う理由を忘れること。想いが風化して、人の支えになりたいという気持ちを忘れ、やみくもに笑うこと。
支えになりたいって、久しぶりに思い出した。でも、思い出すことに意味はない。もう私は人の支えになれない。友人C、Dや、クラスメートE、Fたちを笑顔にできても、近くの本当に幸せになってほしい人はそうならない。
どれだけ絶望していても、支えがあれば生きられることを知った。私にとって、お母さんがそうであったように、人の支えになりたかった。
私はきっともう、心の寿命なんだ。支えをなくして、理想を実現させられなくて、そんな私はもう崩れる寸前だ。
もう一口たい焼きを齧る。
「俺はさ」
先輩が口を開いた。
「しょうもない自分語りだけど、独り言だと思って聞いてほしい。知ってるだろうけど俺はさ、人付き合いが苦手なんだよね。小さい頃引っ越しが多くて友情やらなんやらが安っぽく見えて、ってそうやって理由をつけてきたけど多分違う。多分生まれつき不器用で、感情を出すのが下手。色々考えすぎて、傷つくのが怖くて、笑えなかった。でもさ、咲希と友達になって、一緒に過ごすようになって、楽しかったんだ。咲希が笑うと俺までなんか嬉しくって笑顔になって。咲希のおかげで笑って過ごせた。咲希は何もしてないって言うかもだけど、咲希は間違いなく俺の支えになってくれたんだよ。……咲希は大丈夫って言うけど、悩みがあることくらい分かる。聞かせてほしい。俺の前では無理に笑わなくていい」
たい焼きを食べ終わった私たちは歩き始める。
「笑いたい時だけ、咲希らしく全力で笑えばいい」
多分、私はその言葉が欲しかったんだ。私は、笑わなければならない笑いだらけの世界より、泣いてもいい世界が欲しかった。
先輩といると楽でいられる理由が、なんとなくわかった気がする。
フィクションの中だけの愛より……。
良く思われたくて自分を偽ったりだとか、くだらない欲だとか、そういうものなしに一緒にいられる友情。それって最高に綺麗じゃんか。
でも、疲れたなぁ。体は相変わらず元気だけど、このまま寝て、夢に浸ってしまいたい。私は壊れるとこまで、取り返しのつかないくらい壊れてしまったんだ。死んでしまいたい、そう思ってしまった。少しめまいがした。
誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
先輩が私の名前を呼んだのが聞こえた。
どこかで大きな音が鳴った。鈍い衝撃を感じた。
私は空を見ていた。ひんやりと冷たいアスファルトの感触……
それが事故だと気が付いたのは、少ししてからだった。突然のことでよく分からなかった。
空にひしゃげたトラックの一部と、先輩の顔が見えた。嫌なにおいが鼻をつく。殴られていっぱい鼻血が出た時のような、むせかえる血の匂い。
体が仰向けのまま動かなくて、痛くて、怖い。
意識が薄れていくのを感じた。先輩が何か言っている。
私が死んだら、一体何人の人が本気で悲しんでくれるだろう。……そんなことどうでもいっか。
先輩の涙が腕に落ちた。先輩は悲しんでくれている。
でも、あなたには笑顔でいてほしい。
笑顔は攻撃かもしれない。綺麗なものじゃないかもしれない。
だけど、お母さんが見せてくれたあの笑顔は、私たちの名前に込められた笑顔の意味は、とても綺麗で美しい。
笑顔はすべて汚いわけじゃない。私の人の支えになりたいという願い、本気で幸せになってほしい人に向ける笑顔は、きっと綺麗だ。今はそう信じていたい。
先輩、先輩こそ私の支えになってくれた。今まで私を保ってこられた。
「ありがとう」
声が出ていたかは分からないけど、先輩に言う。
顔に張り付いたお面の下で、少し、少しだけ。
私は、華が咲くように笑えた気がした。
震える手で私は先輩の頬に触れる。口角に触れ、それを持ち上げる。
家族が、友達が、笑顔なら私は幸せなんだ。
あなたが笑顔なら、私は報われた気がする。生きててよかったって思える。
泣かないで。
あなたが笑顔なら、私も嬉しい、幸せなんだ。
だから、ねえ、
笑って
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