第5話

「ただいまー」

 お姉ちゃんはまだ帰ってきていないようで、返事は帰ってこなかった。

 薄暗い家に慣れてしまった事実に恐怖する。最近、お母さんが私に話してくれた言葉を疑うようになってしまった。ひと気のない廊下は不気味なほど静かで、でも足音を立てないように自室に戻る。

 最近サボテンのサボさんが元気ない。前まで丸っこくてかわいかったのに。今では細長く伸びて、そこから枝分かれしていびつな形になっている。折れそうだ。少し水をかけてやる。水をやらないと枯れてしまいそうだけれど、水滴の重さにさえ負けそうで、それすらはばかられる。

 制服のままベットに横たわる。しわがついてしまいそうだけど別にいい。直すのも自分だから。

「……寒い」

 誰に聞かせるわけもなく勝手に口をついて出た。手を伸ばし、掛け布団を乱雑にかぶる。周りがパッと暗くなって、この空間だけが周りと遮断される。一人ぼっちで寂しいような、でも気が楽なような、よくわからない。

 最近どんどんお母さんが居た面影が消えて行ってしまうようで嫌だ。頭に残っていた笑顔も、匂いなんかも消えてしまった。楽しかった世界がだんだん変わっていってしまって、不気味な形になって、なくなってしまう。布団から手だけ出し、ティッシュをとった。

 一人になると泣いてばかりだ。

 やっぱり一人って怖いんだ。


 布団に上半身突っ込んだ変な格好でウトウトしていたら、玄関が開く音が聞こえた。

「おかえりー」

 その声ができるだけ呑気に聞こえればいい。泣いていたことを悟られたくない。


 ウトウトしていたせいで頭がぼんやりしていた。少し早いけれどお風呂を沸かし始める。一つあくびをする。目元が湿っているのは多分そのせい。

 お風呂が勝手に湧いてくれている間、ゆったりと洋服ダンスを漁る。畳んでタンスにしまってある服たちはぎゅうぎゅう詰めで、あふれてしまいそうだった。一番手前に入っていた寝間着を出す。淡いピンク色のヤツ。

 お風呂が沸きましたと場違いに陽気な女の人が言う。意味はないけれど、はいはいと返事をし、お風呂場に向かう。小さなボタンだけで張り付いていたおもちゃみたいな制服のリボンを外した。窮屈なカッターシャツの前を開け、息をした。リボンは雑に洗濯機の上に置いておく。

 放課後先生に掴まれた二の腕の所、もう制服に皺なんてないのだけれどそこを見る。制服を洗濯物カゴに放り込む。

 二の腕にあるあざをさする。嫌な痛みを思い出す。痛い、本当に。

 お風呂のふたを開けると、熱が体をった。お湯に足を浸すが熱くて、片足を突っ込んだまま止まる。ゆっくり、ゆっくり慣らしながら体を沈める。浸かってしまえば熱さは気にならなかった。冷えた両手両足の指がじんわり痺れる。その指で二の腕と、おなかの痣に触れる。頬のものはとっくに消えた。

 痛い。でも何が痛いのかわからない。消えた傷跡も、見た目だけ残っている傷跡も、もう痛みはないはずなのに。傷口を抱える。崩れた体操座りのような姿勢で固まる。

 何をしているのだろう。笑いがこみあげてくる。

 私が幸せになってほしいと一度は想った人たちのことを考える。嫌なことを思い出して自ら傷口を抉る。自分の弱さを呪う。不甲斐なさを叱る。誰の支えにもなれない自分を攻撃する。痛みは感じない。

 ったようにひくひく震える筋肉をほぐす。

 頬はいつの間にか火照っていた。足に力を入れ立ち上がる。お湯が荒れ、水面にかすかに映っていた私の顔がかき消される。湯船から出た。

 湯気で曇った鏡をそのままにして、手にシャンプーをつける。華のようないい匂いがした。


 体の汚れを落とし、お風呂を出た。その時、今日の朝洗ったタオルをしまっているお姉ちゃんに鉢合わせた。

 お姉ちゃんは気まずそうに目を伏せ、脱衣所から出て行った。それはきっと、裸の妹と遭遇したからじゃなくて、私の体に残る痣を見てしまったから。

 見せないように隠していたのに。

 出ていく瞬間、お姉ちゃんはごめんと言った、ような気がした。




「いえーい、はよ帰れるぜー。でも明日は保護者懇談じゃいー」

 変な口調で騒いでるのは雪絵ちゃん。

「去年さ、落ち着きがないって言われたんだけど今年はどうかな」

「その様子見てると今年も言われそう」

「えー、やだなー」

「たっぷり絞られてきなさい」

「咲希までそんなこと言うー。ぴえん」

 雪絵ちゃんは机の上でバタバタし始める。割と通常運転。

「咲希は懇談いつなのー」

「今日の一番最初」

「うわ、つら。幸運を祈る」

 私のほうに、グッと親指を立てて見せる。

「はいはい、ありがと」


 生徒はもうほとんど帰ったか、部活に行ってしまった。先生と保護者の二者懇談だから生徒はいない。人がいないとこんなにも静かなんだと実感する。

 山内先生は一番最初の時間にしてくれたけれど、中途半端な時間だった。家に帰ってからご飯を食べるには少し遅い時間だから弁当を持ってきた。今日の献立は、ふりかけご飯に冷凍コロッケ、タコじゃないウインナー、昨日の残りのブロッコリー、あとその他。教室は静かすぎて、ブロッコリーを噛むコリコリという音が聞こえてくる。なんか嫌だ。もう少しゆでたほうがよかったかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら咀嚼そしゃくし呑み込む。


「それじゃあよろしくお願いします」

 やけに明るい先生。

「お願いします」

 それだけ言って椅子に座る私。

 懇談のために、クラスの真ん中の机二つを向かい合わせになるように移動させておいた。

「最近どう?変わったことはないかな?」

 どう?と聞かれても困る。

「特に、変わりなくいつも通りです」

 先生は明るく保った笑顔を崩さない。

「そっかそっか。それは良かった。新しいクラスでうまくやれていますか?」

「やってるつもりです、うまく」

「いいね。それと、えっと、先生は担任になったからまだ日が浅いから咲希さんのことについて知りたいのだけれど、咲希さんは将来の夢とかありますか?」

「いえ、特には」

「まあ中学生で将来の夢持っている人ばかりではないし、これから探していけばいいと思います。私は、咲希さんは人前に出る仕事とか向いていると思います。先生、咲希さんの笑顔、とてもすてきだと思います。人と関わっていく中でそれは強力な武器になると思います」

「……そうですか」

 曖昧な返事を返す。いつまでこの調子が続くのだろう。

「それと、なにか学校生活だったり、家でだったり困っていることはありませんか?」

 なんていうか、それを聞きたくて、相談に乗りたくてうずうずしている様子が見えてしまってげんなりする。何の意味があるのだろう。意味を期待してしまっても無駄な気がした。

「なにか悩みがあれば何でも聞きます。先生が力になりますから」

 空回ってる、と思う。

「特にないですよ」

「遠慮しないでいいのよ。なんでも聞かせて。先生は咲希さんにいつも笑顔でいてほしいの」

 少し身を乗り出して、急に砕けた口調になって聞いてくる。

 うるさいなぁ。

「……実は二年前から家で……」

「二年前から家で育てているサボテンが枯れそうで、水をあげても元気なくて、どうしたらいいかわからなくて。ずっと育てていたから愛着があって、枯らしたくないんです」

 弱く笑って見せる。

「そうだったの。先生も家でお花を育てているから、すごく気持ちわかる。ちょっと待っててね、調べてみる」

 担任はスマホを取り出す。

「えっとね、水のやりすぎとか、直射日光は良くないんだって。もし枯れてしまいそうなら元気な先っぽのほうを切って、植えなおすといいみたい」

「そうなんですか。ありがとうございます」

 笑う。

「役に立てたようでよかった」



 結局十五分ほど懇談が行われたけれど、あまりにも中身がなくて無駄な時間だった。

「それじゃあ気を付けて帰ってね」

「さようならー」

 笑顔で手を振った。

 校門を通り過ぎ、車が少なくなってきた駐車場でスマホを取り出す。美紀ちゃんからラインが来ていた。彼女からラインが来るのは珍しいことではない。雪絵ちゃんと美紀ちゃんとはよくラインする。

『ナンパしてきた男がしつこくてさ、肩掴んできたから股間蹴飛ばして撃退してやった』

 いかにも美紀ちゃんらしい。

『さすが美紀ちゃん』

 さすが、のを打ったときに予測変換にサボテンと出てきて笑ってしまった。



 先をちょん切って植えなおすと山内先生は言っていたけれど、サボさんを目にするとその考えは失せてしまった。サボさんにハサミを入れるのは気が引ける。それに、先を切って植えなおすということは、弱ったほかの部分を諦めて枯らすということだ。私にはそれができなかった。水をあげすぎているというわけでもないし、葉焼けもしていない。もう少し様子を見ていよう。きっと、よくなるかもしれないから。切るのは可能性をすべて捨てるのと同義。もう少しサボさんには粘ってもらおう。多分、良くなる。

 ドン、家のどこかで大きな音が鳴った。音に驚いて机に手をぶつける。揺れが伝わって、机の上に乗っているサボさんが動いた。鼻に残る甘ったるい匂いがした。

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