第2話
さっきからスマホが鳴りやまない。十九件、ラインがきていた。読まなくてもわかる。きっと、あけおめという言葉で埋め尽くされている。あけましておめでとう、略してあけおめ。
中学一年になってから、私含め十九人のA組グループラインが作られた。A組は二十五人いるが、グループラインの人数は六人少ない。それは決していじめなどではなく、単純にスマホを持っていない六人だ。私は中学受験に受かって、私立の中学と入ると同時にスマホを買ってもらった。グループラインが作られてから、大半の人がスマホを持っていることを知って驚いた。
スマホを開くと、案の定似たような言葉だらけになっていた。そこに私もあけおめと送る。すぐにたくさんの既読がついた。うちのクラスは仲がいい。
グループの十八件とは別にもう一つ、友人にあけおめとスタンプを送っておいた。
勉強机に乗っている少し細くなったサボテンにおやすみを言って、私は布団に入った。
朝起きると、もうすっかり外は明るくなっていて、でもまったく焦らなかった。あくびのようなため息をつき、生ぬるさが残る布団から出た。香ばしい匂いが鼻に触れ、おなかがきゅっと鳴った。
「おはよ。遅かったじゃん。もうすぐ十時だよ」
私に遅かったと言うくせに、お姉ちゃんもさっき起きたようなあくびをする。
「いいじゃん、休みなんだし。特に予定もないんだから」
「そうね」
お姉ちゃんは焼きあがったパンと冷たい牛乳を持って、のんびり自分の分を食卓に運ぶ。
お姉ちゃんはしょっちゅうのんびりしている。それは暇なのか、それとも暇を作りたくないのかは知らないけれど、爆発した寝ぐせの頭のままパンをもしゃもしゃ食べている。
すっかり私もお姉ちゃんも朝食を終えたのに、お母さんは起きてこなかった。
「咲希ちょっとお母さん起こしてきてー」
うん、と返しお母さんの寝室に向かう。
「お母さーん?」
扉をノックしたが返事がなかった。
ドアノブに手をかけると、まだ新しい扉は音もたてずに空いた。
いやに部屋は静かだった。何かが抜けてしまったかのように。
お母さんは寝ていた。体をゆすると、服越しにお母さんの体温が感じられた。
「おかあさん……?」
ぐらぐらと力なく、私に揺らされ動いていた。
その日からお母さんが起きてくることはなかった。息もしているし、心臓も動いている。それなのに、魂でも抜けちゃったかのようで、精巧な人形のようで、目を覚まさなかった。
二週間と少しあった冬休みが今日で終わる。私はまだ暖かいお母さんの手に触れた。あれから一週間。お母さんは入院した。病院でどんな検査をしても一切原因がわからず、ただ私を不安にさせた。このまま目が覚めなかったらどうしよう。最近は毎日そんなことしか考えていない。
そんな私の不安に気が付いていないのか、お母さんはずっと無表情で目を閉じている。いつものような笑顔じゃない。でも苦しそうじゃないだけマシだと自分に言い聞かせる。
お母さんは夢を見ているのだろうか。どんな夢だろう。ずっと夢の中でお母さんは幸せなんだろうか。
そういえば私は、お母さんの弱いところを見たことがない。よく笑っていて、強くて明るかった。お母さんといると私もお姉ちゃんも自然と笑顔になった。
でも本当は辛かったんだろうか。だから夢から覚めたくないんだろうか。
私もお姉ちゃんも行ってきますを言わずに家を出た。ほとんど空っぽな鞄はぺったんこにつぶれていて、なんだか心もとない。雪でも降りそうな一月の空の下、お姉ちゃんの後ろをついていく。私よりだいぶ背の高いお姉ちゃんの背中を追いかける。とても、寂しそうで、悲しそうだった。理由は多分、大体知ってる。でも私にはどうしようもできない。自分で何もしないくせに、毎日が幸せになると信じようとするのは、傲慢だろうか。
ふと、お母さんがよく言っていた言葉をおもいだした。人の支えに、私はなれるだろうか。
中学二年生のお姉ちゃんは一個上の階だ。同じ学校で階が違うだけだけれど、お姉ちゃんは校門を抜けた後、私に手を軽く振り、足を早めてしまう。私は少しだけ大げさに手を振る。少しでも、明るく見えたらいい。
そういえば、学校へ行く道中、お姉ちゃんと一言も交わさなかった。
乾いた眼を瞬く。
外と教室の温度差に、私はいつも少しびっくりする。
「おはよー。あけおめー」
誰かの元気な声が骨を伝ってよく聞こえる。
クラスメートが、私が教室に入っていたのを見て何かしらリアクションをした。
耳を通って様々な声が聞こえた。
「咲希ぃー、会いたかったー」
クラスメートの一人、雪絵ちゃんが抱き着いてくる。鼻を触る髪からは甘い香りがした。
「大げさだよ。まだ二週間かそこらでしょ」
私は笑っていった。
「ねえ、ちょちょ首締まるから」
鞄を持っていないほうの手で
「聞いてよー。課題まだ終わってなくてさー。明日提出じゃん。マジヤバい」
「何の教科残ってるの?」
机に空っぽの鞄を置きながら聞く。
「科学と、数学と、あと現社もちょっとある」
「ヤバいじゃん。終わる?」
「終わるわけないじゃんかー。ちょおーっと遊んでただけなのにさ、もう冬休み終わりだよ。違う学校の友達まだ冬休みだって。うらやましすぎる」
「しょうがないなあ。手伝うよ?」
その言葉を期待していたであろう雪絵ちゃんは、はちきれんばかりの笑顔を見せた。
「数学さ、解答配られてないから詰んでたんだよねー。マジ助かる。サンキュー、
「はいはい。じゃ、学校終わったら図書館でいいよね」
笑いながら私はそう言った。
「咲希ってさー、彼氏いんの?」
ウエットティッシュで手をふきながら彼女が聞いてきた。
「なに、急に?いないよ」
昼前に学校が終わり、私たちは帰り道にある図書館に立ち寄っていた。本があるのは二階と三階で、一階はフリースペースになっている。学校からも近いため、放課後はここで勉強したり、友人としゃべったりする高校生が多い。今日も、私たち以外に何人か人がいて、少しにぎやかだった。
「ほんとにいないのー」
雪絵ちゃんは身を乗り出してじっと見つめてくる。
「いないいない」
私は首を振る。
「モテそうなのにな、咲希。作らないの?彼氏」
「いいよ、そういうのは」
手をふき終えてくしゃくしゃになったウエットティッシュを丸め、机の隅に置いた。紙袋からさっき買ってきたサンドウィッチを取り出す。
「足りる?そんだけで」
「うん。てか雪絵ちゃんは食べすぎだよ」
自分のサンドウィッチと雪絵ちゃんのを見比べる。二倍くらい量がありそうだ。
「野菜入ってるから大丈夫だって。太らない太らない。それに安いしねー」
そう言うと彼女はサンドウィッチに大きくかぶりついた。レタスがいい音を鳴らす。ライ麦の茶色っぽいパンで、ベーコンやレタスを挟んだ野菜たっぷりのサンドウィッチは、値段の割にボリューミーで、健康にも財布にも優しい。
「あの店お洒落でいいよね。アンティークっていうのかな。あの木の感じとか好き」
「だよね。私も好き」
平和だ。私よりも大きな窓ガラスから差し込むあったかい光も、かぶりついた手の中のサンドウィッチの味も、なにもかも優しくて平和で、それしか見えなくなりそうになる。全部、仮面をかぶった世界。仮面越しの悪意。
もし、天国か夢か、そんな世界があるなら、それはきっとサンドウィッチにおいしい以外の感想を持たない所だ。
好きな友達といる時ですら、暗い考えがよぎってしまう私自身に軽く辟易する。
「あのさ」
雪絵ちゃんが、躊躇いながら口を開く。そんな雪絵ちゃんは少し新鮮だ。
「なにー?」
言葉の先を考える。
「私、彼氏できたんだよね」
「へ?あ、そうなんだ。おめでとー」
「へへへ、違う学校の友達の友達でね、冬休みに一緒に遊ぶ機会があってね、なんやかんやあって付き合うことになったんだー」
彼女は頬を赤くしながら上機嫌で話す。見てるこっちまで熱くなりそうで、サンドウィッチと一緒に買ってきたアイスコーヒーに口をつける。冬だけどアイス。
「雪絵ちゃん初めての彼氏じゃない?」
「そうそう!人生初彼氏」
「よかったじゃん。どっちから告白したの?」
「一応向こうからかな。付き合ってって。お互いまだ、す、好きとか言ってない」
「言っちゃえ、言っちゃえ」
「無理、恥ずかしすぎて死ぬ」
「私には愛してるーとかいうのにさ」
「それとこれは別だってー。友達に言うのと彼氏に言うのとじゃ全然違うよー」
「まあそれもそうね」
「でもでも今度ね、二人っきりで買い物行くの。初デート!今から楽しみで楽しみで夜も眠れない」
「じゃあもう授業中居眠りしないね」
「ただの例えだってー。授業は寝る。眠いもん」
「いや、寝ないでよ。こっくりこっくるしてる雪絵ちゃん見てると笑いそうになるから」
雪絵ちゃんは私の前の席だから、寝ている姿がよく見える。
「私そんなバレバレな寝方してる?」
私はうなずく。
「マジかー、バレてないと思ったのになー」
「どこからその自信が湧いてくるの……。てかそれより、課題やりに来たんでしょ。終わんないよ」
「真面目だなあ、咲希は」
ぶつぶつ言いながらも雪絵ちゃんは問題集を開き、なんだかんだ真面目に勉強し始める。割とすらすら解いていく所を見ると、私の手伝いなんて必要ないんじゃないかと思えてくる。雪絵ちゃんは授業寝てばっかりだけど、案外頭はいいのかもしえない。
「ねえー、咲希ぃ」
「なに?」
「二パイってエロくね」
前言撤回。やっぱりアホかもしれない。
大きい窓ガラスに近いこの席は、時間の変化を感じやすい。オレンジに染まり始めた室内と空はやっぱり綺麗だ。小さいころ私は、この空が好きだった。少し肌寒かった帰り道、お母さんと手をつないで家に帰った。その日もこんな空だった。空が綺麗だから好きなのか、お母さんと一緒だったから好きなのかは分からないけれど、そんなことはどうでもいい。懐かしい。でも、懐かしいと思ってしまうことに悲しくなる。だってもうおんなじ時間を過ごせないみたいじゃないか。
「ひゃー疲れたー」
人が少なくなってきたオレンジのこの場所に、少し場違いな声がした、
「お疲れ。これなら明日までに間に合いそうだね」
「ホントサンキュー。咲希、助かった」
彼女は伸びをして、倒れそうなほど椅子の背もたれに寄り掛かった。
「私なにもしてないよ。雪絵ちゃんが優秀だっただけ」
「家でやってもさぼっちゃいそうだからさ、咲希がいたから頑張れたんだよ。教え方うまいしさ。なんかねー、咲希と一緒にいると空気和む感じする」
「そうかな。自分ではよくわからないけど」
背もたれに全身を預けたまま雪絵ちゃんは帰ろっか、とつぶやいた。
「そうだね。雪絵ちゃん帰れる?この時間電車ある?」
「んー、多分」
私はスカートのポケットからスマホを出し、時間を確認する。
「もう四時半だねー」
「ごめんね。こんな時間まで付き合わせちゃって」
「いいよいいよ。帰ろ」
私は笑っていった。
「……ただいま」
家に帰るころには、空の奥が少し暗くなり始めていた。手が冷たい。玄関の扉を閉める。ドアノブはもっと冷たい。光が入らない分、電気がついてない玄関は外よりも暗かった。靴は下駄箱にしまわれてしまって、ここには寂しいくらい少ない。
「おかえり」
私は顔を上げる。お姉ちゃんが奥から出てきた。お姉ちゃんも制服のままだけど、崩した制服を見ると、だいぶ前に帰ってきたように見えた。
「今日、寒かったでしょ。ココアいる?」
「うん、でも自分でやるからいいよ」
お姉ちゃんは首を横に振った。
「いいよ。私やるから。咲希は鞄おいてきな」
「ありがと」
ローファーを脱ぎ、空っぽになって一週間かそこらの部屋の前を通り過ぎた。部屋は相変わらずそのままになっている。
暖かいコップは、手をじんわりとほぐしてくれる。コップを傾けると、熱すぎないココアが唇に触れる。
「おいしい」
自然と笑顔になる。
「……よかった」
「お姉ちゃんはココアづくりのプロだね」
「なに、それ。粉入れて混ぜただけだよ」
少し笑ってお姉ちゃんが言った。
夕焼けを背に帰ってきた帰り道、やっぱり体が冷えてしまったようだ。
もう一口飲む。暖かかった。
毎朝、意味もなく習慣のようにつけていたニュース番組に目が留まった。
『続いてのニュースです。昨日東京で、新たに十二人の意識不明者を出していたことがわかりました。去年九月ごろからたびたび意識不明者が出ており、日に日に増加しているとのことです。〇〇大学院教授に取材しました』
『最近増えている病気、そもそも病気と言っていいのかもわかりませんが、現在対処法が見つかっていません。体や脳に、一切問題がなく、症状が出た人の共通点もないため防ぐのは難しいと思われます。私は一種のうつ病ではないかと考えていますが、
思い出すのはお母さんのこと。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫、きっと」
自分自身に言い聞かせるような声だった。
多分お姉ちゃんも同じことを考えている。
大丈夫、多分。最悪な考えを打ち消すように頭を振る。お母さんがよくなるという希望をもって私は笑う。
笑い方を教えてくれたのはお母さんだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます