雪女の氷川さんは今日も構ってほしそうに袖を掴んでくる

そらどり

私を呼んでくれるから

「暑い……」


 十月上旬。季節外れの猛暑に晒され、俺、日向ひなた優生ゆうは机の上でうつ伏せの状態でダウンしていた。

 教室内の他の生徒も同様。「何でエアコンつけてくれないんだよ」とか「融通の利かない校長め」とか、暑さのせいで日頃の鬱憤を垂れ流している様子だった。


 しかしそんなサウナ状態な教室でただ一人、汗もかかず、涼しい表情で読書に励む少女がいる。

 その異端さに羨望の眼差しを向けていると、ふと彼女と目が合った。


「どうしたの日向くん?」

「いやお前、こんな暑いのによく平然と読書できるよなと思って」

「今日はそこまで暑くないと思う」

「え、マジか」


 嘘ついているんじゃないだろうなと疑いの目を向けるが、いたって淡泊な様子。

 限りなく白に近い銀色のミディアムヘア―をなびかせ、全てを見通すように青く澄み渡る瞳を携え、透き通る色白な素肌を覗かせる。

 まるで純白のカーテンに包まれた白百合のようで、柔らかくも妖麗なその面持ちには思わず目を奪われてしまう。


(ああ、そういえばそうだった)


 この地獄同然の教室でどうして彼女が暑さを感じないのか。どうして汗ひとつ垂らさず涼しげな表情で読書に励むことができるのか。

 暑さで頭がやられていたせいか、今更になって思い出す。

 目の前で座る少女の名前は、氷川ひかわあおい。その正体が「雪女」であったことを。


 皆さんは「雪女」をご存じだろうか。

 一言で言うと、肌が氷のように冷たくて、触れたものを瞬く間に凍らせてしまう日本の妖怪をそう呼ぶらしい。

 しかし今となっては単なる伝承。作り話が現代に語り継がれただけに過ぎず、科学が発達した現代では、妖怪は存在しないというのが世間一般の常識となっていた。

 勿論俺も、妖怪の存在自体をフィクションだと思っていた。今まで現実で見たこともなかったし、漫画や小説の中で見る程度の、謂わば創作上のキャラクタ―としか思っていなかったから。


 でも数週間前、驚くべきことに、氷川さん自身から「私、雪女なの」と唐突にカミングアウトを受ける事件が発生した。

 最初は冗談かと思った。感情表現が薄い氷川さんなりの精一杯のコミュニケーションなのだろうと。

 しかし実際にその冷たい手に触れれば、そんな疑いは一瞬で晴れた。

 氷のように冷たく、柔らかくも凍てついた質感。これで信じない方が非現実的だった。


「そうだった。雪女だから暑さを感じないんだったな」

「全く暑さを感じない訳じゃないよ。今日はポカポカ陽気に感じられるから」

「それでも十分過ぎるくらいだっての。はぁ、マジで羨ましい……」


 今日だけでいいから雪男になってみたい。

 あ、でも雪男だとUMA扱いされるのかな。それはそれで何か嫌だ……


「……むしろ私は日向くんが羨ましい」


 どうでもいい不安に苛まれていると、氷川さんは淡泊な口調でそう言った。


「え、なんで?」

「表情が豊かでいつも友達に囲まれてるから。正直嫉妬してる」

「いや別に、自慢してる訳じゃ……」

「でも友達のいない私に構ってくれるから、いい人だと思う」

「お、おう……」


 今度は何故か褒められた。表情は依然として涼しげな様子なので、如何せん褒められた気はしないけど。

 でもそっか。氷川さんにそう思われてたのか。


「……あんまり見つめないで」

「あ、ごめん」


 知らずのうちに見つめ合っていたらしい。

 すぐさま謝るが遅かったようで、氷川さんは視線を逸らして書物へと目を向けた。


「本当にごめんって。他意があった訳じゃないから」

「……そう」

「あ、あれ? なんで急に怒るの? 俺、今変なこと言った?」

「言ってない。怒ってない」

「それ言う奴って絶対怒ってるじゃん……」


 表情も口調も一切変わらないので、そもそも怒っているのかすら分からない。

 でも一向にこちらを振り向く素振りも見せず、依然として目の前の書物に目を向け続けている。状況的に判断すれば、怒っているのは明らかだろう。


(けどなんで怒ったんだ? 氷川さんって感情表現が薄いから考えてること全然分かんねえし……)

 

 後頭部に手を伸ばすものの、理由に関しては思い当たる節がない。

 あ、もしかして読書を邪魔されたから怒ったのだろうか? それだったら書物に目を向けるのにも納得がいく。

 ……なら俺が居ない方が都合良い、か。


 そう結論づけるや否や、氷川さんの邪魔にならないよう、教室を出るために席を立とうとする。

 しかしその直前。肘の手前までまくった袖を掴まれて、思わずその動きを止めた。

 凍てつくような冷気が肘に触れる。こちらへと伸びる手の元を辿らなくとも、相手が誰だか分かった。


「待って日向くん、どこ行っちゃうの?」

「どこって、まあちょっとだけ席を外そうかなって」

「どうして? 用がないのに席を立つのは変」

「いや……だって俺が居たら氷川さん怒るだろ? だったら居ない方がマシかなーって」

「だから怒ってないって言ってるのに」


 そうは言うものの、先程よりご立腹な様子なのは火を見るよりも明らか。

 加えて、袖を掴む力がやけに強い。居ても居なくても怒るのに、一体どうすれば正解だというのか。ああ、誰か答えを教えてくれよ……

 しかし、そんな板挟みに辟易している俺に構うことなく、相対する氷川さんは話を続ける。


「なら私が怒ってると仮定して、日向くんは許してほしいと思ってるの?」

「そりゃ許してほしいよ。明日も険悪なムードだったら嫌だし」

「明日、も……」

「?」


 明日。そう言った瞬間、氷川さんの瞳が揺らいだような気がした。

 変なこと言ったかなと自問する俺。対する氷川さんは、人知れず下唇を噛むと、考えを改めたようにこう告げた。


「……分かった。なら許してあげる」

「そっか! ああ、良かった―――」

「でもひとつだけ、代わりに条件がある」

「あれ?」


 浮足立つ俺を制するように横槍を入れる氷川さん。さながら子供を諭す母親のよう。因みに子供の方は、恥ずかしながら俺だ。

 しかしそんな羞恥が表情に出ないよう何とか取り繕いつつ、目の前の氷川さんに問いかける。


「こほん。で、なんだよ条件って?」

「読み合いっこしようよ」

「?」

「だから、読み合いっこしようって言ったの」


 意味が分からず困惑する間もなく、対する氷川さんは、机の上に置いてあった書物を手渡してきた。

 促されるがままに開いて見れば、よく分からない古文書らしき何か。古い絵や昭和を感じさせる写真も掲載されている。なんだこれ?


「私の好きな民謡が載ってるの」

「民謡!? 氷川さん、いつもこんな難しい本読んでたのか」


 将来は民俗学者にでもなるつもりか。でも事実、氷川さんの古文の成績はずば抜けていた。


「日向くん古文毎回赤点だって言ってたから。これなら勉強代わりにもなると思う」

「くっ……拷問かよ」


 これが条件というなら、最早許されない方がマシに思えてくる。だって勉強嫌いだもん。

 でも許してほしいって言っちゃったからなぁ。今更撤回できないしなぁ。


「……仕方ない。やるか」


 決意するや否や、自席に座って書物を机上で開く。

 対する氷川さんはというと、自分の席から椅子を動かし、当然のように俺の左隣に陣取るのであった。

 いや氷川さん、いくら読み合いするからってちょっと近くないですかね?


「近くない」

「エスパーかよ」

「日向くん、考えてることすぐ顔に出る」

「え、嘘?」


 そんなに分かりやすかったのか。今度から気をつけよ。

 と、反省していると、書物の上に乗せていた左手に突然冷たい感触が。

 え、これ……完全に手繋いでない? 繋いでるよね?

 

「暑いかなと思って」

「その言い訳はちょっと強引過ぎる気が……」

「じゃあ教えてあげない」

「ああ、ごめんって冗談だから!」


 プイっと顔を逸らす氷川さんをどうにか宥め、俺達は書物を読み合っていくことに。

 ただし全然集中できない。今にも手汗が吹き出しそうで、恥ずかしさのあまり、握られている左手を離してしまいたくなる。

 隣には真面目な様子で書物を読み上げている氷川さん。その表情はいつも通り妖麗で、涼しげで、けれども心なしか赤いような気がした。


(そういえば、あの時もそうだったな)


 雪女だと打ち明けられたあの日を思い出す。

 涼しい表情しか見せてこなかった氷川さんが初めて見せた、頬を赤く染める様相。

 視線を泳がせつつも、意を決して秘密を暴露したその勇気は相当のものだったはずなのに。


「今更だけど、氷川さんってなんで俺だけに雪女って打ち明けてくれたの?」

「ほんとに今更だね」

「まあ、言いたくないなら無理して言わなくてもいいんだけどさ」

 

 そう告げると、氷川さんは首を横に振る。

 それから少し考える素振りを見せ、やがて妖麗な微笑みで答えをくれた。


「日向くんに憶えていてほしかったから、かな」

「……?」


 答えの意味はよく分からなかった。「雪女」だなんてカミングアウトされたら、誰もがあまりの衝撃で忘れようにも忘れられないだろうに。

 でも不思議だ。その微笑みを見ていると何故か納得してしまう。根拠はないはずなのに、その微笑みだけで頷いてしまう。

 

 最早書物など目に入らない。教室にいるクラスメートの声も、音も、何もかもが。

 目に入るのは、氷川碧という女子だけ。


(ああ、そっか)


 俺って、氷川さんのことが―――


「日向くん、急にボーっとして変」

「え? あ、ああ、ごめん、ちょっと気抜いてた」

「ならサボった罰として、もう一回初めから読み直し」

「うへー」


 嫌々ながらも、書物に視線を戻して、言われた通りに民謡を読み直す。

 自覚してしまったこの気持ちを今すぐにでも伝えたい気持ちはあったが、今は心の整理をする時間が欲しかった。

 でもいつか、いや明日だ。明日こそ、この想いを彼女に伝える。そう決意して俺は明日を迎えるのだったが―――


 次の日。隣の席に彼女は居なかった。

 担任の先生やクラスの友人に尋ねても「誰?」の一点張り。まるで彼女が、最初から存在していなかったかのような反応だった。

 俺は怖くなった。隣の席には確かに彼女がいて、昨日までの出来事を今でも鮮明に憶えているのに、全部が夢だと錯覚してしまう。

 いつも涼しげに読書をする彼女の姿も、僅かに微笑む珍しい一面も、手を繋いで恥ずかしがっている彼女も、全部夢だというのか。

 認めたくないのに、姿も形も思い出せない。どんな髪型だったか、どんな色をしていたか、どんな人だったか。


(……あれ?)


 って、誰だっけ?







 山の天気は変わりやすいと聞くが、私はそう思わない。

 相変わらず雪は空から降り続けているし、身に纏う白装束には結晶が零れ落ちていた。

 綺麗な形をしている。そう思って手を差し伸べるが、雪の結晶はあっという間に溶けて消えていく。

 儚き胡蝶の夢のようで、掴んでは溶けていく彼等に少し同情してしまう。


「碧、そろそろ出発するわよ」


 誰かが私を呼んでいる。

 振り向けば、同じく白装束を身に纏う女性。私の母だ。


「ボーッとしてないの。日が沈んだら里に入れなくなるんだから」

「うん、分かってる」


 そうだ、私は「雪女」だ。

 勿論、生まれた時からそうだった訳ではない。妖である両親の間に生まれた私は、中学まではごく普通の人間として生きてきたから。

 だから最初は戸惑った。小学生からずっと仲良かった親友に「誰だっけ?」と突然訊かれて、酷く傷ついたのを憶えている。

 「雪女」としての力が目覚めたらしい。自覚すると共に同化が始まると、次第に平熱が下がり、髪の色素も薄れ、だんだんと皆の記憶から私という存在が溶けて消えていった。

 誰も私を憶えていてくれない。誰も私を呼んでくれない。

 自分はずっと独りなんだと、そう納得した私は、その後の虚ろな日々を無常に過ごしていた。


 でもそんな時だ、日向くんが目の前に現れたのは。

 高校生になりたての頃、私は他人と関わること自体を恐れるばかりで、教室では一人でいることが常だった。

 仲良くなってもすぐに忘れられてしまう。一度植え付けられたトラウマに足が竦んでしまい、読書が好きな文学女子を演じることしかできなかった。

 けれど日向くんは、そんな私に、毎日のように声をかけてくれた。

 心に勝手に土足で入り込んできて、どうでもいい話を語り始めて、何気ない一日をくれる彼。気づけば私は淡い恋心を抱いていた。


 日向くんとの時間が愛おしい。けど同時に切なくなる。

 こうして仲良くしてくれている彼も、いつか私を忘れてしまう。氷川碧という存在がいた事実すら思い出せず、かつての親友のように、彼も私を置いて春へと旅立ってしまう。

 またトラウマを刻まれてしまう。もう二度と傷つきたくないと思ったから、彼の元を離れてここまで逃げてきたのに。


「碧、また泣いてる」

「……泣いてない」


 嘘をついた。母に言われずとも、自分が泣いていることくらい理解できるのに。

 だって胸が苦しいから。愛しい人と過ごしたあの日々を思い出すたびに心臓が引き裂かれる。

 もっと隣にいたかった。もっとお話ししたかった。もっと手を繋いでいたかった。

 明日も明後日もその先も、もっと私を呼んでほしかった―――


「ごめんなさいね碧。普通の学校生活を送ってもらいたかっただけだったのに、私達が雪女と雪男なばかりに……」

「ううん、お母さんとお父さんのせいじゃない。一人暮らしもさせてもらったし……少しの間だったけど楽しかったから」

「碧……」


 そう言うと、母は静かに詰め寄って来て、私を抱きしめた。

 

「もうつらい思いはさせないから。これからはずっと一緒だからね」


 母の口調はいつになく優しい。仄かに感じる温もりに包まれて、また目じりが熱くなる。

 けれども胸の奥は穏やかで、少しだけ救われたような気がした。


「それじゃあ出発しましょうか。お父さんも里で碧の帰りを待ってるから」

「うん。でもちょっとだけここにいさせて。未練は……残したくないから」

「……そう。なら先に行って待ってるわね」


 旧街道を一足先に進む母を背中で見送ると、私はこれまで登ってきた石段を振り返る。

 轟々と降りしきる雪。辺り一面は白いベールに包まれ、数メートル先の視界すらもままならない。

 一瞬でも気を抜けば座標を見失う。まだ人間の面影があった頃の自分であれば、この雪山に立ち入るような真似はしなかっただろう。

 やはり自分は「雪女」なのだと、今一度実感した。


「…………」


 これで良かったんだ。

 私は「雪女」で、彼は人間。季節が巡り雪だけが溶けて消えるように、本来は交わることがない者同士だったんだから。

 私には過ぎた夢だった。神様がくれた細やかな思い出なのだとひとり納得し、手のひらに零れ落ちた結晶をそっと吹いた。


「……さようなら、初恋の人」


 最後にそう囁く。俗世への未練を断つように、そして噛み締めるように、ゆっくりと囁いた。

 もう思い残すことはない。踵を返し、先行く母の元へ向かおうとした―――その直後。


「……?」


 誰だろうか。薄っすらと人影がこちらへと近づいて来る。

 最初は地元の人だと思った。こんな冬の山奥に登山服で入るなんて危険な行為、素人には到底真似できないから。

 でも違う。次第に鮮明になるシルエットを見て……私は目を疑った。


「日向、くん……?」


 彼が目の前にいる。

 でもおかしい。ここは山奥で、地元からは何度も県を跨ぐ必要があるほど距離があるはずなのに、どうして彼が目の前にいるのか。

 

 ……そうか、分かった。

 これは夢。愛しい人を忘れ難いと思い、もう一人の私が呼び起こした幻なんだ。


(いくら日向くんを忘れたくないからって、未練がましいにもほどがある……)


 なにが「思い残すことはない」だ。お気楽な自分に呆れてしまう。

 ……こんな自分には現実を思い知らせなければならない。

 ほら、幻だったら触れられるはずがない。手を伸ばせばこの通りスルリと透けて―――って、あれ? 


「おー久しぶり。ちょっと見ない間に随分綺麗な姿になったな―――って、ちょ、な、なんだよ?」

「触れるってことは……夢じゃない?」

「夢ちゃうわ! 会って早々冗談はよしてくれよ」

「え、じゃ、じゃあほんとに日向くん―――……?」

「そうだって。ちゃんとホンモノの日向優生ですよ」

「~~~~~~っ!?」


 思わず感情を露わにしてしまう。

 だって夢だと思ってたのに、幻だと思ってたのに、ホンモノなんて聞いてない……!


「な、なな、なんで日向くんがここに……?」

「ん? なんでってそんなの、氷川さんを探しに来たからに決まってんだろ?」


 登山帽を外しながら、彼は素っ頓狂に笑う。「慌てすぎだろ~」と揶揄われてしまい、カッと顔が赤くなる。


「探すのに結構苦労したんだぜ? 誰に尋ねても知らぬ存ぜぬで、手がかりなんて何もなかったんだから」

「な、ならどうしてここが分かって……」

「民謡だよ。前に教えてもらった民謡を図書館で調べてみたら、ここらへんがその歌の起源だと分かってさ。まあ詳細なことまでは載ってなかったんで、その後は地道にこの辺一帯を捜索する羽目になった訳だが……」


 後先考えずに馬鹿だよな俺、と自虐するその表情には、疲れの色が浮かんでいた。


「でもこうしてまた会えた。それだけで嬉しいよ」

「……っ」


 優しく微笑む日向くんに見惚れてしまい、忘れようとしていたはずの感情が未練がましくも膨らんでいく。

 でも違う、今はときめいている場合じゃない。

 それよりも訊かなきゃいけないことがひとつある。


「……なんで私のこと憶えてるの?」


 私が学校を離れてからひと月が経つ。ひと月もあれば、私との記憶なんて跡形もなく溶けて消えるはずなのに。

 疑問をそのままにして尋ねると、日向くんは、視線を落としつつ、躊躇い半分な様子で返事をした。


「……実はさ、一度忘れかけたんだ、氷川さんのこと」

「え……」

「でも全部思い出せた。どんなに記憶が薄れても、誰かを好きだったって気持ちだけはずっと心の中に残ってたから。理由なんて分からない。でも……」


 日向くんは、一度逸らした視線を再び向けると、照れくさそうに笑みを溢しながら告げた。


「憶えていてほしいって好きな人に言われちゃったら、忘れられる訳ないだろ?」

「日向くん……」

「好きなんだ、氷川さんのこと。雪女とか関係なく、ひとりの女性として……だから俺と付き合ってほしい」

「…………」


 ああ、駄目だ。

 全部忘れようとしていたのに、全部捨て去ろうとしていたのに、彼を前にするだけで簡単に意志が揺らいでしまう。

 あの頃の思い出が手の中に埋まっていく。温かくて優しい彼の色がポカポカと胸の奥に広がっていって……もう自分を抑えることができなかった。


 やっぱり私は、彼なしでは生きていけない―――


「……うん、いいよ」

「ほんとか!? やった―――」

「でもひとつだけ、代わりに条件があるの」

「あ、あれ?」


 浮足立つ日向くんを横から制する。デジャヴを感じるやり取りだが、そんなことはどうでもよかった。

 ただ自分に正直になりたかったから、内なる想いを素直に表現した。


「私のこと、これからは碧って呼んでほしい。たくさん呼んでほしい。もっといっぱい、うんざりするくらい呼んでほしい……それが条件」


 すると彼は、一瞬だけ呆けた顔をして、すぐに「ははっ」と笑う。


「わがまま……かな?」

「わがままじゃないよ。そんくらいお安い御用だ」


 日向くんは左手を差し出してこう告げる。


「じゃあ改めて……碧、俺と付き合ってくれますか?」


 心地良い響きが心の奥底まで染み込んでくる。

 春を迎えてもなお私を見つけてくれる人がいる。そんな悦びを胸に抱きつつ、差し出された左手に両手を添えて、二度と離れないよう固く握り返す。

 そして―――


「はい、よろしくお願いします」


 溢れんばかりの涙を流しつつ、私はそう答えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪女の氷川さんは今日も構ってほしそうに袖を掴んでくる そらどり @soradori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ