第6話 あーさん

死ねなくてごめんなさい・・・。

 その言葉の意味をミーは、理解することが出来なかった。長老も、そしてその言葉を受けたワーさんも理解することが出来ずにいた。

『明美?』

ワーさんは、動揺を隠せず、震える声であーさんの名を呼ぶ。

 あーさんは、怯えた目を浮かべたまま逃げるように後退る。

『何を言ってるんだ?死ななくてごめんなさいってどういうことだ?オレはお前に会えて・・・』

 ワーさんは、あーさんに手を伸ばす。しかし、その手を長老が飛び上がってかぎ尻尾で弾こうとする。

 ワーさんは、慌てて手を引っ込める。

 長老は、ワーさんを睨みつける。

「やはり貴様に合わせるべきではなかったな」

 ワーさんを睨む長老の目には明確な殺意が込められていた。愛するものを守るための明確な殺意が。

「ち、長老」

 ミーは、声を上げるも力が入らず、あーさんの手から抜け出ることも出来ない。

「今、この場でお前を払う」

 長老は、刀を構える侍のように尻尾を立てる。

 ワーさんは、顔を引き攣らせ、後退する。

 長老は、唸り声を上げ、ワーさんに飛びかかろうとする。

「やめてプー!」

 あーさんが叫ぶ。

 長老は、動きを止める。

 ワーさんは、目を見開いてあーさんを見る。

「やめてプー。この人は悪くない。悪いのは約束を破った私」

 そう言って長老の背中を撫でる。

『約束?明美、さっきから何を言ってるんだ?オレとお前の約束は生きて戻ること。約束を破ったはオレだ。明美は何も悪くないだろう』

ワーさんは、本当に分からないという表情を浮かべ、戸惑う。

 あーさんは、濡れた双眸でワーさんを見る。

 その双眸は、月の灯りに悲しく揺れる。

 あーさんは、口を開く。

「貴方が亡くなった時、約束したでしょう?全てが終わったら必ず貴方の元へ行くって」


 あーさんは、話す。

 それは戦時中の話し。

 戦争が終結するという年にあーさんとワーさんは、入籍した。当然、その時は戦争が終結する年だなんて知らない。ただ、先の見えない薄暗い世の中、唯一の愛する人と結ばれたい、その思いだけで二人は籍を入れた。

 二人の結婚を誰一人として反対しなかった。

 未来の見えない、いつ我が身に命の危険が及ぶか分からない中での愛する二人の結婚は、糸のように細い、しかし何よりも美しく輝く希望の光のように感じた。

 食糧難の中でも村のみんなで蓄えを出し合ってささやかな結婚式を上げた。ピアノの調律師だったワーさんは、古ぼけたおもちゃのピアノを直して簡単な曲を幾つか弾いた。どれも戦時中に禁止されている敵国の曲だが、あーさんも両親も村のみんなも喜んだ。参加者には富国強兵を歌う警察官や教師もいたが、誰もそのことを責めず、むしろ歓迎していた。

 結婚式に参加していた人々は、知っているのだ。

 戦争に意味はないことを。

 人々は、分かっているのだ。

 この穏やかな時間は今だけなのだと。

 そして、数ヶ月後、穏やかな時間は終わりを迎えた。

 ワーさんに赤紙が届いたのだ。

 覚悟をしていたこと。 

 いつかは破られる平穏だと分かっていたのに、あーさんは泣いた。両親も警察官も教師も、結婚式に参加した全ての村人が泣いた。

 ただ一人、ワーさんだけは自分の運命を受け入れた。

 剃髪し、隊服に身を包み、泣くあーさんを抱きしめ、「必ず生きて戻ってくる」

 力強い言葉を残し、戦地へと向かっていった。

 あーさんは、涙を押し殺し、笑顔で夫を送り出した。

 しかし、ワーさんが戦地へ向かうことはなかった。

 そして、生きて戻ってくることはなかった。

 それから二時間後に横浜大空襲が起きたのだ。

 その時のことをあーさんはよく覚えていないと言う。

 気がついたら美しかった村が地獄に変わっていたと言う。

 燃える家屋。

 崩れゆく山や木々。

 鼻が腐り落ちそうな異臭。

 耳が破れそうな阿鼻叫喚の悲鳴。

 焼け爛れて死んでいくよく知った人たち。

 この世が地獄に変わった瞬間だった。

 あーさんは、その光景を受け入れることが出来ず、呆然と時が過ぎていった。

 生き残った両親と村人と一緒に防空壕に逃げ、焼け残った僅かな食糧と汚れた水を飲んで命を繋いだ。

 そしてワーさんが死んだことを聞いた。

 村から離れた駅に向かう途中で爆撃に巻き込まれたとのこと。

 なぜ、それが分かったのかというと、爆撃からも残った二つ目池に水を汲みに行った村人が焼けたワーさんの死体を発見したのだ。顔も焼け爛れていたが、隊服の刺繍にワーさんの名前が刺繍されていた。

 そしてその胸ポケットには、出兵する直前に撮ったあーさんと二人の写真が入っていた。

 あーさんは、絶叫した。

 ワーさんの身体がある所まで走り、そして面影すらない遺体に縋りついて泣いた。

 両親や村人たちが声をかけても離れなかった。

 ようやく離すことが出来てもあーさんの心はワーさんから離れなかった。

 簡単な葬儀をあげる時も、埋葬した時もあーさんの心はワーさんから離れなかった。

 ワーさんの姿が目に浮かび、そして焼け爛れた姿となって消えていき、そして再びワーさんの姿が現れる。

 その繰り返しだった。

「私に来て欲しいんだね」

 あーさんは、目に浮かぶワーさんの幻影に声をかける。

 焼け爛れたワーさんは、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「逝くから待っててね」

 あーさんは、生き残った家の大木に縄を括り付けた。

 もうすぐ会える。

 その胸に抱かれることが出来る。

 あーさんは、首に縄をかけた。

 その時である。

 目眩と、そして胃の奥から来る気持ち悪さに蹲ってしまう。

 そして目の前が真っ暗になり意識を落とす。

 あーさんを発見した両親が医師を呼び、診察すると妊娠していた。

 時期を見てもワーさんとの子どもであることは間違いなかった。

 両親は、喜んだ。

 村人も喜んだ。

 まさに絶望の中の奇跡だった。

 あーさんは、命の宿るお腹に手を当てて、縄をくくりつけた大木を見る。

(ごめん。今はまだそっちに逝けない。この子が無事成長したら、一人で生きていけるようになったらそっちに逝くから、それまで待ってて)

目の前に浮かぶ焼け爛れたワーさんがにっこりと微笑み、そして消えた。


                 つづく

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