第1話 夏休み
空気が割れるような音にミーは思わず目を丸くし、三角の耳を両手で覆い、身を丸める。
何度聞いてもこの音には慣れないにゃ。
確か何かの始まりと終わりを知らせる予鈴とかいうものらしいが、テレビで聞いた音量のあまりの違いにミーはいつも毛が逆立ち、思わず震えてしまう。
とてもママさんには見せれないにゃ。
見せた瞬間に大笑いされるに決まってる。
ミーがちょっと失敗したり、ヒモで遊んだりしていると、決まってママさんは大笑いする。それがひどくミーの自尊心を傷つける。
ママは、ミーのことが大好きなんだよ。
そうとーちゃんがいうと、間髪魔を入れずに「嫌いだよー」と返し、ミーの鼻と自分の鼻をくっつけて擦り合わせる。
ツンデレは、猫の美学だというのに。
ミーは、思い出して嘆息する。
ミーがいるのは、キーが通っている小学校内に植えられた桜の木の太い枝の上。もう花は散っているが、ここからはキーのいる校舎がよく見える。
小学校一年生のキーは、一番下の階の教室の窓側に座っている。
普段からは考えらえないくらい、大人しく座っているキー。しかし、表情は、穏やかで学校生活を楽しんでいるのだと感じ、ミーは、目を細める。
キーが小学校に通うようになって早四ヶ月。無事に終業式を終えて、明日から夏休みとなる。
長かったにゃー。
入学してから毎日ミーは、この木の上からキーを見ていた。
それこそ風の強い日も、雨の強い日も。
木の上から見守ると言うのは正直きつい。
今も前足と後ろ足がプルプルにゃ。
でも、それも今日まで。
さすがに学校で虫取りをすることはなかった。
後期からは来なくても大丈夫そうにゃ。
安堵したミーは、木の幹を先の曲がったかぎ尻尾でニ回叩くと、幹の表面が布ように捲れ上がり、小さな穴が開いた。
猫の抜け穴。
ミーは、身体を起こすと、震える身体で穴の中に飛び込んだ。
穴を抜けるとそこはピンク色の白い砂が引かれたトイレの上に出たにゃ。目の前にはトイレと同系色の洗濯機が唸り声を上げながら揺れてる。
疲れたにゃー
ミーは、大きく欠伸をして、トイレから降りると、リビングへと移った。
細長い、しかし、ゆったりとした暖かみのあるリビング、スエーデンとか言う国のオーク材という木で作られた爪研ぎに向いたテーブル、草の香りのする、これまた爪の研ぎやすい井草の絨毯、白い食器棚に、湯気を上げるケトル、目玉のようにキョロキョロとセンサーを動かすエアコン、そしてタブレットの映像を見ながらヨガをしているママさん。
間違いなくミーの家にゃ。
おーいにゃ。
ミーは、ヨガに夢中になっているママさんに声をかける。
あっちからすると、ニャーと短く、そして可愛く鳴いたようにしか聞こえないが。
ママさんは、こちらを向き、一瞬微笑んだ後、すぐに頬を膨らませて怒った顔をする。
「まだ寝てたのあんた?キーはもう学校行ったよ。本当にマイペースなんだから」
ミーの気苦労も知らず、ルーズな娘に小言を言うような口調のママさんに腹が立つ。
まあ、そんなこと言っても仕方ないにゃ。
ミーは、顔を前足で擦り、向きを変えてキッチンへと歩いていく。昔、とーちゃんと夜に見た映画の怪獣のような低い声を上げる冷蔵庫の隣にミーの食事プレートがある。
「ミーはピンクが好きなの!」と言って勝手に選んだピンクの水玉プレートの上にはお水、カリカリ、そして一際と輝きを放つゴルフォーが乗っていた。
正式名称は、ゴールデン・フォン・ドヴォーという名称らしいけど、とーちゃんは、ゴルフォーと言ってミーのお皿に入れてくれる。魚の身をほぐし、上品なスープに包まれたゴルフォーは、マグロの旨味と出汁から出る甘味のハーモニーを生み出し、ミーの身体に入っていく。
甘露にゃ。
腹も満たされたミーは、残った仕事を片付けようと玄関に置いてある虫籠に近寄る。
そして目を丸くする。
ワタゲがいない!
昨日は、確かにいたのに!
キーが学校に行く前も確かにいた。
「行ってくるねーヘラクレス」
そう無邪気に言って学校に行ったにゃ。
見ると虫籠のフタが小さく空いてる。
虫籠にはワタゲの他にシジミチョウもいた。
恐らく可哀想に思ったとーちゃんかママさんが逃がそうとフタを開けてその隙に・・・。
まずいにゃ。
外に逃げていれば、それならそれでいい。
だが、もしまだ家の中にいたら・・・。
ミーは、慌ててママさんのところに駆ける。
ママさんは、皮肉にも猫のポーズを取って、ヨガに集中していた。
その上にワタゲが波を描きながら浮かんでいた。
昨日よりも激しく光を点滅させ、丸い身体からタコのような足を何本も伸ばし、ママさんに向ける。
かなりまずいにゃ。
フーッとミーは、小さく唸り、毛を逆立て、身構える。
そして、床を思い切り蹴ってテーブルの上に跳躍する。小さな身体から想像もできない衝撃音にテーブルは揺れ、乗っていおかずの乗った皿が床に落ちる。
ガシャーンという音がリビング中に響き渡る。
ママさんが振り返ると同時にミーは、テーブルを蹴って再び跳躍し、触手を広げたワタゲへと近付く。そして、そのまま身を翻し、先の曲がったかぎ尻尾でワタゲを叩きつけた。
ワタゲは、大きな光を放ち、そのまま霧のように消える。
勢いに乗ったミーは、そのままテレビの画面にぶつかる。
大型の液晶テレビは、振り子のように揺れ、そのまま後ろに倒れる。
口を丸く開けるママさん。
テレビに当たった反動で、ミーは、天井近くまで飛び上がる。しかし、スーパーキャットであるミーは、華麗に後ろ足で天井を蹴り、重力を利用して身体を風車のように回転させ、床に着地したにゃ。
まさに華麗。時代劇の忍者を上回る動きに自分自身に惚れ誉するにゃ。
ミーは、得意げな顔をして、ママさんの方を向き、ニャーと短く鳴いた。
ママさんは、膨れ上がった風船のように顔を真っ赤にしてミーを睨みつける。
ミーは、思わずかぎ尻尾を丸める。
そして惨状を見回す。
後ろ倒しになったテレビ、割れた皿、散らばった、恐らく煮物であったものが井草の絨毯を汚す。そして極め付けは、天井にくっきり付いた肉球マーク・・・。
「ミー!」
ミーは、かぎ尻尾を丸めたまま家から脱走した。
この話しをすると長老は、大爆笑をした。
みんなも大爆笑した。
ミーは、あまりのやるせなさに大木の表面で爪研ぎした。
「なんで、助けたのにあんなに怒られないといけないにゃ?」
年相応の人間の女の子なら大号泣ものにゃ。
「そりゃ仕方ないよ。人間にゃワタゲが見えないのだから」
そう言って長老は、前足でミーの背中を優しく叩く。
長老は、御歳二十五を超えるこの町では最高齢のメスの三毛猫だ。茶色と黒の部分は色素が抜けて薄くなっているが、それが逆に雪化粧を纏ったようで美しい。年の割には肉付きも良く、手足も太い。そして尻尾は、ミーと一緒のかぎ尻尾にゃ。
「俺にもその毛玉ってやつは見えないぞ」
白猫のクロちゃんが空を見ながら言う。白猫なのに、なぜクロちゃんと思うかも知れないけど、それはクロちゃんにも分からないそうにゃ。恐らく昔飼われていた家で付けられたのだろうけど、もう覚えていないそうにゃ。
「ワタゲだよ」
長老は、呆れたように返す。
「ワタゲは、人間にも、普通のなが尻尾のあんたらにも見えない。あたしらかぎ尻尾の猫だけが見ることが出来るんだ」
「何かずるい」
そう言ったのはキジトラのたまちゃん。この中では一番若い一歳のやんちゃものにゃ。
この会に来たばかりの頃はまだ生まれて半年くらいで、キーの次に育てるのに苦労したにゃ。
ワンオペでなくて良かったとつくづく思うにゃ。
他にも数匹の猫がいるが、皆草の上に寝そべって日向ぼっこしたり、縁側に置かれたキャットフードを食べたり、壺池の金魚をじっと見て涎を垂らしたりと、好きなようにしている。
日向町猫会。
それがこの会の名前にゃ。
発起人は、長老。
ここにいるのは皆、野良猫や捨て猫ばかり。飼い猫は、長老とミーくらいしかいないにゃ。と、いってもミーも元野良猫だから受け入れてもらえたのであって、そうでなかったら加入できなかったろう。
この会が出来たのは今から二十三年前、長老が今いるこの場所、町の人たちに猫屋敷と呼ばれるこの家に拾われてきた頃に遡る。
日向町でも一際大きな日本家屋の屋敷には、老婦が一人で暮らしている。と、いっても近所には娘さん夫婦も暮らしており、元々、社交的で子供達に書道を教えたり、町内会の民生委員をやったりと人付き合いも良好であーさんと町の人からも親しまれている。
そんな、あーさんに拾われ、育てられた長老も当然のように面倒見の良い性格となり、近所で餓えている野良猫や泣いてる捨て猫を見つけては、屋敷の庭に連れてきて自分のご飯を分けて上げていた。それに気づいたあーさんが猫達用にとご飯と水飲み場を作ってあげた。すると、その評判を聞きつけた猫たちがらあれよあれよと集まりだし、粗相はするは、勝手に家の中に入り込んで、ご飯を漁るは、揚げ句の果てには鼠や虫を捕まえてきて、あーさんに献上しようとまでした。
人の良いあーさんは、それでも受け入れてくれたが、長老が切れた。
そして、日向町猫会を発足し、次のルールを守れないものは退会させ、二度と近づけないようにすると宣言したのだ。
一 粗相をしないこと。
二 勝手に家の中に上がらないこと。
三 外ではともかくこの中では喧嘩しないこと。
四 あーさんへの感謝は、態度で示すこと。虫や鼠は持ってこない。
五 あーさん以外の人にも迷惑をかけない。自分達の悪戯があーさんに迷惑かけるをかけると自覚すること。
以上を掲げて日向町猫会は、発足した。ちなみになぜ、町の名前を入れたかと言うと、当時、町内会で活動していたあーさんの影響で、自分達も町の住民であると意識し、生きるようにという意味を込めてるらしいにゃ。
格好良く言うなら町内会非公式の組織と言ったところにゃ。
実際にこの会が発足されてから、猫による騒ぎ、ゴミ漁りは激減、それどころか悪さしようとするカラスを撃退したり、ネズミ退治したり等、人間の知らないところで街を守ってくるにゃ。
そしてこの会のお陰で多くの猫たちが救われている。
ご飯がある。水がある。そして安心して生きていける場所がある。これだけのことにどれだけ救われることか。
では、ご飯も水も、そして安心して過ごせる場もあるミーが、なぜ、猫会に所属することになったのか?
その原因となったのがワタゲとキーにゃ
ミーは、昔を思い出す。
ミーがとーちゃんとママさんの家にやってきたのは、生後ニヶ月頃のことだそうにゃ。二人が近所のスーパーに車で買い物に行った時、車に荷物を詰め込もうとした時に、タイヤの下で蹲って震えていたそうにゃ。
「そうにゃ」というのも、ミーはその頃のことをあまり覚えていないにゃ。物心付いた時には、もうとーちゃん達の家に住んでいたにゃ。その頃は、まだキーは、生まれていないで、その代わりにじーちゃんが一緒に住んでいたにゃ。
とーちゃんやママさんに比べると小さくて、痩せ細っていたけど、ミーのことをとても可愛がってくれて、ご飯をくれたり、一緒に時代劇を見たり、散歩にいったりしていたにゃ。人間でいうなら間違いなく、じーちゃん子というやつにゃ。
そんな生活をしていたので、当然と言うか猫会と交わることもなかったし、じーちゃんがあーさんと友達だったから、付いて行った時に庭に猫がいっぱいいるにゃくらいの印象しかなかったにゃ。
「それに触っちゃダメよ」
最初にそう話しかけてきたのは長老だった。
物心付いた時からミーにはワタゲが見えていた。
ミーの目の上をふわふわと飛ぶ柔らかく、淡い光を放つそれを小さい時から目で追いかけては手を伸ばしてじゃれついていた。しかし、ワタゲは、ミーの届く範囲には降りてこず、いつも一猫遊びで、「何してるの?」とママさんやじーちゃんに笑われていた。
こっちは真剣なのに。
しかし、見慣れてくると、飛んでるだけのたんぽぽの種や羽虫と変わらない、ただそこに在るだけのモノに過ぎず、気にも止めずに生活していた。
そんな時、春の陽気の中、お家の塀の上で昼寝をしていると、ワタゲがミーの鼻先の所にまで漂ってきた。
その頃のミーは、まだ一歳。今のたまちゃんと同い年。
当然、目の前を8の字を描きながら動く誘惑ブツに対して心をくすぐられ、思わず手を伸ばしそうになった。
「それを手で触っちゃダメよ」
ミーは、びっくりして、手を引っ込め、ワタゲは、逃げるように宙に昇っていった。
ずんぐりとした、現在よりも十歳以上若いはずなのに、姿の変わらない三毛猫、長老がそこにいた。
ちなみに何年も変わらない姿のことを以前突っ込むと、毛繕いをしながら「健康診断とアンチエイジング」と流された。
どっちも痛そうで、辛そうだから嫌にゃ。
ワタゲという名前を教わったのはこの時にゃ。と、いってもワタゲと名付けたのは他ならぬ長老で、本当の名前は知らない。
ワタゲの正体は、人間を始め、あらゆる生き物の思いが何らかの理由で残ったものらしいにゃ。
見てる分には特に悪さすることもなく、ただ、浮かんでいるだけ。風に乗ることも出来ないから、今いる場所から動くことも出来ない。
「ただ、生きているものが触れてしまうと面倒なことが起きる」
眠っていた思いのようなものが蘇り、それを叶えようと命あるもの取り憑こうとする。
「取り憑かれるとどうなるにゃ?」
「一つの身体に二つの思いは入れない。病気になって死ぬか、気が狂ってしまう、どちらにとっても良いことはない」
ミーは、背筋がぞくっとして、毛が立った。
「普通の生き物には見えん。あたしらのような特別な尻尾を持つものしかね」
そう言って見せてきたのは、ミーと同じ形のかぎ尻尾。
「もし、取り憑かれそうになったり、誰かが取り憑かれたら、尻尾の先で叩いてやりな。そうすりゃワタゲは消える。あたしらしか出来ないこと。でも、無理にやることはない。さっきも言ったが、ワタゲは無害。自分から悪さすることはないからね」
そこから長老との交流が始まったにゃ。
まずは、猫会への加入。
考えてみれば、この時まで他の猫との交流がなかったミーにとっては新鮮だった。
一緒にご飯を食べたり、毛を舐め合ったり、時に喧嘩したり・・・。
正直、楽しい。
長老からは、かぎ尻尾の猫について聞いたにゃ。
かぎ尻尾の猫は、昔々は、化け猫とか猫又とか呼ばれていたそうにゃ。人に化けたりとか、家よりも大きくなったり、天変地異を起こしたり・・・。でも、現在はそんな力は、ほとんど失われ、数も減って、ほとんどがなが尻尾の猫だらけになった。
現在のかぎ尻尾の猫に出来るのは、ワタゲを見ること、尻尾で叩いて払うこと、そして猫の抜け穴を作ることくらいしかない。
猫の抜け穴は、穴を繋ぎたい場所におし・・・マーキングをして尻尾で叩くことで作ることが出来る。今までミーが使えなかったのは、自分の家のトイレでしか用を足したことがなかったからのようにゃ。試しに猫屋敷の大木にマーキングをして、尻尾でニ回叩いたら、その部分が捲れ上がり、大木とミーの家のトイレを繋ぐことが出来たにゃ。凄い!っと思った反面、身体に軽い脱力感に襲われた。例えて言うなら、ママさんが、朝食にと用意した鮭をつまみ食いして、家中を追いかけ回された時のような疲労感に襲われたにゃ。
長老が言うには、かぎ尻尾の力は、特別なものと思われがちだがジャンプや走るのと変わらない、要は体力を使う。慣れないうちはその乱雑しない方がいいと言われたにゃ。
言われなくても、実際使う場面はなかった。
ミーは、家を出ようとは思わないし、猫屋敷も歩いてすぐの所にある。一々、余計な体力を使う必要もない。ワタゲだって、いじる必要がないならいじらなくてもいい。どちらかといえば淡く光って揺れる姿はとても綺麗で、ずっと見ていたいくらいにゃ。と、言うことでせっかくの能力を知ってもミーには宝の持ち腐れで、その後も使う必要に迫られず、お家で美味しいご飯を食べ、猫会で遊び、夜になったら家族と一緒にお布団で寝る。
そんな暮らしを送っていたにゃ。
キーが生まれるまでは。
ミーが六歳の春、キーは、突然やってきたにゃ。
いや、突然ではなく予兆のようなものはあった。
お腹の膨らんだママさん。
カレンダーを見ながらニヤニヤするとーちゃん。
小さな洋服やらおもちゃを買ってきては怒られるじーちゃん。
猫屋敷で身籠った猫は、何匹も見てきたもののそれがママさんのお腹の膨れた姿と結びつかなかった。ある日、荷物を持っていなくなったかと思うと、一ヶ月後にキーを連れて帰ってきた時には毛玉が飛び出るほどに驚いた。
キーは、おひさまのようなつやつやのほっぺをクシャと屈ませ、まんまるな手足をばたつかせて泣いていた。
ママさんは、慌ててオムツを取り替え、とーちゃんは、ミルクの準備を始めた。
オムツを取り替えると、気持ち良くなったのか、キーは、ニコニコ笑い出す。
ホッとしたママさんは、「ミーお願いね」と言ってミルク作りに悪戦苦闘しているとーちゃんのところに行く。
お願いと言われても、どうしたら・・。
そんな風に思っていると、キーがこっちをじっと見ていることに気づいた。
どうしたにゃ?
ミーは、短く鳴いて聞く。
キーは、何が面白かったのか、ニコッと笑う。
ミーは、もう一度、どうしたにゃと聞いた。
キーは、楽しそうに笑う。
この感情をなんと表現したらいいのかにゃ?
威嚇する以外にも毛が逆立つことがあることを初めて知ったにゃ。
ミーは、自分のピンクのお花色の鼻とキーのまんまるお鼻をくっつけ、擦り合わせる。甘い香りが漂う。そして、キーのツヤツヤほっぺを舐める。
ざらっとしたミーの舌にキーは、一瞬、驚いた顔をするも、すぐにまた笑う。
かぎ尻尾の毛が波打つ。
今度、右足でキーのほっぺを触る。
温かい。
くすぐったくなったのか、顔を捩る。ほっぺに置いた右足がキーの口の中に入る。
ミーは、思わず右足を引っ込めようとするが、生まれたてで歯もないはずのキーの口は、右足をしゃぶったまま離さない。そして、あどけない、ミーの顔よりも小さな手を伸ばし、身体を撫でてくる。
とーちゃんやママさんに撫でられるのとは違う愛しい感覚。
この瞬間、ミーは決めた。
この子と一生いようと。
その後、ミーの手をしゃぶっているのを見たママさんが聞いたことのない悲鳴を上げ、キーが大泣きし、壮絶なるママさんとの戦いに発展したのは、また別の話しにゃ。
キーと一生いよう、守ろう、
心にそう誓ったものの、所詮は猫。特別なことが出来る訳ではない。
キーが寝ているのを見守ったり、泣いたらママさんに知らせたり、ハイハイが出来るようになったら段差や階段で落ちないように前持って身体で塞いだりくらいしか出来ないにゃ。
何にも出来ない自分に歯痒く感じる。でも、キーは、そんなミーに笑いかけてくれる。それだけで心が温かった。
「ミーは、良くやってくれるな」
とーちゃんは、優しく声かけてくれる。
「ミー!キーがどっかいっちゃうよー」
初めての子育てに疲れ気味のママさんは、少しヒステリックな声を上げて、ミーに命令する。しかし、キーが寝た後は、そっと抱き上げて、「ありがとねミー」と少し涙を浮かべて言い、チューブ型のオヤツをくれた。
そんなこんなで全員野球でキーを育てきた。幸いにもキーは、健康で、発育にも問題なく、ハイハイを終えて、立ち上がり、生温かった口には綺麗な歯が生え、そして鳴き声ではない、辿々しくも明瞭な、人間の言葉を話し始め、忙しくも平穏な毎日を送ってきたにゃ。
そんな日々が一変したのはキーが四歳になった春のことにゃ。
じーちゃんが亡くなった。
ミーがこの家に来た時には、すでにじーちゃんは、癌という病気を患っていたそうにゃ。それで放っておけなかったとーちゃんとママさんは、同居という形でじーちゃんを見てきた。癌といっても何も出来ないことはない。自分のことは何でも自分でしたし、迷惑かけられないとゴミ出しや洗濯、健康維持の為に、ミーとよく散歩にでかけ、あーさんや他の友達ともよくお話しをしていた。とてもステージⅣとは思えないと、よくとーちゃんが苦笑いしつつも嬉しそうにしていた。
特にキーが生まれてからは、悔しいかな、ミー以上に可愛がり、靴を買ってきたり、ベビーカーを押しながら「私の孫です」と自慢しまくっていた。その度に勝手に連れ出すな!とママさんに怒られてたけど。
それでも病気は、静かにじーちゃんの身体を蝕んでいき、突然、高熱を発して、病院に担ぎ込まれた。そして、次にじーちゃんを見たのはリビングに敷かれたお布団の上でだったにゃ。
最初は、何が起きたか分からず、「なんで寝てるにゃ?帰ってきたんだからお散歩行こうにゃ」、そう何度も鳴いてもじーちゃんは、起きなかったにゃ。
それで、ミーもようやくじーちゃんがいなくなったことが分かったにゃ。
それからは目まぐるしく動き、親戚に見守られる中、じーちゃんは家から運ばれ、戻ってきた時には白い箱に入っていた。そして白い箱の横に並べられた元気に笑っているじーちゃんの写真が何も言わずにキーを優しく見つめていた。
それからしばらくミーは、じーちゃんの遺骨と遺影をじっと見続けた。キーも幼稚園から戻ってくると、ミーの隣りに座ってじっと遺骨と遺影を見ていたにゃ。
ママさんは、何も言わずにミー達の好きにさせてた。
『キーちゃん』
じーちゃんの声が聞こえた。
空耳かと思った。
しかし、三角耳を動かし、もう一度、耳を澄ますと、再び『キーちゃん』と呼ぶ声が聞こえた。
じいちゃん?
ミーは、短く鳴く。
じーちゃんの骨壷の上にワタゲが浮かんでいた。
ワタゲは、蝶々のように緩やかに舞いながら『キーちゃん』『キーちゃん』と優しい声がを上げていた。
ワタゲは、生き物の思いが残ったもの。
あれはじーちゃんの思い・・・。
キーに会いたいという思いが、残ったのだとミーはすぐに分かった。
じーちゃん、大丈夫にゃ。キーは元気にゃ。
ミーは、じーちゃんのワタゲに呼びかける。
ワタゲは、嬉しそうに舞う。
ミーは、姿が違ってもじーちゃんに会えたことが嬉しかった。
でも、このままにはしておけない。こんな近くにいて、もしキーやとーちゃんやママさんに触れてしまったら良くないことが起きる。
ごめんにゃ。じーちゃん・・・。
ミーが起きあがろうとすると、それよりも早くにキーが立った。
その目は、じっとじーちゃんを、ワタゲを見ている。
まさか、、、見えてる?
いや、人間に見えるはずが、、、。
しかし、そう思ったのも束の間、キーの幼い手が伸び、じーちゃんのワタゲを掴んだにゃ。
ミーは、驚きに目を丸くし、髭が震えた。
それに反して、キーは目を大きく輝かせて喜んだ。
「見てミー!捕まえたよ!きっとヘラクレスだよ!それともコーカサスかな?」
キーは、興奮した声でじーちゃんのワタゲを掴んだ手をミーも前に差し出す。
ミーは、驚愕のあまり声も出ない。
「凄いねー!とーちゃんと図鑑見た時はお家の近くにはいないっていってたんだよ!」
ワタゲの色紙変わっていく。
淡い白色の蛍光色に光っていたのに、夜のように黒く染まっていく。
『キーちゃん、キーちゃん』
さっきまであんなに温かったキーを呼ぶ声が、暗く、悲しげで、痛いものに変わっていく。
ワタゲから黒い触手が伸びてキーの腕に巻きつく。
「やめて、くすぐったいよ」
じゃれつかれていると勘違いしたキーは、肩を震わせて笑う。
『キーちゃん、寂しいよ、一緒に行こう、、、』
違う。じーちゃんは、そんなこと言わない。
じーちゃんは、何よりもキーを愛してる。
触手がキーの顔まで伸び、耳から、鼻から、口から入り込もうとする。
キーは、笑ったまま気が付かない。
ミーは、かぎ尻尾を高く持ち上げ、ワタゲを握るキーの手を叩いた!
ミーに叩かれたキーは、驚いて手を離す。
ワタゲから煙のように黒いものが上がっていく。そしてワタゲの身体も乾いた泥団子のように崩れていき、光となって昇っていく。
『ありがとよミー』
じーちゃんの声が聞こえた。
『キーを頼んだぞ。ミー』
ミーは、小さく鳴き、じーちゃんが消えた空間を見つめた。
キーは、ミーに叩かれた手と消えたワタゲを見て大号泣。
それに気がついたママさんが烈火の形相で駆け寄ってくる。
キーは、ミーに叩かれたことをママさんに言う。
「ミーダメでしょう!」
しかし、そんなママさんの叱責は、ミーの三角の耳には届かなかった。
じーちゃんの消えた空間をただただ見つめてた。
「危険だわ」
長老は、神妙に言う。
「私たち以外にワタゲが見えるのはそんなに珍しいことではないの。子ども、特に人間の子どもは、まだ色々なことで未熟な存在。だから存在の弱いワタゲが見えることもある。でも、触れて、持って、動かした。そんなこと、私たちでも出来ない」
長老の戦慄を帯びた口調がその危険が本当であることを物語っていたにゃ。
「キーは、どうなるにゃ?」
ミーは、恐る恐る聞いた。
耳にはまだ、じいちゃんの声が残っている。
「今まで通り、触らなければ特に問題はないと思うわ。でも、小さな、理解の乏しい子どもに絶対はない」
そう言って長老は、ミーを見る。
「ミーがあの子を守るしかない。キーを見守り、キーがワタゲに触れないよう、もしてもし触れてしまったら、ミー、あなたが対応するの」
じーちゃんの声が蘇る。
『キーを頼んだぞ。ミー』
ミーは、決心する。
わかったにゃ。
キーは、ミーが守るにゃ。
そんなミーの決心を嘲笑うかのように、キーは、恐ろしき遊びを始めた。
それが虫取りにゃ。
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