第三十四話
落ちた背中の衝撃に、一瞬息を詰まらせながらも、すぐさま甘露は状況を確認した。
甘露の足元には、子供が変態した蜂人間の、硬質で節くれた脚のついた下半身が落下し、空中で浮いていた、毒針の腕を持つ翅のついた上半身は、下半身が無くなったことで、バランスを崩し、くるくると縦回転をしながら、少し離れた場所に落ちていった。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声が、頭の後方から聞こえ、甘露は体を起こしながら振り向いた。
そこには、大太刀を払った体勢で残心を取っている、尾上黒曜丸の姿があった。
「かっこよ…」
甘露は、長身美丈夫な黒曜丸の、真剣な表情と隻腕ながらも美しい、その残心を取った姿に、思わず声に出して呟いていた。
「マジで蜂人間だな」
黒曜丸は、少し先の地面の上で、震えるような翅音を立てながらジタバタしている、数日前に戦ったカマキリ男より明らかに昆虫感の強い、小さな蜂人間を見ながらそう言った。
黒曜丸の言葉に、一瞬で我に返った甘露は、
「でもそれ、多分子供が…」
小さな蜂人間から目をそらし、言葉を詰まらせた。
「オレの知る限り、一度虫に変わると人には戻らねぇし、あれはそいつの仕業だろ?」
そう言って、黒曜丸が投げた視線の先の大通りには、毒に侵され苦しむ者や、既に事切れた民衆の屍が、大量に横たわっていた。
「アンタが気にやむことはない、殺ったのはオレだ」
黒曜丸とて、心が傷まないわけではなかったが、一瞬の躊躇は己れの身だけではなく、更に多くの犠牲者を産むことをよく知っていた。
(黒曜丸さん、反対の方向からも、何か来ます!)
頭の中に清泉の声が響き、黒曜丸は大通りの離れた場所にいる清泉の姿を確認すると、その視線の先に意識を集中させた。
清泉の言葉通り、右手側の大通りのかなり先の方で、人々の新たな混乱があり、その中心に小さな、いや、伏せているような何かが、人を襲いながらこちらに向かって来ていた。
(あれか、来るのを待ってたら、犠牲者が増えるだけですね)
そう清泉に答えながら、黒曜丸は少し体の重心を落とし駆け出そうと、踏み込んだその時である。
突然、全身の毛が逆立つような感覚を背後から感じて、黒曜丸は足を止め振り返った。
その感覚を感じたのは黒曜丸だけではなく、スズメバチ女と対峙していた、正宗市蔵もそうであった。
ただし、市蔵が黒曜丸と違っていたのは、その感覚の根源を、己が目で認識出来ている点であった。
まず、前兆としてあったのは、あれほど無感情に攻撃的で、毒針のついた右の腕を落とされても、顎を鳴らして威嚇していたスズメバチ女が、威嚇行動をやめて、何かを感じ取ろうとするかのように、首を傾げながら触覚を動かし始めた。
そして、背中の翅を使って、滑るように後退し始めると、膝立ちで首を垂れている寂雨の側で止まり、寂雨を守るかのように、小刻みに翅を震わせて鳴らし、辺りを警戒し始めたのである。
市蔵の位置からは、寂雨の背中側しか見えていなかったが、着物ごしにその背中の中心が光り始め、と同時に、今まで全く消えていた寂雨の気が、膨れ上がり始めた。
しかしその気は、市蔵が知る寂雨のものとは別物であり、膝立ちで頭を垂れた姿からは想像出来ない、圧倒的な強者が放つ、威圧感に満ちたものであった。
「何が起こってるんだ⁉︎」
市蔵は抑えた声で、そう呟いた。
その言葉に反応したかと思えるタイミングで、寂雨は頭を垂れた姿勢のまま、糸で引っ張り上げられた人形のように、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がって止まった動きの反動で、寂雨の長い黒髪はふわりと軽く広がり、と同時に、その広がった髪の先端から、まるで発光しているかのように、徐々に色素が抜け、輝く金髪へと変化していく。
市蔵の位置から見える、寂雨の背中の光は既に収まっていた。
しかし、その金髪は、収まった背中の光以上の輝きを放ち、纏った威圧感を更に強調させていた。
市蔵よりも離れた場所ではあったが、寂雨の気の威圧感と、急激な髪色の変化を目の当たりにして、黒曜丸も驚きを隠せず、ただ寂雨を凝視していた。
(黒曜丸さん、どうかされました?)
清泉の声が頭の中に響き、黒曜丸は我に返った。
(あぁ、すみません…)
(もしかして、あの男の人が⁉︎)
(ええ、向こうから来るヤツより、かなり厄介な感じです)
「ねぇ、アレって、また違うのがコッチ来てるの⁉︎」
黒曜丸と清泉のやりとりが、聞こえていなかった甘露も、右手側の大通りから来る、新手のスズメバチ人間に気がつき、黒曜丸に声をかけた。
「アレより、あっちの方がヤバイ」
「あっちって、あっちにはウチの…」
黒曜丸に促された方を見て、甘露は驚いた。
「え?誰よ、あの金髪⁉︎親父さん二対一になってるし!」
「おまけに、最初のスズメバチ人間より、金髪の方が、おそらく何倍も強い!」
黒曜丸の真剣な語気と表情に、
「ウッソ⁉︎人でしょ?」
間の抜けた言い方ではあったが、甘露は心底驚いた。
身内贔屓というわけではなく、甘露は父の正宗市蔵より、強い人間を見たことがない。
正確には数ヶ月前に、市蔵が剣士隊隊長だった頃の同僚でもあった、清泉の父の樹蘇童将軍と、甘露が推している剣士隊隊長、多々羅銅弦には会ったが、二人の強さを確認したわけではない。
更に、目の前にいる黒曜丸も、元剣士隊隊長で、自分より確実に強いことだけはわかるが、市蔵たち熟剣士より年齢的にも若く、絵に描いたような美青年でもあるため、市蔵よりは少し下にランク付けしている。
その市蔵が苦戦していた、スズメバチ女よりヤバくて何倍も強いと、黒曜丸が判断する人間が、あの金髪であることに。
「大通りのヤツは、任せていいか?」
黒曜丸の方も甘露のことを、市蔵には届いていなくとも、もし剣士隊の試験を受けていれば、余裕で合格出来るほどの力量であると感じ取っていた。
黒曜丸にそう言われ、甘露は改めて大通りの先の、スズメバチ人間を確認し、
(四つん這いの虫みたいで気持ち悪いけど、子供じゃないから大丈夫よね)
「たぶん大丈夫、危なそうだったら逃げるけどね」
腹を決め、甘露はそう答えた。
「助かる、無理だけはしないでくれ」
黒曜丸はそう言って背を向け、寂雨や市蔵がいる方へ歩き出しながら、
(清泉さん、そっちのヤツは彼女に任せるので、彼女の手助けをお願い出来ますか?)
清泉に甘露のサポートを依頼した。
(わかりました、気をつけてくださいね、黒曜丸さん)
(ハイ、清泉さんもお気をつけて)
隻腕無双 涛内 和邇丸 @aaron103
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