第三十一話
(何っ⁉︎)
いきなり動き出した足元の女性の亡骸に、市蔵は驚きを隠せずにいた。
気配はまるで感じなかった、脈も呼吸も止まり生気も消え、その女性は確かに死んでいた。
(傀儡の術の類いか?)
市蔵は数メートル跳び下がり、警戒を緩めず事態を観察した。
市蔵の目の前で女性の亡骸は、痙攣とは違う、全身で脈打つような動きを続け、と同時に、全身の肌が急激に茶色く変化すると、その皮膚はみるみるうちに乾き、干からびたミイラのようになって動きを止めた。
(何が起こっている⁉︎)
市蔵のその疑問に答えるかのように、次の瞬間、女性の亡骸は再び動き始め、額から鼻筋にかけて、亀裂が入ったかと思うと、パカっと二つに割れた。
(何だアレは⁉︎)
女性の顔の亀裂から覗いていたそれは、小刻みにその頭を震わせながら、裂け目を徐々に広げると、その頭を一気に突き出した。
それは、表面が光沢のある乳白色の肌(?)をした、女性の面影を残した異形の顔であった。
艶やかだった髪の色は抜け、銀色の長髪が波打つ顔には、
そして、最も異形さを醸し出しているのが、顎から縦に割れた口であった。
完全に頭が出ると、女性の干からびた全身は、着けていた着物も一緒に二つに裂けたかと思うと、中から、顔同様に光沢のある乳白色の、短い産毛に覆われた肌、背中には肩甲骨から尻辺りまで伸びた翅という、まるで人型の昆虫のようなカラダが出てきた。
そして、全身が空気に触れたせいであろうか?乳白色だった全身は、うっすらと黄色と黒に変化を始めた。
「スズメバチ⁉︎」
思わず市蔵がそうつぶやいたのは、その容貌と色合いもさることながら、大きく膨らんだ両前腕部の形状からであった。
まるでスズメバチの腹部のような、黄色と黒のその左右の前腕は、握り拳を覆い隠すほどの大きさで、その先端からは毒針の先が、まるで準備運動をしているかのように、出たり入ったりしている。
「ヒヒルぅ〜!」
殺人鬼の妖しい男は、変態したヒヒルの姿に、歓喜の声をあげた。
「アンタの主人と、私を守らなあかんえ」
耳にさわる高い声で寂雨は笑い、そして言った。
「その男、殺したって!」
正宗甘露が、父の市蔵を追って現状に着いた時、市蔵は既に刀に手をかけ、臨戦状態に入っており、甘露は大穴の周りに張られた縄の外側から、観客のようにその一部始終を見ていた。
変態した女性の姿を目撃した甘露は、
「何なのアレ⁉︎人が蜂に変身するなんて、そんなこと出来んの?」
と、その驚きを声に出してつぶやいた。
狩人という職業柄、人を害する様々な獣人や猿人、鱗王の国のトカゲ人なら、甘露も見たことがある。
しかし、虫人間は初めて目にするものであり、おそらく、父の市蔵もそうであろう。
スズメバチに変態したヒヒルは、寂雨の命令を受けると、前傾姿勢になって、背中の翅を小刻みに震わせ始めた。
ブーンという低い翅音は、潜在意識の中の畏れの感情を揺さぶり、近づくことを躊躇させる響きを奏でている。
しかし、八面狼こと正宗市蔵は、全く動揺することなく、初めて闘う異形のスズメバチ人間の、戦力分析をしていた。
元は女性で体重が軽いとはいえ、あの翅では宙に舞い上がり、飛び回ることは出来ないであろう。
そうなると気をつけるべきは、毒針のついた蜂の尻のような、両前腕からの攻撃ということになるが、その動きと速さは未知数である。
(どう来ようと、まずは毒針を落とす!)
狼面の奥の瞳が光り、カチッという音を立てて、市蔵は腰の長刀の鯉口を切った。
それを待っていたかのように、元ヒヒルのスズメバチ女は翅音を更に上げると、前傾姿勢のまま、肘を曲げた状態で両前腕の先端を前に向けて、市蔵めがけて突っ込んで来た。
意外だったのは、接近してくる速さと、その方法であった。
スズメバチ女は、踏み出しの一歩目こそ、力強く地面を蹴ったが、そのあとは、翅を動かすことで生じた浮力を使い、自身の体重を軽くすることで、水切りの小石さながら、軽やかに滑るような足取りで、一気に距離を詰めて来る。
剣の達人ともなれば、確実に相手を斬れる間合いを持っており、相手がそこに入ったと同時に、反射的に発動されるという。
市蔵にもその域に達しており、スズメバチ女は予想外の速さではあったが、市蔵の抜刀の速さはそれを凌駕するものである。
市蔵は相手の動きと速さから推測される、自分の間合いの中に飛び込んで来るタイミングで抜刀し、毒針のついた両前腕に斬りつけた。
しかし、その刀は虚しく空を斬ることになる。
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