第三十話

 ヒヒルは自分の持った、スズメバチを封じた樹脂の塊が発した光で、視界が真っ白になってしまい、その光が消えた後も視力を奪われていた。

 

 大量の失血で薄れかけた意識と、真っ白な視界の中、自分の胸元辺りからガリガリという、固いものを削るような少し不快な音が聞こえ、それが手に持った樹脂の塊からだと気付いたのは、その樹脂の塊が動き始めたからであった。

 ヒヒルの血を浴びた樹脂の中で、スズメバチは動きが活発になり、巨大な顎でその樹脂を喰らいながら、自らが出る穴を少しずつ広げ、開いた穴から頭を覗かせている。

 

 既に、それの動きを抑えられるほど、ヒヒルの握力は残っておらず、樹脂の塊はヒヒルの手をすり抜け、地面に落下した。

 その衝撃で樹脂にはヒビが入り、先に開けた穴を起点に割れると、中から大き過ぎるスズメバチが、首を傾げ動かしながら、ゆっくりと出てきた。

 

「よかったなぁ、これでアンタ助かるよ…」

 いつの間にか背後に回っていた寂雨が、ヒヒルの耳元で囁いたのだが、その声は遠く、よく聞き取れなかった。

 

「おいで、この娘はオマエのもんやよ」

 そう言って、寂雨がスズメバチに気を送ると、スズメバチは翅を広げて震わせ、ブーンという低い音をたてて舞い上がる。

 

 スズメバチは対話するかのように、寂雨の目の前でしばらくホバリングしてから、ゆっくりと向きを変えると、翅音も変わり攻撃態勢に入った。

 

 

 五つに分かれた光の行方に気を取られ、再び連続殺人犯の気の位置を、八面狼こと正宗市蔵が探った時、犯人の側にある気が消えかかっていた。

 

 市蔵は僅か一歩の踏み込みで、屋根の上から交差点方向へ大きく跳び、空中を駆けるかのように足を動かして着地するやいなや、未だ混乱が続く人混みの中を、誰にもぶつかること無く、稲妻のように駆け抜けて行く。

 

 市蔵が跳んで降りたことに甘露が気付き、後を追って大通りに降りた時には、市蔵の姿は消えていた。

 

「もぉ、自分勝手なんだから」

 

 

 ヒヒルにとって、その翅音は遠くで微かに聞こえる程度であったが、その時既に、巨大なスズメバチは、ヒヒルの頸椎の真後ろに迫っていた。

 その直後、ヒヒルは首の後ろに鋭い痛みを感じたが、反射的に反応するだけの力も無く、膝立ちの状態から前へ、ゆっくり倒れていった。

 

 地面に倒れ込むと同時に、ヒヒルは口から泡を吹き、肉体は痙攣し始めた。

 そんなヒヒルを、笑みを浮かべながら見下ろしている寂雨の肩に、巨大スズメバチはとまって、ギシギシと顎を鳴らしている。

 

 その時である、侵入禁止のために張られた縄を、大きく飛び越えて、狼面を付けた狩人の八面狼が、寂雨とヒヒルの前に現れた。

 


 八面狼こと正宗市蔵は、腰を落として刀の柄に手をかけたまま、大量の血痕の中に倒れて痙攣している女性と、後ろに立つ妖しい男とを、交互に観察した。

(肩にとまったスズメバチ、あれの毒か⁉︎)

 

 市蔵は、妖しい男を警戒しつつも、うつ伏せで泡を吹いて痙攣している女性に、ジリっジリっと近づき、妖しい男こと寂雨も、同じ間合いを保ったまま後ろに下がった。

 

「怖いお面の人、今やったら、その娘もまだ助かるかもしれまへんえ」

 小馬鹿にしたような口ぶりで、寂雨は市蔵を牽制したが、市蔵は隙一つ見せることなく、少しずつヒヒルに近づく。

 

 市蔵がヒヒルの傍らまで近づいた時、ヒヒルの痙攣が止まった。

(いかん!)

 市蔵はヒヒルを抱え起こすと、顔に耳を近づけて呼吸の有無を確かめ、手首を押さえて脈を調べたが、呼吸も脈も止まっている。

 

「ざんね〜ん、もうちょっと早よ来とったら、普通に死ねとったのに」

 殺人鬼のこの男のふざけた言い方は、市蔵の神経を逆撫でしたが、取り乱すことなく、女性の状態を確認した。

 女性の首には、鋭利な刃物で斬られた傷があり、この傷だけで充分致命症である。

 そんな状態のこの女性に、泡を吹いて痙攣を起こさせるほどの毒を持った、あのスズメバチをけしかけたのか?

 

「下衆が!」

 吐き捨てるようにそう呟くと、市蔵は静かにヒヒルの身体を地面に寝かせた。

 そして、刀の柄に手をかけて、ゆっくりと寂雨に向き直った。

 狼面の下の目は冷たい光を宿し、まるで本物の狼が獲物を狙う時のように、市蔵は一分の隙もなく身構える。

 

(アカン、もうちょっとやゆうのに、このお面の狩人、相当な強者やわ…)

 寂雨は、市蔵の纏った気から、現在の己れとの実力差を読み取り、身の危険を感じていた。

 

(どっちでもええから、早よ!)

 

 そんな寂雨の焦りに呼応したのか、息絶えて横たわっていたヒヒルの身体が、身悶えるかのように動き始めた。

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