第二十二話
湿気た土と藁、煤けた油の匂い…。
意識が戻った清泉が最初に感じたのは、ひんやりとしたその場の空気と匂いであった。
視界はまだぼやけ、
ただ、ぼやけた視界でも、この場所が土に囲まれ、数カ所に灯りが置かれた、薄暗い穴ぐらの中であることは理解出来た。
(まだ生かされている…)
どのくらいの時間、意識を失っていたのかはわからないが、六番目という言葉から、五芒星の術の締めくくりは、やはり新月の夜中に行い、まだその時間ではないようだ。
次に清泉が考えたのは、自分を刺した蜂とその毒のことであった。
(蜂の中には毒で獲物を麻痺させ、殺さずに幼虫の糧にするものがいるとか…)
それは『ジガバチ』という種類の蜂で、地面に穴を掘って巣を作り、腐らせず長期保存させるために、神経毒で獲物を麻痺させて卵を産みつけ、生かしたまま幼虫の食糧にするという。
もちろん人間のような大きさの生き物を、麻痺させるだけの毒を持つ種類など、確認されてはいない。
おそらく人の手で改良された、特殊な亜種だと考えられる。
(これも、蠱王の国から持ち込まれたもの…⁉︎)
清泉は冷静であった。
自分が危機的状況に置かれていることも、十分に理解している。
医療に従事して、人の死に触れる機会が多かったこともあり、いつか来る自分の死に対しても、清泉は客観的に受け入れていた。
そのことも冷静さの理由の一端ではあるが、それ以上に、清泉は夫である黒曜丸に、全幅の信頼を寄せていた。
(もし間に合わなくても、黒曜丸さんは必ず私を見つけてくれる)
「気を追う?」
黒曜丸は八面狼こと正宗市蔵に聞き返した。
「気で奥さんを探せないのか?ってことよ」
答えたのは、正宗甘露である。
「大きくて強い気とか、親しい人の知った気なら、追跡出来るの。私はまだ出来ないけど…」
「じゃ、アンタは出来るのか?」
興奮気味に黒曜丸は、市蔵に詰め寄ったが、
「オマエの嫁の気は知らん」
と、一蹴された。
「世の中で一番綺麗な気が、清泉さんの気だ!それなら探せるだろ⁉︎」
黒曜丸は臆面もなく食い下がり、市蔵に鼻で笑われた。
「見えるなら、
「出来るならやっている…ど、どうやればいいんだ?」
「見つけるつもりで見ろ!」
それだけ言って、市蔵は背を向けた。
「ごめん、私らも探してみるから、頑張って!」
市蔵の言葉足らずな言動を、一番よく知る娘の甘露は、申し訳なさそうにそう言って、市蔵の後を追った。
「見つけるつもりで見ろ…」
一人残った黒曜丸は、市蔵の言葉を復唱すると、清泉を待たせていた場所に戻り、全神経を目に集中させて、あたりを凝視した。
すると、ほんの僅かではあるが、見慣れた清泉の美しい気の色と、見たことのない毒々しい色の気が、消えゆく前の残り香のように、この場に漂っているのが見えた。
(これかっ⁉︎)
黒曜丸は、その二つの気の幻よりも、もっと薄くかすかな、この場から移動する気だけを見極めようと、更に集中力を高めた。
両目を中心に、眉間から額、こめかみにかけての血管は隆起、眼は血走り、黒曜丸の美しい顔は鬼気迫るものとなった。
そのかいあってか、薄い気の幻は、流れ舞う羽衣のように帯状に連なり、行き先を示し始める。
しかし、その帯状の気の幻を追って進むごとに、清泉の気の色はどんどん薄れ、毒々しい色の気の帯だけが残った。
(清泉さん…)
清泉の心配をした途端、眼球の奥に痛みが走り、黒曜丸は目を押さえて立ち止まった。
黒曜丸にとって、気は普通に見えるもので、つい最近まで気を意識して、見たり感じ取ったりする、努力をしたことがなかった。
気の扱いに長けた者であれば、気で視神経を強化し、見たいものを見るだけなのだが、正宗甘露がまだ出来ないと言っていたように、容易に出来ることではない。
故に黒曜丸には力加減がわからず、目の周りに気を集め過ぎて、必要以上の負担を、目にかけてしまっていた。
(何だ⁉︎視界が赤い…)
黒曜丸の眼の周りの毛細血管は破れ、血の涙が流れていた。
清泉を探す手掛かりを失った赤い視界と、血の涙に濡れた右手が、黒曜丸の絶望感を煽り、黒曜丸はその場に膝をつくと、再び目を押さえ、
(清泉さん、俺は…)
己れの不甲斐なさに唇を噛み締め、そして、無事を願う強い気持ちで、ただ清泉のことだけを思い浮かべた。
すると、閉じた真っ暗な視界に光る波紋が広がり、ある位置で何かに当たったように波紋が途切れ、そこに幾重もの小さな波紋が生まれた。
(これは⁉︎)
黒曜丸は振り返り、はっきりとしない赤い視界ではあるが、その小さな波紋が生まれた位置を、実際に見える場所と重ね合わせた。
(あそこは…)
その場所は、最初に清泉を待たせた所から見える、二つの大通りが交差した、五芒星の中心にあたる場所であった。
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