第二十一話
屋根から降りた黒曜丸は、そのまま清泉の待つ場所へ戻った。
しかし、そこに清泉の姿はなく、用でもたしに行ったのかと、黒曜丸は少し待ってみたが、しばらくしても一向に戻って来ない。
黒曜丸の知る限り、清泉は待っていてくれと頼めば、丸一日でもそこで待っていてくれる、そういう女性である。
そんな清泉が、自分が離れていた僅かな時間の間に、消えてしまった。
(まさか…⁉︎)
考えたくない不安がよぎり、
「清泉さ〜ん!どこですか〜?」
黒曜丸は大通りの真ん中に立ち、そのよく通る大声で清泉を呼んだ。
長身で隻腕の美しい男が、女性の名前を何度も大声で叫んでいる姿を、周りにいる通行人や狩人たちは、怪訝な表情で見ながら、関わり合いを持とうとはせずに、通り過ぎるだけであった。
「どうされたんですか?尾上殿?」
少し遅れてその場にやって来た、御用所の向島左内が、黒曜丸に駆け寄り声をかけた。
「清泉さんが…妻が、ほんの少し離れていた間に、いなくなった」
「え⁉︎奥方が?どうして?」
「わからん…勝手に消えるような人じゃないのに」
「
「考えたくはないが、そう考えるのが一番辻褄は合う…」
「理由に心当たりはありますか?」
「俺に恨みがある奴は多い、清泉さんは人に恨みを買うような
「そっ蘇童将軍のお嬢さんっ⁉︎それは一大事だ!」
左内は黒曜丸の言葉を最後まで聞かずに、慌てて周りにいる役人たちに、そのことを伝えに走った。
黒曜丸は左内の後ろ姿を見ながら、
(そんな理由なら、まだ安全だ…)
頭の中に広がる最悪な不安に、全身に緊張が走り、無意識のうちに強く拳を握っていた。
「あんな大声で叫んで、奥さんどうかしたの?」
背後から声をかけてきたのは、さっき別れたばかりの正宗甘露である。
その後ろには八面狼こと正宗市蔵もいた。
「消えたのがこの場所だなんて、嫌な感じよね?」
思ったことをすぐ口にしてしまう甘露が、黒曜丸の不安な気持ちを、逆撫でする言葉をつぶやいた。
振り返り甘露を睨みつける黒曜丸に、
「オマエ気は追えないのか?」
抑えた静かな声で、市蔵が問いかけた。
時は少し遡り。
清泉は、黒曜丸が屋根の上に跳び上がり、その姿が視界から消えたので、今いる場所から見える範囲内の、大通りの様子を観察し始めた。
「今日はなんや、ぎょうさん人がいたはりますなぁ」
何の気配も足音もなく、不意に後ろから声をかけられ、清泉は驚いて振り返った。
するとそこには、清泉より頭一つ背の高い、黒目がちな切れ長の眼で、目鼻立ちのはっきりとした、黒髪の妖艶な女性が立っていた。
年齢は三十手前くらいであろうか?黒と赤を基調とした着物に、金の腰帯という、堅気には見えない派手な格好で、右手にやはり黒と赤で彩られた、大きめの扇子を半分ほど開いて握り、胸の前でゆっくり揺らしている。
(いつの間に⁉︎)
小柄で華奢な女性ではあるが、清泉は剣術の才能に恵まれ、かなりの腕前の持ち主である。
最近でこそ剣を握る機会は減ったが、周囲の状況に気を配る癖は抜けてはいない。
そんな清泉が、こんなに近くで声をかけられるまで、この女性の気配に全く気付かなかった。
「堪忍なぁ、脅かしてしもうて」
目を丸くして自分を見つめる清泉に、その女性は申し訳なさそうに、笑顔で話しかけてきた。
「あ、いえ、こちらこそすみません…」
(何者なの⁉︎)という思いは拭えないものの、清泉は丁寧に謝罪した。
「せやけど、ほんま綺麗やわぁ」
その女性は清泉の目ではなく、清泉の身体の周りを見ながらそう言うと、扇子で口元を隠しながら、ふふっと小さく笑った。
女性から滲み出る妖しい気配に、清泉は全身を緊張させ、手に持った杖を握り直した。
それとほぼ同時に、ブーンという微かな羽音が耳をよぎり、首の付け根あたりに、軽く針で刺されたような痛みが走った。
(何っ⁉︎)
反射的に首を押さえようとした手の指先に、小さなカサっとしたものが触り、慌てて手を引っ込めると、再びブーンという微かな羽音と共に、蜂のような虫が飛び去る影が目に入った。
(蜂⁉︎)
痛みが走ったところを手で押さえ、女性を見ようとした清泉は、急に視界がぼやけ、全身に痺れるような脱力感を感じた。
それを見ていた女性は、口元を扇子で隠したまま、
「嬉しいわぁ、六番目はこないに気の綺麗なお嬢さんで」
黒目がちな切れ長の眼を細め、清泉に近づき、空いた左手で清泉の腰を支え、耳元で囁いた。
(六番目…!)
全身の力が抜け遠のく意識の中、清泉はその意味を理解し、この女性の正体に気付いた。
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