第二話
庭の散策から戻ると、清泉は朝食の用意をして、黒曜丸の療養する離れの部屋に入った。
これまでの黒曜丸なら、部屋の隅で壁にもたれかかるか、ごくたまに、縁側に座っているかのどちらかで、どちらにせよ、ただボーっと座っているだけであった。
しかし、今朝の黒曜丸は、部屋の中央にあぐらをかいて座り、入ってきた清泉の目をしっかり見つめて、笑顔を見せた。
先ほどの庭の散策の時にも、笑顔は見てはいるのだが、ずっと暗く沈んだ表情ばかりを見ていたこともあって、生気の戻った瞳で見つめられると、嬉しさと気恥ずかしさが入り混じり、清泉は視線を朝食の膳に外し、
「何をされていたんですか?」
自身の軽い動揺を隠すように聞いた。
「久しぶりに、調息を…」
眉根を軽く上げた困惑の表情で目を閉じると、
「しかし、腹が減って、うまくいかんかったです!」
一気に表情を崩して、声をあげて笑った。
清泉も一緒になって笑い、
「じゃ、この量だと少し足りませんね?」
黒曜丸は朝食の膳をまじまじと見ると、
「いや、足りないってことなら、少しじゃなくて、全然です」
気力の戻った黒曜丸は、その体格に合わせた食欲も戻ったようで、申し訳なさそうに頭を下げた。
朝一番に入った時とは、まるで違う部屋の空気に、心から温かいものを感じて、清泉は黒曜丸の看護をして初めて、幸せな気持ちに浸っていた。
朝食が済むと、黒曜丸は清泉に頼んで、木刀を借り受けた。
腕を失った日以来、黒曜丸は愛刀の『雲斬り』はもちろん、木刀すら握ることがなかった。
大太刀の『雲斬り』を身体の一部のように携え、毎日稽古で木刀を振り続けていたことで、硬くなった手のひらのタコは、すっかり柔らかくなってしまっている。
握力も衰え、木刀を握った感覚も、自分の記憶しているものとはまるで違い、初めて触れたような、よそよそしさを感じた。
愛刀の大太刀『雲斬り』は、蘇童将軍が預かってくれていると聞いたが、今の自分の状態では、満足に握ることも、振ることも出来ないはずである。
とにかく今は、衰えてしまった身体を、鍛え直すことだけに集中して、この木刀を振り続けるしか、自分に出来ることはない!
黒曜丸は、療養させてもらっている離れの、庭に出ると、木刀を正面に構え、頭上まで上げて振り降ろす動作を、丁寧に一本ずつ繰り返し続けた。
離れの廊下の隅から、清泉はそんな黒曜丸を、少し寂しげな瞳で見つめていた。
それから一月あまり後、
鈴音ヶ原の屋敷、樹蘇童将軍の部屋。
黒曜丸は緊張の面持ちで、蘇童将軍と向かい合って座っている。
「うむ、以前より顔色も良くなったな」
蘇童将軍は穏やかな口調で、黒曜丸に話しかけた。
「ハイ、自分の境遇に甘え、全てから逃げることしか考えられませんでしたが、蘇童将軍をはじめご家族の皆様、特に清泉さんの献身的な看護のおかげで、やっと一歩前に踏み出すだけの、勇気を持つことが出来ました。」
黒曜丸は片腕だが腕をつき、礼を尽くして頭を下げた。
「敢えて声はかけなかったが、キミが鍛練している姿は目にしていたよ」
蘇童将軍の言葉に、黒曜丸は顔を上げた。
「今日来た理由はこれだろう?」
蘇童将軍は床の間に置かれた、縦型の刀架に立てかけてあった、刀袋に入った長い刀を手に取った。
蘇童将軍が刀袋の紐をほどくと、中から見慣れた、しかし、久しぶりに目にする大太刀『雲斬り』が現れた。
「これも何かの縁なのだろうな?」
そう言って蘇童将軍は鯉口を切り、『雲斬り』を抜くと、よく手入れしてあることがわかる、美しい刃文をした長い刀身が露わになった。
「君のこの『雲斬り』と、私の愛刀『
気さくに話しかけてもらってはいるが、蘇童将軍は、刃王の国に数人しかいない将軍の一人である。
その蘇童将軍が、元剣士隊の新米隊長でしかない自分なんかのために、刀の手入れをしてくれていたことに、黒曜丸の胸は震え、両の眼からは涙が溢れた。
「本当にありがとうございます!」
絞り出すように、礼を言うのが精一杯な黒曜丸であった。
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