カブトムシ
@bootleg
カブトムシ
カブトムシとクワガタがいる木があった。クヌギとかそんな名前だったはずだが、樹液に虫が集まってきて、毎朝どこかからカブトやクワガタが来ているのが面白かった。カブトムシが寄ってくる木と、寄ってこない木があるというのは、祖父のやっている畑を見て気づいた。祖父の家は私の家のすぐ隣にあって、畑は道を挟んで向こう側にずっと広がっていた。ブドウを作っていた。今もやっている。今年は猛暑だから気を付けてやってほしい。「ブドウの木と葉っぱで全部日陰だから涼しい」というが、嘘である。背の低いブドウの木の下はそれだけで圧迫感があって息苦しいだけでなく、たぶん実際に風通しが悪い。収穫の秋ごろになってもあの中はムンムンしている。そう、そのブドウの木にはカブトムシはほとんどやってこなかった。
小学校に入ったころの夏、私はカブト、クワガタにはまっていた。カブトムシを取りに行くのは、父と一緒にだった。たくさん遊んだというような記憶はない。むしろ、そういうことは母がする家庭だった。自転車に乗る練習をするときに私の自転車を押していたのは母だった。すぐに風が強くなって試合にならないバドミントンを家の前でやっていたのも母と一緒にだった。父と外に出た思い出でもうひとつだけ思い出せたのは、祖父の畑の間の細い道を肩車をしてもらいながら歩いている様子だった。夏の間に散々食べたきゅうり、その苗をまっすぐ上に伸ばすために使っていた支柱のてっぺんにトンボが止まっている。夕方だった。どうも父との思い出は虫と一緒らしい。もっとも、私も父も虫が苦手で、家の中でクモが出たりすると、退治するのは母任せだった。
私は、こうして父とカブトムシを取りに行くのが楽しみだった。朝早く、まだ気温が上がり切らないうちに、お決まりの木に向かう。一度どこかの山に行ってミヤマクワガタというのを探しに行ったことがある。でも、その名前と山に行ったという記憶があるだけで、実際にはどんなものだったのか覚えていない。そもそもそのクワガタを見つけられたかどうかも覚えていない。習慣的に動くということに意味があったのだろうか。平日は私が学校に行くよりも後まで寝ていて、帰りは私が寝た後だった。小学校の1,2年のあたりでは、「お父さんが帰ってくるまで起きてみよう」と思って、無駄な努力をしていた。休みの日であっても気まぐれで、朝は昼前まで寝ていることがほとんどだったから、虫捕りの習慣が特別で、親であってもお願いがしづらい私にとっては、勇気を出して声をかけなくても次の約束が自然にできる便利なものだったのだ。とにかく、私にとってはその時間は大切だった。今も覚えている。
カブトムシのいる木は、近くに一本だけしかなかった。家から歩いて5分もかからないようなところで、そもそもさほど離れていなかった。あるとき、祖父が畑にスイカを捨てた。ブドウだけでなく、他の果物や野菜も作っていて、スイカもその中の一つであった。傷んだり、小ぶりでうまく育たなかったりしたものを、少し穴を掘って捨てたのである。これまでもそういったことはあったようだ。ただ、季節がらもあり、直ぐに傷んで匂いがひどくなるからすぐに穴を埋めるようにしていた。ただ、その年は祖父は穴を埋めなかった。「こうすればカブトやクワガタなんかいっぱい寄ってくるから」ということだそうだ。実際に、翌朝には見たことがないほど大量のカブトとやクワガタが、カナブンや他の小さな虫と一緒に蜜を吸っていた。その時私は、カブトやクワガタが、私の苦手な他の虫と同じだということに気付いてしまって、それ以来もう触れなくなってしまった。父も、家の目の前にある畑でカブトが採れるなら、ということでもう朝早くから外に出てくることは無くなってしまった。祖父は効率重視の人間というか、よくこういうことがあった。悪気がないどころか、子どもの目的を達成するため直接結果を与えるという善意のつもりである。そうして与えられた過程のほとんどない結果は、大人になった私が振り返って再生した際に、ものすごい早送りになってしまって気にも止まらない。父との思い出の様に、ゆっくりと広がりを持って再生されるものとは明らかに違う。
仕事帰り、私は公園を横切ってアパートの自室へと向かっている。この木にはカブト虫がやって来るだろうか。気が付くと、足元に縄跳びが落ちている。いったい何に負けて忘れ去られてしまったのだろう。珍しい虫か、サッカーやなんかのボールだろうか、それとも友達からの誘いだろうか、あるいはスマートフォンか。結果を効率的に求める時代である。一足でたどり着けるものが常態化している。中学生のころ、「紙の辞書と電子辞書どちらがいいか」というテーマで文章を書いたり、討論をしたりする授業があった。紙の辞書のいいところは周りの他の結果を見ることが出来ること。悪いところは時間がかかること、かさばること。電子辞書は、すぐに結果が見つかるのがいいところで、他の答えを見られないのが悪いところ。大体そんな内容だった。今の子どもたちが大人になった時、自分の経験の中で、思い出としてゆっくりと再生されるものはどれくらいあるのだろう。きっとそれは大人の価値観では、今の子どもとは違う時代の子どもだった私には想像がつかないものだ。環境や時代によって感じ方は全く異なる。ゆとり教育をやりすぎたと言われた次の代の子どもたちはそれを踏まえた教育をされる。しかしそこには実際にゆとり教育を受けた子供はいない。それと同じようなことがほんの1時間程度のスパンで更新され続けるような環境だと思う。
子どもたちはカブトムシを取るだろうか。
カブトムシ @bootleg
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。カブトムシの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます