完璧な一方通行

望永創

完璧な一方通行

「あなたのこと、信頼しているからね。」

 これが近頃の母の口癖。数ヶ月前まではこんなことなどわざわざ言葉にされることなかったが、最近は事ある毎に言ってくるものだからさすがに鬱陶しい。

 でも、多分母は不安なのだろう。不安になるのは仕方ないと思う。何の前触れも無く、突然娘が引きこもりになり、さらに娘はその理由を頑なに話そうとしてくれないのだから。恐らく母は私に「信頼している」と言うことで自分のことを信頼してもらい、引きこもりになった理由を話させようとしている。というか、それ以外に考えられない。繰り返しその言葉を伝えてくるということはそういうことだろう。

 でも、私は母に引きこもりになった理由を打ち明けることは出来ない。どんなに詰問されても、泣きつかれても、言うつもりは無い。それが母のためであり、私のためである。


「蘭、入るわよ。」

 ノック音と共に聞こえてきたのは母の声。母は私の返事を待つことなく、ドアノブを回して扉を開ける。そして私の部屋に入ると、無言でタンスの中に洗濯物をしまっていく。一見優しそうな笑顔をしているが、部屋に入る瞬間、あまりの部屋の散らかりようにため息をついたのを私は見逃さなかった。

 でも母が私の部屋の様子に呆れようが、文句を言おうが、決して反応を示してはならない。反抗なんてもってのほか。数ヶ月の引きこもり生活の中で、無視が一番良いと分かった。だから私は一日のほとんどをベッドの上でうずくまって過ごしている。それにこうすれば病的に見えて責められにくくなるので最適なのだ。私の目的は平穏に暮らすこと。それを成すためにはこれくらい当然。

 見ていることがバレないように、横目で母の様子を伺う。私に見られているとは思ってないからか、表情は明らかに面倒くさそうだった。『なんでこんな手のかかる子になっちゃったのかしら。おかげで私の苦労は増えるばかりで困るわ…。』とか思っていそうな感じがする。それでも、私に話しかける時はしっかり優しそうな笑顔を作るのだから恐ろしい。完璧に切り替えられるあたりを見てると、母と私はこういうところが似たんだなと思う。

 タンスに洗濯物をしまい終わった母は私に優しそうな顔を向ける。

「邪魔してごめんね。カーテン閉め切ってないで、たまには日光を浴びてみると良いわよ。……あなたのこと、信頼しているからね。」

 一拍ほどうずくまったままの私の様子を見てから、母は部屋を出ていった。思わずイライラしてしまうような、いつもの口癖を残して。




 母が部屋にいない時間私は延々と考え事をしている。近頃は『この先の人生をどうやって平穏に生きていくか』について考えることが多い。常に優秀な成績を修め続け、難関大学合格に向けて努力してきた十数年を棒に振る以上、この先どうやって生きていくのかを考えなくてはならない。さらに、大前提として"平穏"でなくてはならない。この問題の解決策を見出すのは容易ではない。故にこの引きこもり生活で生じる長い時間を費やしてずっと考えている。

「蘭、入るわよ。」

 考え事に耽っていたら、再び母が部屋の扉をノックした。考え事で緩んでいた気を瞬時に引き締める。先程と同じように、母は私の返事を待つことなく部屋の扉を開けた。今度は何の用かと思い、バレないように目線だけ母の方に向けると、花束らしき物を持っているのが確認できた。中身はわざわざ見なくても分かる。『信頼』という花言葉を持つオレンジ色のバラの花。引きこもりになってから度々母が買ってきては私の部屋に飾ってくる。しかも律儀に、いつも同じ場所で同じ方向を向いてうずくまっている私の目につく場所に飾るのだ。母の狙いは明確。だからこそ腹が立つ。

 私の目の前で古いバラと新しいバラが花瓶に入れ替えられていく。引きこもりになって数ヶ月しか経っていないというのに、この光景はうんざりするくらい見たような気がする。バラが入れ替えられるこの時間は引きこもり生活の中で一番嫌いで苦痛が伴う。もっとも、完璧に無反応・無表情を貫いているので母は気づいてないだろうが。

 終始完璧な優しそうな笑顔で、バラの入れ替え作業を進めた母は、綺麗なオレンジ色のバラが生けられた花瓶を私の眼前に持ってきた。

「新しいのに入れ替えたからね。オレンジのバラの花言葉は『信頼』。今は私から贈ってばかりだけど、私のこと信頼できるようになったらあなたの方からも贈って頂戴ね。────あなたのこと、信頼しているからね。」

 この言葉ももはやテンプレートと化していた。聖母のような優しく美しいオーラを纏っている母だが、私はその優しさに屈するわけにはいかない。何故なのかと疑問に思う人もいるだろう。でも、たった一つの事実が母の恐ろしさを如実に表しているのだ。

 しばらく母に見つめられた後、ほんの少しだけしょんぼりとした顔をして部屋を出た母は普段よりゆったりとした足取りで階段を降りていった。

 独りになった部屋は相変わらず薄暗くて静寂に包まれている。私の目につく場所に置かれたオレンジのバラたちは暗い部屋の中でも明るくて存在感がある。…………私は、このバラに縛り付けられながら生きている。



 私たちは知っている。オレンジ色のバラの花言葉が『信頼』であることを。

 私たちは知っている。十本のバラの花言葉が『あなたは完璧』であることを。

 母は知らない。私が十本のバラの花言葉を知っていることを。

 私は知っている。母が信頼しているのは完璧な私であることを。


 母は理解していない。引きこもりの原因が自分であることを。

 私は見抜いている。母は早く完璧な私に戻って欲しいと思っていることを。


 これは、「完璧」を強いる茨から逃げるための「完璧な戦い」である。

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