天命
「……生きてる意味、ね」
組んだ手の奥から睨め上げてくる目は、名前ペンで無造作に塗り潰したように黒い。私の返答を見定めようとしているのか、急に圧が増した、気がした。
「考えたことは、あるよ。でも一概に言えるものでもなくない?」
「ま、そうだよな」
意外と軽かった。拍子抜けした。
「じゃあさ、俺はここで何のために生きてると思う」
ずい、と身を乗り出されても、それこそ分からない。そもそもアナタ、生きてるのか死んでるのかすら怪しいでしょうに。ここはどう考えても生活空間ではない。
「そんなこと聞かれても、私に分かると思う?」
「だよな。流石に分からんか」
当たり前でしょう。初対面の人の存在意義なんて分かってたまるか。
「じゃあ、答え。俺ね、書くためにここにいるの」
「……書く?」
「そう。物語をね」
そう答えた彼の翳り気味の顔に瞬いた、ぱっと散る火花のような輝きに私は目を奪われた。
「それはまた変わってるね。何で?」
「何でだと思う? 分かりそうなもんだけどなぁ」
悪戯っぽい笑みが私の頭の中を掻き回し、微かに引っ掛かるものを引きずり出した気がしたけれど、答えを導いてくれるほどではなかった。
「何だろう……というか、君がここで物語を書いたとして、誰か読んでくれる人いるの?」
そうだ。普段は俺以外誰もいない、と言っていた。折角書いても誰も読んでくれなかったら、それはなかなか寂しいような。虚しくなってしまいそうだ。
「ここにはいない」
「いないんかい」
あまりにもあっさりと言われたので、間の抜けたツッコミを入れてしまった。
「じゃあどこにいるのよ」
「そう答えを急ぐなって。面白味がないだろ……でも、それは教えてやるよ。アンタがいる方の世界だよ」
疑問を呈したい点しかないのだけれども、先制されてしまったので聞くに聞けなかった。そうだな、すぐ答えに飛びつくのは悪い癖だ。
「ここで書いた物語が、私の世界の人に届くってことね」
――ダメだ。文型を変えただけで結局質問でしかない。いやしかし、ノーヒントは流石にきついだろう。考えつつ訊けば、いいかな。
「まあ、そういうこと。細かいことは置いとけ」
「そうする。……で、要するに、私の世界に物語を届ける理由がすなわち生きる理由ってことでOK?」
「お見事。じゃ、そっから掘り下げて」
「届けるため、ってことは……何か伝えたいことがある?」
「んー、外れてはいないが当たってもいねぇなぁ。そんな御大層なもんじゃなくて、もっと我儘な理由」
「我儘? ……金? いや違うか」
「そういう我儘じゃねぇんだなぁ。もっと、人間の本能に忠実な我儘というか」
本能に忠実――私の単純な脳が思い浮かべたのは三大欲求。睡眠欲、食欲、性欲。全部ピンと来ない。
「言っとくけど三大欲求とかじゃないぜ」
おそらく微妙な顔の私を見て察したのだろう。私は基本的に考えていることが全部顔に出る質であるから。
「マズローの欲求5段階説の中にある?」
脳内の辞書を本能やら欲求やらの言葉で全文検索して、次にぱっと浮かんできたのがこれだった。ダメ元で言ってみたら笑われた。
「……頭かってぇな。そんなに受験に追い詰められてる?」
「それなりに」
「その調子だとまともに頑張る気ねぇな。ま、俺は別にいいけど」
うん。受験は正直、どっちでもいい。わざわざ高いレベルの大学を目指して、入ってから息が詰まるのは御免だ。高校受験の二の轍は踏まない。
「どうせ私の頭は固いよ。一体何がしたいのさ」
もう特にそれっぽいものは思いつかなくて、白旗を挙げた。
「じゃ、そろそろ言おうか。まぁ、色々理由はあるけど。そんでも真ん中に一本、ズドンと通ってるものはと言えばな」
今度は、火花が輝かない。逆に、何かを諦め、何かを背負ったような、やつれながらも進む意思を失ってはいない旅人の顔だった。
「命の爪痕を刻むためだよ」
命の、爪痕。
咄嗟に理解しかねて無言のままに問い返すと、彼は先程までの表情を一変させて笑った。
「……俺、小説は書くんだけどポエムは全然ダメなんだよね。ま、カッコつけないで普通に言うと、自分が生きてた証拠を残しておきてぇなって」
急にその笑みが儚く見えた。
「その物語……小説で?」
「そう。だってほら、昔話とか本とかって、めっちゃ長生きじゃん」
確かにそうだ。そういえばこの前、学校の図書室で50年以上前の本を見つけて感動した覚えがある。ちなみに
「確かにね。でもさぁ、それで証拠になるの? 誰が書いたかなんて、ほとんどの人は気にしないと思うよ」
「それは別にいいんだよ。俺が考えて書いてる時点で、その話とか登場人物は俺の一部なんだよ」
なるほど、そういう解釈もありだ。自分の魂を物語に託して、生き続ける。素敵じゃないか。
「あれ、それなら、本能云々っていうのは」
「ああ。死にたくない、ってこと。生存本能」
そういうことか。鍵が、カチリと嵌った気がした。
分からなくもない。死への盲目的な恐怖は。
私も幼い頃からずっと、死の影に怯えながら生きてきた。湯船に沈んでぼんやりと天井を眺めているとき、布団に入って目を閉じたとき、そして部活終わり、疲れ果てた足を引きずって一人で夜道を歩くときに。がらんどうの電車に揺られるときに。考え出したら止まらなかった。
空虚な闇が口を開けて私を飲み込むのだ。
死んだらどうなるんだろう。
何度も考えた。
火葬されて、私の身体は原子レベルまで粉砕されて地球を巡る。宇宙の塵になる。
つまり私という人間が消える。ちょっと想像のつかない次元の話だ。
――消える。私が私だ、という意識が。そして何も分からなくなる。
私はそれが堪らなく嫌なのだ。怖くて仕方がない。
知り合いなんかいなくなってもいい。身体が機械になったっていい。感覚すらなくなってもいい。ただ、私が私であるという自我だけは、永遠であって欲しい、という我儘。
生への執着――「私自身」への執着。
人生、何もしないにはあまりに長く、何かをするにはあまりにも短い。いつ終わりが来るかさえ分からない、そんな不安定、中途半端な時間。それでも私は今、生きている。
どうせなら何か残したい。私という人間が存在した証を。
「大体、お分かりいただけたみたいだな」
彼の声でふっと引き戻された。うん、ものすごく分かる。自分のことのように分かる。
「……そろそろ気付いて欲しいんだけどな。俺がここにいるのは……俺がここに囚われて、死の恐怖と戦ってるのは、半分はどっかの誰かのせいなんだぜ」
声がぐわんぐわんと回りだした。何だろう、元の世界に帰る時間が来るということか。
「書くしかないんだよ。こうやって」
見れば、彼は――
長く伸びた爪を、自分の胸に深々と突き刺して。
赤く滴る血で、机の上の紙に、文字を刻みつけていた。
今、はっきり見えた。
精神の心臓、その透明な部分の中に埋め込まれている羽ペンと、心臓から伸び、彼の身体へと繋がる血管の数々が。
視界が波打ち始める。
「書こうぜ。それがきっと、俺たちの……死への唯一の対抗手段。そうすることでしか、俺たちは救われないんだよ」
遠のく声に、必死に耳を澄ませる。
死という、生あるものに課せられた絶対の理。それは無慈悲で、どうしようもなく残酷に、私たちの前に立ちふさがるものだ。恐怖で私達を打ちのめすものだ。
それでも筆を握り、絶望のインクで、俺という――私という物語を、一筋の希望を綴る。
命の爪痕を刻む。
ああ、分かった。分かったよ。
君は、私だ。
◇
高3の夏休み。私は未だ、小説を書いている。
命の爪痕 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya
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