埋没
ふと意識を取り戻したときには、見知らぬ場所にいた。
奇妙な場所だった。
足元には、地面の代わりに水面。しかし足が沈んでゆくことはなく、ただの巨大な水溜りかと思ったけれど、深みのある暗い色と、水面下に揺らめく何か――はっきり何とは分からないが――を見る限り、水溜りではなさそうだ。
向こうを見れば、イルカが跳ねた。海なのだろうか? ……では、あそこから顔を出す恐竜は何だ。T.REXが海にいるはずはないのに。しかも、振り返ればすぐ後ろに浮いていた、人間の腕らしきものは一体?
加えて、そこかしこに管のようなものが垂れ下がっており、その中を通る、カラフルな液体がうっすらと見えた。まったくもって訳の分からない空間だった。
そんな混沌の世界は、太陽がある訳でもないのに闇に閉ざされてはおらず、明るくはないが暗くもない。辺りには霧がかかり、あまり遠くまでは見渡せなかった。
変な場所だ。けれども、何故か怖くはなかった。少しひんやりした湿り気味の空気、
私はこの不思議な世界を探険し始めた。
この海――海ではないと思うけれど、ひとまず海と呼ぶことにする――は、必ずしも青ではなかった。南の国のビーチのように透き通り、眩い水色、エメラルドグリーンのところもあれば、これぞ本当の黒海と呼びたくなるような墨色のところもあり、はたまたサメの捕食後かというような赤茶けたところもあった。
鏡面の下を
弾ける泡を纏い、悠々と泳ぐシャチ。クラーケンの腕に抱きかかえられた沈没船、折れたマストはさながら槍のように突き出す。銀河が沈んでいるかのような宝石の山、きらきらした珊瑚礁――かと思えば錆びた鉄パイプ、割れた皿、空き瓶とガラス片。海洋汚染も甚だしい。
それでも何だか親しみのあるカオスだった。
やがて、前方に見えてきたものがあった。それは宙に浮かぶ、巨大な石のようだった。
あてもなく歩いてきたつもりだったけれど、もしかすると私は、この石に導かれていたのかもしれない。そう思うくらいに、石には輝かしくも重々しい存在感があった。
霧の中、光源の分からぬ光を鋭く撥ね返す。いや、それ自体が光源なのだろうか?
何しろ私は視力が0.1もないような人間だ、ここからでは何も分かりはしない。もう少し近くで見ようと、歩を進めた──
「よう。迷子かな」
ふっと霧が晴れ、人が現れた。
その人は、小さな氷の上、椅子に片膝を立てて座り、薄汚れた白い木の机に頬杖をついてこちらを見ていた。
誰ですか。そう問えば、気怠げに言う。
「俺が誰かなんて、そのうち分かるよ。確実に」
もう一度、彼の顔を見つめ直してみる。
浅黒い、とまではいかなくとも、決して白くはない肌。目をつく黒髪。皮肉に歪む唇。強めの眉と、目の下にはっきり刻まれた下弦の月。吊り上がり気味の目、曇ったガラス玉のような──それでいて中に、玉を割りそうなほどの強く鋭い光を宿した瞳。
痩せてはいなかったが、やや顔色が悪く、姿勢の悪さと陰気なオーラとが相まって、不健康そうに見えた。
少なくとも私の知り合いにこんな人はいない。
「心当たりないんですが」
「そのうち分かるって言ってんだろが。あと敬語もなし。俺はアンタと同い年」
同い年、なのか、この男は。
それにしては、失礼だが大分老けて見えた。人生に疲れていそうな、退廃的な雰囲気が色濃く漂っている。とは言え、きっと私も人のことは言えないだろうけども。
「……そ。了解」
「急に声冷めたな。……で、あの石が気になるんか?」
やはり私の視線が、彼の頭上を通り越して奥の石に向かっていたからだろうか。無言のままに頷いた。
「あれな。変な石だろ」
「何か知ってるの、あの石のこと」
「そりゃ、多少はな」
ガタガタと椅子を引き、彼は立ち上がった。氷の上であるはずなのに、まるで古い教室のように随分と騒々しい音が鳴る。
「見てみろよ、ほら」
よいしょ、と呟きながら歩き出す彼の猫背を追い、石のすぐ傍まで近付いた。
なるほど、変な石だ。
ぱっと見たところは、水晶。加工済みのもののように綺麗な透明をしている箇所も幾らかあったけれど、大半は原石の状態だ。所々不純物らしき黒い点が混ざっていたり、よく見ると赤い筋が通っていたりする。
そして、先程から見てきたたくさんの管、この世界中に張り巡らされているらしい管は、この石の上部から生えていた。
「触ってみな」
何の躊躇いもなく手を伸ばせば――
「うわ何これ」
石は微妙に生温かかった。しかも、微かに震えていた。
「精神の心臓、みたいなもんだな。多分」
はあ、これが。ということはここは誰かの精神世界の中ということか。それならこんな奇妙奇天烈のオンパレードなのも納得できる。――いや、待てよ。
「誰の?」
「俺の」
「いや、こんなむき出しで大丈夫なんかい」
「平気だろ。普段は俺以外誰もいない」
それなら私は何故今ここに。そう思ったけれど、聞いても適当にはぐらかされる気がしたので、黙っておいた。
「あ、そいつ、たまに拍動するから気をつけてな」
え、そうなの、と言うが早いか、ズンと腹の底を鈍い衝撃が殴ってきたので驚いた。もっと早く言えばいいものを。
半透明の管──あれは血管だったらしい。石から送り出された血液らしきものは、赤から様々に色を変えながら、勢いよく流れていった。
「満足した?俺、立ってたくねぇのよ」
「あ、そう。別にいいよ」
「どうしても座りっぱなしだと体力がなくてなぁー」
いててと腰を叩きながら、彼はのろのろと机へ戻った。その腰痛は絶対に座りっぱなしのせいだと思うが、立つのが嫌だとは。一体どれだけの時間、椅子に根を生やしているのやら。不健康だ。
「ま、座れば」
「どうも」
言われるがままに、彼の向かいの椅子に腰掛けた。
用意がいい。私がここに来ると知っていたのか、それとも誰か、他の人のための椅子なのか――。
「じゃ、折角だからお喋りでもしようかね」
お喋り、とは。
「アンタさぁ、自分が生きてる意味って考えたことある?」
軽い口調で、突拍子もなく壮大な話題を振られた私は少々面食らった。
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