8
「ミリ————ッッ!!」
叫んでいた。足も勝手に動いていた。
どろりとした闇が、俺の足を妨げる。水の中を進むような抵抗を行く。
深淵が俺を見ている。皿に乗った食材を見定めるように。
生物としての根源的な恐怖。
このまま進めば死ぬという確信。
魂を鷲掴みにされたような冷たさ。
頭がおかしくなりそうだ。
呼吸がしづらい。
背中がじっとりと汗で濡れている。
身体が震える。進むことを全身が拒否している。
一歩進むごとに吐きそうだ。
進みたくない。進みたくない。進みたくない。進みたくない。
————知ったことか。
「があああああああああああああ!!!」
「ッ、」
獣に似た野太い叫び声が背中を叩く。
バルトムント様の声だ。
明らかに正気ではなかった。
国が誇る騎士団長でさえ、狂気に飲み込まれる空間。
俺が辛うじて無事なのは、自分がどうなろうが助けたい人がすぐそばにいるからだ。
バルトムント様と、ミリ。どちらかを選べというのなら。
俺は迷わずミリを選ぶ。
だから、振り返らずに進む。
汚泥の中をもがくように。
何も聞こえない。何も見えない。
だからどうした。
かつて俺は、召喚陣の光の中に消えるお嬢様に何もできなかった。
伸ばした手は空を切り、自分の力ではついにお嬢様を見つけることはできなかった。
もう、あんな思いはごめんだ。
「ミリ————ッッ!!」
力の限り叫ぶ。
すぐそばにお嬢様はいる。根拠も理由もなく、ただそう感じた。
だから、手を伸ばした。
今俺が持つべきは、剣じゃなくてお嬢様の手だ。
だから、届け。
届け…………!!
届け。
届けッッ!!
「ナ、ル……」
か細い声。
伸ばした手に、細い指が当たる。優しく、だけど絶対に離さないように、その手を掴んだ。
引き寄せる。
お嬢様の華奢な身体は、俺の胸の中にすっぽり収まる。
今度は、届いた…………!!
「逃げるぞ! しっかり掴まってろ!」
胸の中で、お嬢様が頷いたのがわかった。
その仕草さえ弱々しい。とても辛そうだ。
お嬢様を傷つけやがって。
クソ魔王が。
後で絶対にブチ殺す。
だが、今はお嬢様の安否が最優先だ。
黒い波動に背中を押されるようにして外を目指す。
「バルトムント様!」
「ッが、うぐううううううッッ…………!」
「一旦逃げます! いいですね!」
抗うように呻くバルトムント様に言葉だけ叩きつける。
耳の端にでも聞こえたのか、呻き声が小さくなる。
俺たちのいた国が誇る騎士団長様だ。心の強さを信じよう。
ひとまず、向かうは外だ。
階段を駆け上がる。
落ちるように降りた下りと違って、空を飛べない俺は地道に駆け上がるしかない。
何百段もあるそれに辟易しつつ、心臓を鷲掴みにされる寒気が遠ざかることへの安心感を覚えつつ。
そして、宮殿の外へと転がり出た。
外はまだ瘴気の影響が薄いのか、俺が突入する前と変わりはない。
ウルザムヘルトとの戦闘で抉れた地形も、崩折れた甲冑もそのままだ。
恐らくは、甲冑の内側に充満していた瘴気こそがウルザムヘルトの本体だったのだろう。
その証拠に、ズィアードは瘴気の中に消えたが、甲冑や剣は残っている。
まぁ、どうでもいい考察か。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
「あり、がとう……。大丈夫、よ……」
一人で立とうとするお嬢様は、ふらついた。
すかさず支える。
無理しているのが丸分かりだった。
「ごめんね」
「謝らないでください」
何も悪くないのだ。
お嬢様が謝ることなんて一つもない。
「剣が……あれがないと……」
お嬢様は、神剣を持っていなかった。
あの地獄の底とも言うべき空間に置いてきたのだろう。回収できなかった俺にも咎はある。
「今は、無事を喜びましょう」
「でも、あの剣がないと魔王には……! わたくしは勇者なの。なんとしても、魔王を封印しないと……!」
息も絶え絶えに、それでもお嬢様は勇者であろうとする。
気高く、貴く。自らに課せられた役目を全うしようとするその在り方。
そんな貴女だからこそ、俺は————
「ッ、すまない。ナル君。遅れてしまったな」
振り向く。
バルトムント様がちょうど出てくるところだった。
「いいえ。置いてきてしまってすみません。無事で何よりです」
「構わないさ。君の中の優先順位の話だろう」
「……、」
何も言えなかった。
その通りだったからだ。
バルトムント様は気を悪くした様子もなく笑った。
まだ狂気の残滓が残っているのか、顔色は青白かった。
あの空間に再び戻るのは間違いなく無理だろう。
お嬢様を見る。
力を使い果たしたのだろう。お嬢様の顔に生気がない。
小さな身体一つで世界に等しい存在と対抗していたのだ。意識を保っているだけでも充分だと思う。
これ以上の無茶は、お嬢様の生命に関わる。
魔王はまだ健在だ。徐々に封印は解けている。
あの門が全て開かれた時、きっと世界は魔王の飢えを満たすためだけに蹂躙されるのだろう。
お嬢様もバルトムント様も、これ以上戦うことはできない。
命を擲つ覚悟であるいは……とはいえど、お嬢様にそんなことは絶対にさせない。
俺はどうするべきか。
少しだけ、悩んで。
————悩むことなんて一つもないことに、気がついた。
「ナル……?」
伺うように俺を呼ぶお嬢様に微笑む。
そのお顔を、強く、強く、脳裏に焼き付けて。
「バルトムント様。頼みがあります」
「聞こう」
「お嬢様をお願いします」
「……え?」
戸惑うお嬢様を差し置いて。
バルトムント様は一度目を閉じて。強く頷いてくれた。
「この命に賭けて、承った」
ああ。
この方がそこまで仰るのなら、安心だ。
「ナル……? ねぇ、ナル。どういうことかしら?」
「お嬢様。…………ううん、ミリ」
名前を呼ぶ。
ミリの瞳が揺れる。
「先に帰ってて」
「いやよ」
即答だった。
外套を掴まれる。
「あなたが行くのなら、わたくしも行くわ」
「ダメだ。もう限界じゃないか」
「ナルだって! もう、あなたを一人にはしないわ。だから」
だから、
お嬢様は悲痛な声で。
縋るように。
「ひとりにしないで……」
「……ミリ」
「……あなたが行くと言うのなら、わたくしも行く。もし死ぬつもりだとしたら、わたくしも一緒に死ぬわ」
「……!」
嬉しかった。
それだけの想いを抱いてくれているのか。
俺も同じ気持ちだ。
同じ気持ちなのだ。
だけど。
「俺は死なないよ。死ぬために行くんじゃない。生きるために行くんだ」
二人で生きて、これからを二人で幸せに過ごす。
そんな可能性に、賭けてみたくなったんだ。
「でもっ……!」
「大丈夫」
外套の留め金を外す。
するりと脱げた。
外套を掴んでいたお嬢様は、支えを失って膝をつく。
からくり仕掛けでできた俺の身体が、露わになる。
胴体と頭以外は、全てがからくりに置き換わった俺の身体を。
「な、る……?」
…………ごめんな。
こんな身体で、愛する君が受け入れてくれるかはわからないけれど。
「必ず帰る。だから待ってて」
それだけ告げて。
俺は走り出した。
背中に突き刺さる叫び声に、胸を締め付けられながらも。
迷わず俺は、再び地獄の底へと飛び込んだ。
無謀だということは分かっている。
ただ犬死にで終わるだけになるかもしれないさ。
お嬢様と逃げて、最期まで二人で過ごす選択だってできた。
脳裏に駆け巡る、もしもの選択の未来。
幻影の中の俺は間違いなく幸せだった。
そうだ。
きっと誰もが、幸せのために生きている。
自分の幸せのため、誰かの幸せのため。
俺が二人で過ごす未来を選択しなかったのは、お嬢様の幸せではなかったからだ。
お嬢様は絶対に、勇者という十字架から逃れられない。
きっと笑ってくれると思う。幸せだと言ってくれると思う。
幻影の中でお嬢様は笑顔だった。
——だけど、常に陰が付き纏う笑顔だった。
お嬢様の心からの笑顔が、俺の求めるものだ。
お嬢様の幸せが俺の幸せだ。
だから、陰のある笑顔が幻影の中で想起された瞬間、その選択肢は俺の中で完全に消えた。
これでよかったのかはわからない。
正しいとか間違っているとか、百点満点の答えを求めるものではない。
正義とか悪だとか、相対的に決まる立場の話でもない。
決意した生き方に殉じる。
これはそういう話だ。
それだけの、とても簡単でシンプルな話だ。
底に辿り着く。
乾きに似た漆黒の狂気は変わらず粘性を持って空間を満たしている。
だが、少しだけ薄れていた。少なくとも、視界を制限されないくらいには。
光と闇の激突の結果として、門の向こうの存在も無傷ではなかったのだろう。
神剣は、少し離れたところに落ちていた。
弱々しく光っている。まるで、瘴気に呑み込まれんとしているように見えた。
「俺じゃ、お前が認めてくれるかはわからないが」
神剣を拾い上げる。
特に何も変わらない。至って普通の剣だ。
弱々しい光も、変わることはない。剣が応える感覚はなかった。
やはり、勇者以外に真価を引き出せない剣なのか。
それでも、お守りとしては最上のものだ。
腰のホルダーに挿して、近くに落ちていたウルザムヘルトの剣を拾う。
門と向かい合う。
完全に開いていた。
「…………、」
門の向こうには全ての色を呑み込むような漆黒のみが広がっていた。
壁のようにも見えるし、無限に奥行きがあるようにも見える。
世界を飛び出して遥か、宇宙の果てのような深淵がそこにはあった。
「さぁ、行くか」
敢えて軽く。いつも通りの調子で。
剣をゆるりと振ってから。
「相手は魔王。対する俺は、才能なんてないただの一般人。戦う理由は、好きな人を守るため」
声に出すと、なんだかとてもおかしいことのように思えて笑ってしまう。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。
御伽噺も、小説も、吟遊詩人も、誰も知らず、誰も思い付かないような。
魔王と直接戦ったのは、ありふれた願いを持った、ありふれた人間だったなんてさ。
誰もが持つ願いだ。
誰もが持っていて、誰もが他と比べようもない願いだ。
その想いだけで、ここまで来た。
そんな想いだったから、ここまで来れた。
悪くない。
むしろ、最高の気分さ。
何としても、生きる。
生きて帰る。
全てを終わらせて、その上で生きてお嬢様の元へ帰るのだ。
俺が戦うことで、お嬢様を守ることができる。
俺が生きて帰ることで、お嬢様を笑顔にできる。
俺は一人だった。
でも、一人じゃなかった。
待ってくれる人がいるのだ。
だから、戦う。
だから、生きる。
絶対に。
心の内から、そんな無限のエネルギーが溢れ出してくるんだ。
…………なるほどな。
これが、誰かを守る戦いなのか。
駆け出す。
躊躇いなんてどこにもなかった。
走っている間、これまでの人生を思い出していた。
————何の意味もない人生だった。
その日を生きるだけで精一杯の日々。
意味もなく、理由もなく。何もわからないまま、ただ飢えを凌ぐために生きてきた。
お嬢様に出会った。
命を救われて、何を思ったのか俺を保護してくれた。
お嬢様は俺にたくさんのものを与えてくれた。
数え切れないくらいたくさんのものだ。
俺はお嬢様に恩返しがしたかった。
恋をしていた。
お嬢様とずっと一緒にいたかった。
専属執事の見習いに任命いただいた。
お嬢様の側で、お嬢様のために生きる。
とても幸せだった。
お嬢様が光の中に消えた。
生きる意味を否定された。
お嬢様に置いて行かれた。
絶望が全身を余すことなく満たして、俺は逃げた。
ルールエ。覚えている。
生きて帰ったら、顔を出さなきゃな。
彼女のお陰で、再び立ち上がれた。
お嬢様を追いかけた。
強くなるためには何でもやった。
ようやくお嬢様に追い付いた。
共に戦うことの高揚感は、何にも変え難いものだった。
お嬢様の本心を聞けた。お互いの心が繋がった気がした。
お嬢様は変わらず、俺の愛する人だった。
こんな俺でも共にいたいと言ってくれた。
そうして、今。
お嬢様を差し置いて、魔王を直接叩こうとしている。
ある意味、お嬢様を追い抜かしたと言ってもいいかもしれない。
笑った。
何だか本当に楽しくなって。
心の底から、笑った。
なんだ。
俺の人生は、やっぱり最初から最後まで。
「お嬢様を中心に回っているんだな」
そのことが誇らしかったのだ。
それでいいと心の底から自分を肯定できたのだ。
地の底を強く踏み締める。
剣を固く握る。
俺は深淵に突っ込んだ。
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