7


 ズィアードは倒した。

 これで、三柱全てを撃破したことになる。


「一人で三柱を倒したの!?」


「はい、先ほど。ウルザムヘルトと名乗った、真っ赤な騎士でした」


 目をまん丸にして驚くお嬢様に、何でもないように俺は答える。

 ……だけど、空元気なのは見抜かれていたらしい。

 心配そうな表情で、お嬢様は俺の外套をきゅっと掴む。

 大丈夫だと気持ちを込めて微笑みかけた。


 限界なんて既に超えている。

 僅かでも気を抜けば、俺はもう二度と起き上がれなくなる。

 頭はガンガン痛むかと思えば芯から広がるように眠気が襲ってくるし、全身は鉛でできているかのように重い。魔力切れからか、心臓の奥はぽっかりと穴が空いたような喪失感が常に精神を蝕んで、全てを放り出してしまいたいという衝動を呼び起こしてくる。

 でも、心で燃える炎は確かにそこにあった。

 それだけで動いていた。


 お嬢様のためなら、いくらでも無理をしよう。

 何度だって限界を超えて見せよう。

 専属執事の頃から変わらない、俺の決意。

 最期まで、その生き方を貫くだけだ。


「……ナル」


 縋るように俺の名を呼ぶお嬢様に、俺は首を横に振る。


「心配いりませんよ、お嬢様。それに、まだ終わりではありません」


「……残るは魔王のみ、か」


 バルトムント様に頷く。

 光源のない地下深くなのに、ここは薄らと光があった。空間そのものが光を放っているような、不思議な感覚だ。

 そして、この場所はどうやら廊下らしい。

 横幅が広すぎて最初は広間と勘違いしていたが、光はある一方向に向かって伸びている。


 ——その向こうから、世界を喰らい尽くそうとする呪詛は発せられていた。


 ズィアードと戦っている時は、意識しないようにしていた。

 動きが鈍ることはわかりきっていたからだ。意識を向けたくなかったとも言える。お嬢様もバルトムント様も、同じだと思う。


 こちらの正気を侵し、狂気に陥れんとする呪詛。

 それは宮殿の入り口よりも比べ物にならないほど強く、濃く。

 否が応にもその向こうに魔王がいることを意識させた。


 光の向こうに、巨きな、巨きな、門がある。

 呪詛はその隙間から漏れている。


 今にも逃げ出したい心に鞭打って、門へと向き直った。


「…………!」


 門を見て。

 

 その奥にいる存在を感じて。


 理解した。


 …………理解してしまった。


 相手は、だ。

 数多の世界を平らげ、この世界すらも腹に収めようとする、一つの世界だ。

 例えるならこの瘴気は、太陽における光。そこに在るだけで勝手に漏れ出てくる、副産物ですらないものだ。

 星に等しい莫大で膨大で巨大なエネルギー。相対するのが烏滸がましいほどの存在。


 こんなモノに…………勝てるのか?


 勝ち負けの次元じゃない。

 例えるならば、一つの星に生きる生命と、星そのもの。比べるという言葉すら出てこないほどの、存在の格の差がそこにはある。


『魔王様の御前では、どんな存在であろうと塵芥と変わらぬよ』


 ウルザムヘルトの言葉が思い起こされる。

 その通りだった。というか、当たり前だ。

 世界そのものにとって、その上で生きる生命などあまりにちっぽけなのだから————


「…………ッ!!」

 

 額から伝った汗が目に染みる。その不快感で、ようやく俺は呑まれかけていたことに気がついた。


「これは…………とんでもないな」


「……うむ。これは、絶対に解き放ってはいけないモノだ」 


 無音の空間は、狂気を加速させる気がした。

 堪らずに声に出すと、バルトムント様が追従する。

 この人でさえ、俺と同じ気分だったのだろうか。


「…………、」


 お嬢様は俺たちの言葉にも無言だった。

 思い詰めたような顔をしている。


「お嬢様」


「……っ、何かしら?」


「大丈夫ですか?」


「何を言っているの。もちろん、大丈夫だわ」


 …………、


「あとは魔王だけよ。ほら、パッと倒して、帰りましょう?」


「…………、」


「……わ、わたくしは大丈夫だから、ね?」


 お嬢様が、俺の外套の裾をぎゅっと掴む。

 白く細い手は小刻みに震えていた。


「……お嬢様」


「だ、だから…………」


 悪い夢を見た子供のように。

 お嬢様は俺にしがみつく。


「少しだけ……、こうさせて…………」

 

「……はい」


 …………この時ばかりは、からくり仕掛けの身体を恨めしく思った。

 血の通らない冷たい金属の手では、お嬢様を安心させることはできないから。


 どれだけの重みが、勇者としてこの場に在るお嬢様に伸し掛かっているのか、俺にはわからない。

 だけど、ほんの少しでも、俺にもそれを背負わせてほしい。

 華奢な身体の暖かさを感じながら、願う。


「……ねえ、ナル」


「はい」


「ここから逃げ出したいって言ったら…………怒る?」


「怒りません」


 即答したからか、お嬢様は顔を上げて俺を見つめる。

 今までよりもずっと近い距離。金の瞳が不安げに揺れている。


「どうして? 勇者なのよ、わたくしは」


「勇者以前に、ミリは俺の大切な人だから」


 敬語が抜けた。

 専属執事の仮面が剥がれ、ありのままの自分が顔を出す。

 きっと、お嬢様の知らない自分だ。


 スラムで拾われて、ペットとなり、専属執事となり。

 お嬢様と別れて、全てから逃げ出して燻り。

 それから、生きる意味を定めて立ち上がって。

 命を賭して走り続けてきた三年間の俺だ。


 ここにいるのは、荒っぽく泥臭く、常に生傷と共にありながら。

 好きな人のためにこの人生を使うと決めた、ただの一人の男だ。


「勇者かどうかなんて、どうでもいいさ」


 憤りさえあった。

 ここまでの旅路で、勇者という記号でしかお嬢様を見ていない人々に。


 奇跡とは起こすものだ。

 救いとは自らの手で掴むものだ。

 それを勘違いして、ただ座して希望を待ち、思い通りにならなければ憤慨する。原因を勇者に向ける。


 ————てめえらの怠慢を、お嬢様のせいにするんじゃねえ!!!!


 何度、そう怒鳴りかけたことか。拳を握り締めたことか。

 乞食よりなお悪い。彼らは恵みを待ちはするが、恵まれなかったことに怒りはしない。

 恵まれないことに対して怒りを向ける。それがどれだけ愚かしいか、醜いか。


 …………そして、優しく慈悲深いお嬢様は、その醜悪で心ない人々に、沢山傷つけられたのだろう。


「世界なんて、別にどうでもいい」


 勇者に選ばれたからって、魔王と戦わなければならない道理がどこにある。

 勇者に選ばれたからって、人々を救わなければならない道理がどこにある。


「……!」


より、ミリが笑顔でいる方がよっぽど大事だ」


「え、あ…………」


 お嬢様の頬に朱が差した。

 確かに、大分恥ずかしいことを言っているな、俺。

 まあいいか。

 三年間溜め込んできた想いは、一度口を開けば中々止まるものではなかった。


「逃げ出したいなら、逃げ出そう。どこか遠い所で、二人でゆっくり暮らそう」


 バルトムント様が肩を震わせて無言で笑ったのを横目に見た。

 仲間外れにしてすみません。と謝意を込めて目線を向けると、気にするなと雑に手を振ってくる。

 この人は、どんなことがあっても国に戻るだろう。そんな確信があったのだ。

 バルトムント様の仕草は、それが正しいという返答だった。

 アジム様とエミラ様は…………どうだったのだろう? 


「海の見える丘に住んでさ。畑を作って、牛を飼って。夜は満天の星を見上げて過ごすんだ」


 世界の流れから離れて、静かに二人で終わりまで生きる。

 それは、とても素敵な日々のように思えた。

 この世界は滅んでしまうけれど。

 残された刻限を、そんな幸せに浸ることは、悪いことなのだろうか。


「…………うん、いいわ。すごく、いい。きっと、とてもとても幸せだと思うわ」


 だって、とお嬢様が熱に浮かされたような顔で続ける。


「あなたと一緒だもの。あなたと一緒なら、わたくしはどこでも幸せだわ」


「俺も。ミリと一緒なら、それだけで幸せだ」


 お嬢様は微笑んだ。

 あんまりに綺麗な笑顔だったから、顔が火照っていくのがわかる。


「お屋敷の日々から解放されて、勇者の責務も捨てて…………。もしそうなっても、あなたはいてくれるのね。もう、わたくしの専属執事でもないのに」


「ずっと側にいるよ。専属執事じゃないから、名前も呼べる。本当は、ずっとミリって呼びたかった」


「嬉しい」


 ずっと言いたくて、だけど言えなかった。そんな心の深い部分が触れ合う。


 お嬢様は幸せそうに笑う。とても綺麗だ。

 甘えるように俺にぎゅうと抱き着いてくる。心臓が跳ねる。


 想いが通じたような、今も体温を通して通じ合っているような、不思議な感覚がする。

 それはとても心地よくて、照れ臭くて…………なぜだか泣きそうになるくらい切ない。


 こんなにも愛おしいのに、好きの二文字が言えなかった。その言葉を口に出すことが怖かった。

 永くはないこの命は、愛する人を縛り付けるものではないから。


 時間が止まればいいとさえ思う。

 この、一瞬にも思える刹那が、永遠となってくれれば。


 離れたくない。そう願えば願うほど、時間は過ぎ去って。


 …………お嬢様は俺の胸に耳を当てて、満足そうに言う。


「ありがとう。もう、わたくしは大丈夫よ」


「なら、良かった」


 俺は大丈夫じゃない。もっともっとミリを感じていたい。

 それでも君が大丈夫と言うのならば、離れよう。

 口に出したのは、そんな強がりだった。

 

 お嬢様は俺から離れ、禍々しき門に向けて踏み出す。

 俺も並ぼうとすると、目の前に左腕が伸びてくる。

 お嬢様の腕だ。


「わたくしに任せて」


「……でも」


「大丈夫。あなたがいるだけで、わたくしは頑張れるから」


 優しく諭すような口調。

 別れた日と同じ、聞き分けの悪い俺を言い聞かせるように。


「わたくしの——勇者の役目は、魔王を倒すことじゃなくて、封印すること」


 お嬢様が、白く輝く剣を地面に刺す。【アルマス・グラム】。勇者の証とされる神剣は、お嬢様の意志に応えるように、更に強く輝く。


「かなり封印が弱くなっているけど……やってみせる」


 呟いて、お嬢様は神剣に魔力を込め始めた。


「ッ……!」


 凄まじい魔力だ。思わず息を呑む。

 神剣の輝きが強まる。

 世界に等しいエネルギーに対抗するかのように、神剣に込められる魔力が加速度的に肥大化していく。

 お嬢様を媒介に、この世界の魔力を神剣に流し込んでいる。そんな様子だ。


「……これが、世界に愛された勇者の力か」


 バルトムント様が感じ入ったように独りごちる。

 神剣の輝きは、地の底全てを照らすほどに強くなっていた。


 その光は、温かみを持って俺たちをも包む。

 あるいは、母の腕に抱かれたとしたらこんな安心感を得るのかもしれない。

 全てを愛し、慈しむこの星の輝き。

 門から放たれる狂気は、いつの間にか薄れていた。


 ————しかし、門の向こうにいる存在からすれば、それは不快で仕方なかったらしい。


「ッ!?」


 鳴動。

 門の入り口が大きく震えた。

 僅かに開いた扉の隙間より、漆黒よりなお昏い深淵が覗く。

 風船に穴を開けたように深淵から闇が溢れ出て、輝きを押し戻す。


「————ぐッ!!」


「お嬢様!!」


「だい……じょうぶ!!」


 苦しげに呻いたお嬢様は、されど気丈に闇を見返す。

 俺の知覚できない領域で、勇者と魔王が戦っているのだ。

 そこに介入できないのが恨めしい。何かをしたいのにどうすればいいかわからない歯痒さと焦燥感は、覚えのあるものだった。


 …………だけど、昔のような無力な俺ではない。お嬢様は、ミリは側にいる。そして、ミリが「任せて」と言ったのだ。

 だとしたら、俺にできることは一つ。

 ミリを信じる。

 それだけだ。


 光と闇は拮抗していた。

 闇が濃くなれば、光は更に輝き。

 光が密度を増せば、闇はより溢れてくる。

 お互いの力は、せせらぎが激流と変じるように強くなっていった。


 あまりの魔力の濃さに、物質化を起こしたのか魔力がどろりとした粘性を持って空間を満たす。

 とうに視覚は使い物にならなくなっていた。鼻先すら見えないほどの光が視界を埋め尽くしていて、瞳を閉じてなお網膜に白が刺さる。


 巨大なエネルギー二つがぶつかり合う轟音に、耳もほとんど聞こえなくなっていた。 

 何も聞こえず、何も見えず。それでも戦っていることだけはわかる。

 勝ってほしい気持ちはあったけれど、無事でいてほしい気持ちの方がずっと強かった。


「どうか。どうか、無事で…………!!」


 ————そんな、祈りにも似た願いは虚しく。


「ぅ、ぁ…………」


 ミリの弱々しい声が、轟音の隙間に混ざって。

 視界が、闇に覆われた。

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