6
『GRYYYYYYYYYYYYYYY!!』
三度目の咆哮は上から聞こえた。
心の脆い部分を搔き乱すような、恐ろしい声だ。
身が竦んでしまえば最後、その巨体で押し潰されるか、人の腕ほどもある爪や牙が身体を貫くだろう。
ウルザムヘルトに続く死線。
死闘の直後で、身体は回復していない。
正直、今すぐにだって眠りに落ちそうなほど疲れている。
元々少ない血を流しすぎたせいか、ちょっとでも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうだ。
お世辞にも万全とは言い難かった。
むしろ、絶不調とも言っていい。
だけど…………なんだろうな。
負ける気がしない。
失われていくだけだった身体に、新たなエネルギーが満たされているような、
とん、とお嬢様の身体を優しく押す。
その勢いを利用してお互いにその場から飛びすさり。
直後、その場所にズィアードが落ちてきた。
その双頭が見据えたのは——俺。
血のように赤い四つの瞳がたなびく。全身の毛が逆立つほどの殺気を迸らせて、双頭の狼は俺に飛びかかる。
だが——当たらない。
いつの間にか再生していた前脚をいなし。
二つの頭による噛みつきは飛び散る唾液さえ躱し切り。
別の生き物のようにのたくる尾の一撃を受け流す。
そうして、一歩踏み出した。
背後を黒光りする爪が通り過ぎる。
目の前にはずらりと並んだ牙が待ち構えていた。飛び越えるように高く飛ぶと、丁度いい位置に右頭の右目があった。
「——ナル!」
気づいているさ。大丈夫。
俺の後ろから串刺しにするように迫り来る尾。
剣を合わせる。
剣身の上を滑る尾を、剣をレールのように使って誘導。
目的地は、奴の右頭の右目だ。
『GRYYYYYYAAAAAA!??』
成功。
自分で自分を突き刺す構図になったズィアードは、訳がわからないといった様子で暴れ回る。
所詮獣ということか。
ウルザムヘルトの凄まじい技量の乗った剣技に比べれば、ズィアードの本能に従った猛攻は遥かに御し易い。
速度があっても、対処は可能だった。
あの死闘があったからこそ、俺の技量も二つ三つと高みに上ったのだ。
「……なんと」
「すごいわ……!」
バルトムント様とお嬢様の感嘆が耳に入る。
……俺、強くなったんだな。
今更だけど、そんなことを実感した。
着地。
嬉しさでにやけそうになる顔を抑えて、二人に聞く。
「お嬢様、バルトムント様。こいつはどうやったら倒せますか?」
「すまない、わからない。……が、片方の首を落とすだけではダメだった。少なくとも、両の頭を同時に落とす必要がありそうだ」
「わかりました。俺が引きつけます。二人で奴の首をお願いします」
「あいわかった。……しかし、君は」
バルトムント様が何かを言いたげにこちらを見る。
その目の奥に、かつての俺が映っているような気がした。
覚えていた。もしくは思い出したか。だから、俺は素直に頭を下げる。
「お久しぶりです。あの時はお見苦しい真似をすみません」
「いや、構わないさ。……いつか、また会うような気がしていたよ」
「光栄です。……お嬢様を守っていただいてありがとうございます」
「君の役目だったのだろう。一時的に変わっただけに過ぎないさ」
「もう。わたくしは守られるだけは嫌だわ」
笑いながらのバルトムント様の言葉に、ちょっと拗ねたような声音でお嬢様が口を挟む。
お嬢様は強い。
昔からずっと、俺が守られてばかりだった。
だから今度は、俺が守る番だ…………なんて思っていたけれど。
「三人で、奴を倒しましょう」
「ええ!」
「うむ!」
俺の言葉は、最適だったのだろう。
お嬢様が花が咲くように笑う。バルトムント様が力強く頷く。
「行くわよ。わたくしだって戦えますわ」
白く輝く剣を握って、お嬢様が前に出る。
凛々しいお姿だ。思わず見惚れてしまう。
「……サポートは自分が担当しよう。君も行くといい」
バルトムント様に背中を押され、俺も前に出る。
お嬢様の後ろではなく、お嬢様の隣へ。
ずっと立ちたくて、だけど心のどこかで諦めていた場所だった。
今でさえ相応しいとは思えなかったけれど。
こちらを見て嬉しそうに微笑むお嬢様を見て、これでいいのだと悟った。
『GRRRRRRR…………』
ズィアードの唸り声。
警戒しているのか、離れた場所でこちらを伺っている。
突き刺さった尾は抜けており、右目も既に完治していた。
厄介な再生能力だ。
……だけどやっぱり、微塵も不安を感じない。
「【顕現:雷竜鞭】」
お嬢様の声。
魔力の乗った、力ある言葉。
白く輝く剣から、帯電する光が伸びた。
神剣【アルマス・グラム】。道理を超越した勇者の剣。
手足の延長のように、お嬢様はそれを振るった。
しなりながら向かう光を、ズィアードは跳んで避けた。
その着地点に向かう俺を、双頭が睨みつけてくる。
『GAAAAAAAA!!』
地面が光る————
魔術陣の光。
ズィアードの着地点の周囲に、夥しいほどの魔術陣が展開される。
咄嗟に足を止めると、魔術陣の光った場所の空間が削り取られた。
「ッ!」
巻き込まれれば無事では済まなかった。
着地に生じる一瞬の隙を埋めるだけに使ってくるとは。
生憎と俺は魔術は使えない。禁術の代償として、その機能を捧げたのだ。
だから、遠距離の攻撃手段が少ないことが弱みではある。
「【顕現:竜牙】」
だけど、鈴のような声が俺の弱みをカバーしてくれる。
ズィアードの胴と左首の付け根から、何か巨大なもので噛まれたように赤黒い瘴気が吹き出した。
「っ、やっぱり魔術は通りづらいわね……」
「いいえ。充分です」
悔しそうなお嬢様の呟きのとおり、傷は浅い。
見上げるほどのあの巨体からすれば、軽い切り傷だろう。
だが、無視できるほどではなかったらしい。不快そうに身動ぎしたズィアードの懐に俺は一気に潜り込んだ。
左首の付け根、お嬢様のつけた切り傷に一閃。
『GRYYYYYYYYYAAAAA!??』
剣は半ばまで食い込んだが、切断までには至らない。
巨体相応に太い首だ。単純にリーチの不足である。
だが、問題ない。
「ぬうううううううううん!!!」
年を重ねているとは思えないほど軽い動きで高く跳んでいたバルトムント様が、俺たちの付けた傷の上に落ちてきたからだ。
上と下。両側から斬撃を叩き込まれた左首は、あっさりと落ちた。
サポートとか言いながら、思いっきり前に出ているじゃないですか。
思いつつも、俺は笑う。何とも頼もしいサポートである。
冷静沈着かと思えば、意外と血気盛んなお方らしい。
『GRRRRRRRRRRRRRRRRAAAAAAA!!』
悲痛な叫び声をあげたズィアードは、その場から距離を取ろうとする。
グロテスクな断面は、既に瘴気に覆われていた。既に再生が始まっているようだ。
時間を稼ごうという腹か。
「もう逃がさないわ!」
ズィアードの背後に回り込んでいたお嬢様が、後ろ足に神剣を振るう。
凄まじきは神剣の切れ味かお嬢様の技量か、バターにナイフを入れたようにあっさりと後ろ足は切断される。
ガクンとバランスを崩した巨体。
好機————
『GRRRRRYYYYYYYYYYYYYYYYY!!』
咆哮と共に、再びの魔術展開。
巨体の周囲に隙間なく張り巡らされた魔術陣。
カウンター気味に展開されたそれら。バルトムント様が慌てて下がるのを尻目に。
「同じ手は——」
「——効かないわよ!!」
俺とお嬢様は、逆にズィアードに突っ込んだ。
目指すは、その巨体の下——自身を巻き込む覚悟すらない臆病狼の作った、唯一の安全圏。
見上げれば、隙だらけの首が高くにあった。
跳ぶ。
身体を回転。
必要なのは、威力だけ。
ただそれだけを追い求めろ。
さぁ、ブチ抜け————!!
「らあああああああああああああああァッッ!!!」
回転と上昇のエネルギー全てを、目の前の太い首に叩き込んだ。
斬撃の炸裂。斬ったというよりは、破壊したという手応えが残る。
ズィアードの頭部が爆発したように吹き飛んで、発動中の自身の魔術に潰されて消滅。
両の頭、撃破。
——だが、瘴気は止まらない。
まだ生きているらしい。大した生命力だ。
慌てる必要はない。むしろ、もう終わっている。
下で、お嬢様が白く輝く剣を振り上げていたからだ。
「【顕現:天剣エア】ッッ!!」
神剣が伸びる。伸びて伸びてこの広間いっぱいまで長くなる。
それが振り上げられたのだ。
ズィアードは真っ二つになった。
瘴気は————止まらない。
「ッ……! これでもダメなの!?」
焦ったように声をあげるお嬢様に、俺は答えた。
「いいえ。もう死んだようです」
ズィアードだった巨体が、瘴気となって宙に溶けていた。
瘴気で作られていた肉体が、本体の死によって維持できなくなったのだ。
まぁ、あくまで予想だが。
とはいえ、死んだのは間違いないだろう。肌がひりつくような、獰猛な殺気が消えている。
両の首を獲り、胴体を真っ二つにする。倒すまでにここまでしなければならないとは、さすがは三柱と言ったところか。
俺一人だと厳しかっただろう。
お嬢様とバルトムント様だけでも、難しかったと思う。
三人いたからこその勝利だ。
「ナル!」
着地した俺に、笑顔いっぱいのお嬢様が駆け寄ってくる。
片手を上げたお嬢様に、剣を地面に突き刺してから俺も右手を上げて。
「勝ちましたね」
「ええ!」
ぱちん、と軽快な音が鳴った。
*
「…………ああ」
ずっと、一人で戦ってきた。
思い返せば、あれが最初で最後の誰かと力を合わせて戦う機会だった。
楽しかった。
お嬢様の意図が手に取るようにわかる。
お嬢様も俺の意図を汲んで動いてくれる。
バルトムント様が好き勝手動き回る俺たちを的確にサポートしてくれる。
その一体感は、言葉にできない高揚を齎してくれた。
勝利した時の心に染み込んで広がる達成感は、今まで感じたことがないものだった。
もっと、早く追いつければ。
五人で喋る炎とやらと戦っていれば。
アジム様とエミラ様も、死ぬことはなかったかもしれない。
バルトムント様も、どこかで左腕を失うことはなかったかもしれない。
ただの仮定だ。
後悔したくないと死に物狂いで駆け抜けてきたけれど。
結局、後悔しない日はなかった。
何が正しくて、何が間違っているとか、そんな話ではなく。
…………もっと良い結末が、あったんじゃないか?
何かが終わるたび、そう考えてしまうのだ。
そんな瞬間の連続だ。
人生とは、そういうものなのかもしれない。
理想の結末を目指して、足掻いて。
結末を迎えた景色を眺めて、辿った足跡を振り返って。
より良い道が、結末があったのではないかと過去を憂う。
「…………、」
ぎぎ、と右腕が歪な音を立てる。
少し身体を捩ると、摩耗が限界だったのかあっさりと右腕が落ちる。
痛みはない。
とっくに、右腕なんて残っていなかったからだ。
身体のほとんどが、からくり仕掛けで動いている。
…………そして、それも止まりつつある。
捻ったゼンマイが、ゆっくりと回りながら最後には停止するように。
「……お嬢様、には…………悪いことを、した、なぁ」
舌も上手く回らない。
ずるずると引きずり込まれるように意識が落ちていく。
身体はもうピクリとも動かない。
青空は落ちる瞼に覆い隠されて。
暗闇の向こうに、最後の記憶が蘇ってきた。
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