5
漆黒の宮殿。
その門は開け放たれていた。
魔物の影はなく、奥にぼんやりと下りの階段が見える。
薄暗く、見通しが悪いのは、天候が理由ではないだろう。
あまりに濃厚な死の気配があった。
入れば二度と、出ることができない————そんな根源的な恐怖を掻き立てられる。
「お嬢様…………!!」
関係なかった。
むしろ、お嬢様がこの先にいるかと思うと、足は逸った。
万人が躊躇うであろう宮殿の敷居を跨ぐ。
生と死の境界線に足を踏み入れた感覚と共に。
「ッ!!」
この世の全ての負を詰め込んでも尚、足りないほどの悍ましくて禍々しい気配。
渇き…………だろうか? どれだけ世界を喰らおうとも満たされない。それでも、喰らわずにはいられない————そんな呪詛染みた衝動が、地下から這い上がるように世界を蝕んでいる。
気の弱い者ならば、この場にいるだけで精神を壊してしまうだろう。
この世のモノとは思えない理解も理屈も飛び越えた気持ち悪さには、決意を持っている俺をして足を竦ませた。
「ぅ、ぐ…………!」
怖い。
逃げたい。
行きたくない。
旅立ちの時から封じ込めていた、弱気な俺が顔を出す。
何もかもから逃げ続け、諦めたフリをして全てから目を逸らしていたドブネズミの頃。
『ナルさんは、本当はどうしたいのですか?』
あの時、真っ直ぐにそう聞いてくれた人がいた。
ルールエ、だったか。
彼女のお陰で、俺は大切なことを思い出した。
あの日定めた、俺の生きる意味。
意味は幹となり、俺の中で揺るぎないものとして、どんな時でも支え続けてくれた。
そうだ。思い出せ。
俺は、何を決めたんだ?
「俺は————お嬢様を側で支え続け、お嬢様を幸せにするんだ……!!」
口に出すと、俺を止めていた楔はとても簡単に外れ。
一歩、二歩。地獄の底へと踏み出す足に意志が宿る。
歩みは駆け足になり。駆け足はダッシュになり。
俺は地下へと飛び込んだ。
螺旋のように地下へ地下へ続く階段を、壁を蹴りながら下へと降りていく。
律儀に駆け降りるには時間が惜しかった。降りるよりは落ちるが近く、階段ではなく壁を蹴って三次元的に落ちていった。
地下に落ちるにつれ、強まる気配にも躊躇わなかった。
爆発音がする。
何かの雄叫びが聞こえる。
落ちた先に見える無機質な光の中で、誰かが戦っていた。
「あれは……!」
二つ首の巨大な狼——あれがズィアードだろう——の攻撃を、何とかといった様子で防ぐ二人。
いや、バランスが崩れた。家ほどもある大きさの狼だが、その巨体に見合わぬ速度がある。それに対応しきれていない。
ズィアードが前脚を振り上げる。
その先には、清廉とした老騎士と、ずっと探し求めていた女の子——
前脚の筋肉が盛り上がる。
女の子がぎゅっと目を瞑る。
老騎士が女の子を庇う動きを見せる。
その全てがスローモーションに見えて。
「ああああああああああああああああああああああ!!」
落下の勢いを斬撃にして、余す所なくズィアードの前脚にぶつけた。
硬い筋肉の抵抗にも構うことなく振り切って、前脚を斬り飛ばす。
『GRYYYYYYYYYY!??』
訳がわからないといった様子で叫ぶ狼を尻目に。
俺は狼に背を向けて。
ずっとずっと会いたかった人を、この瞳に収めた。
……どのくらいぶりだろう?
俺はからくり仕掛けの身体を隠すため、外套で全身を覆っている。
けれど今は、ボロ布と大差ない。服も似たようなものだ。
髪は伸び、髭も少し生えてきた。顔立ちも変わっただろう。傷も大量にある。
専属執事として、身綺麗な格好をしていた当時とはかけ離れている。
ある程度清潔にするよう心がけてはいるものの、全体として浮浪者とそう変わりはない。
今更ながら、こんな格好で再会したことにちょっとだけ後悔する。
お嬢様は……少しだけ背が伸びた。
赤の戦装束はここまでの激戦を想起させるように何度も縫い直した跡があり、それでも所々が破れている。
輝くような金の髪は肩口ほどの長さで、後ろで一つにまとめていた。
見るもの全てを惹きつける凛々しくも愛らしい顔つきは健在なものの、目に見えてやつれてしまっている。
とても、とても、過酷な旅路だったのだろう。目元の深い隈を見て、心が締め付けられたように痛む。
「君は…………?」
老騎士——バルトムント様が、驚いたように目を開きながらも俺に向けて誰何を飛ばす。
その左肩は巨大な手で握り潰されたようにひしゃげていた。
前に一度だけお会いした時より、何十歳も年老いて見える。
それだけの苦難があっても、お嬢様を支え続けてくれたのだ。
本当に、感謝の気持ちで一杯だ。
もちろん、アジム様とエミラ様。墓石での再会となった二人も。
バルトムント様とは昔に一度会っただけだし、俺のことをわからなくても仕方がない。
もしかしたら、お嬢様も俺だと気づかないかもしれないな。
少しだけ寂しいが、それでも構わない。
ぎゅっと目をつぶっていたお嬢様が、ゆっくりと目を開ける。
「…………え、あ?」
何も起きていないことに驚いたように金の瞳を彷徨わせて————
————目が、合った。
緊張の一瞬。
お嬢様の瞳孔が大きく開いて。
「ナ、ル?」
…………ああ。お嬢様。
「……こんな姿でも、おわかりになるのですね」
「わたくしが、あなたをわからないはずないじゃない……!」
「……そう、ですか」
嬉しかった。
嬉しすぎて、感情がついてこなかった。平坦な返事になってしまう。
「どうして……」
俺の半ばで途切れた左腕を見て、傷だらけの俺の顔を見て。
ウルザムヘルトとの死闘でボロボロになった全身を見て。
痛ましげに目尻を伏せたお嬢様は。
「どうして来てしまったのよ……!! 待っててって、言ったじゃない!」
泣いていた。
瞳いっぱいに涙を溜めて。止めどなく溢れる透明な雫を拭うこともせず。
魂すら振るわせるような声で、嘆く。
「あなただけは…………巻き込みたくなかったのに…………!!」
……それが、お嬢様の本音。
ああ、わかっていた。
きっと、最初から。お館様伝いでお嬢様の伝言を伝えられた時から、わかっていた。
……もし、逆の立場だったとしたら。
俺が勇者に選ばれたとしたら。
お嬢様に嫌われてでも、旅に巻き込む事を拒絶しただろうから。
「ミリ」
ずっと呼べずに。
だけどずっと呼びたかった名前は、すらりと言えた。
お嬢様は弾かれたように顔を上げる。
今だけは、お嬢様のペットでも、専属執事でもなく。
ただ一人の、君のことが好きな男として、言わせてほしいんだ。
「俺はね、今この瞬間が、すごく幸せなんだ。だって、君にまた会えたから」
ここまでの旅路を思い出す。
楽な道は一つとしてなかった。
何度も死にかけて、心が折れそうになって。
倒れたら立ち上がった。時には這ってでも進んだ。
「そりゃあ、大変なことの方が多かったさ」
辛い思いも、苦しい思いも、痛い思いも、いっぱいしてきた。
「それでも、やめようとは思わなかったよ」
なぜなら。
「君にまた会いたかったから」
「……!」
「君の側で、君を守りたかった。ずっと、それだけを願ってきたんだ」
ミリは、ただ俺の言葉を聞いていた。
涙は止まっていない。むしろ、どんどん溢れ出ていた。
困ったな、俺はミリを、泣かせたいわけじゃないのに。
「だから俺は今、すごく幸せなんだ。屋敷で待っていたら、こんな幸せ、絶対に得られなかったよ」
おかしいな。声が震えている。
頬に何かが伝う。
目の奥がツンとして、お嬢様がぼやける。
そうか。
俺も、泣いているのか。
「……ナル」
ミリは、ふらりと立ち上がった。
俺の元まで、ゆっくりと歩いて。
「…………ずっと、ずっと……会いたかったわ…………!!」
その華奢な身体を、倒れ込むようにして俺に預けた。
残っていた右腕をお嬢様の背中に回すと、ミリは頭を俺の胸に押し付ける。
華奢な両腕で、痛いくらいの力で抱きしめてくれた。
「ごめんね。…………それと、ありがとう…………ナル……」
「いいんだ。ここまで、よく頑張ったね」
「うん……!」
小さくて、暖かい。恐怖も悲しみも痛みも期待も何もかもを背負って、ここまで歩いてきたのだ。
勇者なんて、ただのレッテル。本当は、強がりで不器用で、だけど誰よりも優しくて頑張り屋の、一人の女の子。
それがミリだ。
そんなミリだから、側で守りたいと願ってきたんだ。
これまでも。
これからも。
『GRYYYYYYY!!』
咆哮が聞こえた。
もう少し待ってくれてもいいものを。
そう思いながら、俺とミリはどちらともなく離れる。
目が合う。彼女のちょっと不満そうな顔に、同じことを考えているとわかって。
「ふふ」
「ははっ」
二人して笑った。
なんだかくすぐったい気持ちだ。
好きな人と心が通じ合うって、こんなにも嬉しいことなのか。
「さて、お嬢様。私は今から、あの空気を読めぬ犬に躾をして参ります」
戯けたように言うと、お嬢様はクスリと笑う。
「そうね。わたくしも手伝うわ。共に戦いましょう」
共に————。
胸が熱くなる。
そうだ。もう、置いていかれることはない。
あの頃の続きのように。
「はい。お嬢様」
さあ、行こう。
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