4
「ゴホッ……」
喉から込み上げてくるものがあって、俺は咽せた。
脇の地面に、血の混じった唾が落ちる。
全身と世界の境界が曖昧だ。
段々と、その境がわからなくなってきていた。
背中の墓石の感覚さえ薄れていく。
自分が今座っているのかさえ、わからなくなってくる。
「随分と、無理したからなぁ……」
強くなるためには、何でもやった。
血反吐を吐きながら、目指す場所をひたすら追いかけていた。
死にかけた回数なんてもう覚えていない。
もう駄目だと思うたびに、光の中に消えるお嬢様の寂しげな笑みが過った。
別れを告げた時のお嬢様の声が脳裏に聞こえてきた。
——俺は、ここで死ぬわけにはいかない。
爆発するように湧き上がったその想いだけで、俺は生き抜いてきたんだ。
限界があったら、それをブチ抜いて。
どうしようもなくなったら、邪法や禁術を使ってでも何とかして。
代償も反動も気にならなかった。
そんなことより、もっと大事なことがあったからだ。
「ミリ……」
少しずつ、少しずつ、目に見える世界が薄れてくる。
瞼が勝手に下がってきた。
ずっと眠いのだ。心で激しく燃える炎を燃料に動いていた身体は段々と言うことを聞かなくなり、代わりに大海に身を委ねるような眠気が強くなっていく。
呑まれたら最期だと、不思議な確信があった。
大海の底に沈んで、俺はきっと浮かび上がって来れない。
力の代償という名の足枷が、俺を深海の底に留めて離さなくなるのだ。
だけど、もういいのかもな。
そんなことを思った。
だからきっと、これは最期に見る夢のようなものだろう。
立ち止まったり、転んだりしながらも、ただ一つを追いかけた一人の男の追憶。
ドブネズミが、勇者になる。
そんな物語。
*
お嬢様に追いつくために旅に出た俺は。
自分の命をベットして、対価として強さを身につける日々が続いた。
彼女の足跡をひたすら追いかけて、その旅路の過酷さを知った。
『古の魔の王。封が弱まり、人の世は陰る。アヴェリアの長子、14歳にして抗う者としての資格を得る』
古の魔の王を封じている何かが弱まることで、魔物が活発化していたのだ。
魔物に襲われている街があった。
既に滅びている街もあった。
言葉にすれば単純だけど。
実際に目にした光景は、筆舌に尽くし難い。
死体が並ぶ大通り。
子供を抱きしめて守ろうとした母ごと、貫いた石柱。
崩れ落ちた建物の下に見える、何かを掴み取ろうとした腕。
滅びて跡形もない街の、あの希望も絶望もない静寂は、心の脆い部分を抉り取ってくる。
何もできない無常感。全てが無駄だと嘲笑われているような、心の隙間から黒いインクのように広がる虚無感。
あの光景は、人を狂わせる劇薬だ。
心を理性の鎖で雁字搦めにしても尚、そう何度も見られるものではない。
優しいお嬢様がこんな光景を見たと思うと、胸を掻き毟りたくなる。
早く、早く。
ただ強くなる焦りに、歯痒さを感じながらも。
旅足を早め、襲い掛かる魔物を修行と称して斬り捨て続ける。
そんな旅路を続けて、三年は経った。
途中、墓があった。
【勇者を支え続けた偉大なる冒険者アジム 此処に眠る】
【勇者を支え続けた偉大なる魔術師エミラ 此処に眠る】
…………きっと、あの時。
俺が無様にもお嬢様に倒された時。
お嬢様とバルトムント様の後ろにいた二人だろう。
辿り着いた街の中央にそれはあった。
「……街が、魔物に襲われたんだ」
沈痛な顔で、呼び止めた騎士は話してくれた。
「勇者様方が、ほとんど食い止めてくれて……。何とかなるって、思ったんだ。このままなら大丈夫だって、思ったんだ」
「……何が、あったんだ?」
「………………喋る炎が、現れた」
未だに恐怖が残っているのか。
震える声で、左手で右手首をさすりながら、騎士は語る。
「三柱と名乗っていた。一瞬で離れた場所が燃えて、人がいたのに何も残ってなくて、アジム様もエミラ様も燃えッ、燃えて…………、の、残って、なかった、んだ。勇者様が何とか、倒してくれたけどっ……、すまない。まだ、その時の…………!」
「いい。もういい。わかったから。無理するな」
「すっ、すまない……」
「最後に一つだけ。それはいつのことだ?」
「ちょうど、一週間前だ……」
「貴重な情報だ。ありがとう」
俺は騎士の肩をポンと叩いて、銀貨を握らせた。
無理をさせてしまった、せめてものお詫びだ。
騎士は銀貨を見て目を白黒させてから、ハッと気づいたように慌てて聞いてくる。
「あ、あんた、旅人だろ? どこに向かっているんだ?」
「どこって、そうだな…………勇者様の隣?」
「や、やめておけ! あんなッ、あんな化け物がまだ二体もいるんだぞ! 勇者様に任せておくべきだ!」
「勇者様に任せておく……ね。悪いが、それはできないな」
「な、なぜッ……!?」
——この旅を通して、色々な人に出会った。
村を守ってくれた勇者に感謝しながらも、生活もままならず生きることを諦めた老人。
町が滅びたのは勇者のせいだと罵る若者。
勇者様がお母さんの仇を討ってくれたと泣きながらも言う子供。
娘が死んだのは勇者が来るのが遅れたせいだと勇者を恨む父。
お嬢様が辿ってきた旅路は、決して明るいものではなかった。
新聞で飾られた栄光の裏に、いくつもの絶望があった。
もしかしたら、その栄光でさえも虚飾で上塗りされたものであったのかもしれない。
一つ一つの旅路を追うたびに、お嬢様の心が断片的にでも伝わってきて。
取り残された俺が感じていたものよりも、ずっと大きい絶望とお嬢様は戦ってきたのだ。
だから——、
なぜか。なんて。
考えるまでもない。
「守りたいからさ」
それだけ告げて。
俺は騎士の脇を通り過ぎた。
そうして、二つの墓石の前に立って。
ふぅ、と一つ息を吐いた。
ほとんど、知らない二人だ。
だけど、お嬢様を通じての知り合いでもある。
言いたいことは決まっていた。
さて、どう前置こうか——。
一瞬だけそんなことを考えたけれど。
口を開けば言葉は勝手に出てきた。
「……あの人、不器用だろ? 普段は胸張って偉そうにして何でもないように振る舞う癖に、ちょっと目を離すと一人で落ち込んでたりするんだ。なのに言葉だけ平気なフリとかしてさ、全然隠せてないってんだよな。すごく頑張り屋でさ、でもたまにおっちょこちょいで不器用で、多分あんたらには一杯迷惑をかけたんじゃないか?」
勝手に俺を置いて行ったお嬢様だ。このくらいは言っても許されるだろうよ。
きっと、そんな姿ばっかり見せてきたはずだ。
これでも元専属執事だ。推測は容易だった。
まぁ、そんな人だから、どこか放って置けないんだよ。
それもまた、お嬢様の魅力なのかもしれない。
……気のせいだろうか。
青い髪の男と、紫色のローブを着た女が、苦笑いして頷くイメージが浮かぶ。
彼らの想いが伝わってくる気がした。
不器用で頑張り屋で、誰よりも優しい一人の女の子の幸せを願っていた。
「お嬢様を守ってくれてありがとう。あとは任せてくれ」
深く、深く、頭を下げる。
二人の英雄に、最大限の敬意を込めて。
言いたいことは言った。
さぁ、追いつくまでもう少しだ。
行こう。
ドブネズミでも、専属執事でもなく。
一人の男として、お嬢様——ミリに会いに。
*
旅は過酷さを増した。
人里は無くなり、狂った天候と自然が行手を阻む。
古の魔の王に近づいている確信があった。
世界がその存在に恐れをなしているかのように、天候と自然は乱れ、魔物はその凶暴さを増していく。
俺は、その中心を目指すだけで良かったのだ。
雪の止まぬ凍土を抜け。
雷鳴がひっきりになしに轟く荒野を進み。
荒れ狂う風の向こうに見えた、漆黒の宮殿を目指した。
『貴様は……? 勇者の援軍にしては、見窄らしい男だ』
「まぁ、似たようなもんさ。ただの一人の男だよ」
ついに辿り着いた、災厄の中心。
漆黒の宮殿の入り口で、俺は甲冑を血の色に染めた騎士と向かい合う。
『ふ。人の皮を被った狂人の間違いだろう。その身体、既に人の身ではないな』
「あー、わかるのか。そう言うあんたは、人型だけど人間じゃなさそうだ」
くぐもった声にはどうにも抑揚がなく、伴うべき心が感じられない。
それに——この騎士を人間と言うには、気配があまりにも禍々しすぎた。
この世の全ての負を押し固めたような、相対するだけで気が触れてしまいそうな気配。
見たことはないが、そういった存在に心当たりはあった。
「三柱、だったか。あんたもその一つか?」
『如何にも。我は三柱が一、ウルザムヘルト』
「そうか。……勇者は中にいるのか?」
『今頃は、我と同じ三柱——ズィアードと戦っている頃だろう。その勝敗に、意味は無いがな』
「どういうことだ?」
『既に、魔王様の復活は止められぬからだ。魔王様の御前では、どんな存在であろうと塵芥と変わらぬよ』
封とやらが、致命的な所まで弱まってしまったのか。
勇者が間に合わなかったのか、予言した巫女の既定路線かはわからないが。
「ま、やることは変わらねえわな」
剣を抜いた。
お嬢様は、こいつを超えた先にいる。
だとしたら今更、自分の進む道に迷いなどない。
血塗られた騎士も、応じるように剣を抜いた。
『これもまた、余興ではある。だが…………受けて立とう。つぎはぎの剣士よ』
「上等……ッ!!」
自らを鼓舞するように言葉を吐き出して、ウルザムヘルトへ肉薄した。
戦いの火蓋が切られる。
剣と剣が激突した。
甲高い金属音が連続する。
交差する度に流れ星のように火花が舞い、空気に溶ける一瞬前で次の一手が差し込まれる。
絶えない火花は、炎の精が踊っているかのようだった。
『良い。良い腕だ……! よもや、人の器でこのウルザムヘルトと真っ向から渡り合えるとはな!!』
「ッ……、」
言葉を返す余裕はなかった。
嵐のように襲い掛かる、虚実入り混じった無数の斬撃を防ぐので精一杯だったからだ。
速く、重い。
一撃一撃が、攻城兵器のような威力だ。
真っ向から立ち向かうにはあまりにも無理があった。
完全に、格上の相手。
それでも、負けるわけにはいかなかった。
ここを。
ここを越えれば会えるのだ。
ずっとずっと追い求めて探し求めていた人に。
会えるのだ。
実力も技術も何もかも届かなくたって。
諦める理由にはならない。
そうさ。
もう諦めないと決めたんだ。
「負け、ねぇ————ッ!!」
『その意気やよし!!』
数えるのも飽きるほどの剣戟の果て。
魂すらも剣を振るうリソースとして戦いは続く。
剣の嵐が俺の左腕を刈り取った。
引く気はない。右腕だけでも、剣は振れる。
ウルザムヘルトも無傷ではない。
血赤の鎧には無数の傷や欠けがあり、空いた隙間から赤黒い瘴気が漏れ出ている。ダメージを与えるごとに、漏れ出る瘴気の量は増えていった。
『——だが』
嵐の威力が増した。
両腕でも凌ぎ切るので精一杯だった剣の暴風が、更に一段階ギアが上がる。
『つぎはぎの剣士よ。勝つのはこの我だ』
言葉と同時、右腕が強く弾かれた。明後日の方向に剣が消える。
まずい、と思う間もなく。
悪寒に従って、後ろに全力で飛ぶ。
回し蹴り。まともに当たれば身体が爆発しそうなそれは、胸を掠る程度で済んだ。
「ごっ……!!」
だというのに、弾丸のように俺は吹っ飛ばされて。
凄まじい衝撃。城壁に背中が叩きつけられた。
息が止まる。後頭部をやばい感じで打ちつけて、意識が明滅する。
「っ、ぅぐ…………」
目の裏がチカチカする。
うなじにドロリとした感触が下っていく。
全身の力が抜け、引きずり込まれそうな眠気に襲われた。
こりゃ、キツいなぁ……。
いつの間にか、空を見上げていた。
空は灰色の分厚い雲で覆われていた。
いつか見た、綺麗だと感じた青空はどこにも見えない。
無意識に動いた右手が、ポケットを漁る。
指の先に引っかかったケースを開いて、タバコを取り出した。
咥えて火を付けると、煙が空に舞う。
『辞世の一服か』
ゆっくりと硬質な音を響かせながら、ウルザムヘルトが近づいてくる。
赤黒い瘴気は血のように止まらずに流れ続けているが、この騎士は未だに健在だった。
俺は肺に入れた紫煙を空に細く吐き出して、緩く笑う。
「…………俺の身体、邪法やら禁術やら使いまくったせいでひどいことになっていてさ。結構欠かせないんだよ」
『そうか』
「これ、イリガの実と薬草を煮詰めて煮詰めて濃縮した汁に、月光草を浸した物で作っているんだけどな」
『……? 何が言いたい』
「要は、超強力な鎮痛薬と薬草と、魔力の回復が出来るってタバコなんだ。禁術の中和薬でもあるんだが……まぁ、そこはいいや。えーっとだな……」
俺の目の前まで来た血赤の騎士に、告げる。
「全部、時間稼ぎだ。悪いな」
左腕の断面を、ウルザムヘルトへ向けた。
そこには、からくり仕掛けでできた、砲門があった。
限界まで注がれた魔力が、発射口から光を放つ。
臨界。
『ッな——!』
そして——発射。
目も眩むほどの閃光が、ウルザムヘルトの胴体を消し飛ばし——遥か向こうの分厚い雲さえも貫いた。
これが、限界を超えても追いつけないと知った凡人の、答えだ。
人をからくり仕掛けに変える邪法。
代償を捧げる代わり、莫大な魔力を扱える禁術。
それだけじゃない。数えるのも億劫なほどの禁忌に触れ、己の身に取り込んだ。
人の皮を被った狂人とは、案外的を射ているのだろう。
身体の半分以上がからくり仕掛けの男を、果たして人と呼ぶのだろうか。
そもそも、人とは何か。
人は、何が人をたらしめているのか。
まぁ、詮のないことだ。
『…………我と戦っている間も、準備し続けていたのか。実に見事』
ガシャリと音を立てて地面に落ちた頭部から、そんな声がした。
俺は顔を顰めた。
「まだ生きてるのかよ」
『何、既に限界である。……つぎはぎの剣士よ、先に進むのか』
「当たり前だ」
立ち上がる。
ぐらりと揺れる身体を壁に右手をついて支えた。
まだ、立ち上がれる。
俺はまだ戦える。
咥えたタバコを肺一杯に煙を吸い込んだ後に吐き捨てて。
「剣、もらうぞ」
『構わぬ』
巻き込まれずに無事だったらしい、騎士の剣を取る。使っていた剣はどっかに消えた。探すことに、限られたエネルギーを使いたくはなかったのだ。
…………かなり重い。よくこれを振り回していたものだ。辛うじて許容範囲内といったところか。
幅広の剣だから、腰のホルダーに入りそうになかった。
仕方ない。持ちながら行こう。
『一つだけ、いいか』
「……あん?」
『既に貴様の身体も心も、限界のはずだ。立っているだけで奇跡と呼んでいいだろう。…………なぜ、その朽ちかけの身で戦える?』
「なんだ、そんなことか」
俺は笑った。
簡単なことだったからだ。
「守りたいからさ」
『勇者をか』
「俺にとっちゃ、たった一人のかけがえのない人だ。たまたま勇者に選ばれただけのな」
『……理解できぬ』
「誰かを愛してみろ。そうしたらわかるんじゃないか?」
我ながら気障な台詞だった。
兜の奥で笑う気配。
『人を愛せるのは、人だけだ』
「…………そうかもな」
そこには、憧憬が混ざっているように感じた。
もしかしたら、こいつは…………いや、考えても仕方のないことか。
ウルザムヘルトから出る瘴気が、いつの間にか止んでいた。
血赤の鎧は、ただのがらくたに変わっていた。
甲冑はもう、何も語らない。
「行くか」
だから俺も、後ろ髪を引かれることなく駆け出した。
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