3


 結局、正解なんてわからなかった。

 それでも、会いに行かない選択肢はなかった。


「そこをどきなさい」


 王城から旅立つお嬢様の前に立った俺に、お嬢様が浴びせた言葉がそれだった。

 馬車で王都まで最速で向かって、五日。

 五日会わなかっただけなのに、お嬢様の雰囲気は様変わりしていた。


 柔らかく包み込むような雰囲気は、ナイフの切先のような尖ったものに。

 こちらを見据える金の眼光は鋭く、射竦められたように身体が固まる。

 輝くような金の髪は、襟元でバッサリと切られていた。

 赤の戦装束に身を包んだお嬢様は、凛々しくも冷たい、一人の戦士だった。


「……ッ、」


 わからない。どうすればいいか、今でもわからない。

 お嬢様の言う通り、道を空けて旅立つお嬢様を見送るのが正解なのか。

 それとも、我を通してお嬢様に付いていくべきなのか。


「わたくしの命令を無視するの?」


「…………、」


 尚も煮え切らない俺に業を煮やしたのか、お嬢様は大きな溜め息をつく。

 それだけで、俺の背筋は馬鹿みたいに震えた。

 足なんて、生まれたての子鹿みたいにずっと震えていた。


 身体の重心がわからなくなる。

 視界がふらつき、ぼやけ、焦点が定まらない。


 ——ああ、そうか。

 俺は今、怖がっているのか。


「……あのね。素人が付いて来たところで足手まといなの。大人しく屋敷で待っていなさい」


 少しだけ、雰囲気が柔らかくなった。

 言い聞かせるような口調は、昔、お嬢様が俺に色々と教えてくれる時のようで。


 だから、心に押し込めていた本音の欠片が、ぽろりと零れ落ちた。


「お嬢様のお側にいたいのです」


「ッ…………、許さないわ」


 お嬢様は痛みを堪えるような顔をした。


 お嬢様が困っている。俺がお嬢様を困らせてしまっている。


 ……結局俺は、お嬢様がいなければ何もできないんだ。

 そう気がついても尚、お嬢様に縋りつこうとしている自分が、あまりにも惨めだった。


 埒が明かないと思ったのか、お嬢様の後ろに立っていた壮年の男が前に出てくる。


「……ふむ、大体の事情は聞いている。ナル君、だったかな」


「はい。……貴方は?」


「バルトムントと言う。騎士団長を勤めている。光栄にも、勇者様と帯同することを許された者の一人だ」


「……! 騎士団長様、ですか」


 国一番の剣の使い手と有名なお方だ。

 お嬢様の後ろには、魔術師の格好をした女性と、冒険者と思わしき男性がいる。

 彼らもきっと、高名な方々なのだろう。


「結局のところ。君は、勇者様に付いていきたのだろう? であれば、君ができることは一つ。実力を、示すことだけだ」


「実力を……」


「どれ、私が——」


「バルトムント。わたくしがやりますわ」


 お嬢様が、一歩前に出た。

 腰に挿した、白く輝く剣を抜き放つ。

 その切先を真っ直ぐ俺へと向けた。


 心臓が握り潰されたように痛んだ。


「一分、耐えてみなさい」


 言葉の直後、お嬢様の姿が掻き消えて。


「が、ッ…………」


 首の後ろに強い衝撃を感じて、意識が急速に沈んでいく。

 何も反応できなかった。

 力が入らない。

 近づいていく地面が、まるでスローモーションのように映る。


 嫌だ。

 いやだ。


 わからないけど、これで最後な気がするんだ。

 ここを逃したら、お嬢様にもう会えなくなってしまいそうで。


 だから頼む。

 頼むよ。


 もっと話したい。


 もっと顔を見たい。


 名前を呼んで欲しい。


 笑って欲しい。


 ……共に、行きたい。


 共に、行きたいんだ………………!!


 く、そ。


 いし、き、が…………


「…………さようなら、ナル」


 ミリ……。


 俺は、まだ、君に…………、


 …………、


 …………………、


 雨が、降っていた。


 倒れ伏した身体に、冷たい雫が降り注ぐ。


 どのくらい、意識を失っていただろう。

 お嬢様たちは、既に影も見えなくなっていた。


「ぅ…………」


 行ってしまった。

 遠く、手の届かない遠くへと。


 どうしてだ。

 どうしておれをみすてたんだ。


「うぅ……」


 いっしょにいたかった。



 ずっといっしょにいたかった。



 しあわせにしたかった。



 いっしょにしあわせになりたかった。



 すきっていいたかった。



「あああ……」


 どうして。



 どうして…………、



 おれは、おれはっ…………!


 こんなにもよわいんだ……!!!!


「ああああああああああああ」


 涙が止まらない。

 不甲斐なくて悲しくて悔しくて、どうにかなってしまいそうで。

 心に大きな穴が空いていた。穴は涙となって零れ落ちて、どんどん大きくなっていく。

 いっそのこと、このまま心がなくなってしまえばいい。

 心がなければ、こんなにも泣くこともないだろうから。


 胸を掻きむしっても何も変わらない。

 頭を地面に打ち付けても何も変わらない。

 無意味と分かっていてもそうせずにはいられない。


 お嬢様は俺がいなくても大丈夫で。

 俺はお嬢様がいなければ駄目だった。


 それだけの違いだった。


 弱くて、惨めで、何もできない自分が心底憎い。

 死んでしまいたいと思う一方で、心のどこかがそれにブレーキをかけている。

 それすらも情けなかった。

 何もかも中途半端な自分が嫌で嫌で、このまま消えてしまいたくて。

 降り頻る雨と共に、俺はただ泣き続けた。





「……お嬢様もひどいよなぁ」


 背中にかかる墓石の存在を感じながら、俺はぼやく。

 俺のためだということはわかっている。

 わかっているけど、今でもちょっと根に持っていたりする。


 なぜなら、俺が求めていたのは、専属執事でも勇者の従者でも、お嬢様と共にいることだったから。

 それが例え、死出の旅でも。

 お嬢様と共に死ねるなら本望だ。お嬢様を守って死ぬなら最高だ。

 俺の居場所は、お嬢様の側なのだ。

 本気でそう思っていたのだから、屋敷で待たされるなんて、受け入れられるはずがない。


「お館様とリューエ様には、悪いことをしたな……」


 結局、あの後俺が屋敷に戻ることはなかった。

 今思い返してみれば、お館様は何となくそれを察していたようにも見えたけれど。

 不義理を働いたことは事実だ。今更合わせる顔もない。

 ……まぁ、俺のことなんてすぐ忘れたのかもな。それならそれで、構わなかった。


 あれからどうなったのだろう?

 遥か遠くに見えた、あの邸宅へと。少しだけ思いを馳せた。


 立ち上がって、墓石の向こうへと目を凝らせば、ひょっとしたら窓の向こうに誰かが見えたのかもしれない。

 けれど、もう、立ち上がる気力すら残っていなかったから。





 ……その日から、俺はドブネズミに戻った。

 王都で冒険者稼業を始め、最低限を食い繋ぐ日々。

 スラムの安宿に陣取り、生きているとも死んでいるとも言えない日常。

 身体の奥底で燃えていた火が消えてしまったようだった。

 何をするにも気力が起きず、お嬢様の専属執事として幸せだったあの頃を思い出す。


 それだけの毎日。


 たまに発行される新聞が、心の支えだった。

 勇者のことについて書かれた記事があるからだ。

 なけなしのお金でそれを買って、日に何度も読み返していた。

 お嬢様の旅路を想像して、自分が隣で支えている妄想をすることが、寝る前の日課だった。


 そんな日々が、三ヶ月は続いただろうか。

 俺はいつも通り、今日を食えるだけの金を稼いで宿に戻ろうとしたら、受付嬢に呼び止められた。


「ナルさん! ランクアップの手続き! いい加減にお願いします!」


「……何度も断っているだろう」


「最低ランクで留まる人なんて聞いたことがありません! 上からもせっつかれてるんですよう!」


「例外ってことにしておいてくれ」


 最低ランクの依頼は、ドブさらいや掃除など、下働きがほとんどだ。執事をやっていた身としては、最低ランクの依頼が性に合っていたのだ。

 ランクが上がると、最低ランクの依頼は受けづらくなってしまう。正確には、手続きが一つ増える。

 だから、俺は最低ランクのままの方が都合が良い。

 ランクを上げることに興味もなかった。


「もう……! ナルさんは、冒険者になって実現したい夢とかないんですか!?」


「夢、か……」


 ——お嬢様の、お側にいたかった。

 結局、今も昔も、それだけを思っていた。


 もう、叶わない夢だ。

 屋敷だって、今更どんな面を下げて戻ればいいのだろう?


「お、まさかの反応アリですか!? そうですよ、夢ですよ! ほら、言っちゃってください!」


 押しが強い。

 踏み込まれても、不思議と腹は立たなかった。

 きっと、彼女の人間性によるものだろう。憤りの代わりに、苦笑いが溢れた。


「……お、初めて笑いましたねー! もうちょっと身なりが綺麗だったら、ルールエ的にはストライクなんですけどね!」


 そういえば、随分と久しぶりに笑った気がして。


「……そうだな。質問いいか?」


 少しだけ晴れた気分のついでに、聞いてみることにした。

 ずっとずっと、心の中に蟠っていたもやを。


「お、なんですかなんですかー!? なんでも聞いちゃってくださいよ!」


 明るい声に、錆びついた錠のような躊躇いは吹き飛んだ。


 三ヶ月もすれば、剥き出しの傷はかさぶたになる。それは、心も同じらしい。

 言おうと決めれば、想像よりも軽く言葉は口を突いた。


「守りたい人が遠くに行ってしまったなら、どうすればいい?」


「追いつけばいいんです!」


「……足手まといだって言われたんだ」


「強くなればいいんです!」


 わかっている。

 そんなことは、わかっているんだよ。

 でも、


「…………ッ、その人は、俺じゃとても追いつけないくらい強いんだ」


「ナルさんも、そうなればいいんです!」


「……そんなッ、そんな簡単に…………!」


「難しいですか?」


「——ッ、ああ。難しい。難しいんだ……!! できないんだ。どうやったらいいかわからないんだ! そうなれればどれだけ良かったか! でも、俺は弱い! 弱いんだ……! どんなに強くなれたとしても、とても追いつけそうにないんだよ……」


 受付嬢は笑った。

 先程までの天真爛漫さが嘘のような、全てを見透かすような笑みで。


「諦めたかったら、それでもいいとルールエ的には思いますよ」


「————、」


 心臓を突かれたように、息が止まった。


 諦めたかったら、それでもいい。

 そうだ、確かにその通りだ。

 俺は今、諦めている。

 無理だって決めつけて、毒にも薬にもならない、しみったれた毎日を生きている。


 ————でも、本当に、それでいいのか?


 どうして、俺は今、こんなことを話している?



 ……、


 

 …………、




 …………きっと、心のどこかで、諦めきれていなかったんじゃないか?


「ナルさんは、難しく考えすぎなんです。ルールエ的には、もっとシンプルでいいと思います」


 黙り込んだ俺の心の深い部分へと。

 滑り込むように、彼女の声が届く。


「ナルさんは、本当はどうしたいのですか?」


「俺、は…………」


 スラムで拾われたあの日。

 お嬢様が俺の命を助けてくれたあの日。


 あの日から、俺はずっと、お嬢様に救われてきた。


『決めたわ! あなたの名前は……ナル!』


 お嬢様は俺に色々なものをくれた。

 名前だけじゃない。

 本当に色々なものだ。

 今も心の奥底に渦巻いている感情だって、お嬢様からもらったものだ。


 永遠に、仕舞っておこうと思っているもの。

 だけど、強く強く、俺の心を掻き乱すもの。


『…………さようなら、ナル』


 俺にはわかる。

 お嬢様は、最期の別れのつもりで言っていた。

 もう二度と会えないと覚悟した上で、お嬢様はそれでも俺に生きて欲しいと、生きる道標まで下さったんだ。


 俺は……、


 俺は……こんな場所で、何をしているんだ?


 お嬢様に会えなくなっていいのか?


 このまま無為な人生を過ごしていいのか?


 どうせ無理だと諦めたまま、何もしないでいいのか?



 …………、



 ……否。


 否。


 否、否、否だ!!


 守ると決めた!

 お嬢様のために生きると決めた!

 命に変えても助けると決めた!!


 だったら、ここで燻っているんじゃねえ!

 今すぐにでも何としてでもお嬢様の強さに追いついて追い抜かして、お嬢様の側でお嬢様を支え続けるんだ!

 勇者とか騎士団長とか関係ない。

 どれだけ強くても、見上げるのも烏滸がましい遥か高みでも、絶対に絶対に追いつくんだ!


 そうだ、難しく考える必要なんてどこにもない。

 俺の考えることは、たった一つでいいんだ。


 全ては、お嬢様のために。

 そうだろう?


 視界が開ける。

 複雑に絡まった糸が、解けて真っ直ぐピンと伸びるように。

 クリアになった心を通して見る世界は、かつてのようにシンプルに映った。


「ルールエ、だったか」


「はいー! ルールエですよ!」


「ありがとう。行かなきゃいけない場所ができた」


 ルールエは俺の瞳を覗き込んで、クスリと笑った。


「行ってらっしゃいませー! またのお越しをお待ちしてますよう!」


 感謝の気持ちを精一杯込めて、俺も笑って答える。


「ああ。必ず」


 行きたい場所がある。

 行かなければならない場所がある。

 逸る心のまま、俺は駆け出した。

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