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驚いたことに、俺はお嬢様の専属執事に抜擢された。
とはいえ、まだ見習いの立場だ。
専属の教師が充てがわれ、付いていけないのなら死ねと言わんばかりの指導が課される。
外に出ることはなく、屋敷の中でひたすら学ぶ日々。
貴族の関係性、紅茶の注ぎ方、言葉遣い、いざという時の武術。
覚えることは山ほどあった。
俺は文字通り命を賭けて食らいついていった。
そうして、更に四年が経ったある日。
屋敷の庭園でティータイムを過ごすお嬢様に、俺は紅茶をお出しする。
所作から淹れ方まで、何百回と失敗し、何千回も繰り返した動作だ。
未だ洗練されているとは思えないが、少なくとも見てくれは十分だったのだろう。
お嬢様は満足そうに頷いて、ティーカップを傾けた。
「美味しいわ。もう、立派な執事ね。言葉すらまともに喋れなかった頃が嘘みたいだわ」
「ありがとうございます。ですが、私などまだまだです」
学べば学ぶほど、自分の至らなさを実感する。
そんな毎日は、四年経った今でも変わらない。
褒めていただけたのは光栄だけど、本心からの言葉だった。
お嬢様は少し怪訝な顔をして、俺の顔を覗き込む。
「ナル、なんだか疲れてない?」
「気のせいですよ。お嬢様」
……気取られる時点で、やっぱり俺もまだまだだな。
なぜか、お嬢様は俺の不調をすぐ見抜く。
他の人には気づかれないんだけどなぁ。
もっと隠すのを上手くならなければ。
お嬢様の執事を勤めながら、空いた時間はひたすら勉強する。
ロクに寝ていなかったし、執事服の内側は青アザで一杯だ。
お嬢様の見ていない裏で倒れたことは一度や二度じゃない。
それでも、やめようとは思わなかった。
「……もう、ミリとは呼んでくれないのね」
「…………、」
寂しそうに口を尖らせるお嬢様に、俺は困ったように微笑む。
俺はもう、ペットではなく専属の執事だ。許されることではなかった。
「明日は、お嬢様の誕生日。14歳になられますね」
「そうね。……そういえば、ナルはいくつなのかしら?」
露骨な話題逸らしに、お嬢様は乗ってくれた。
内心で感謝しつつ、俺は首を傾げる。
「どうでしょうね。お嬢様と同じくらいだと思いますが」
誕生日も年齢も知らなかった。大体そのくらいだろうという当てずっぽうだ。
戸籍上は設定されているようだが、金で買ったらしい仮初のものだ。さして興味はない。
「そう。……ナルは、大きくなったわね」
「お嬢様もですよ」
「ナルほどではないわ」
昔は、お嬢様の方が背が高かった。
やがて背丈は並び、今では俺の方が拳一つ分高くなった。
お嬢様の背中を精一杯追いかけていたあの時が、懐かしくすらある。
「お嬢様は、一段とお綺麗になられましたね」
「へぁっ?」
金の髪と瞳はより輝きを増し。可愛らしさのあった顔立ちは、大人に近づくにつれ美しさと調和している。
お転婆とも近かった尊大さは、高貴さに昇華した。
可憐な公爵令嬢として、パーティに出れば視線を釘付けに。
学院の授業では、文武両道として生徒からは尊敬の視線を集める。
ダイヤモンドの原石が、職人の手で美しい宝石に磨き上げられるように。
時間と共に、お嬢様の美しさはより高みへと上っていく。
「そ、そんなに褒めても何も出ないわよ。もう、ナルったら」
天使と見紛うお顔を真っ赤に染めたお嬢様は、パタパタと手で顔を仰ぐ。
腰元まで伸びた金の髪がその仕草に合わせてたおやかに揺れる。
とても愛らしい。心臓が高鳴る。
心に秘めた想いが強く暴れ出す。それを薄い笑みの中に押し込めるのは大変だった。
「ねぇ、ナル」
柔らかい声が、どことなく甘える響きで俺を呼ぶ。
「なんでしょうか?」
「もし、もしもの話よ」
お嬢様はそう前置きして。
「わたくしが15歳になって、誰も相手がいなかったら。その時はわたくしと————」
その言葉は、最後まで言い切ることはなく。
急にお嬢様の足元が光り出して。
…………光り出して?
お嬢様の姿が、光の中で薄れている…………ッ!?
「お嬢様ッ!!」
「ナル————」
手を伸ばした。
お嬢様に向けて、真っ直ぐに。
お嬢様も手を伸ばす。
なぜかその動作は、戸惑いがちで。
俺は必死にその手を掴もうとした。
届け。
届け…………!
届いてくれ……!!
「ぁ————」
お嬢様のか細い声を最後に。
光の中に、お嬢様の姿は消える。
お互いの伸ばした手は、届くことなく。
空気を掴んだ感触だけが、俺の手に残っていた。
…………それからは、あまり覚えていない。
メイドが呼び止めていた気がしたが、無視した。
気が動転していて、左右方々走り回って。
お嬢様は俺が守るんだ。
そう誓ったんだ。
命に変えたって助けてみせるから。
だから、どこに、どこにいるんだ。
ぐちゃぐちゃの頭でそんなことを考えながら、屋敷の中を手当たり次第に探して。
だけど、どこにもいなかった。
何かを叫んでいた気がする。
不安と焦燥に心が押し潰されそうで、お嬢様と何度も何度も何度も吠えていた。
消える直前に見せた。
お嬢様の寂しげな笑みが脳裏に焼き付いて離れなかった。
お嬢様とよく遊んでいた裏庭。
お嬢様が落ち込んだ時に行く地下の階段の裏。
かくれんぼで、お嬢様がよく隠れていた倉庫の隅。
屋根裏に、昔二人で作った秘密基地。
屋敷を駆けずり回っても、お嬢様はいない。
普通じゃない消え方をしたのだ。普通じゃない場所にいる。
そんなことにも思い当たらずに、ひたすらに屋敷の中を探し回って。
ふと我に返った時。
俺はお館様の執務室で、ソファーに座っていた。
「落ち着いたか」
「あ……は、はい」
お館様は、大木のように揺るぎない声音だった。
思わず頷く。
心なしか、お館様の眉間に刻まれた皺が深い。
変えられないものを見て、やりきれない気持ちになっている。そんな表情に見えた。
「不思議に思わなかったか」
「何が……ですか?」
「この状況についてだ」
言われて、すぐに気づいた。
屋敷は、静かだった。
お館様の机には、先ほどまで仕事をしていたと言わんばかりに脇に書類が積み上げられている。
お嬢様が光の中に消えたという異常事態のはずなのに、屋敷はあまりにもいつも通りだった。
それが指す事実は一つ。
「知って……いたのですか……? 今日、こうなることを…………?」
「そうだ」
「ッ——!」
なら、どうして俺に黙っていた……!!
そう言いかけて、すんでのところで抑えた。
理由はわかっていた。
それを知っていた場合、俺は何がなんでも阻止するか、無理なら何がなんでもお嬢様に付いて行こうとする。
お館様にとって、それは恐らく都合が悪かったのだ。
「気を揉むことはない。ミリーシャは無事だ」
「なら、どこにッ…………どこに、お嬢様はいるんですか!?」
「………………、」
お館様は黙り込んだ。
悩んでいるように見えた。
話すべきか、離さないべきか。
だから俺は、睨むようにお館様を見つめ続けた。
お館様は見逃してくれたけど、本来なら不敬と処断されてもおかしくはなかった。
俺の怒鳴り声の残響が消え、痛いぐらいの沈黙が下りて。
一分が一時間に感じられる重い静寂の後。
「……私もまた、人の親ということか」
お館様は小さくそう呟いてから。
「お前は、勇者と災厄の関係を知っているか?」
「は……? え?」
「知っているか、と聞いているのだ」
「っ、失礼しました。存じております」
予想外の質問だった。すぐに持ち直し、答える。
「説明してみよ」
「はっ。例えば大飢饉でしたり、大国の内乱でしたり、魔物の王が出現したりと、各国が共同して解決に向かうべき出来事を災厄と呼びます。そして、同時期に勇者と呼ばれる者が異世界から召喚され、勇者である彼または彼女が災厄を解決する。これが勇者と災厄の関係です」
「では、巫女については?」
「すみません。巫女については、多くを存じ上げません。代々未来を見ることができる家系ということしか」
「そうか。補足するが、巫女の役目は、その能力を生かして災厄の影響を縮小したり、勇者が召喚される時期を知ることだ」
「そうなのですね」
何の関係があるのだろう?
疑問を押し込んで、次の言葉を待つ。
お館様は無駄を嫌う。これを話すということは、お嬢様にも関係がある話なのだろう。
……待て。
どういうことだ?
勇者、災厄、巫女。
…………これらとお嬢様に、関係が、ある?
光の中に消えたお嬢様。
まるで、お嬢様がいなくなることを最初から知っていたようなお館様の落ち着きよう。
「…………、」
嫌な汗が、背中を伝った。
俺の表情が強張ったのに気づいたのだろう。
「一つ、お前の説明を訂正しよう」
お館様は、重々しい声で。
「勇者は、異世界から召喚されるとは限らない。……この国から選ばれる可能性も、ある」
「ッ!!」
「ミリーシャは、王城にいる。……王城には何があるか、わかるな?」
「……召喚陣。お嬢様は、勇者として召喚されたのですね」
お館様は頷いた。
災厄に立ち向かう、勇者。
お嬢様は、そんな存在になったのか。
専属執事としては、誇らしい、と言うべきなのかもしれない。
それでも、祝福の気持ちは全く湧き上がってこなかった。
「……お館様。質問があります」
「申してみよ」
「災厄は、今回はどのようなモノですか? …………それと、いつ頃から知っていたのですか?」
「巫女の予言はこうだ。『古の魔の王。封が弱まり、人の世は陰る。アヴェリアの長子、14歳にして抗う者としての資格を得る』…………その予言があったのは、ミリーシャが生まれた日だ」
「お嬢様が、生まれた日…………」
全てを知った上で、ずっとずっとお嬢様を育てていたのか。
いや、お嬢様も知っていたのだろう。でなければ、召喚陣に呼び出される時、俺にあんな笑みを向けるはずがない。
自らの運命を受け入れた、あの諦めたような笑みを。
「お館様。私は——」
「ならん。今この時を以て、ミリーシャの専属執事の任を解く」
「なっ……!」
「代わりにリューエの専属執事の任を与える」
「…………ッ!!」
絶句、とはこのことを言うのだろう。
お嬢様のために生きると決めていたのだ。
その生き方を諦めろと言われたに等しい。
それは、俺の人生そのものを否定されたような気分だった。
リューエ様は、お嬢様の弟。あまり会う機会はなかったが、利発で優秀な方だと覚えている。
長男であり、いずれは公爵家を継ぐ存在。そんな方の専属執事に任命されたのだ。
普通は、光栄と思うところなのだろう。
「不服か?」
「はい」
顎をつうと伝う感触で、俺は唇を噛みちぎっていることに気がついた。
殺気すら込めてお館様を睨みつけてしまいそうだったから、顔を伏せる。
納得なんてできるはずがなかった。
だって、俺はお嬢様のために生きてきたのだ。
お嬢様の幸せが俺の幸せで、お嬢様の人生こそが俺の人生だった。
今更、それを捨てるなんて、できるはずがない…………!!
「……それが、ミリーシャの望みであっても、か?」
「…………え?」
お館様の静かな声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
お嬢様の望みが、リューエ様の専属執事となること?
「ミリーシャは、勇者となることを知っていた。私もそれを知った上で、お前を専属執事へと採用した。後で、自分が勇者として旅立つ折には、お前をリューエの専属執事に任命することを約束させられたよ。それがミリーシャの願いだったからだ。…………この意味がわかるか?」
…………俺が、またスラムに戻らなくてよくするためだ。
お嬢様は、俺に居場所を残してくれたのだ。
「ミリーシャからの伝言だ。『必ず帰ってくるから。だから待ってて』…………父としては、些か複雑だがな」
「あ……ぁ…………」
お嬢様。
なんて残酷で、なんて優しいのだ。
きっと、俺を危険な目に合わせることなんてできないと思っているのだろう。
俺も同じ気持ちなのに。
側にいたいのに。
お嬢様は、俺に来るなと言うのか。
お嬢様の望みを叶えるのが、専属執事としての在り方だ。
リューエ様の専属執事を立派に勤め上げ、役目を終えて帰還なさるお嬢様をお迎えするのが、きっと最良の選択なのだろう。
そうだ。
待ってて、とのご命令だ。
「ミリ…………!」
小さな声で、その名前を呼んだ。
『……もう、ミリとは呼んでくれないのね』
そう言って寂しげに笑ったお嬢様は、そこにはいないのに。
お嬢様を守りたい。
それが俺の願いだ。
だけど、それはお嬢様の側にいたい俺のエゴでもあった。
お嬢様は、俺に待つことを望むのか。
だったら、どうすればいい。
俺は、どうすればいい…………?
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