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 俺の一番古い記憶は、スラムのゴミ箱に身体を突っ込んでいる記憶だった。

 特別なことは何もない。単に、食べられそうなものを探していただけ。

 色々なものが腐って、鼻がひん曲がるような臭いにはとうに慣れていた。


 黒く変色した果物の皮を引っ張り出して、急いで隠れ家に戻る。

 そこで、残った果汁を搾り取ろうと腐った皮を一心不乱にしゃぶっていた。


 ずっとそんなことを繰り返していた。

 それ以外に知らなかった。


 何のために生きているか、何で生きているかもわからずに、ただ飢えを凌ぐためだけに生きていた。


 ある日、いつものようにゴミ箱を漁っていると、カビたパンを見つけた。

 幸運だった。子供の両手くらいには大きく、カビた部分を除けば食べられそうだったからだ。

 興奮のあまり、その場で食べようとしたのがいけなかったのだろう。


「ぁ、うっ!!」


 後頭部に衝撃——、

 頭を殴られたと理解した時には、身体が傾いていた。

 目の奥から火花が散って、たまらずに俺は倒れる。

 それでもパンだけは手放すまいとしていると、今度は腹に蹴りが飛んできた。


「う、ぇ、おぇ……!」


 何度も蹴られた。

 腕も踏まれた。


「このっ、パンを寄越せっ!! ドブネズミがっ!!」


 襲撃者が何かを叫んでいた。

 言葉を知らなかったから、言っている意味はわからない。

 それでも、襲撃者が何を求めているかは知っていた。


 ……限界はすぐに訪れて、俺はパンを手放した。

 でないと、死ぬまでこのままだ——本能で、そう察したのだ。

 案の定、直後に暴力が止む。


 よぼよぼの手が、俺の手放したパンをむんずと掴んでいた。

 見上げると、皺だらけの老人がいた。

 痩せぎすの今にも死にそうな身体なのに、眼だけはギラギラしていた。


 ちゃんと周りを確認しなかった自分を呪いつつ、今度絶対にやり返してやる、と老人を睨みつけていると。

 老人は去ろうとした足を止めて、俺の元へと近づいて来た。

 報復を恐れたのか、単純に気に入らなかったのかはわからないが。

 近くに落ちていた、半分に欠けたレンガを拾って、俺の頭目掛けて振り上げた。


 スラムに死体は日常茶飯事だった。

 虫が集っていた死体が、いつの間にか骨だけになって、いつの間にかどこにもなくなっている。

 そんな光景はよくあることで。

 自分もそうなるんだな、ぼんやりと思った。

 お腹が空くことがなくなるのなら、それでもいいやと鈍い頭で考えていたのを覚えている。


 だけど、そうはならなかった。


「やっ……やめなさい!」


 辿々しくも、凛とした声。

 老人は大きく肩を震わせた後、レンガを捨てて逃げ出した。

 驚いたか、罪の意識か。それでも俺から奪ったパンを手放さないあたりちゃっかりしていた。


「ぅ……」


 俺は追いかけるどころか、立ち上がる気力さえ残っていなかった。

 身体の芯にあるものがごっそり抜け落ちてしまったような感覚。


 それでも、スラムの向こうに。

 メイドの隣に立つ金の髪の少女が、光り輝いて見えたことは覚えている。

 その後すぐに、空腹と痛みで意識が途切れたけれど。


 きっとその時から、俺は君のことを————





「そんなことも、あったなぁ……」


 タバコは燃え尽きていた。

 全身が淡く痺れている。


 空を見上げると、ここだけ切り取られたように木々は開かれていた。

 とても綺麗な青空だった。

 あの日から俺は、青空がこんなにも綺麗なことを知ったんだ。


 色褪せた、死なないための日常は、華やかに色づいて。

 死んでいなかっただけの俺は、確かにあの日から生き始めた。

 君は何度も、何度も、俺を救ってくれた。


「あぁ……」


 紐づいて、色々な思い出が溢れてくる。

 君が、ドブネズミのように薄汚れた俺を、保護してくれたんだ。


「あの時から、お嬢様は変わらなかったな……」


 笑っちまうよ。本当に。

 貴族の御令嬢が、スラムの孤児を拾うだなんて。

 前代未聞、空前絶後のことだ。


 思い出の海の中で、幼いお嬢様が俺に問いかける。


『あなた、名前がないの?』


『…………?』


『喋れない……? いいえ、知らないのね。何にも』


『……、』


『わたくしはミリーシャ。覚えておきなさい。いい? ミリーシャよ、ミリーシャ』


 ミリーシャ。初めは、それが名前を指していると分からなかった。

 名前という概念すら知らなかったからだ。


『みー、りー、しゃ』


『惜しいわね。ほら、真似して? ミリーシャよ』


『いりー、しゃお?』


『最後のまで真似しないでいいわよ!』


 最初は、可哀想なペットを拾った感覚だったのだろう。

 君はことあるごとに俺に構いに来た。

 七歳とは思えないほど大人びた——悪く言えばちょっと尊大な感じだったけれど、

 でも、君は決して俺を見捨てようとはしなかった。


『ミリーシャ』


『……! そう! そうよ! よくできたわね!』


 初めてちゃんと名前を呼べた時の、君の嬉しそうな顔は今でも忘れられない。

 それが初めて見た笑顔だった。心臓がぎゅっとなった。

 初めての感覚だった。


『決めたわ! あなたの名前は……ナル!』


『ナル? なまえ?』


『そう! 昔の勇者様から、名前を少しもらったわ!』


 その日から、俺はナルとなった。


 俺に言葉を教え、マナーを教え。

 君の教育を通して、俺は自分の心を知っていった。


 楽しいこと、楽しくないこと。

 嬉しいこと、嬉しくないこと。

 辛いこと、苦しいこと。

 幸せなこと、もっと幸せなこと。


 ——そして、人を愛するということ。


 三年が経って。

 俺はお館様と執務室で対面する。


『娘の……ミリーシャの専属執事になりたいだと?』


『はい、お館様』


『…………元々、貴様はミリーシャの気まぐれで保護しただけだ。ドブネズミ風情が粋がるな』


『ドブネズミでも、お嬢様の盾にはなれます』


『スラムの薄汚れた血が、貴族——それも公爵令嬢の側に立てると思っているとでも?』


『では、影であろうと構いません』


『…………、』


『どうか、どうか、お許しいただけないでしょうか……!!』


 膝を付き、頭を床に擦り付けた。

 その程度で、君の助けになれるのなら安いものだったんだ。


『どうして、そこまでする? 娘への恩返しか? それとも、懸想でもしているのか?』


『両方です』


 正直に告げると、表情を変えないままお館様は言い放つ。


『叶わぬ夢だ』


 俺は笑った。


『知っています』


 最初からわかっていたことだった。

 だって、あまりにも身分が違う。

 平民ですらない、スラムに生きるドブネズミと。

 公爵家の美しき愛娘。

 釣り合うはずがない。


 いずれは嫁ぐことになるのだろう。

 公爵家の娘の結婚相手には、きっとそれに相応しい身分の相手がいる。

 例え道理がひっくり返っても、それは俺ではなかった。

 だとしても構わなかった。

 お嬢様が幸せなら、それで。


 あの日から——お嬢様に命を救われたあの日から。

 俺の人生はお嬢様のためだけにあったのだから。

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