賞賛アディクション

深水紅茶(リプトン)

本編

 塩素の匂いが染み付いた水泳帽を床に捨てる。

 肩紐を引っ張って、伸縮する生地を引き剥がす。

 防水バッグからタオルを出して、剥き出しの上半身を拭く。

 肌に纏わりつく競泳水着から足を抜いて、私は産まれたままの姿になる。

 ロッカールームには、私の他に誰もいない。

 プールへと続く曇り硝子の向こうから、コーチの吹くホイッスルの音が聞こえる。水泳部の練習時間はまだ終わっていない。だからここには私しかいない。

 体調不良と偽って、早退した私しか。

 私は裸のまま、プラスチックのロッカーを見つめる。

 安っぽい、青い扉。そこに、水を弾くようラミネート加工された写真が貼ってある。あの子が勝手に加工して、勝手に貼った写真。恥ずかしいから嫌だと言ったのに。

 手を伸ばして、触れる。写真の中では、紺の競泳水着を来た二人の少女が仲睦まじく腕を組んでいる。

 金メダルを手にぎこちなく微笑む少女と、満面の笑みで銅メダルを掲げる少女。

 私は写真を引き剥がし、ぐしゃりと握りつぶした。

 無残に丸まったそれを屑籠に投げ捨てようと、腕を振り上げて、ためらう。

 深く息を吸って、吐く。

 五〇メートル自由形で負けたら、終わりにしようと決めていた。

 だから私は、今日、水泳を辞める。

 くしゃくしゃの写真を防水バッグに放り込み、タオルで強く髪を擦る。

 がちゃりと扉の開く音がする。


  †


 二ノ宮らいかと藤堂灯里は絵に描いたような幼馴染だ。

 その馴れ初めは今から約十年前、私たちが何も知らない小学生二年生だった春にまで遡る。

 当時の私は概ね無敵だった。

 どのくらい無敵だったかというと、市立葛西第二小学校で起きた第十八次クラス間ドッジコート争奪戦争において大立ち回りを演じ、クラスの怪童タチバナくんに足払いを食らわせ、名うての乱暴者カトウくんに後ろ回し蹴りを叩き込み、皮肉屋のサイトウくんを口喧嘩で号泣させ、挙句その全員から校舎裏で告白されたくらい無敵だった。

 なお、三人とも初恋はほろ苦い味に終わったことを言い添えておく。

 小学生のうちに男の子と付き合う、というお花畑のような目標に熱を上げる子は少なくなかった。それはそれで結構なことだ。ただ、私はそういう子たちとは別の場所にいた。どちらかというと、男子に混じってボールを追いかけるタイプの健康優良児だった。

 少なくとも小学生のうちは。

 まあ、私の過去の武勇伝はいい。灯里の話だ。藤堂灯里の話。

 私の親友の話。

 彼女と出会った切っ掛けは、スイミングスクールだった。

 当時私が通っていたスクールでは、課題をクリアするごとにキラキラ光るバッチが授与された。十五メートル平泳ぎで泳げたらカエル。背泳ぎならアシカ。全ての泳法で二十五メートルを泳ぎ切れたらイルカ。栄誉あるイルカのバッチは、他のそれよりも一回り大きい。

 早熟で健康な私は、運動全般、とりわけ水泳が得意だった。

 小学生二年生にしてイルカの勲章を獲得した私は、意気揚々と全てのバッチをスイミング用の防水バックに付けていた。同級生どころか、三年生にもイルカを手にした生徒はいない。周囲から浴びせかけられる賛辞の視線は心地よかった。当時の私は正に得意の絶頂にいた。

 しかし実のところ、私はさして水泳が好きなわけではなかった。

 濡れて肌に貼りつく水着の感触も、湿り気があってどこか不衛生に感じるロッカールームも、時折鼻から入って喉の奥をきゅっとさせる塩素の味も、正直、苦手だった。

 それでもスクールに通い続けたのは、ひとえにコーチや父が私へ掛ける賞賛の言葉を聞くためだ。私は他人から褒められることが好きだった。もとい、大好きだった。

 つまり私はそういう奴だ。

 そして私の十六年間の人生において、私を一番褒めそやかした人間こそ、即ち藤堂灯里だった。


 話が逸れている。出会いの話だ。

 あれはそう。ある晴れた五月の日曜日のことだった。

 スイミングスクールは専用のバスを走らせている。家から歩いて十分のコンビニ前で、私はバスに乗り込み、いつものように最後部のシートへ向かった。二人掛けではなく、五人が座れる長いやつだ。いつも、向かって左の窓際が私の指定席だった。

 そこに先客がいた。

 それが藤堂灯里だ。

 私は多分、きっと、いや間違いなく嫌な顔をしたと思う。その程度には性格の悪い子供だった。傲慢で無神経で、不快感を顔に出すことで何かを得られると思っている子供だった。

 けれど灯里は天使みたいに朗らかだった。

 彼女は丸っこい指で私の防水バックを指差し、綺麗な歯並びを見せて微笑んだ。

「わぁ、イルカさんだ。すごい!」

 ふうん。

 わかってるじゃん。私は唇の端をぴくりと動かして、彼女の横に座った。防水バックを膝の上に置く。じゃらじゃらと輝くバッチたちが、一つ余さず彼女によく見える向きで。

 灯里は、私の期待していたとおりのリアクションをした。きらきらした瞳でバッジを見詰め、そっと指先を伸ばし、きちんと一度私の顔色を伺ったのだ。

 私が鷹揚に頷くと、その顔がぱっと輝いた。

「わあ」

 許しを得た彼女は、ガラスケースに納められた宝石を扱うような丁重さで、真鍮製の海洋生物たちを次々に撫でくりまわした。

 私は腰の辺りにくすぐったさを感じながら、そっと鼻を膨らませた。すごいでしょ。二年生でここまで泳げるのは私だけだよ。まあスイミングなんて片手間だけどね。

「すごいねぇ。こんなに一杯バッチ持ってる子、わたし初めて見た!」

「あ、そう? へえ……。他にもいると思うけどな」

 澄ました返事をしながら、私は背中をぞくぞくさせていた。鼻の下がむず痒い。にやけてしまわないよう、ぎゅっと唇を引き締める。

 灯里の言葉は、まるで熱々のホットケーキに垂らされたシロップのように、じわりと私の心へ染み込んだ。彼女の賛辞には、私に対する深い尊敬の響きがあった。声がまた良かった。耳触りが良くて甘ったるい、高価な砂糖菓子のように癖になる声。

 私は改めて彼女を見つめた。

 ふっくらした頬と、二重の大きな目。座っているから分かりにくいけれど、私より背は低いだろう。色素が薄く量の多い髪は、なめらかなカーブを描いている。窓から差し込む午後の光で、ふわふわの髪の天辺付近に、天使の輪が出来ていた。

 なんとなく。

 触れると柔らかそうな子だな、と思った。

 顔も中々に可愛い。少なくとも、二宮らいかの友人に相応しいくらいには。

 私は出来るだけさりげなく質問した。いつからスイミングを始めたのか。通う曜日と時間はいつで、どの程度泳げるのか。そういえば名前は何か。通う小学校は。

 結果、彼女は来月から私と同じ小学校に通う転校生で、元々水遊びが苦手であり、それを克服するために水泳を始めたということが判明した。また、先立って学校側と面談を行った際に、配属されるクラスを伝えられていて、それが二年B組であるということも。

 B組。

 私のクラス。

「ふぅん」と私は言った。「あたしもB組」

「ほんとう⁉︎」

「本当だよ」

「すごい、すごい」

 後々明らかになるが、「すごい」は灯里の口癖だ。この日から十年弱、耳にタコができるくらい聞かされるその単語を何度も反復しながら、彼女は、飛びかかるように私の腕へと抱きついた。

 二人とも、着ているのは薄っぺらなワンピース一枚で、半袖だった。肘に、硬い肋骨と、ゴム毬に似た未熟な膨らみが押しつけられる。

 弱冷房に設定された車内には熱が篭る。

 汗ばんだ皮膚同士が擦れて、桃のような甘い体臭がした。


  †


 藤堂灯里は完璧な友人だった。

 つまり必要十分に可愛らしく、私よりもほんの少しだけ頭が悪く、私の得意なことが下手だった。

 スイミングスクールの新入生は、自分がどの程度まで泳げるかを申告し、それを証明しなければならない。灯里は、ビート板を使えばバタ脚で一五メートルを泳ぐことができると申告した。テストが行われ、一回目は一〇メートルで足を着いたが、二度目で申告どおりの成功を収めた。

 彼女には、小さなオタマジャクシのバッチが授与されることになった。

 そのままコーチは彼女に幾つかのアドバイスを始めた。息継ぎの方法や、ビート版の補助なしで泳ぐための練習について。

 私はあえて会話中のコーチへ近づき、声を掛けた。

「あの、私の泳ぎも見てもらっていいですか。ちょっとバタフライからのターンを練習してみたんです」

 振り返ったコーチは、灯里に「後でね」と断って、奥のレーンに行こう、と告げた。

 プールはコースロープによって六つのレーンに分かれている。控室から見て奥側の二レーンは、大学生や高校生たちのもので、小学生の私たちにとってはある種の聖域だった。そこで行われていたのは紛れもない「訓練」であって、水遊びの延長にある私たちの練習とは、根本的に異なるものだった。

 小学生がそこへ近づくことは許されざる禁忌だった。もっとも筋肉のついた半裸の男子高校生なんて、私たちにすればちょっとした怪物みたいなもので、言われずとも誰も近づきたくなかったけれど。

 例外が私だった。

 私は高校生に混ざって、奥のレーンを使うことを認められていた。

 こんな待遇を受けている二年生は、他にいない。県が主催する水泳競技大会の、小学生二年生以下の部で表彰台に上った私は、コーチからも特別扱いを受けていた。スクールの出身者が競技大会で好成績を残せば、恰好の宣伝になる。そういうことを意識するようになったのは、もう少し後のことだけれど。

 灯里は、胸元にビート板を抱えて、きょとんとした目でこちらを見つめていた。私は口の中で呟いた。まあ見ててよ。私、泳ぐの上手いから。 

 私は奥のレーンに向かい、プールサイドを蹴って水面に飛び込んだ。

 五〇メートルを泳ぎ終えて、コーチからいくつかのアドバイスを受けた後、私は小学生用のレーンに戻った。思惑どおり、灯里はきらきらした瞳で私を出迎えた。

 彼女は言った。

「すごい、すごいね二ノ宮さん」

 腰骨の辺りがぞくりと疼く。私は水泳帽から滴り落ちる水を手のひらで払って、言った。

「らいかでいいよ。同い年でしょ」

「うん、らいか。私も灯里でいいよ」

「よろしく、灯里。これから色々、教えてあげるから」

「うん!」

 灯里は私の腕を取って、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。水泳帽が私の頬に触れて、塩素の匂いがした。

 彼女は私より随分背が低いのだと、そのとき気づいた。水着越しに感じた肌は水のせいで冷え切っていて、けれど灯里がいつまでもくっついて離れないから、じきに暖かくなった。


 学校でも、灯里は私の傍を離れなかった。

 六月という微妙な時期の転校は、色々と分が悪い。けれど思春期を迎える前の私たちは、まだ幾らか明け透けで、友人関係の構築に煩雑な手続きが必要になるのはもう少しだけ先のことだった。

 だから彼女は、その気になれば、どのグループにも溶け込めた筈だ。ふわふわした長い髪と柔らかな頬の輪郭は、何とかしてこの子と友達になりたい、という欲求を掻き立てるのに十分だった。それに彼女はお喋りも達者で、クラスメイトたちの長所や、パーソナリティの核となる部分───つまり褒められたい部分をするどく見つけ出し、的確に賞賛してみせた。当然の結果として、休み時間の都度、彼女の周りには幾人もの女の子が集まった。

 けれど彼女は、給食の時間が終わると、必ず私の元へとやってきた。そうして、姉から借りた漫画や最近見た動画コンテンツの話をした。ときおりは水泳の話も。

 そして私がボールを持って校庭へ駆け出すときは、いつも慌てて後ろについてきた。

「まってよ、らいか」

「待たない。あと二十分しかないし」

「うう、いじわるぅ」

 それも彼女は私から離れようとしなかった。

 灯里がさして運動を好まない性分なのは明らかだった。スイミングスクールへ通い始めたのも、本人の希望というよりは、水泳の授業で恥をかかないように、という親心の結果だろう。僅かな時間を目いっぱい使って私と男子たちが互いにボールをぶつけ合う間、彼女はきゃあきゃあ言いながら両手を上げてコートの中を逃げ回っていた。

 一度ならず、エネルギーの在り余った男子から言われたことがある。

「そいつ、連れてくんなよ。二ノ宮はガチでやれっからいいけどさ」

 いじめみたいになるじゃん。そういった彼は、多分、いいやつだったのだと思う。けれど私は嫌な奴だから、中指を突き立てるような態度でハーフパンツのポケットに両手を突っ込み、こう答えた。

「ハンデだよ、ハンデ」

 そして、慌てて灯里のほうを振り返って、取ってつけるように言った。実際それは取ってつけた上っ面の言葉だった。

「灯里は、私が守るから。だから、ここにいていいんだよ」

「───うん!」

 空っぽで傲慢な私の言葉に、彼女は大きな目を更に見開いて、思い切り破顔した。そうして感動したように瞳を潤ませて、人形みたいな拳を握り、らいかはすごいね、と言った。

 王子と姫じゃん。からかう声の主を睨みつけて、私は矢のようにボールを投げつけた。

 耳が熱いような気がした。


  †


 市立の中学校を卒業した後、私は、水泳部がある県立高校にスポーツ推薦で入学した。灯里は当たり前のようについてきた。彼女は普通に勉強をして、普通に入学した。私と同じクラスだと知ったときは、涙ぐみながら抱きついてきた。

 私も灯里も水泳を続けていた。聖域だったレーンがただの練習場所になり、かつて想像していたほど高校生は大人ではないということを理解しても、私たちの関係は変わらなかった。

「最近さ」

 私の机に上体を突っ伏した灯里が言う。

「なんか水着がきつくて」

「また胸がでかくなったんじゃないの」

「違うよ! 背! 背が伸びたの!」

「あ、そ」

 私は灯里のつむじをぐいと押した。ぐええ背が縮むぅ、と悲鳴が上がる。

 彼女の髪に触れる度、首を傾げずにはいられない。あれだけ長い時間、塩素で漂白された水に浸かっているのに、どうしてこんなに細くて柔らかいままなんだろう。そんなことを言うと、彼女はきっと、「らいかのポニテのが可愛いよ」と答えるだろうけど、そんな訳がない。

 藤堂灯里は美少女だ。

 中学時代はまだ垢抜けないところもあったが、受験を終えたあたりから、彼女は蛹が蝶へ羽化するように美しく化けた。

 白い肌も、天使みたいにふわふわした髪も、適度に凹凸の効いたボディラインも魅力的で、よく出来た人形のようで、おそらく初対面で彼女を水泳部のホープだと見抜ける名探偵は、どこにも存在しないだろう。

 ホープ。

 そう、彼女が進化したのは容姿だけじゃない。

 受験組の彼女は、入学時点では、スポーツ推薦組の後を追う「そこそこ泳げる一年生」に過ぎなかった。けれどゴールデンウィーク明けからぐんぐんタイムを伸ばして、夏休みを目前に控えた今はもう、推薦組の私と同じメニューをこなしている。

「あ!」

 出し抜けに灯里が叫んで顔を上げた、

「宿題! 一限の数Ⅰ!」

「また忘れたの?」

「忘れた……らいかぁ……」

「コーヒー牛乳」

 私は机に吊るしたリュックからノートを取り出して、灯里に差し出した。ぱぁっと彼女の顔がほころぶ。彼女は私より成績が良いのに、こういうところは抜けている。

 ノートを受け取った彼女は、空いている方の手で私の手を握った。丸っこくて艶々した、女の子らしい爪。彼女はその指先にぎゅうと力を込めて、ぶんぶん上下に振る。

「らいかはちゃんとしててすごいねぇ」

 私は何も答えずに、俯いてスマホの画面に目を落とす。

 本当は、荒れた自分の爪を見ている。


  †


 夏休みに、県が主催する水泳競技大会があった。

 男女合わせて二十五名が、全員、各々の得意とする種目を紙に書いて顧問に提出した。私は五〇メートル自由形と一〇〇メートル自由形。自由形とは、要するにクロールのことだ。競泳の世界では、花形といっていい。

 下校がてら、その話になった。

 店外のベンチに腰掛ける私の手にはたこ焼きが、灯里の手には鯛焼きがある。水泳は全身運動だから、練習の後は信じられないくらいお腹が空く。買い食いは、中学時代からの習慣だった。

「らいかは何にした? やっぱり自由形?」

「そう。灯里は?」

「わたしも、今回は自由形にしてみた……」

 へへ、と照れを誤魔化すように頬をかく。

「え。いや、あんた平泳ぎのが得意じゃない」

「そだけど、だって、らいかは中学からずっと自由形じゃん。だから」

 だからなんだ。全く理由になっていない。

 なっていないけれど、なんとなく背筋の辺りがくすぐったい。手が空いていたら、隣に座る彼女の頭をわしゃわしゃにかき回していたかもしれない。

 肩を寄せて、灯里が甘えた声で言う。

「らいか、たこ焼き一個ちょうだい」

「いいけど、熱いよ」

 長楊枝をふわふわの生地に突き刺して、小さな口へ放り込む。こぼれ落ちた鰹節の破片が、桜色の唇にぺとりと貼りついた。赤い舌が伸びて、それを舐めとる。

「らいかも食べる?」

 灯里が、食べ掛けの鯛焼きを突き出した。たまご色をした生地に、とろりと溶けたキャラメルクリームが染みている。 

 私は灯里の唇を見て、鯛焼きを見て、それからそっと視線を外した。

「いい。いらない」

「キャラメルクリーム苦手だっけ?」

「まあね。粒あんのが好き」

 餡子が好きなのは本当だけれど、断った理由はそうじゃなかった。


 夏休みは、大会に向けた練習プランが組まれていた。種目ごとに組み分けしたうえで、専任コーチが一人一人にアドバイスをしていく。そして、二日に一度は本番と同じ距離でタイムを測定する。

 練習が終わるのは夕方だ。冷水のシャワーを浴びて、ロッカールームで制服に着替える。正直なところ、授業がある普段のほうがよっぽどラクだ。

 どの泳法でも、スピードを出すにはキック、つまりバタ足の訓練が欠かせない。よって全員、練習後は太腿とふくらはぎがパンパンに張りつめることになる。もちろん上半身もだ。定期的にスポーツ整体へ通ってはいるけれど、お金がかかるので、毎日というわけにはいかなかった。

「今日さ、らいかの家、行ってもいい?」

 白いブラウスのボタンを留めながら、灯里がささやく。

 豊かな膨らみに生地が引っ張られて、脇の辺りにピンと皺が張っていた。やっぱり胸が大きくなっている、気がする。

「いいけど」

 私はロッカーの扉を閉じて、リュックを背負う。

「めちゃくちゃ疲れてるから、多分寝るよ。私」

「いいよ。マッサージしたげる」

「え、まじ」

「まじまじ」

 昔から、灯里はよく私へマッサージを施したがった。小学生の頃はただくすぐったかったり痛かったりしただけの指先は、今やすっかりプロ級のテクニックを携えている。素人のマッサージは筋を傷める可能性があるため推奨されないが、彼女なら話は別だ。遠慮なく、言葉に甘えることにした。


 高校の最寄駅から昇り路線で七駅。ホームに降り立つと、生温い潮風が頬を撫でる。私と灯里は、タイルアートのイルカが壁面を泳ぐ構内を抜け、夕陽に炙られたアスファルトを並んで歩いた。

 母と私は、駅から徒歩十分弱の賃貸マンションの八階に住んでいる。

 父はいない。

 二人は私が中学生になる直前に離婚し、調停の結果、母が親権を獲得した。離婚に至る経緯は知らない。興味もない。

 シングルマザーには金銭的な問題がつきものだ。でも、私はそういった方面での不自由を感じたことはなかった。娘の目から見ても、母は社会人として優秀だった。ぴしりと折り目のついたスラックスにタイトなジャケットを合わせて、颯爽と朝早く家を飛び出す姿には一分の隙もない。

 その代わり、帰宅はいつも遅く、日付を越えることも少なくなかった。今日も、夜は遅くなるとLINEが届いていた。

 私が母と言葉を交わす機会は月に数回あるかないかで、それは大抵の場合、事務連絡だった。まるで不器用な父と息子のようだ、と思う。

 実際、私の母は、母というより父的な存在だった。彼女は自分の居場所を職場と定義していて、私の部活や学業にはさしたる関心を抱いていなかった。少なくとも、私の主観では。

 父がいたときは、それでバランスが取れていた。かつて二〇〇メートル自由形で総体に出場した父は、私の泳ぎを見て、褒めてくれる人だった。彼が私を愛していたのか、私の素質を愛していたのかは、今となってはもう分からないけれど、当時の私にとっては同じことだった。

 けれど父はもういない。

 だから今、私を本心から褒めてくれるのは、灯里くらいのものだ。


 私は半畳ほどの玄関でローファーを脱いで、洗面所で手を洗った。背後で「おじゃましまぁす」という灯里の声がした。

「誰もいないって」

「だって。マナーだよ、マナー」

 洗面台の前を譲った。こういうとき、彼女の育ちの良さみたいなものが滲みでる。ちらりと玄関を見ると、二人分のローファーが綺麗に並び直されていた。

 私たちはリビングのソファに腰掛けて、液晶テレビのリモコンを操作した。灯里が最近ハマっているという女性ユーチューバーの化粧品のレポ動画を見て、それから加入している動画配信サービスで適当な映画を流した。

 灯里はクッションを抱えてそれなりに真剣に見ていたけれど、私はすぐに飽きて、ごろりとソファに寝転がった。

 鍛えていても柔らかな太腿に頭を載せると、本当に瞼が落ちそうになる。

「眠い」

「もう、いいとこなのに」

 灯里がリモコンを操作して、テレビの電源を落とした。彼女の手のひらが、壊れ物に触れるように私の髪を撫でる。

「じゃ、ベッドいこっか」

「言い方」

「他になんて言うんだよぅ……」


 ミニマリストを気取っているわけではないけれど、私の部屋は殺風景だ。

 水泳以外に趣味と言えるものはない。昔から飽きっぽくて、物事が続かない性分だった。

 灯里は一度ハマると長い。水泳以外でもイラストを描いたりしていて、たまにiPadで描いたソシャゲや漫画のキャラクターをSNSに投稿している。素人目に見ても中々の腕前で、それは才能というより性格と習慣の賜物だろう。

 制服のまま寝転ぶと皺になってしまう。クローゼットから室内着のスウェットを出して、ブラウスの一番上のボタンを外した。

 視界の端で、灯里は、明後日のほうを見てスマホをいじっていた。明らかに視線を逸らしている。

 彼女はいつもこうだ。ロッカールーム以外で私が着替えるとき、必ずといっていいほど目を逸らす。

「毎回思うんだけどさ。下着姿なんてロッカールームで普通に見てるよね。今更じゃない?」

 何だったら、お互いに下着の中身も知っている。昔は身体をすっぽり覆うタオルを使って隠していたけれど、高校に入ってからは皆、堂々と脱いで着るようになった。

 私の言葉に灯里は一瞬だけ視線を寄越して、けれどすぐにスマホを見詰め直した。

 そっぽを向いたまま、言う。

「いや、そうだけど、そうじゃないじゃん」

「何が」

「ロッカールームはさ、銭湯とかそういうオフィシャルな感じで……今はプライベートじゃん」

「ごめん、よく分かんない」

「むぅ」

 ばさり。チェック柄のスカートをフローリングに落とす。ぴくりと灯里の肩が震えた。

「じゃ、じゃあさぁ。らいかは、わたしがここで服を脱いでも平気なわけ?」

「なんであんたがここで服を脱ぐのよ」

「脱がないよ。例え話じゃん」

「別に」私は淡い水色のスウェットを手にとる。「気にならないけど」

 手早く着替えを終えて、シングルサイズのベッドに寝転んだ。何故か機嫌を一段階落とした灯里が、スプリングを軋ませて、ベッドの端に腰掛ける。

 ややあって、臀部に心地良い重量がのし掛かってきた。スウェットごしに、固いスカートのひだを感じた。

 小さな手が、そっと背中に触れる。

「いたっ」

 硬く張った筋肉を伸ばす手つきは、少しだけ乱暴だった。


  †


 大会当日は、生憎の雨模様だった。

 当日の朝に連絡し合って、私と灯里は最寄りのバス停で待ち合わせをした。会場は、かつて通っていた市民プールだ。いつかのように、バスの最後部席に並んで座った。

 今回は、大会自体のレベルはけして高くない。表彰台も十分狙えるだろう。問題はタイムだった。

 夏休みに入ってから、私のタイムは伸び悩んでいた。原因というほどの原因は無い。がむしゃらと表現できるほどの努力はしていないが、かと言って練習をサボっている訳ではなかった。あえて理由を求めるなら、身長が伸びなくなったことだろう。肉体の成長に伴って自然と伸びていたタイムが、伸びなくなった。

 けれどそんなのは当たり前のことだ。

 一方で灯里の成長は目覚ましかった。

 元々、同世代と比較して明らかに低かった身長が、すくすくと伸びていた。一〇センチ以上あった私との身長差は、四センチにまで縮まっている。当然その分手足も長くなり、ストロークもキックも強くなる。変化は、はっきりとタイムへ反映していた。むしろこれまで、あの低い背丈で推薦組顔負けの成果を出せていたことが、彼女の高い素質を示していた。

 それでも私の傲慢は、タカをくくっていた。

 二ノ宮らいかが、藤堂灯里に負ける訳がない。本気でそう思っていた。


 結果から言えば、確かに私は勝利し、金メダルを獲得した。

 ただ、薄氷を渡るような勝利だった。

 私はミスを犯さず、全力を出し切った。タイムは自己ベストを掠めるほどで、まず最高の出来だったと言っていい。一方で灯里は、明確にミスをした。二五メートルを泳ぎ切ったとき、クイックターンの姿勢に入るべき距離感を見誤ったのだ。熟練者でも珍しくないミスだが、それがタイムに反映したことは明らかだった。

 にも拘わらず、彼女は五〇メートル自由形の部で三位に入賞した。

 私とのタイム差は、ぼぼゼロ。ミスさえしなければ彼女が一位だったろう。誰の目から見ても、それは明らかな事実だった。

 

 メダルを授与された後、顧問の女性教師がやってきて、私たち二人に声をかけた。もしよければ、記念に写真を撮るけど、どうかしら。彼女の手にはスマホではなく、防水仕様のデジタルカメラがあった。

「お願いしまぁす。いいよね、らいか」

 私が断る前に、灯里が前に出て、朗らかに微笑んだ。そこには一片の皮肉も、邪気も見当たらない。きっと彼女に、そんな汚いものは存在しない。

 水に濡れた清らかな腕が、私の腕に絡みついた。幼かった頃とはまるで違う、成熟した膨らみが二の腕に触れる。

 彼女は誇らしげに銅メダルを鷲掴み、カメラへ向けて突き出した。


 †


 夏が終わり、紅葉が燃えるような赤に染まる頃、審判のときが訪れた。

 秋の県大会、そのメドレーリレーの選手選抜。

 メドレーリレーは競泳の一形態だ。文字通り、四人の選手によるリレーを行う。陸上競技におけるリレーとの違いは、バトンやタスキの類が存在しないことと、泳ぐ順番ごとに泳法が決まっていることだ。一番手から、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、自由形の順で泳ぐと定められている。

 専任コーチの発案で、本命の選抜チームとは別に、一年生だけのメドレーチームを組んで参加することになった。リレー形式にも、早いうちから慣れておくべき。そういう意図からの発案らしい。

 夏の大会と同様に、希望する泳法についてアンケートが行われた。実力の近しい者同士が同じ泳法を希望した場合、タイム測定の結果で出場者を決めることが、予め説明されていた。

 私は自由形で希望を提出した。

 灯里も、そうだった。


  †


 当たり前のように、私は灯里に敗北した。

 私たちの間には、僅差という言葉を選ぶことに躊躇いが生じるほどの差があった。

 私は退部を決意した。

 部活を辞めるかもしれない。その可能性は、以前から顧問とコーチに伝えていた。引き止められることは分かっていたから、嘘をついた。家庭の事情で、アルバイトをしたいんです。

 私たちの高校は、日中帯、かつ事前申請がある場合に限り、生徒のアルバイト就労を認めている。二人は私が片親であることを知っていて、だから何も言ってこなかった。顧問の目の端が潤んでいると気づいた時は、流石に良心が痛んだけれど、心に蓋をして見ないふりをした。

 灯里のタイムと、彼女がメドレーリレーの選手に選ばれたことが告知された後、私はコーチに体調不良を申し出た。もしかすると、彼女は何かを察したかもしれない。ただ、何も言わなかった。泳ぎが上手くなりたい人に泳ぎ方を教えることが彼女の仕事で、それ以上ではなかった。

 私は冷水のシャワーを浴び、ロッカールームで競泳水着を脱ぎ捨て、押しつけられた思い出をゴミへと変えた。このまま、職員室へ退部届を貰いに行くつもりだった。

 そして。

 そして───ドアが開いた。


 灯里が立っていた。

 彼女は水泳帽をむしるように脱ぎ捨て、大股で近づいてきた。

 羞恥が頬を焼く。咄嗟に、タオルを裸の胸元にかき抱いた。

「辞めるって聞いたけど」

 肩がすくむ。

 それは私でさえ初めて聞く、藤堂灯里の、怒りを帯びた声だった。

「家庭の事情なんて嘘でしょ。らいかの家、お金に困ってないじゃん。お小遣いだって私より多いし」

「……それ、誰から聞いたの」

「サトセン」

 顧問の渾名だ。大方、家庭状況に問題がないか探りをいれようとしたのだろう。思い返せば、いささか深刻過ぎる嘘だった。

「なんで辞めるなんて言うの」

 苛立ちが声に滲み出ている。なまじ天使みたいに整った顔をしているから、本気で怒ると迫力がある。

 もしかして、と灯里が言った。

「私に負けたから辞めるってわけ?」

 私は反論しなかった。そしてこの場合、沈黙はイエスと同義だった。

 灯里の眉尻が、きゅっと吊り上がる。

「馬鹿じゃん」

「うるさい。あんたに関係ないでしょ」

「無いわけ無いじゃん。何言ってんの。何言ってんのよ」 

 カチンときた。

 どうして、私の退部が灯里に攻められないといけないんだ。そもそも、こんなスポ根じみた激情に見合うほど、私は水泳が好きだったわけじゃない。むしろ、ずっと辞めたかった。疲れるし、面倒だし、なんとなく不衛生っぽいし、塩素の匂いは苦手だし。

 それでも私が続けてきた理由は、続けざるを得なかったのは。

 ただ、褒められたからだ。

 灯里が私を誉めてくれたから、それが麻薬みたいに私の脳を侵食して、辞めたくても辞められなかった。

 そうだ。言ってしまえば、私は中毒患者だった。賞賛という甘いシロップの味が忘れられず、そこに救いを求めて縋りつく愚かなジャンキー。

 私は、私をこんなふうにした相手を睨みつけた。

「あんたが私より早くなったら辞めるって、ずっと、そう決めてただけ」

「だから、何で」

 そんなの決まってる。

 だってもう、灯里は私を誉めてくれない。

 誉めて欲しいから、「らいかはすごいね」と言って欲しいから続けていたのに、その相手に負けてしまったら続ける意味がない。

 だから辞める。当たり前の話だ。

「───じゃあ、わたしも辞める」

 感情を抑え込んだ平坦な声で、灯里が言った。

「らいかが辞めるなら、わたしも辞める」

「なんで。別に、続ければいいじゃん。私より才能あるでしょ」

「そんなの知らない」

 駄々をこねる子供のように、灯里は首を振った。

「らいかが泳がないなら、続ける意味なんてない」

「どういう意味……?」

「だって、」

 灯里の目は、初めて見る色をしていた。いつもの明朗さとは程遠い、濁ってくすんだ色。

 嗜虐の色。


「だって、わたし、らいかを負かしたくて水泳してたんだもん」


「……え?」

 私の喉が、しゃくりあげるような音を鳴らした。

「ずっと悔しかったんだよ。同い年なのに、らいか、わたしを下に見てたでしょ」

 背筋を冷たいものがなぞった。すっかり忘れていた失敗を唐突に咎められたような、嫌な冷たさ。心臓の拍動が加速する。

 聞き間違いを期待する私に向けて、灯里が冷徹に言い放った。

「知ってたよ」

 すとん、と膝から力が抜ける。ロッカールームのビニル床に、剥き出しの臀部がぺたりと貼りついた。

「気づかないと思ってたの? 馬鹿じゃない。そんな訳ないじゃん。会ってすぐ分かったよ。この子、自分より格下だと思った相手としか付き合えないんだって」

「そんなこと、」

「そんなことあるよ。自分に自信がないんでしょ。だから、格下相手じゃないと怖いんだよ。褒めてもらわないと不安で、優位に立ってる相手じゃないと声も掛けられない。らいかのそういうとこ、ほんと馬鹿みたいだなって、ずっと思ってたよ」

 灯里が唇を吊り上げる。

「馬鹿みたいで可愛いな、って。そう思ってたよ」

 なんだそれ。

 知らない。こんな灯里を、私は知らない。認められない。

 だって認めてしまったら、今まで彼女がくれた賞賛は、敬意は、「すごいね」って言葉は、二ノ宮らいかを支えてきた骨組みは全部。全部。

 嘘に。

「だから頑張ってメイクの勉強して、友達増やして、勉強もしたんだよ。私が上になったとき、らいかがどんな顔するか見たかったから」

 頬に、灯里の手が触れた。水から上がったばかりの、冷え切った指先。

「───かわいい」

 凍えるような唇が、私のそれに押し当てられた。

 初めての口づけは、大嫌いな塩素の味がした。

「辞めないでよ、らいか。一緒に泳ご。それで、もっと見せてよ。今みたいな顔。それに、もしかしたら、また私に勝てるようになるかもしれないよ」

 至近距離で、雨に濡れた天使みたいに灯里が微笑む。

「だってらいかは、すごいんだから」


 (終)

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