第51話夢の中の話

 ふわふわとした気分。

 まるで割れないシャボン玉の中にいるような気分だ。

 つまりは、夢だな。

 夢だとわかっていて夢を見ることを明晰夢、などと呼ぶらしいが、今回のこれはどういうことだろうか。

 明晰夢については初めてではないのでそこまで驚くことではなく、問題なのはその内容である。


「ちょっと幼いけど……ハク、だよね?」


 宙に浮いた幽霊のような俺と、畳敷きの部屋で座っているハクと瓜二つの少女。

 見た目はハクにそっくりだが、その目はうっすらと濁っており、今のハクと比べて生気がとても薄い。

 何より、幼い。見た目ではなくて、雰囲気の話だが。

 これがハクだとしたら、俺の知らないハクの姿を俺が脳内で作り出したことになる。

 もしもハクでないとしたら、心の中ではハクのこんな姿を望んでいる浮気者ということになる。

 とりあえず浮気者のそしりを受けるのは嫌なのでハクとして考えることにする。

 幼くて生気のないハク……。ハクに違いはないが、痛々しくて見ていられない。


「すまん、なぁ」


 ハクの見つめている先には、布団に寝込んでいる、おそらくは青年がいる。

 こちらはこちらで、明らかにやつれ切っている。

 頬はこけ、ハクの手を握っている手は骨ばっていて、老人のようにも見える。

 そんな青年が声をかけると、ハクが動揺を見せる。


「なにも、謝る必要なんてないよ。お父さん」


 うーん。かわいい。

 はっ、いつもと違う口調と声色のハクに我を忘れてしまった。

 聞き間違えるはずもない、今よりも高めで落ち着きがないが、間違いなくハクの声だ。

 つまり、この老人にも見える青年は、ハクのお父さんということになる。

 カナがいる以上、育て親、ということはないだろうし、実父なわけだ。

 ご挨拶するべきかな?

 なんてふざけた言動をするわけにもいかないのは、重々承知なんだけども……。


「お前を、置いて逝くのは。心残りだ」


「うん、ありがとう。私は大丈夫だよ」


 安心させようとしているのか、強張った微笑みを浮かべるハク。

 辛い。そう思っているのは俺だけではないようで、お義父さんもまた苦々しい表情を浮かべる。

 しかし、もうすぐ亡くなってしまうであろう身分では、何を言っても無駄なのも事実。


「……愛しているぞ、ハッコ」


 長い逡巡の末に、限界が来る前にそれだけを言い残して、ぱたりと意識を失う。

 息を詰まらせたが、まだ胸が上下している、亡くなってはいないようだ。

 安心して息を吐く俺と打って変わって、また表情をなくしたハクはそっとお義父さんの手を取って頬に摺り寄せる。

 ああ、変わらないな。

 ハクがさみしい時にやる癖で、残念ながら俺に対してやってくれることは少ない。

 つまりそれは、今のハクにさみしい気持ちをさせずに済んでいるというわけで、嬉しいことでもあるのだが。

 夢の中のハクは、ゆっくりと名残惜しそうに体温をかみしめるかのように頬を手にすり合わせている。


「私も、愛してるよ。……なのに、私を置いていくんだね」


 長い時間の後、ぼそりとつぶやいた言葉。

 辛すぎて吐きそう。なんかの拷問か、これは。

 妖狐は最愛の存在を失くすと、わずかな間に衰弱し、死に至るのは、以前ハクに聞いた。

 つまり、ハクの母親はちょっと前に亡くなっていて。

 さらには、ハクの存在は父親をこの世に繋ぎとめるには弱かった。


「だからかぁ……。ハクの自己評価が低いのは」


 愛を信じられないと嘆いたハクの姿は、鮮明に思い出せる。

 もはや、この夢がハクの過去を映したものだと確信してしまっているわけだが。

 いや待て、その通りだ。まだ可能性は残ってる。この夢が俺の妄想でしかない可能性はそれなりの確立であるはずだ。


「よし、そうなればこの夢は無かったことにして、全部忘れて……」


「残念じゃが、そういう訳にもいかぬ」


 唐突にどこからともなくよく知るハクの声が聞こえてきたかと思うと、むに、と頬をつままれて引っ張られる感覚に無理やり夢から引っ張り出される。


「ちょっと痛い」


「痛くしておるからな」


 いつもの部屋、いつものハク、いつもとはちょっと違う目覚め。

 ハクがつまんだ頬を離すまでの間、現実との境があいまいな気分。

 こんな時間に起きているなんて珍しい、と思えば時計の針が想像よりも進んでいる。

 そういえば、昨日の俺は風邪をひいていたんだったと遅ればせながら気が付くほどには体調がいい。


「添い寝してくれたんだ。ありがとう」


「おぬしもしてくれたじゃろ」


 まず間違いなくハクのおかげだろうと感謝を伝えれば、ハクは眉を下げて困ったように笑う。

 恩を返したいからというのもあるだろうが、やりたいことをやった結果だろうとはその笑顔からわかる。

 ひとまずここはうまく話題に乗っからねば。


「風邪ひいたことあったっけ」


「そのままごまかすつもりかの?」


 だめだったわ。ハク相手にごまかしが通用するわけが無いことを、いつまでたっても学習しないお馬鹿は俺です。

 圧のある笑顔のハクから目をそらしつつ、何とかならないかと考えてみる。

 いっそ抱きしめるか……? 余計に詰められるだけだな。


「ふぅ……。まあ、わしも予想外のことじゃ。おぬしの責任ではない」


「あれ、ハクが見せてくれたわけでもないんだ」


 予想外なハクの言葉に思わずこぼせば、ハクも何を言っているのかわからないといわんばかりに首をこてん、と倒れさせる。

 自分で言うのもなんだが、珍しいことに食い違いが発生しているらしい。

 となれば一歩ずつ誤解を解いていく必要があるが、どこから間違っているのかがわからないので遠回りせざるを得ない。


「確認するよ」


「うむ」


「あの夢は、ハクが見せたものではない」


「そうじゃ」


「あの夢は、ハクの過去である」


「その通りじゃ」


「あの夢は、ハクも見ていた」


「うむ」


「あの夢を俺が見ていたことを知っている」


「起きるまでは確信がなかったが、そうじゃな」


「やっぱりご挨拶したほうがよかったかな」


「最後まで真面目にやらんか」


 大体のことは分かったので疲れてしまったのだ、許してほしい。

 呆れかえってしまったハクに、二度はやりませんと誓ってから、自分の推測を伝える。


「つまり、添い寝していたら、自然とハクの夢が俺に流れ込んだってこと?」


「その通りじゃ。さすがに、夢を無理やり見せるような術は……無いこともないが、わしは一切使えないのじゃ」


「で、覗き見た形になる俺が気にしているんじゃないかと考えたわけだ」


「そっちはすぐにわかるんじゃな」


 ハク検定なら一級とれる男を自称しているので。

 という半分マジな冗談は口に出さず、興味深げに耳を傾けるハクに最後の質問をする。


「辛くない?」


「平気じゃ、とは言えぬな。しかし、もう400年は前の記憶じゃよ」


 少し息を整える必要のあった俺と対照的に、少し唇を曲げただけで答えたハク。

 尻尾はいつも通りに揺らめいているし、耳もピンと立ったまま。

 その真っ赤な瞳に陰りはなく、懐かしさをにじませる以外には何も浮かべてはいない。

 強がっているわけでも、消化しきったわけでもない。

 ただ、時の流れというものは残酷で、時に優しい。


「忘却は人間への祝福である、かぁ……」


「忘れることはないじゃろうが……。その時の感情も、感覚も、風化するものじゃな」


 昔読んだ小説の一節を思い起こせば、ハクは自嘲するかのように鼻で笑う。

 忘れられない自分の弱さをきちんと知っていて、忘れてしまう自分の強さも分かっている。

 300から500年。ハクの生きた年月は、たかだか20年程度の人間には想像するのも難しい。

 それでも、ハクにかける言葉はどれだけの歳月を超えても変わらないだろう。


「ハクは、そのままでいいと思うな」


「一応、聞いておくが。その心はなんじゃ」


「割り切ったら大人になれる、そんなわけないじゃない。ってこと」


 ハクの瞳が大きく揺れて、うるみかける。

 それが雫になる前に、彼女は着物の袖でそれを隠してしまった。

 なので、俺はそっと立ち上がってキッチンに向かう。

 今必要なのは、いつも通りの、少しぬるいお茶だろうから。


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