第25話過去の話(前編)


「結婚、ねぇ……」


 問に答えるでもなく、呟いて天井を見上げようとする。

 ふわり、と柔らかな感触が腕に触れて、固まってしまう。

 ハクの尻尾だ。それはわかっているが、ハクの方を向くことはできなかった。

 ハクがどんな表情をしているのか、手に取るように分かるように、俺自身の表情もおおよそ分かる。


「カンナ……っ!」


 苦悶を噛み殺すように、か細く友人の名を呼ぶハク。

 ……ハクが苦しんでいる。

 そう思ったとたんに、すとんと胸の苦しさが消える。


「ひあぁっ?」


 安心させようと手を伸ばした先は、ハクの尻尾だったのだけども。

 スパーン! と小気味のいい音が鳴って、手が叩き落とされる。


「痛い。物理的に落ちるかと思った」


「いえ、それで済んでいるだけありがたいと思うわよ?」


「……わしを何じゃと思うとるのじゃ?」


 尻尾に急に触れると危険なことがわかりました。はい。

 途端に空気が緩まってしまったが、話が終わったわけではない。

 弛緩した空気の中でも、カナの向ける視線は変わってはいない。

 それはそうだろう。俺が同じ立場だったとしても、同じように思うし、同じように問いただす。これまでは、考えないようにしていただけで。


「ひとまずは、前向きに検討しますとだけ。ごめんなさい、それ以上は……今は無理です」


 姿勢を正して、ハクとカナの二人に答えを告げる。

 胸が苦しくなって、呼吸が浅くなって、視界が狭くなって、思考が狂っても、それだけは伝えなくてはいけない。

 過去と向き合う必要は無くとも、ハクと過ごす時間を逃げるわけにはいかないから。


「よい。わしは、よいのじゃ」


「そんな顔をしないでちょうだい。別に引き離そうってわけじゃないんだから」


 肌触りの良い、着物の生地がハクの温もりをほのかに伝える。

 多分、これは妖力のせいだろうなと感じつつも、即座に落ち着くあたりにほとんど答えは出ているようなものだ。


「この薄い胸は、ちょっと手ばなしがあたーっ!」


 本日二度目の、脳天にいい音を鳴らしながら落ちて来た平手を甘んじて受ける。

 重たい空気は苦手なのだ。ハクが悲しむ。

 だったら、俺の頭の痛みくらいは安いものだろう。


「ええい、もう……。おぬしがそれでよいなら、構わんがのぅ……」


「ほんとに貴方って人間?」


「いや、カナは知ってるでしょうに。……両親とも、人間の。純人間だよ」


 いぶかし気なカナには悪いが、俺に妖怪の血は入っていない。

 祖父以上のことは知らないにしても、そういった素振りは無いし、ハクからも妖力が無いことは太鼓判を押されている。

 たとえハクが反応せざるを得ない、ピンポイントな発言ができるとしても、妖狐のように心が読める能力は無いのだ。

 そんな俺の答えに、あっさりと疑問を取り下げて、それもそうねと納得するカナ。

 ハクはといえば心配そうな色を瞳に漂わせながらも、何事も無いようにあきれたようなフリをしてお茶を飲んでいる。

 耳がピンと立っていて、何かを気にしていることは丸わかりなのだけれど、それを俺の口から言うのは少し難しい。


「ごめんなさいね、気が利かなくて」


「いえいえ。そういうわけなので、俺の身の上話はお願いするね」


 カナが察してくれたらしいので、あとは丸投げする。

 正直なところ、耳を塞いで布団にこもって居たいくらいだが、太ももにハクの尻尾が触れているのでそういうわけにもいかない。

 こうして甘えてくれるようになったことは喜ばしいのだが、今は少し辛い。

 とはいえ、ハクが聞きたそうにしている姿を見るのはまんざらでもないし、どちらにせよ少しは我慢していただろうけど。


「ひとまず、私が調べたのはカカルの両親についてよ。貴方がバイトをしていないのはハクから聞いていたけれど、その割には生活に苦労するどころか少し羽振りがいいみたいだったから」


「そんな羽振りのいい事したっけ?」


「自炊の材料に頓着しない、ポンとモニターや服の代金を出す、旅行に行くことに躊躇しない……。というのは、一人暮らしの大学生としてはあまりいないんじゃないかしら」


 たしかに、友人は昼ご飯をできる限り安く済ませようとしているのを見かけるし、服が買えないという愚痴も聞く。

 そのあたりはハクもあまり気づいていなかったのか、俺と同じようになるほどなぁと頷いている。


「そういうわけで、両親からの仕送りが大きいのか調べたわけね。結果としては、貴方に両親は居ないことが分かった」


「……っ!」


 ハクが息をのむ。

 驚いた、あるいは同情した、といった様子ではない。

 どちらかといえば、納得したという感じが強い。


「両親は離婚、どちらも親権を拒否……。結果として、あなたは多額の慰謝料とともに父方の兄弟、つまり叔父に引き取られた。今は、叔父の元を離れて暮らしている」


「そして、叔父はお金持ちで、両親から支払われた養育費名目の慰謝料は全部俺にくれた」


「ええ、そこまでは簡単に調べがついたわ。でも、それだけではハクを見つけられた理由にはならないのよ。考えられるのは、両親の離婚の理由」


 一瞬の沈黙。

 俺はそれを答えられないし、ハクはうっすらと眉をひそめる。

 カナは、そんな俺たちの反応を見て、すこし嫌そうに話を続ける。


「私だって、気分のいい話ではないわよ。両親の離婚の理由は、不倫と浮気。つまり、両方とも夫婦とは別の相手がいたわけ。その時点でロクな両親じゃないのに……」


 ちらり、と俺の方に目くばせするカナ。

 ハクもつられて俺を見て、驚いたように目を見開く。

 まあ、良い顔色はしていないだろうけども。

 よほど心配なのか、太ももに乗っていたハクの尻尾が俺の腕に巻き付いてくる。

 極上の触り心地で、普段ならばこれだけですべてのストレスが吹き飛ぶというものだが。


「ふぅ……。覚悟は、してるんで……」


「……そうね、話さないという選択肢は無いもの。ハク、落ち着いて聞いてちょうだいね。……カカルの両親は、離婚後に周囲の人にこう話しているわ」


 ――カカルのせいで、私たちの生活は壊れたのよ!

 ――全部、カカルのせいだ!


 何度も聞いた声が、耳の奥にこだました。

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