第26話過去の話(後編)
きっかけは些細なことだった。
誰もが、というわけではないが、少なくない人が子供のころに経験したこと。
夜、ふとしたきっかけで両親の寝室を覗いてしまった。
それだけであれば苦い思い出としていつかは笑い話になっていたはず。
それが昼間だったとして、仲が良いだけの話なら何も問題はなかった。
夏休みのある日、ちょうど今日のように暑い日だった。
遊びに出かけていた俺は、水筒を忘れたことに気が付いて、走って家に戻った。
家から出て、30分ほどの間に、母が間男を連れ込んでいたことなど知りもしなかった。
水筒を取りに戻っただけだから、ただいまも言わずにリビングに入った。
寝室から、母の声が聞こえた。
苦しげなような、甘えてくる猫のような。――今となっては、吐き気のする声。
気になって、寝室をのぞけば、知らない男の人が母と一緒に居た。
子供心に、ダメなことだと分かった。
これは、見てはいけないことだ。今すぐに逃げなければ。
何も言わずに、家を出た。できる限り足音を殺して、できる限り急いで。
そして、すぐに忘れようとした。
しかし、一週間もしないうちに、すぐに思い出された。
母は町内会に出ていて、夕食は作り置きで済ませる。
俺は、遊ぶはずだった友人が宿題を忘れたせいで遊べなくなり、一人で留守番をしていた。
昼下がりの家には、誰も居ないはずだった。
玄関の鍵が開いて、誰かが帰ってきた音には気づいていた。
母が早い目に帰ってきたのだろうと、読んでいた本にまた目線を落とす。
数分もしないうちに、あの声が聞こえてきて、おかしいと思った。
母がまた、あの男を連れ込んだのか。それとも――。
足音を殺して、両親の寝室を覗きに行く。やめておけばいいのに。
はたして、俺の懸念は当たっていた。
寝室に居たのは知らない女の人と、父。
いつの間にか、俺は部屋に戻っていた。
その時の俺が何を思っていたのか、もはや思い出すことはできない。
今の俺としては呆れかえるばかりだが。
それだけで済んでいれば、まだよかったのに。
数日して、放課後、学校から帰ってきた俺を迎えたのは、両親の怒声。
――カカル、あんたのせいなのね!
――お前しかありえない! なんでそんなことをしたんだ!
何で怒っているのか、その時は分からなかった。
でも、心当たりのあった俺は、親の怒声に怯え、泣いて謝った。
子供だった俺には、それくらいしかできることは無かった。
後になって、互いに愛人と連絡がつかなくなったことを知った。
愛人たちは、誰かにバレたことに気づいていた。強かな人たちだった。
両親は、互いを疑った。互いが互いに言い訳を続け、焦れた、幼稚な大人たちは、無力な子供に怒りをぶつけた。
理不尽だと感じる、今の俺なら、もっと何かできただろうか。
「――おぬしっ!」
ハクの切迫した声で、現実に引き戻される。
視界がぐらぐらする、呼吸が安定しない。
ハクに背中をさすってもらっているのを、どこか遠くに感じながら呼吸を整える。
うむ。少しは慣れたと思っていたが、こうして思い返すと冷静ではいられないか。
「……ありがとう。落ち着いて来たよ」
何とか呼吸を落ち着かせて、ハクを安心させようと声を出す。
それが自分でも驚くほど擦れていて、これでは逆効果だと苦笑する。
多分、顔色が俺の思っている以上に悪いのだろう。
ハクは俺の顔をのぞき込んで目を見開くと、また背中をさすり始めた。
「……ごめんなさいね。辛いことを思い出させたわ」
「いえ、いつかは話さないといけなかったので」
これほどまでとは思っていなかった俺の想定の甘さも含めて、仕方のないことだ。
ハクのことを聞くつもりは無かったが、俺のことは話したかった。
恩返しの方法を限定する理由をいつまでたっても言えないのは心苦しかったから。
そんな、俺のわがままを叶えてくれた結果、ハクを心配させてしまったのは大失態だが。
今にも涙を流しそうなハクの頭を撫でて、ごめんねと告げる。
「……おぬしは、悪くないじゃろう」
「そうかもね。じゃあ、ハクも同じのはず」
ハクは、ハッとしたような表情をして、すぐに顔を伏せた。
何を恐れているのか、何に申し訳なく思っているのか、そこまでは分からないけども。
ハクが俺は悪くないと言うのなら、俺はハクも悪くない、と答えるしかない。
それはハクにも分かっているはずだ。結局のところ、感情が割り切れないだけだから。
「んっ。とりあえず、私たちの調べたのはこれくらいよ。参考にしてちょうだい、ハク」
「……分かった」
カナが咳払いをして暗い空気を払しょくしようとするが、沈んだ様子のハクは変わらず平坦な口調で返事をする。
その様子からは、これ以上は触れないで欲しいという思いがにじみ出ていた。
お手上げといわんばかりに肩をすくめると、カナは俺に向きなおった。
「私は、正直なところ貴方の気持ちが分かるとは言えないわ」
「でしょうね」
何でもないことのように首肯する。
だって、分かりきっていたことだから。
ハクとの出会いの日、なぜ俺だけが彼女を見つけられたのか。
あの時の俺は、彼女と近かったからだ。
それはすなわち、カナは、ハクを救えなかったからだ。
カナは、ハクとは違ったからだ。
そんなことを口には出さなかったが、カナは表情を歪める。
カナの表情はそれほど分からないし、興味が無いが、何となくわかる。
知った風な口を、と言いたげな表情だ。
まさにその通りだと、同意するのは簡単だが、ここにおいてはそうもいかない。
「先に言っておくけど」
「何かしら?」
「俺も、俺なりにハクのことを考えている。カナをないがしろにするわけではないけれど……そのやり方で、うまくいくとは思えない」
俺とカナは、真正面から向かい合って、お互いの信念をぶつける。
正確には、俺の信念だけだけど、それがカナとぶつかることは分かりきっていた。
ハクは、顔を伏せたまま何も言わない。耳だけが、俺たちの様子を探っている。
じっと、カナが俺を探るように見つめる。俺は黙ってそれを受け入れる。
当然のごとく、折れたのはカナだった。
「そう、ね……。ごめんなさい、私はハクの親じゃないのに」
「そんなことは無いのじゃ! カンナは、わしのことを……」
弾かれたように顔を上げて詰め寄ったハクの頭に、カナは優しく手をのせる。
その仕草は、母親のようで。
しかし、残酷なことに、彼女はハクの母親ではない。
どうあがいても、ハクの母親にはなれない。
言葉を詰まらせたハクに、カナは優しく語り掛ける。
「ハク、貴女は貴女のことだけを考えなさい。もう、自分をないがしろにしちゃだめよ? 貴女の、たった一人の、大切な人が悲しんでしまうから」
たった一人に選ばれなかった悲しみを飲み干した言葉は、誰が見ても母親のそれだった。
だからこそ、ハクはただ頷いた。何も答えられなかったから。
ごめんなさいは望まれていない。ありがとうは嘘になる。
ハクは、何も言わずに、カナに頭を撫でられている。
世界ってのは残酷だなぁ。
なんて、ありきたりな言葉で誤魔化しながら、俺は二人を見ていた。
そうしないと、何かを恨んで、吐き出してしまいそうだったから。
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