第7話夏が来る話

「汗だく、じゃのう」


 びっしょりとシャツを汗で濡らした俺にタオルを差し出して出迎えながら、心配そうにつぶやくハク。

 それというのも、なんもかんもご機嫌な太陽と南風が悪い。


「急に暑くなって、体がバグりそう」


「梅雨も明けて、すぐにこれじゃからなぁ……」


 どうも梅雨の終わり際に台風がかすめて行ったらしく、梅雨明け宣言と同時に記録的な猛暑となっていた。

 おかげさまで暑さになれていない体は、これ一大事と汗をたんとお出しになるのである。

 シャツがぴっちり体に張り付くほどの汗は、逆に爽快に感じるほどだ。


 わずらわしいのは間違いないが、こんな暑さが続くとなるとハクの体調も心配になる。


「いやほんと。暑いのは疲れるから嫌いなんだけども……って距離遠くない?」


 受け取ったタオルで汗をぬぐいながら話していたら、ハクが遠ざかっていた。

 普段なら机をはさんで座っているはずなのに、今日は部屋の端っこの方まで移動している。


 うん、まあ。正直理由はよくわかっている。

 ハクが着物の袖で鼻から下を隠していなくても、普通に分かる。


 そりゃあ、人間社会に適応しているとはいえ、元は野生動物だもんね。

 人間よりも鼻はきくよね。仕方のない事なんだけれども、なんだか涙が出そう。


「むぐ、まあ……。そんなところじゃ。すまぬが、シャワーを浴びてくれぬか。服は用意しておくゆえ、な」


 耳をぺたんと折りながら、涙を浮かべて言われると、ちょっと心が折れそうです。


 これはシャワーの水滴であって、涙ではありません。

 そんな風に強がりながら、念入りに体を洗っておきました。直接汗臭いと言われなかっただけまだマシだと思おう。


 心機一転、気を取り直してリビングに入れば、クーラーがきちんと効いていた。

 心のヒビに気配りが沁みる……。


「そこまで気を落とすでない。あぬしは何も悪くない、仕方のないことであろ」


「ちゃんと制汗剤を用意しておきます。ハクに嫌な思いさせたくないし」


「嫌な思いなど……」


 顔を赤くして、目をそらすハク。

 そわそわと尻尾が落ち着きなく動いているので、機嫌が悪いわけではないようだが。


「気は使わなくてもいいよ?」


「ぬぅ……。……ぐぬ」


 長く、長く、目を閉じて悩みはじめる。

 ぱた、ぱた、と尻尾が上下にリズムよく動いている。


「……また今度じゃ。今は言うべきではなかろう」


 悩んだ後に出てきたのは、思わせぶりな言葉。

 言いたくないこと、というわけではないが、今でなくてもいい、といった感じだろうか。


 気になるにはなるが、ハクがそう言うのなら今は聞かない方がいいのだろう。

 気になるけど、気になるけども。


「言わぬからな?」


 思いが目から溢れてしまっていたのか、目線から逃れるように体を横に向けて念を押すハク。

 こうすると、俺がハクをいじめているような気分になってしまう。

 小さい女に襲い掛かろうとする小さい男か、言ってて悲しくなってきたな。


「今は、ってことはいつか話してくれるわけだ」


「……まあ、そうじゃな。冬が終わるころには、話せるじゃろ」


「冬かあ……。夏も始まったばかりなのにね」


 ハクと過ごし始めて、一か月とちょっと。

 夏本番が来た、と思ったら次は冬の話である。

 何とも、気の長いと言うか、贅沢な話だなと思う。


「……わしにとっては、ほんのひと時じゃがな。おぬしが聞きたいと思うたら、聞いてくれても良いぞ」


 冬の終わりと言われてつい、半年後のことを考え始めたせいか、ハクが心配そうな目つきになる。


 片耳だけピン、と立てて、俺の言葉をよく聞こうとしている体勢だ。

 あまり見ない姿勢だが、割とかわいいので好きなポーズだ。

 当然ながら、そんなものをを見ていれば、悩んでいたことはどうでもよくなるわけで。


 何とも単純な話だと、つい笑みがこぼれる。


「ハクが話したくなったら、話してもいいんだよ?」


 仕返しにと、少し意地悪なことを言ってみれば、ハクは両耳をピンと立てて顔を赤くする。

 話したくないというほどではないが、恥ずかしい事らしい。

 ついつい、またクスクスと笑ってしまう。


「むぅ……。して、これからは暑さに気を付けるのじゃぞ」


 からかわれるのに耐えきれなくなって、話題を転換しようとする。

 乗らない理由も無いので、相槌を打ってハクを見つめる。

 うっすらとした頬の赤みを残したまま、こちらを見つめ返す。

 それを見ていると、また笑い声が漏れてしまう。


「なんじゃ。暑さでおかしくなったのか?」


 いぶかし気に、眉を寄せるハク。

 確かに、暑さのせいもあってか変なテンションになっている自覚はある。

 一番の理由は、やっぱりハクのせいなのだけど。


「ねえ、ハク。夏だね」


「……? 夏じゃな?」


 セミはミンミンと鳴き始めているし、太陽はカンカン照りだし、間違いなく夏である。


 分かりきったことを聞かれて困惑しているのか、ハクの返答が一拍空く。

 そう、夏なのである。夏ならば、暑いばかりというわけではないのだ。


「やっぱり、夏と言えば海水浴だよねぇ。夏休みもあるし、いろんなところに行きたいかも」


「ほう……。たしかに、遊びにゆくのは楽しそうじゃの」


 夏らしいイベントを満喫しなければもったいないだろう。

 ハクにとっては一瞬でも、思い出をいっぱい作れば一瞬でも楽しいだろうし。

 それに、やっぱり海だ。ちょっとどころじゃなくハクの水着姿が見たい。


 決していやらしい目的ばかりではなく、いつも和服姿で、露出の少ないハクがどういう水着を選ぶのかという好奇心もある。


 ハクも乗り気らしく、目を細めて同意する。

 行きたい場所や、夏のイベントを思い起こしているのか、尻尾をゆったりと揺らしながら上を見上げる。


「なるほど、夏じゃな」


「そう、夏なんだよ」


 しばらく考えた後、俺と同じようなことを言うハク。

 夏祭り、海水浴、夏休みの旅行……夏にしかできないことはやっぱり多い。

 そんな思いが、夏だなぁという感慨を起こさせるのである。


 俺が強めに同意すると、ハクがおかしそうに笑う。

 いつになくやる気を出した俺の様子がおかしかったのかと思えば、少しいたずらっ気のある笑みを浮かべながら、からかうように目を細める。


「ふふ、エスコートは、頼むぞ?」


「頼まれますとも」


 あの時は声を作った上にウインクまでしたから恥ずかしかったのであって、普段通りにやるのであれば特に問題は無いのだ。


 むしろ、ハクからエスコートを頼まれるなど、光栄以外の何物でもない。

 たとえ荷物持ちだろうとATMだろうと喜んで頼まれようというものである。

 そんな風に簡単に言ってのけたせいか、逆にハクの方が気圧されてしまったようで、耳がへにょんと折れ、尻尾で口元を隠してしまった。


「照れてる?」


「照れてなどおらん」


 ツーン、と急に硬い声になってしまった。


 顔が赤いわけでもないし、照れている感じではないが、いたずらが失敗して拗ねているわけでもなさそうだ。


「……夏休みはもう少し先だし、まずは日帰りで海水浴かなぁ」


 考えても分からなさそうなので、話題を戻すことにした。

 エスコートを頼まれている以上、プランを考えるのも重要だから。

 尻尾はそのままだが、耳が元通りになったので、話題そらしには成功したようだ。


「水着は、そういえば持ってないな。買いに行かないと」


「それならば、わしも行くぞ」


 ここ最近はアウトドアな遊びに気を向けていなかったから、水着どころか、外で運動できるような服装は全般的に持っていない。

 海水浴に行くまでに買いに行こうと思ったら、ハクも尻尾を下ろして思い出したようについてくると言い出した。


 はて、ハクは普段から妖力で服を編んでおり、服を買う必要はないはずだが。

 首をかしげて、考えていると、ハクがジトっとした目で説明し始めた。


「おぬし、わしの服が洗濯せんでよいからと、洗濯を自分でやっておるじゃろう」


 そんな話もあったな。


 今でも洗濯は俺の仕事となっている。代わりに、夜ご飯の準備がハクの仕事になっているので、家事分担としてはちょうどいいだろうと思うのだが。


「やっぱダメ?」


「居候しとる身のことも考えよ。昼間は暇なのじゃ」


「……じゃあ、一緒に水着も買っちゃおうか」


「なんじゃ、見たいのか?」


 確かに、見たいのはもちろんだが、それ自体は問題ではない。

 あっけらかんと言ってのけたように、ハクに頼めばすぐに水着を着てくれることはもちろん分かっている。

 しかし、水着を買うという大義名分、さらに言えば、俺が見て選ぶという前例を作ることにより、水着だけではなく、普段着にいたるまでコーディネート……ひいては貢ぐことも可能になる、ということ。

 フットインザドアー、交渉術の基本である。


「……よからん気配がするのう」


「ハクの服を買える喜び、それが俺を狂わせる……」


「何を言っておるか。全く、わしに洗濯をさせるのであれば、一度くらいは良いじゃろ」


「マジで?」


「大マジじゃ」


 ニヤリ、と笑みを浮かべながら、少しふざけたように答えるハク。

 これは多分、ハクも同じことを考えていたかな。

 つまるところ、ウィンウィンである。


「楽しみだねぇ。服のこと、勉強しなきゃ」


「ふふ、エスコートのみならずコーディネートまで、か」


 嬉しそうに尻尾をくねらせながら、笑い声を漏らしている。

 楽しみにされているのであれば、こちらも本気でやらねば無作法というもの。

 夏の日差しもいざ知らず、暑さに負けぬほど熱を上げることを決意する。


 今年の夏は、とても良い夏になるという確信があった。


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