エピローグ


11:「終」


 天気のいい日である。なんとも、抜けるような青空、という表現がピッタリであろう。

 今日は週末。聖隆たち八健高校サッカー部は、今、洋星高校のグラウンドで試合準備に勤しんでいるところである。

 八健高校と洋星高校は市としては別の場所にあるが、地理的には最も近い。市境になっている川を挟んで、わずか600メートルという距離にある、しかも同じ公立高校ということで、ライバル心よりも親近感が強い関係であった。

 なので恒例の対抗戦も、泰波高校に比べれば、比較的にだが和やかな雰囲気で行われることになる。チア部や応援団が練習がてらに声援を送り、過保護な保護者や、冷やかし半分の生徒の友人なんかが観覧という名のお喋りに興じ、暇を持て余した教職員がボーっと眺めながら時折ヤジを飛ばす、そんな弛緩した空気の中で行われるのが常であった。

 昨年までは。

 しかし、サッカー部においては、この慣行は通用しなくなっている。観覧席には他校の女子さえも忍び込み、アップ中の一挙一動にすら黄色い声援をあげ、保護者のおば様方も落ち着かなげに視線を投げるのだ。この、まるでアイドルグループがローカルなイベントにやって来たかのような異様な雰囲気は、洋星高校サッカー部の近年の特徴と相関する。

 過去にない程のイケメン集団。それが、今の洋星高校サッカー部の特徴なのだ。

 中でも一番の目玉は背番号10。2年生ながら堂々とエースナンバーを纏う、月見里 和哉(やまなし かずや)である。

 父親が総合病院の院長であり、当人も成績優秀で運動神経に優れ、容姿も端麗でありながら、性格的にも穏やかで鼻にかけたところのない完璧超人。天から二物も三物も与えられた、生まれながらの勝利者は、近隣女子の羨望の的としても有名だ。彼を一目見ようと、公式戦では関係のない若い女性が客席を埋め、練習試合なんかでは集中できないからと、親族や学校関係者以外の立ち入りを禁止しているほどである。

 その他にも容姿の整った部員を複数人も擁する、近隣屈指の華やか男子サッカー部なのであった。


 という大まかな説明を、わざわざ貴重な休日に姉たちにしなければならない桃史は、自分の身に降りかかった不幸を呪うしかないのである。

 おまけに、姉の付き添いで来ているであろう彩乃が桃史の説明を聞いて、

「へー、確かにカッコいい人、多いかもねー」

 なんて頷くものだから、彼としては気が気ではない状態なのである。

 そんな弟のやきもきを知ってか知らずか、胡花は首を軽く傾げながら、

「じゃあ、その顔の整っている人が、例の三大なんとかの人なの?」

 と聞いてきた。

「……いや、違う」

 内心の焦燥を取り繕うように。わざともったいぶった様に首を振って見せる桃史なのであった。

「なら、あそこら辺の誰かとか?」

 と彩乃が指し示したのは、グラウンドの一隅で談笑するイケメンたちの集団だが、桃史はそれにも否と答えるのだ。

 それなら誰が? と不思議そうな顔をする二人に対して、軽く視線を左右させると、見つけた。一角を指差したその先には、観客席の双子美少女――密かな洋星高校の名物である――と談笑する、一人の男子の姿があった。

「…………あれ?」

 思わず彩乃が漏らしたのも納得の、何とも存在感の希薄な少年であった。影が薄くてむしろ目立つというか、路傍の石の如き凡庸さが、量産型モブの一員かのような、オーラの片鱗すら感じさせない普遍さすらも纏っているというべきか。

 身長普通、体型痩せ型、速そうでも強そうでもないし、外見的な凄みはミリほども感じない。やや離れた場所から見ても、顔の造作に特徴はなく、運動部にしては髪の毛の伸び方が野放図かな、というくらいの平凡さである。その証拠にと言うべきか、外見がそっくりの美少女たちと喋っているのに、特に注目もされず他者からスルーされているほどの、なんとも空気に混ざった存在感を発揮しているのだ。

 えっ? という疑問符いっぱいの表情でこちらを見てくる姉と彩乃。その気持ちは十分に理解できる。豪快で磊落で見目も良い、なんとも人目を引く魅力に溢れた辰野 聖隆や、長身で立ち居振る舞いもクレバーな麻宮 聖伍と並び称される存在が、やたらと目立つ特徴に溢れた洋星高校サッカー部内で、何故よりにもよって一番地味な男なのか、とは常々から思っていたことなのだ。

 しかし。現実は残酷である。

「そう、あれが『もったいない三大聖』最後の一人、『懈怠のセーチ』こと槙野 聖一(まきの せいいち)だよ」

 もったいない三大聖。『速度超過のマタ』こと辰野 聖隆、『壊し屋セーゴ』こと麻宮 聖伍、そして『懈怠のセーチ』こと槙野 聖一の、それぞれ名前に「聖」の字を関する三人の実力者を総称して呼ばれるのだが、各二つ名は諸説あるのである。格好つけて言ってみたけど、字面から察するに名誉な呼び名ではなく、元々は蔑称みたいな使われ方をしたのだが、本人たちがそれなりに気に入ってしまって定着したという背景もあるとかないとか。

「『懈怠』って……めんどうくさい、ていうこと?」

「まぁ、サボり魔、て意味だね」

「でも、ちゃんと試合に来てるわよね? 練習に出ないっていうことかしら?」

 胡花が首を傾げると、うんまぁ、と桃史は思わず言葉を濁した。彼女たちは実際に、泰波との交流戦で遅れてやって来た某先輩が、悪びれもせず合流してきた実例を目撃しているのである。それに比べれば全然まともな様子なのは言い逃れもできない指摘であろう。

 口で説明するよりも、実際に見てもらった方が分かりやすいと判断して、曖昧な反応を返すに留める。

「まぁ、見てもらえれば分かるよ」

「そうなのね。でも何だか、あんまり良い言葉じゃないわよねぇ」

 と胡花が溜息交じりに呟く横で、

「いや『速度超過』もいい言葉じゃないんじゃない?」

 彩乃が冷静なツッコミを入れてくれる。要はスピード違反ってことだもんね。

 ふと、彩乃が柔らかい表情をしたかと思うと、グラウンドに向けて小さく手を振るのが見えた。ギョッとして視線の先を追うと、そこには辰野 聖隆の姿があった……が、手を振り返しているのは、いつも聖隆の隣にくっ付いている目立たない方の男子ではないか?

 聖隆の方もこちらに気付いて手を振っている。これは姉に向けたものであることは明白であるが、では地味な方が指向している、何やら甘酸っぱい空気を纏った青春の香りは、どこに向けて放たれているというのか。桃史の頭は混乱している。

 しかし困惑している桃史のことは気にせず、姉は無情にも追撃の情報を投げかけてくるのである。

「アヤちゃん、すっかり仲良しになったわね」

「まぁね~」

 優しい光を帯びた眼差しを向けた彩乃。その視線の先では、聖隆らが洋星サッカー部の、香椎と太地の凸凹コンビと話し込んでいるのだった。

「あの4人、中学時代に一緒の部活だったらしいよ。ハルちゃんの家に写真あったんだー」

 何気なく出てきた発言の、なんと衝撃的なことよ。桃史の精神は甚大なダメージを受けざるを得ない。

 そんな弟の心情を知ってか知らずか、姉は何気なく会話を続けていた。鬼畜の所業である。

「この間もお家にお邪魔していたようだけれど?」

「いやー、ハルちゃんの弟くん達がカワイくって、ついつい長居しちゃうんだよね~」

 ハルちゃん呼びしてるんだ、という驚愕と、そもそも名前を知らないという微かな、そして失礼な疑問を抱きながらも、桃史は焦燥に駆られた。微かに恋慕を抱いていた姉の友人が、どこの馬の骨とも分からない、影の薄い男といきなり急接近しているのである。

 数瞬の葛藤の末、桃史は震える声で、確信的な疑問を絞り出した。

「…………付き合ってるの?」

 その問いに、ギョッとしたような表情を見せた後、彩乃は慌てて両手を振った。

「いや違うし、そういうんじゃないし! 付き合ってないから!」

 しかし言葉とは裏腹に、顔を真っ赤にして否定する彼女の姿からは、ありありと香る交際直前の青春の匂いが振りまかれているのである。桃史は絶望した。

 沈みゆくように暗転する視界の隅で、我関せずといった様子の姉が、観客席の端の方に手を振っているのが見える。桃史は認知の外であるが、彩乃は話題を変えようとそちらに食いつくのだ。

「あ、大井さんと芳野さんじゃん! ハナ、仲直りできて良かったよね!」

 いささかワザとらしい話題の転換だが、胡花は気にしなかったようである。

「ふふっ、そうなの。二人ともとってもいい子で、仲良しになれて、すごく嬉しいわ」

 ニコニコと、まるで年下の子を扱うような言葉を使う胡花。しかしその実、例の件で助けてもらった恩は強く感じており、お礼を兼ねて開いた先日の食事会でゆっくりと話ができたことが、彼女たちとの関係の良化のきっかけとなったのであった。

 早乙女邸で開かれた女子四人の食事会は、当初こそゲストの大井さんと芳野さんが恐縮した様子であったが、終始和やかな雰囲気で進み、穏やかな空気の中で終了してくれたのである。普通にしていれば常識人の少女たちであるから、何だかんだで共通点も多く、楽しい会話が交わされた会合であった。

 ただまぁ、早乙女家からの帰途に、彩乃が大井さんと交わした密約のことは、胡花は知らないのだが。

「じゃ、じゃあ、あの子たちの趣味とかも、分かってくれちゃったりしたの?」

「いいえ、それは無いわ」

 勢い込んで尋ねる彩乃だが、その期待は無情にもバッサリと切り捨てられるのであった。

「あ、ああ、そう、なんだ……」

「それとこれとは別問題だもの。分からないものは分からないわ。だけど、分からないからって否定するのは違うのだし、そういう趣味があるっていうことは、理解しているのよ」

 やおい趣味を黙認するというだけで、まるで悟りを開いた慈母のような笑みを見せる胡花に、なんだか複雑そうな表情の彩乃が、そうなんだね、と乾いた相槌を打つ横で。

 桃史は混乱一歩手前の状況から帰還することができず、ぐるぐると脳細胞を空転させながら、自分の初恋が終わった事実を必死に否定しようと躍起になっているのであった。



 知った顔を見つけた聖隆は嬉々として彼らに寄って行った。香椎 秋と太地 新、中学時代の頼もしい戦友である。

「久しぶり」

 と破顔して手を挙げてくれたのが、電柱のように細長いゴールキーパー、太地 新だ。中学生で180cmを超えていたが、今では更に高くなったようで、その長身と長い手足、思い切りのいいセービングでゴールの門番と化す、高校生離れした有望株である。また個人としても、穏やかで目端の利いた性格は、多くの人に悪印象を与えない好青年なのであった。

 一方の香椎はというと。

「なんだ、女なんかできたのか?」

 などと無遠慮にのたまってしまう、直截な性格をしているのである。見た目は小柄で、一見すると女子にも見紛う端正な顔立ちをしており、まるで芸能界の大手事務所に所属しているのではないかというほどの美少年だが、思ったことを無包装で投げつけてくる上に、観察と分析に長けているので的確な言葉の刃となって相手の心を抉るので、人間関係に難のあるタイプなのである。アイドル然とした容姿から放たれる悪口雑言に、女性ファンだけでなく一部の特殊な層からも変な目で見られている、という噂もあるが、真偽のほどは定かではない。

「おう、羨ましいだろ」

 客席の胡花に手を振ってから秋に向き直る聖隆。その堂々とした、照れるそぶりを全く見せない様子から、秋はつまらなさそうに口を曲げ、新は思わず苦笑である。

 なので彼の興味は早々に、隣のデレ顔少年へと移行するのであった。

「春一も鼻の下のばしてるなんて珍しいじゃん。いつから付き合ってんの?」

「んえっ!?」

 若干のトゲを含んだ発言に、当人は赤面して狼狽するという、典型的な経験不足を露呈するのである。

「いや別に、俺はその、そういんじゃないし……!」

 慌てたようにバタバタと手を振る春一を見て、秋はその童顔に似合わぬ邪悪な歓びを笑顔に載せて、生まれたての子ヤギのようにか弱い少年へと一歩を詰める所業を見せる。

「んー? そういうのって、どういうのかな? 教えてほしいなー?」

「いや、まぁ、その、なんていうか、まだ付き合ってないっていうか、付き合いたいけどっていうか、なんか、その、うん……」

 満腹の猫が瀕死のネズミをいたぶるように、執拗に詰め寄ろうとする秋と、言葉を濁しているように見えてその実、本音というか欲望がダダ洩れているチョロイン少年の春一。旧交を温める仲睦まじい二人の様子に、苦笑を向ける新の隣に移動して、キョトンとした声で聖隆が疑問を呈した。

「なんか秋の機嫌が悪いように見えるんだけど、なんで?」

「……いやまぁ、自分が上手くいってないから、幸せそうなヤツが妬ましいんじゃないかな」

 そう言って視線を向けた先には、八健サッカー部の監督が、デレデレと鼻の下を伸ばしながら洋星サッカー部の美人女性監督と立ち話をしている光景があった。

 艶やかな黒髪はショート、ほっそりした肢体は引き締まってスラリとしており、女性としては高めの身長も相まって、モデルかと見紛う体型である。やや切れ長の瞳、スッと通った鼻梁、細いスッキリした輪郭で、クールな印象を与える顔の造形を、柔らかな笑顔が中和した、美しい女性であった。彼女が秋の従妹であり、思い人であり、体育教師として赴任していたから、わざわざ高校を洋星に選んだということまで、聖隆たちはバッチリ知悉のことなのである。

「……上手くいってないんだ?」

「いつも通り、軽くあしらわれてるだけなんだけどね」

 それだけで分かってしまうのだから、聖隆と新は苦笑を交し合う他ない。哀れ八つ当たりの対象に選ばれてしまった春一は、秋の気が済むまで散々に言葉の責め苦を受け続けるしかなかったのだ。

 ひとしきりイジって満足したのだろう、秋は、まぁガンバレよ、なんて思ってもいないことを述べつつバシバシと春一の背中を叩くと、新に、行くぞ、と促すのだ。

「ほんじゃ試合で~」

 聖隆が二人に向かって手を振ると、秋が振り向いて「今日も俺が勝つからな!」と指差しで宣言してくる。美少年然とした見た目に反して、負けん気が強い友人には、聖隆も春一も好感を持っているのだ。

 遠ざかる凸凹コンビの反対から、入れ違うように近づいてくる人影が一つ。客席の双子美少女とのイチャイチャイチャを終えた槙野 聖一の姿を認め、二人はそちらに向き直る。

 ノコノコと歩み寄ってくる聖一。

 三対の瞳が交錯した瞬間に、彼らは手を挙げてそれぞれに振り下ろし、

「ちゃおっすー」

「よいっすー」

「おーっす」

 バラバラの掛け声とともにハイタッチを敢行しようとして、見事に全員の息が合わずに空を切らせるという、なんとも恥ずかしい形で全員がバランスを崩して前のめりによろけるのだった。

「……わははははっ」

 変な形ですれ違った聖一が、照れ隠しの笑みでその場を誤魔化そうとするのを、春一が首を振りながら苦笑で、聖隆は満面の笑顔で満足そうに、受け入れるのであった。

「それじゃあねー」

 恥ずかしそうに頬を染めながら歩き去る聖一の背中にヒラヒラと手を振りながら。聖隆は、あのマヌケな感じが実にアイツらしいなぁ、と頷いてみせる。それを見て春一は、いやお前も大概だぞ、と思いながらも、変わりない旧友たちの様子に安心感を覚えているのだ。

「今日もアイツら、手強そうだな」

 春一が準備運動用のビブスを脱ぎながら、ベンチの方に戻ろうと踵を返す。聖隆もそれに倣いながら、それでも自信満々に、こう返すのだ。

「それでも俺が走り勝つ!」



 洋星高校サッカー部は、堅守速攻を旨とする、バランスに優れたチームを形成している。

 システムは基本的に4-2-3-1。低めに設定した最終ラインと、人口密度を高めた中盤で網を張り、侵入してきたボールを絡め獲って素早くサイドに振り、少ない手数でゴールまで持っていくのが定型戦術なのだ。

 ある意味で最もベーシックな形ではあるが、要所に高水準のクオリティを持った選手を配し、それぞれの長所を活かすように作られた戦い方は、シンプルながらも強力で、よく纏まった好チームに仕上がっていた。

 今回の交流戦でもそれは充分に感じ取れる戦況となる。八健サッカー部においては攻撃が左サイド偏重――もっというと聖隆の特攻頼みだというのは、近隣校においてはよくよく知られた事なので、そちらをケアするというのは当たり前の対応になるのであった。

 そこで施された対策が、サイドバックが距離を取りながら縦を切り、中へと切り込んだところでセンターバックがボールを刈り取る手法である。そもそも聖隆にボールを持たせないという策もあるのだが、それだと誘い込むまでに時間がかかるという問題が出てくるため、攻撃の加速スイッチになる聖隆のドリブルを誘発して、相手が前掛かりになっている状態でボール奪取からのカウンターを狙うという作戦に出たのだ。

 聖隆はそれと知らずにパスを受けて、今日もいつも通りに目の前のサイドバックにドリブルを仕掛ける。若干の距離を取りつつ対応する相手に、軽くボールを小突いて重心を寄せさせると、一気に内側へと切り込んで置き去りにするのだ。

 しかし、その瞬間に現れる小さな影が、鋭いタックルでボールを掠め取っていく。背番号5を背負った小柄なディフェンダー、守備の要として最終ラインに君臨する香椎 秋が、今試合で何度目かのボール奪取を成功させたのである。

 すれ違う瞬間にニヤリと笑った秋の表情に、聖隆が顔面の筋肉を引き攣らせながら地団太を踏んだ。この野郎、と呟きながら追いかけようとするが、その時にはすでに聖一へのパスからカウンターへと繋がっていたのだ。

 この後も似たような形で、ひたすら攻撃が封じられることに、聖隆はフラストレーションを募らせていく。時にはムリヤリにコースを見つけてシュートまで持っていくが、苦し紛れのミドルシュートは新の手によって防がれるのみだ。

 こうなると八健側全体にも苛立ちが伝播し、副キャプテンの大木先輩なんかは露骨に不満顔を露にしながら、「パス回せ辰野!」なんて怒鳴ってくる始末である。

 ただ洋星側も、カウンターを繰り出してはいるが決定力に欠け、ゴールに繋がるような形は創出できていない。右サイドの7番が走力を活かして突破を図るが、対面する春一が上手く対処して決定機までには至らないケースも見られた。

 例えば前半の半ばを迎えた頃に、中盤でマークを外した聖一にボールが入ると、素早く右にパスを展開して、走りだした7番の足元にピタリと付ける。そのままドリブルを開始した所で、並走した春一はゴール方面へのコースを切りながらタッチライン際へと誘導していく。そのマークを振り切ろうとボールを持ち出した所で、一気に身体を寄せて進路を妨害しながら、倒れこみつつ足先でボールをカットしてスローインに逃げることに成功したのだ。この様な熾烈な攻防が、この試合、春一のサイドで幾度も繰り広げられることになった。

 スコアレスのまま迎えたハーフタイムに、春一は息を切らしながら、対面の7番を苦々しく称賛した。前に対戦した時よりも強く巧くなっており、聖一とのコンビネーションもスムーズで対処がし辛くなっているのだ。坊主頭で芋くさい雰囲気から、イケメン集団の洋星サッカー部の中では地味な存在として扱われているが、アウトサイドアタッカーとしての成長は目を見張るものがある、非常に優秀な選手となっているのである。

「気張っていかなきゃキツイな、この試合」

「ああ」

 聖隆たちは気合を入れなおして、後半のピッチに散っていったのだった。

 セカンドハーフに入って、洋星が動いた交代策に、少なからず会場が驚きを受ける。センターフォワードに一年生が入ってきたのだ。まだ6月に入ったばかりの昨今、部活入りしてから一月ちょっとしか経っていないにも関わらず、練習試合とはいえ戦力として投入されてきたのである。

 しかもそれが、見るからにナヨナヨとした小柄な少年なのだから、むしろ大丈夫なのかと心配になるのである。見るからに華奢で、一見すると女の子と間違えてしまいそうな儚さ、しかも秋とは違ってどうみても気弱そうにオドオドしているのだから、見ているだけで可哀想な気分になってくるのであった。

 全体的に訝しんだ雰囲気に陥った八健チームだが、試合が再開されればそんな事を気にしている場合ではない。前半の聖隆一辺倒から脱却しようと、逆サイドや中央から攻撃を組み立てようとパスを散らすが、どうしてもスローダウンしてゴールに迫ることができない。シュートも散発的になって攻撃の糸口を見失い、ボールを持て余すような事態に陥ってしまったのだ。

 そこで次に仕掛けた打開策が、聖隆を囮にして左サイドを押し込みつつ、春一のオーバーラップからクロスを放り込む作戦であった。八健の守備が、聖隆にボールを持たせて引き込んでから奪うことを念頭に敷かれているものなだけに、タイミングを見計らえば春一がフリーで持てる場面が出てくる。正確な左脚から放たれるクロスで少しずつゴールに迫る場面が見え始めると、得点への光明が見えた、そんな機運がチームに満ちてきたのだった。

 しかし、攻めている時こそ後方への警戒が散漫になってしまうものである。攻めながらも得点に結びつかない焦れもあったのだろう、同じパターンの攻撃を何度も繰り返し、全体的に前掛かりになったことで、ピンチを誘発してしまうのは、古今どんな試合でも起こりうる事態であった。

 後半半ばを過ぎて、幾度目かのパスが春一に渡る。その後背にマーカーが迫っていることを感じたのだろう、早めに上げたクロスが大きな弧を描き、そして長く伸びた新の手の平に収まった。

 瞬間、新は大きく振りかぶってボールを投げている。そこには、守備の場面ではウロウロしていただけの聖一が、いつの間にかフリーになってボールに正対していたのだ。ファーストタッチで反転してプレスに来た相手を躱すと、右脚の一振りで広大なスペースへと虹を掛ける。

 それは、上がっていた春一の裏を狙う右サイドへのパスだった。一年生フォワードが流れて弾道下へと入ると、スピードに乗ったままボールをコントロールし、ドリブルへと移行する。並走するセンターバックに緩急で揺さぶりをかけると、重心の移動を見てゴール方向へ切り返し、入れ替わるようにして抜け出すかに思われた。

 瞬間、遅れてディフェンダーの足が引っ掛かり、二人はもつれるようにしてピッチに倒れこむ。笛が吹かれてプレーが止まり、洋星側のフリーキックと、ディフェンダーへのイエローカードが提示された。まだゴールへの距離が遠いことを考慮して、決定的な得点機の阻止とは判断されず、一発退場は避けられた形だ。

 攻撃側から見て、ゴール右斜めに30メートルと少し、という所だろうか。射線上の壁の中に、聖隆は組み入れられた。キーパーの指示を聞きつつ位置を微調整し、ボールが飛んでくる時に備えて、心構えを整えておく。

 キッカーは聖一だった。ボールを持ってプレース場所を確認し、審判に注意されつつも、所定の位置にゆっくりと降ろす。

 聖一が助走を取ったことを確認してから、プレー再開のホイッスルが鳴り響いた。ゴールとボールの直線上に立った聖一は、ゆっくりと一歩を踏み出し、力が抜けたような歩調で助走を詰めて、右脚を大きく振りかぶった。

 その光景を、聖隆は目を見開いて、凝視している。鼓動が早まる。不安ではない、それは期待だ。

 大きく腕を広げ、重心を後ろに反らして、聖一は振り切らないようにキックした。ボールの中心を押し出すようなミート。ふわりと浮き上がる弾道が、ジャンプした壁を越えて、クロスバーを大きく超えるような高さへと到達したかに見えた。弾かれたような形で飛んだボールは空気抵抗に沈み込み、急激に軌道を変えながら、キーパーの腕をすり抜ける。弾丸のような勢いで飛翔した無回転のシュートが、勢いよくサイドネットに突き刺さり、ゴール全体を揺らした。

 それはまるで、往年の名選手、『フリーキックの魔術師』と呼ばれた元ブラジル代表ミッドフィルダーのジュニーニョ・ペルナンブカーノを想起させるゴールであった。ボールの進化によって2000年代後半から2010年代前半にかけて広く流行した無回転ナックル弾だが、その後のボールの改良とキーパーによる対策によって、今ではほとんど見かけることはなくなっている。ただそれでも、高校生の部活でこれだけ強烈な弾道を蹴れる者は多くはなく、それ故に対応も難しいものであろう。

 驚きの歓声が校庭に響いた。

 聖隆は、自陣営が失点した立場だというにも関わらず、歓びに近い興奮に打ち震えているのだ。目の前で展開された強烈なスーパーゴールこそ、彼が憧れて何度も真似して失敗した、クリスティアーノ・ロナウドのトマホーク弾であるのだから。これを成すことができるという時点で、聖隆の聖一への尊敬度は周囲の同年代の中でも図抜けて高いのである。

 結局、試合はこのまま、1-0で終了のホイッスルを聞くことになる。

 公式戦ではない、いうなれば練習試合である交流戦、そして関係性の良好な公立校同士。会場の雰囲気は和やかであり、観客席からは温かい拍手が送られるような、なんとも穏やかな空気が流れていた。一部女子たちの指向的な黄色い声援は除くが。

 しかしピッチ上の選手たちには、悲喜交々、様々な感情が交錯しているものである。基本的にはお互いの健闘を称えあって握手したり、旧交を温めて談笑したりと、団欒とした交流であるのだが、中には剣呑な空気を醸し出している所もあったりするのは、人間同士の雑多な関係性がある以上は、仕方がないことなのであろう。

 聖隆の場合は盛大な煽られであった。ひたすらスプリントを繰り返して疲れ切った身体で、汗だくの顔をユニフォームの裾で拭っていると、ふと視線を感じてそちらに目を向ける。

 そこには、近づいてくるでもなく、勝ち誇った顔で仁王立ちしている秋の姿があるではないか。整った顔立ちに歪んだ笑みは、果たして冷笑か嘲笑か。勝利の愉悦に浸った満足感を、敗者である聖隆への侮蔑へと昇華させた表情で、秋は対戦相手のエースの神経を逆なでする邪悪な微笑をぶつけてきたのである。正しく勝者の特権であった。

 聖隆は歯噛みした。奥歯をギリギリと噛みしめながらも、しかし今回の試合で決定的な場面を全く作らせてもらえず、それどころか一対一でほぼ抑えられた状態なのだから、完敗を認めざるをえない。悔しさに身もだえても、屈辱感に頭を振り乱しても、今回は完全に下風に立たねばならないことは、承知しなければいけない事実なのであった。

 ふふん完勝だ、と言葉ではなく表情で物語ったまま、秋は嫌味たっぷりにゆっくりとベンチの方へと歩み去っていく。その後ろを、苦笑しながら続く新が、同情交じりの表情で手を振ってくれるのだが、聖隆の感情はまったく癒されることはなかった。

「まぁ、今回はしょうがないよな、手の平の上で踊らされてた感じだったし」

 一部始終を後背で眺めていたのであろう、春一もまた、苦笑交じりに肩を叩いてくれるのだ。しかし悔しいものは悔しいのである。

「グギギっ!」

 恥辱の心を口に出して、聖隆は本日何度目かの地団太を踏むのであった。一見すると険悪そうな関係に見える聖隆と秋ではあるが、これは寧ろ互いの実力を認め合った良好なライバル関係だからこそ行われる、直接対決時の儀式のようなものである。二人とも人間関係においては妙に冷めたところがあり、嫌いな相手には対抗心どころか、一切の感情を見せないドライな対応を見せるのだ。だからこそ、感情むき出しで煽り煽られ嬉し悔しと言っている内は、仲良し同士のじゃれあいでしかないことを、春一は知っているのである。

 そんな風にプリプリしている聖隆たちに、おーい、と間の抜けた声が掛かってくる。

「お疲れさマター」

 振り向いた先には、ノロノロとした足取りで近づいてくる聖一の姿があった。

「お疲れはるいちー」

 両手を挙げてグダグダとこちらへと歩を詰める聖一。そんな彼に、「しゅんいちだよ」とツッコミをいれつつ、二人は手を挙げてハイタッチの態勢を整える。

 そして見事に、やっぱり息が合わずに手は触れることなく、空を切らせてズッコケるような形で交錯するのであった。

 ズコーッと前掛かりによろける三人の少年。試合前にやった失敗を再び繰り返す醜態に、赤面しながら笑って誤魔化そうとするのは、やはり聖一なのであった。

「わははーっ。恥ずかしーっ」

 頭を掻きながら、恥ずかしそうに振り返る聖一は、そそくさと洋星側のベンチへと去っていく。そんな、間の抜けた愛嬌を見せる友人の様子に、聖隆も春一も思わずほっこりしながら、笑顔で手を振って見送るのであった。

 ふうっ、と一つ、息を吐く。今ので秋に煽られた心のさざ波も、すっかり落ち着いてしまったのだ。

「疲れたなぉ」

「そうだな」

 ほら行くぞ、と春一が促すと、聖隆はニンマリして、親友の首に腕を回す。連れてってくれよー、暑い離れろ、とゴチャゴチャやってる男子二人を見て、観客席に隠れる数人の腐女子が新たなるインスピレーションの赴くがまま、筆を走らせていることを、彼らは知る由もないし、知らない方がいい。

 ふざけあってる聖隆と春一。そんな彼らに同調するように、なんとも楽しそうな調子で、聞きなれた声が届いた気がした。


「リュー!」



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