第十章


10:「炎竜白蛇」


 県庁所在地の中央駅から東に進んだビジネスビルの並ぶ一画。そこから大きな道を挟んだ、寂れた貸しビルが並ぶエリアに、荷台を幌で覆った軽トラックが横付けした。

 既に日は西の山に半身を隠し、もはや空の一部は群青色の気配を忍ばせ、梅雨時の鬱陶しいジメジメ空気も和らげられているようだ。

 夕陽に照らされ鈍い汚れを反射させた使い古しの軽トラック。その運転席から作業服を纏って降りてきたのは、泰波学園高校サッカー部2年、麻宮 聖伍その人である。

 聖伍は何食わぬ顔で車の後部に回ると、幌を開けて中の2人に声をかけた。

「着いたぞ、降りて来い」

 その言葉を受けて車外に顔を出したのは、聖伍と同じ作業服に袖を通した聖隆と春一で、彼らはさも何らかの作業に来た工務店の従業員を装って、工具やら梯子やらを荷台から運び出すのだ。

 聖伍は堂々とした態度でビルの階段へと歩を進め、伸縮式の2連ハシゴを慣れた様子で肩に担ぎ、上階を目指していく。その後ろを、不安そうな様子でキョロキョロと辺りを見回してしまう春一がついていくのだが、周囲からは新人を引率する先輩、に見えたかもしれない。

 ここで聖隆は彼らと別行動となった。さも、点検にでも趣きますよ、という風にバインダーを小脇に抱えて隣のビルへと歩を進めていく。

 聖伍が2人と合流したのは、わずかに30分ほど前である。

 電話口で事情を聞いた聖伍は、自転車を走らせて向ってくる聖隆たちと合流した後、知り合いだという工務店から軽トラックと予備の作業服を一式借り受け――店名が分からないように消されていたのは、既に使っていない物だからだと言われたが――必要な道具を積み込んで着替えを済ませている間に、誰かしらと連絡を済ませた後、犯人グループとその足跡、ならびに胡花たちが監禁されているであろうアジトなどを説明し始めたのである。

「誘拐に使われた車は市外から一旦離れた場所に移動した後、乗り捨てられたと思われる。乗り換えた車は市内に戻ってビジネスビルに入ったようだ。車から不審に大きなバッグが2つ、運び出されていることから、まず間違いないだろうな」

 聖伍が示した端末画面には、簡略な地図にいくつかの監視カメラ映像から抜き出したらしい画像が貼られ、短時間のうちに集めたとは思えない詳細な情報が読み取れるものであった。

「こんなん、どうやって集めたんだよ……」

 思わず呟いた春一に、聖伍はそっけなく答えるだけ。

「古い知り合いの得意分野でな。昔の貸しを返すように頼んだだけだよ」

 それ以上は追求できる雰囲気ではない。なにより、こちらは力を貸してもらう立場なのである。

「こいつらは何で胡花たちを攫ったんだ?」

 聖隆の声には、もはや些細な疑問を気にするような様子は見られず、あるのは真正面の怒りだけであるように思われる。

「目的は判然としないけどな……。こいつらはロシアのマフィア組織に所属しているのが確認された。表向きは中古車の輸入業者を装いながら、薬や銃器などの不法輸出で違法資金を稼ぐ類の小集団だ」

 一拍を置いて、聖伍は画面に、1人の男の画像を映し出した。どうにも趣味が偏ったファッションをした、細身の鋭角的な印象を与える青年だ。

「件のマフィアと取引してる日本の業者の役員に、早乙女家の遠縁が含まれててな、こいつがそうだ。本家とは疎遠になっているようだが、実行犯にこの男と見られる人物も映ってるからな、理由はそこら辺にあると思うんだが」

 そう言いつつ、聖伍は聖隆の表情を窺った。画像の男を睨みつけ、聖隆は固く唇を引き結び、そして軽く頭をふる。

「こいつらが犯人で、胡花たちが居る場所も分かってるなら、それでいい。乗り込んでぶっ飛ばしてやる」

 憤怒の激情が吹き出るような声だった。

 その様子に春一は危惧を覚えたが、聖伍は軽く頷いただけで、端末の画面を地図に切り替える。

「さて、それじゃあ救出作戦の説明だが……」

 聖伍が言葉を紡いだ瞬間、堪えかねたように聖隆からリューが飛び出してきて、怒りの咆哮を高々と迸らせた。その雄々しい姿に、さしもの聖伍も不意をつかれ、目を真ん丸にして数瞬を彫像と化したものである。



 当初、春一は自分達が動く救出作戦に、反対を表明した。犯人も拠点も分かっているのだから、警察にそれらを提出して、事態を解決してもらおうと主張したのだ。

 しかし聖伍は首を振る。今回に関しては時間との戦いだ、というのがその最大の理由である。

「相手は国外の非合法組織だ。修羅場の場数は踏んでるだろうし、公安にたいする鼻も利くだろう。それに対して、警察は俺たちの出した情報を信じてはくれないだろうし、そうなると正規な手順を踏んだ捜査ではどれだけ時間が掛かるか分からない。手段を選ばないマフィアの連中は、そこらを計算に入れて、リスクがあっても短時日で目的を遂行する途を選ぶはずだ」

 だから、すぐに動ける状態の自分達で行動するしかない、という発言には、説得力も迫力も十分だった。春一は頷かざるを得ない。

 それに、自分達が危険である、という事実以上に、春一にも巨大な怒りの感情があるのだ。方法があるというのなら、自らの手で無法者に必罰をくれてやりたいという欲求は小さくない。

 2人はビルの保守点検用階段を使って屋上まで登ってくる。エアコンの室外機やら貯水槽やら配管やらが置かれた、雑然としたその場所は、休息等に誰かが登ってくることを想定していない故に、柵などの転落防止措置はほとんど取られていなかった。

 だから聖伍は、縁にハシゴをかけて、同じような構造の隣のビルとの通路として利用したのである。目的のビルに比べて、より雑然と各階に別業種が名を連ね、さらに賃貸者の周りも早いこちらのビルの方が、警備的に甘いので怪しまれ難い、という利点を考慮しての潜入法であった。

 簡単にハシゴをかけてさっさと渡る聖伍の後ろで、固定もされずにガタガタ揺れる架け橋におっかなびっくり、両手を着いて極力、下を見ないように進む春一の醜態ではあるが、これ位が普通の反応であろう。

「ううぅうぅわぁぁぁぁ…………」

 肝が冷える思いで唸る春一に、聖伍は苦笑しつつも、

「立って数歩で渡る方が、むしろ恐くないぞ」

 なんて言っているが、これは恐怖心が麻痺した異常者の見解だと、切に信じる春一である。とび職かよ。

 やがて大きく息をついて、隣の屋上に腰を落ち着けた春一に、なんだかゴソゴソやっていた聖伍が戻ってきて笑いかけた。

「ホントに大変なのはこれからだぞ」

 それは悪魔が吐く皮肉よりも毒々しい未来予測であろう。ちょっと空気読んでくれんかな、と春一が嫌な顔をした。

「さて。例の奴らが借りてるフロアが最上階ってことだが、さっき見たら西側の部屋だけカーテンがかけられてた。他の部屋はそういう様子がなかった以上は……」

「隠したいものがその部屋にあるってことか」

 そういうこと、と聖伍は頷いて、自らの身体に特殊な方法でロープを巻いていく。腰のベルトにはいくつかの工具を入れたポーチを提げて、回収したハシゴにも別のロープを巻きつけた。

 さらに春一の身体にも命綱を巻くと、解き方を教えた上で、準備を完了したのである。

 2人は腕時計の時間を確認すると、頷きを交し合って、西側の窓に面する場所へと移動し、その身を躍らせたのだ。

 ビルの壁を蹴ってトントンと下がり、大きく窓枠を飛び越えると、聖伍は停止してガラスと正対した。まったく見事なラペリング降下である。

 西窓には厚いカーテンが引かれている。太陽を背にすることになるが、その遮光性の高さから、壁面の様子を室内に伝えるような事はないであろう。

 一方の春一は、窓の横にロープでつながれた梯子を吊るし、おっかなびっくり伝い降りてくる。なるべく下を見ないようにしながら聖伍の隣へと辿り着くと、ガムテープを取り出した聖伍がそれをガラスに放射状に貼り付けていた。作業が済んだらもう一度、腕時計に視線を落とし、待ちの姿勢に入る。

 待機は長くはなかった。二重窓を通してすら聞こえる轟音が、ビル内から響き渡ったのだ。壁面も振動し、覚悟していた春一も、上から吊っているだけの梯子が揺れるのに合わせ、心臓の鼓動を跳ね上げて動揺したほどである。

 室内の気配が慌しく動いた。怒鳴り声や騒々しい足音が聞こえるのを確認して、聖伍が手持ちのハンマーを取り出して、ガムテープを張られたガラスに叩きつける。鈍い音がして窓の一部が陥没し、テープを剥がすと、枠鍵と聖伍を隔てるものはなくなっていた。練達の泥棒もかくや、というくらいの鮮やかな手並みである。

 細かな破片をポロポロ落としながら、テープを袋に入れて、奥のガラスにも同じような措置を取る聖伍。室内の喧騒は大きくなる一方で、聖伍の作業音と気配を掻き消すに十分であった。

 窓を開け放ってカーテンの隙間から中の様子を覗いた聖伍は、一旦、視線を春一に戻して、軽く室内の状況を教えてくれる。ドア付近に3人の異邦人が見張りとして残っているだけで、彼らも狼狽を隠せずに、集まって何事かを囁き交わしているようだ。奥に椅子に縛り付けられた2人の少女がおり、一目見た限りでは外傷等の何かをされた様子はない、ということであり、それには心から安堵した。

「オレが先に突入して、固まってる3人を無力化するから。春一は後から2人を開放してくれ」

 そう言って、聖伍がカッターナイフを手渡してくれる。頷く春一を確認し、聖伍は素早く窓から身を潜り込ませた。

 頭から突っ込むようにして侵入し、そのまま腕から前転するように着地して片足立つと、身体に巻きつけたロープを解くが早いか、最初の1人に肉薄していた。おそらくその男は自らが殴り倒されるまで、聖伍の存在を認識すらできなかったであろう。それほどの神速であった。

 精確に顎を捉えられた男が、脳を揺らされ白目を剥くのを横目に見て、他の2人はしかし、呆然と事態に対処できなかった。

 最初の男の巨体が倒れこむ頃には、すでに2人目が腹部に右の拳を頂戴している。息を詰まらせて前のめりになると、その背に左肘が打ち下ろされ、最後には跳ね上げられた右足が顔面を打ち据えて、瞬く間に夢の園ヘと誘われてしまうのだった。

「っく……ちきしょう!」

 最後の1人はようやく自失から解放され、突如として僚友を薙ぎ倒した侵入者を睨み据える。丸太のような腕を振りかぶり、聖伍の顔面に打ち放つが、軽い体重移動で拳は空を切った。男は立て続けに左拳も振るうが、聖伍は身体を沈めて懐に入り込み、顎に向けて拳を打ち上げる。

 聖伍も決して小さくはないが、男の巨躯は体積にして彼の倍はあろうかというものであった。ゴッ、と鈍い音がしてまともに当たったにもかかわらず、首の筋肉で押さえつけるようにして、その顔が上を向くことすらない。最初の2人は奇襲だったからこそ、意表を突かれて昏倒させられたのだが、やはりこれほどの体格差があると、準備されたら肉弾戦は厳しいものがある。

 男は自信を回復したようにニヤリと笑うと、掴みかかるように懐にはいった聖伍に腕を振るい始めた。その唇からは、先の打撃で小さく切れたのだろう、赤く血が滲み、凄絶な迫力を印象付ける。

 ここで後退したら、この男は人質を楯にするかもしれない。聖伍はインファイトを決意し、至近から敵手の打撃を弾きつつ、戦い方を変えて守勢に回る。

 受けに回ったのを臆病と見たのだろう、何事か快哉を叫び、男は大笑して攻勢を強めた。その頑強な肉体が、聖伍の打撃をことごとく跳ね返すことに、大きな勢いを得たのだろう。自信が暴風となって、苛烈な攻勢を聖伍に叩き付けた。

 その過剰な自信が隙となる男なのだろう。頑健さを過信して大きく拳を振り被った時、聖伍は飛び跳ねるようにして、相手の軸足に自らの全体重を乗せて蹴りつけた。巨大な体重を支える膝が、外から蹴り砕くような勢いで圧力を加えられ、大きくバランスを崩す。

 うっ、と呻きを漏らして、虚を突かれた表情のまま巨人の態勢が斜めに傾げると、手ごろな高さに来たその顔面に向って、聖伍は一回転して勢いをつけた飛び蹴りを見舞って痛打を与える。だが、それでも男は倒れない。

 視界が揺れているのであろう、焦点の合わない瞳を、それでも怒りに見開かせながら、フラフラと立ち上がり、なりふり構わず掴みかかってくる筋肉の塊。その腕を取りつつ背後に回り、肩にも掌を当ててそこを始点にしながら、ぐるりと回転させた勢いのまま巨人の顔面を壁に叩きつける。

 無個性な白の壁紙との接吻を強要され、巨大な異邦人はようやく気を失ってズルズルと崩れ落ちた。室内が揺れるほどの強烈な衝撃は、世界最強オヤジもビックリの鮮やかな技術、通称「愛の壁ドン」の威力と、それを成し遂げる聖伍の洗練された格闘術を際立たせた。

 聖伍が3人の異邦人を無力化している間、春一は梯子から窓に飛び移って、なんとかかんとか室内に侵入していた。命綱を解いて自らを解放すると、急いで立ち上がり、手前に居る胡花の呪縛から解きにかかった。律儀に彩乃の方を向いて、「彩乃ちゃんはちょっと待ってて!」なんて言葉をかけるあたり、この少年の誠実さが見えるというものだろう。

「大丈夫? なんか変なことされてない?」

 カッターナイフで腕の縄を切りにかかりながら、胡花に問うと、少女は突然の事態に動転していた自我を揺り起こし、軽くクビを縦に振る。

「え、ええ、大丈夫。……変な薬を嗅がされたから、ちょっと頭が痛いくらい」

「クスリ? ホントに大丈夫なの?」

 四苦八苦しながら縄を切り終えた春一が、心配そうな目を向けてくるが、胡花は軽く笑んで答えた。

「眠らせるためのものみたいだし、他に違和感もないから、平気だと思う」

 その間に春一は彩乃の戒めを解きにかかっている。んむー、と呻く彩乃の轡は、自由になった胡花が解く事にした。発声の自由を取り戻した彩乃が、プハッ、と空気を味わうように喘ぎを繰り返した後で、春一の方へ首を巡らせた。

「あんた、なんでこんなトコ来ちゃったのよ! バカなの!?」

 助けに来たのに、開口一番が罵倒である。一瞬、胡花すら仰天して目をパチクリさせ、彩乃の次の言葉を待つこととなった。

「危ないじゃん! 外から飛び込んできて、しかもこんなヤバイ連中のとこに、2人だけで!」

 その激昂は的を射ている上に、心配と配慮がその主成分であることが分かるだけに、春一は心が温かくなるのを感じた。心配させてごめん、というと、誰が心配なんかするか、と唇を尖らせる彩乃が、もっと愛しい。

「仲良しなのはいいことだけど、今はマタと合流しようぜ」

 気絶した3人の賊を縛り上げた聖伍が、やれやれといった風情で声をかけてくる。その言葉に深い意味を見出した彩乃が、ムッと頬を膨らませたが、それよりも先に胡花が顔を上げて発声していた。

「マタくんも来てるの!?」

 その疑問が答えられるよりも早く、ハッ、とした表情をしたのは彩乃であった。

「もしかして、いま向こうが騒がしいのって……」

 彩乃に視線を向けられた男子2人は、揃って苦笑を浮かべるより他になかった。胡花は蒼白な顔で、それはとても危ないことだわ、と呟いて、慌てたように事情を説明した。

 彼女たち2人を攫った男達は、リューを目的として日本に来た、と言っていたのだ。自分達がドラゴンを呼び出して、逃げられたから追いかけて、聖隆に取り付いていることも知っている、と。

 それを聞いて聖伍と春一が得た感想は、やはりな、というものである。なぜロシアのマフィアが日本の片田舎に来て、そして地元の名士の娘とはいえ、まだ高校生の少女2人をかどわかしたのか。それはやはり、竜と言う異種族の関連性を持ってして、初めて説得力を持つと洞察していたからである。

「だから、いまマタくんがあいつらの前に出るっていうことは、鴨がネギを背負ってきたというコトワザそのままの状態っていうことなの」

 その胡花の言い分は十分に筋が通っていることなだけに、4人は急いで、未だ喧騒冷め遣らぬ方向へと走り出すことにした。

 部屋を出て行く直前に、彩乃が昏倒した3人の男に向って、んべっ、と舌を出して去っていったのは、何とも彼女らしい意趣返しであったと言えよう。



 雑居ビルの中をゆっくりと歩いて、最上階までを踏破した聖隆は、腕時計に視線を落とした。作業着一式を貸してくれた工務店から、更に無理を言って借り受けた時計である。実用性一点張りの、装飾性皆無な時計は、しかし聖隆にとっては新鮮なものであった。腕時計なんて着けたことないのだ。

 その時計盤が示す時刻には、予定より若干の猶予がある。普通なら作業着姿の若者が、特に何をするでもなく所在無げに立っていたら、周囲からの不審を買うことになるだろう。しかし幸か不幸か、入居者の存在を主張するような看板も何もない貸しフロアには、聖隆を疑うような視線を投げる人影は居なかった。

 彼は大きく深呼吸して、自分の中の激情を体外へ押し出そうとした。恐怖なんて感じる隙もないほどの、煮え滾る怒りの奔放を少しでも抑えねば、計画なんてそっちのけで、今にも扉を蹴破ってしまいそうなのだ。

 聖隆の昂ぶり応えるように、体内で熱く蠢動する気配は、リューのものだ。この陽気で人懐っこいドラゴンが、怒りに震え暴れ狂いそうになっている。

「もう少しだけ待てよ。すぐに暴れさせてやるからな」

 なんとも頼もしい相棒に語りかけると、リューは逸る気持ちを抑えきれない様子で、返事を返してくるのだった。

 フロア入り口の前に立つと、なんとも無愛想な扉が立ち塞がる。それを数瞬、睨みつけた後、インターホンを押した。

 一度目は無反応。二度、三度と繰り返しボタンを押して、五度目に至ってようやく、扉の奥から反応が返ってきた。

『…………誰だ』

 明晰な日本語。誘拐の実行犯は多数がロシアのマフィアくずれだが、主犯の吉羽という男とその配下の日本人も幾人かはいるであろう、そういう予想が的中したのである。

「お世話様でーす。ビルの管理会社から依頼されて、空調機器の点検に来たんですけど。開けてもらえます?」

 聖隆は朗らかな笑顔を作って、小脇に抱えたバインダーに記されたカンペを諳んじる。彼の右上方の天井にある、防犯用と見せかけた監視カメラの視線に、この時は多少、気を使っていたのである。

『点検だ? そんな話は聞いてねぇぞ』

「おかしいですね、事前に通知してあると、担当者から連絡をもらってたんですが……。とりあえず、今日中に済ませなきゃいけないもんで、中に入れてもらいたんですけども」

『……ダメだ、こっちは取り込み中なんだ。出なおせ』

 居丈高な声音には、脅迫の色合いも滲んでいたが、聖隆は怯むことなく我を通す。ここら辺の空気を読まない主張の強さは、聖隆本来の真骨頂であった。

「そんなこと言っても、こっちにもやんなきゃいけない事情があるんすよ。ちょっと入ってすぐ見るだけなんで、お願いしますよ」

『管理会社にはこっちから連絡を入れる。作業ができるようになったら連絡するから、帰って上司にそう伝えろ』

「そこを何とか。うちの社長、そんなこと聞いてくれる人じゃないんで」

『しつこいぞ! 中に入れる代わりに、生きて出られないようにしてやってもいいんだぞ』

 スピーカーから、激した恫喝が矢のように飛ぶに至って、聖隆は黙して佇立した。扉の内側から、ようやく引き下がる気になったか、という呆れたような雰囲気が透けてきたのを察して、聖隆の口角には不敵な笑みが刻まれたのだ。

「どうしても開けてくれないようなんで、こちらから押し入ることにしますよ」

 言うが早いか、股間のチャックを開け放ち――

 飛び出した影が鉄扉を吹き飛ばし、歪んだそれが室内の調度を弾きながら、反対側の壁へと跳ね返ったのである。

 ……………………なに?

 唖然とした空気が漂うフロアの中へ、堂々たる歩調で歩み居る聖隆。その股間から伸びるのは、興奮に爛々と輝く瞳を燃やす、爬虫類に似た未確認生命体であった。

 賊共の凍りついた視線を一身に浴びながら、なんら臆することなく首を振り、室内の様子を睥睨する聖隆。年齢不相応な尊大な態度は、彼の神経が合金製の鋼鉄で縒りあげられた特注のものであることを示唆しているかのようだ。

 室内にはいくつかの事務机と椅子、右手にはテーブルを囲むソファー。人間は5人ほど。ソファーに座っている異邦人が2人、左手にはインターホンの受話器を持った日本人。事務机でパソコンに向っているのも日本人で、そいつは扉前の監視カメラからこっちを見ていたのかもしれない。

 そして異様なのが、奥の隅に座っていた長身の、不健康そうに頬のこけた外国人であった。ゆったりした服を着て、むしろその重みに耐え切れないのではないかと言うくらい頼りなげに痩せ細っているのに、目だけは炯々としてぎらついている。

 と、そこまで確認してから、吹き飛ばした扉に巻き込まれた机の影で、もう1人の異邦人が白目を剥いて伸びているのに気付いた。不幸にも飛翔物に巻き込まれてしまったのだろうが、どうせ遅かれ早かれ、他の仲間も同じ境遇に至るのだから、それを気にかける必要はないであろう。無視である。

「そいつだ!」

 突然、異相の痩せっぽちが叫び声を上げる。

「そいつだ! 竜だ! そいつが俺たちの目的だ!」

 瞬間、茫然と凍り付いていた男たちが、ハッとして聖隆に注視する。正確には聖隆の股間から首をもたげた、その伝説上の生物に。

「こいつが、あのドラゴンだと? 確か出て来たときは白くなかったか?」

「あの竜はあらゆる魔法を使う神気の生物だ、変身して身を眩ますくらいやってみせる!」

「そ、そうか。だが、こいつは……どういうことだ」

 男たちの会話は全て外国語で行われているため、その内容を聖隆には知りようもない。しかしその視線が、俗物的な喜色にギラついたのは、肌で感じるところである。

「魔道による追跡が利かなくなったと思ったが、そうか、他の人体と半ば融合することで、他者の魔力と結合させ、こちらの目を欺くことにしたのか。何ということだ、途轍もない知性を持つ、まさに神の領域にある生物ではないか!」

 狂気の興奮を全身に漲らせ、怪しい男が何事かを叫んでいる。それを、不審な瞳で見やりつつ、聖隆は室内を満たす殺意に身構えた。

「そいつを殺して、ドラゴンを奪え! そうすればお前達を切り捨てた組織の幹部共を粛清するも、我らが教団の主権を占めて専横を振るうも、神威を用いて思うがままぞ!」

 その絶叫が号令となり、男たちが一斉に凶器を取り出して獲物を囲む。拳銃にナイフに、各々のエモノは様々だが、一番に竜を確保して権益を自らが占めようという利己的な欲求の波動だけは、共通して聖隆に向けられていた。

 だからという訳ではないが、聖隆は頭の隅が強烈に冷めているのを自覚して、深く息を吸い込んだ。そしてそれを吐き出すときに――

「吠えろ、ムスコよ! オレの怒りを燃やす如く!」

 あとで考えれば何ともマヌケな決め台詞だが、その時の聖隆は大真面目に両手を振り上げ、それに呼応した咆哮が放たれた時、ビル全体が激しく鳴動することになるのである。



 春一、聖伍、胡花、彩乃の4人が辿り着いた時、その部屋は、惨憺たる有様であったといえよう。

 室内の調度は全てひっくり返され、入り口を背にした聖隆が悠然と立ち尽くす。その股間から鎌首をもたげたリューは、フン、と鼻を鳴らさんばかりに気合いの入ったへの字口。そして吹き飛ばされたように倒れた5、6人の男たちと、机やら椅子やらをバリゲートにして聖隆を包囲する、吉羽 大貴と異邦人たち。

 取り囲まれた聖隆に対し、男たちが拳銃を発砲したとき、胡花たちは息を呑んで戦慄した。しかし次の瞬間には、リューがグワッと目尻を吊り上げると、その周囲が歪んだような違和感と共に、小さく火花が散って、てんでバラバラな所に弾着痕が作られた。

「くそっ、どうなってるんだ一体!」

 焦れたような声が男たちの間から沸き起こった。そこでようやく、彼らの発砲は何度も繰り返され、その度に先ほどのような光景が再現されていたのだと理解したのである。

 また1人の男が、旧ソ連や中国製と思われる古い拳銃を撃ち放したが、その7.62ミリの弾丸もまた、虚しく床に弾痕を刻むだけ。その横で別の男が、悪態をつきながら拳銃を放り投げたのは、旧ソ連製の弾を中国製の拳銃で撃ったがために、低ガス圧で作動不良を起こしたことに激昂したためだろう、と聖伍は苦笑を浮かべた。

「なんなんだ、なんなんだアイツは、なんなんだよ!」

 吉羽 大貴が恐慌寸前の様相で、ぶるぶる震えながら呟いている。その姿を憐れに思いながら、胡花は大きく息を吸い込んだ。

「マタくん! 私たちは無事だから、早くここから逃げましょう!」

 それまで、腕を組んで仁王立ちしていた聖隆が、奥の扉の陰から顔を出した胡花たち4人を見つけて顔を綻ばせた。リューも険しく吊り上げていた目尻を下げて笑いかけてくる。

 ぶんぶんと手を振る聖隆、陽気にクルクルとダンス的な動きをするリューの姿に、この状況でも失わない能天気さを見て、胡花は心底から安心した。

 だが――

「お前を盾にすれば!」

 それは狂気の叫びであっただろう。自分の背後に出現した遠縁の人質を見た瞬間、吉羽 大貴が身を躍らせて胡花に掴みかかってきたのだ。

 不意を突いた急襲に、彩乃や春一が動けないでいる中で、しかし聖伍は平静を全く失わず、暴漢の腕を素早く掴んで、捻り上げる。悲鳴を上げる男の掌中から拳銃を叩き落すと、脇腹に膝を入れて息を詰まらせた。

「お前の舞台はここじゃないだろ。とっととアイツに向き合って来い」

 非情な宣告と共に、大貴を回れ右させて室内に突き戻した。倒れ伏し咳き込む主犯の男を冷厳と見下ろし、聖伍は聖隆に視線を向ける。

 瞳を交差させて、2人は頷きを交し合った。決着をつける時は、今なのだ。

「……なん、だよ」

 呻きながら、ノロノロと、よろめくように立ち上がる大貴。その顔は蒼白であり、もはやその目には、正気の光は存在し得なかった。

「なんなんだよ、これは! 竜さえ見つければ、魔術で自在に操れるとか言ってたのはお前だろう!? 寝てないで仕事しろよ!」

 大貴が掴みかかったのは、異邦人の中では異相とも呼べる、痩せこけた血色の悪い男である。揺り動かして責任を問うのは、事態の打開を期待してのことであろうが、男は一向に目覚める気配を示さなかった。

「んで、お前が今回の原因、てことでいいんだよな?」

 白めに血管を浮き上がらせて、必死に男を起こそうと務める大貴に向かって、冷然と問い詰める聖隆。その声に大貴は動きを止め、そしてゆっくりと顔を向ける。

「……ああ、ああ。そうだよ。俺がこいつらを連れて来た。俺が、全部、調べ上げて、計画を立てて、実行したんだ!」

 絶叫。自らの計画に対する自負、強い自尊心と自己顕示欲、そしてナルシスティックな自己愛を、仲間である異邦人や自分の部下達の手落ち、不注意、実力不足などに責任転嫁することで保とうとする、それはなんとも聞くに堪えない自己弁護であった。それらを一通り並び終えた後に、今回の計画を思いついた理由と、その目的とするところ、そして自分が幼少期より抱え込んでいたコンプレックスを吐き出し始めたのは、自身の強烈すぎるプライドを守ろうとする余りの、一種の心理的排泄機能が働いたのであろう。

 大貴の語った理由と言うのが、なんとも利己的で打算的な、それぞれを利用することしか考えていない自己中心者たちの連合でしかなかった。

 その発端となったのが、ロシアのマフィアに所属していた男たちが重大な失敗をし、組織から追い出されるように逃げ出したことからであった。彼らは上層部の不見識と無能をひとしきり罵った後に、組織からの粛清を恐れて地下に潜行し、極東の地方都市まで逃れてきたのである。そこで、とある教団に所属する異相の男と繋がり、ドラゴンを召喚する儀式を実行したのだ。

 儀式は成功し、ドラゴンを呼び出すことには成功したが、肝心の従僕制約の段階で逃げられてしまう。現世にドラゴンがある限りは、召喚者である男にはおおよその位置を特定することができるのであるが、それがどういう訳か日本のいずこかで反応が消失したというのだ。そこで男たちは、密輸関係で繋がりのある大貴を訊ね、始めは信じがたかったその話に、大きなチャンスを見出した彼は協力を承諾したということである。

 情報を総合してドラゴンを捜索する中で、その位置が吉羽の遠縁である早乙女家の在る町であることを知り、大貴は本家を巻き込むことを思いついたのだ。それは、永年のコンプレックスを克服する為だけの、利己的な発想であった。

 だから、ドラゴンが隠れ蓑としている少年が胡花と関係があると知って、大貴は狂喜したのである。胡花をかどわかして意のままに操るために、国外の犯罪者集団を使って実行に移せる理由が出来た上、後には彼女を使って早乙女本家を乗っ取ることも可能なのだから。吉羽の家が悲願としてきた目標を達成する栄誉と、個人的な劣等感を克服する為の復讐、さらには名家の箔とコネクションをも手に入れられる千載一遇のチャンスを手にするため、大貴は今回の誘拐を企図したのである。

「今まで俺のことを無視してきた早乙女の連中を跪かせ、生意気な胡花を服従させれば、復讐は完了だ! あとは吉羽の裏社会への影響力と早乙女の表での名声を利用して、国内での権力基盤を確保できる! 田舎で隠棲しているような本家連中の日和見を覚まして、社会への実質的な指導力を発揮できれば、早乙女にとっても悪い話じゃないだろう?」

 独善的で自己中心的な弁舌には、最終的に権力への妄執が付随した。そして、権力を信じる者の陥穽が、他者もまた権力を欲して止まないものだ、という確信である。大貴は自分の身勝手な理想を他者に押し付ける口実として、早乙女家の韜晦を弾劾し、胡花の心身を侵害する行為への、自己正当化の口実としたのだ。

 反吐が出る、とはこういう気分をいうのだろう。自分のやることは間違っていない、全ては自分を毛嫌いしてきた早乙女家の無能と、自分の構想を理解できない世間の不寛容の責任なのだ、と子供じみた責任転嫁を、この期に及んで叫ぶに至った吉羽 大貴という男の醜悪さを、胡花たちは冷めた気分で見詰めるだけだ。

「言いたいことは終わったか?」

 それは、極海に吹く風のような、身を凍らせるような冷たい声音であった。聖隆とリューが睨み据える二対の眼光は、お前の理屈なんざ知ったこっちゃねえ、と率直な激昂に満たされている。べらべらと能弁を垂れ流し続けた男の醜態を黙って見ていたのは、冥土の土産を渡すための、辞世の句を読ませる時間を作ってやっていただけことだ。

「お前が何を言おうが、お前がやったことが正しくなる為には1ナノミリグラムも貢献しない。ただただ俺たちを怒らせることになるだけだ」

 聖隆の眼前で、リューが一声、咆哮を上げる。彼らの周囲に立ち上る怒りの波動は、もはや視認可能な極彩色のオーラのように、見るものをたじろがせる圧迫感を与えていた。

「とにかくテメーを許さねぇ。だからテメーをぶっとばす。それが俺たちの理屈だ!」

 聖隆は両腕を広げ、背中を大きく逸らし、腰を前に突き出した。そこから生えるリューが鎌首を伸ばし、眼光鋭く睨み据えて、大きく口を開くと同時に、絶叫が響き渡る。

「喰らえ! ドラゴニック・インフェルノ! …………的な何か」

 自分のネーミングセンスの残念さを自覚したのだろう、語尾に言い訳じみた余韻を残しつつも、それが発動キーとして認識される。リューが咆哮を発した時に、彼の周囲に無数の火球が空間に生じ、それが火箭を描いて室内に殺到した時――

 閃光と轟音が周囲を圧したのである。



 かつて事務用品や装飾品だったものの残骸に、賊の一党が埋もれて昏倒する室内を、素早く退去した聖隆たち一行。何事かと最上フロアへと駆け上がってくる人々の目を避けるため、聖伍が先頭に立って屋上の扉を開き、夕焼けの空を高く見上げることが出来た時、胡花と彩乃は安心して、へなへなとコンクリートの床に座り込んでしまったのであった。

「今さらだけど、逃げてしまって大丈夫かしら。私たちが残って、警察にあの男たちの犯罪を証言した方が良かった気がするの」

 そう胡花が危惧する気持ちも分かるが、今回の場合は残るよりも逃げた方が得策であろう、というのが聖伍の意見だった。あの場にいて尋問を受けるよりも、家に帰り着いて保護者同伴の元に質問を受けるほうが、警察の対応が柔らかくなるはずだ、という言葉には、些か打算的ではあるが、事を荒らげないという意味では納得のいく内容に思われたのだ。

「恐かったわ……。理屈や常識というものが全く通用しない、本当に話の通じない人間がいるんだって、こんな形で実感することになるなんて、思ってもいなかった」

「ね……。とにかくおぞましい種類の嫌悪感と恐怖感で、全身が鉛にでもなったように冷たかった」

 解放されたことで恐怖を思い出したのだろう、胡花と彩乃が全身をぶるぶると震わせている。聖隆たちがそんな2人に寄り添って、肩を抱いて労わっている間、聖伍はロープを回収し、ハシゴを隣のビルに架けて、帰路を確保してくれた。

 警察と消防であろう、緊急車両のサイレンが近づいて来るのを聞きながら、少女達は短いが懸命に、直前の体験と戦っていた。

 少しだけでも落ち着きを取り戻せたと判断した時、胡花たちは寄り添う少年の肩を借りながらでも、ゆっくりと立ち上がる。喧騒が激しくなるビルを脱出すべく毅然とハシゴを渡り、隣のビルへと降り立った時、男連中は恐いだなんだと言ってられなくなったのである。こういう時はやはり、女性の方が肝の据わりが違うのだなぁ、と春一なんかは驚嘆させられるのである。

 こうして聖隆たちは、マフィア崩れの犯罪者集団から胡花たちを救い出し、脱出することに成功した。隣の雑居ビルから地上に出て、軽トラックに乗り込んで、野次馬で溢れるビル街から立ち去ったのだ。

 聖伍は春一の家の近くの公園まで4人を送ってくれると、車や荷物を返しにいくからと戻っていった。借りた作業着は洗って返せよ、と笑いながら言い残して、トラックを転がして去っていく同年齢の友人に、伝えても伝えきれない感謝を乗せて、彼らは深々と頭を下げた。実際、聖伍が居なければ今回のことは何もできなかったはずであり、胡花たちは大貴の魔手から逃れ得なかったであろう。正しく聖伍は、恩人だったのである。

 だから、無免許運転とか、クラッキングとか、ラペリング降下とか、徒手格闘とか、諸々の疑問を質すような無粋な真似は、すべきではないのである。彼らは暗黙の了解で、満載されたツッコミどころを放棄することを、確認し合ったのであった。

 薄暗くなった道路の上を、トラックのテールランプが角を曲がって見えなくなると、ふうっ、と4人が同時に息をついて、それが何だか面白くて、誰からともなく笑い出してしまう。何となく弛緩した、落ち着いた空気が流れた、そんな時だ。

 かたん、と下のほうで音がしたので、聖隆はなんとはなしに視線を下げた。

 目が合った。リューのキラキラとした、つぶらな瞳。しかしそこに見えるのは憂色である。

 なにをそんなに寂しがっているのかと、聖隆が首を傾げた、その時だ。

 カッ、とリューの身体から光が迸り、黄昏を過ぎた小さな公園を淡く照らす。強烈な閃光ではないながらも、突然の発光に、胡花たち3人も驚いて視線を向ける中、リューはグンと伸び上がり、宙へと浮き上がっていく。

 聖隆は理解した。股間の開放感に浸る間もなく、それが別れの瞬間であることを察知して、胸の奥に去来する寂寥感に締め付けられる思いがしたのだ。玉は解放されたけれど、リューとの心の繋がりは、聖隆にとって無くてはならないものとなっていたのである。

「リュー、おまえ……」

 不思議なドラゴン生命体が、聖隆の身体から奔出し、その全身を初めて晒す。溢れ出す白い光はやがて物質的な質感を伴って、長く美しい羽根と、ふわふわとした全身を覆う毛へと変化していた。

 これこそがリューの本当の姿なのだろう。神威を発し、神々しいオーラにその身を包まれた白い竜族。だが、その瞳に宿る慈愛は、短いがずっと身近にいた、聖隆の大切な友人と寸分変わることはない。

『まさたか……』

 その響きは、耳朶を打ったものではない。心に語りかける思念である。その念波は3人にも届いているのであろう、もはや事態に付いていけていない様子の春一などは、ただただひたすら目を丸くして呆けていた。

『まさたか、それにこばな、あやの、しゅんいち……。みんな、たすけてくれて、ありがとう。おかげでわるいやつら、もうおってこない』

「気にするなよ。お前は俺の、ムスコだったんだからな」

 聖隆がニカッ、と笑うと、リューもニカッと無邪気な笑顔を見せる。それは、先ほどまで聖隆と共にいたドラゴン生命体と、全く変わらぬ表情であった。

「お礼なんて言いっこなしよ。リューちゃんはもう、家族みたいな存在なんだから」

「何だかんだで、けっこう、楽しかったわよ。ちょっとカワイイところもあったし、嫌いじゃなかったわ」

 胡花がにっこりと微笑んで、彩乃は少し照れくさそうに、神威の竜に手を振った。春一はハッ、と我に返って、慌てたように首を振る。

「な、なんだ、その……。最初は戸惑ったけど、リューはいいヤツだし、助けるのは当たり前、だな」

 彼らの応答に、リューは嬉しそうに一声吠えて、長い身を捩らせた。

 そして瞳を悲しそうに曇らせる。

『これで、おわかれ。さみしいけど、みんな、さよなら……』

 ああ、やっぱりな、という納得が、彼らの心に浮かんだ心情だ。リューはマフィア崩れを利用した狂信者によって召喚され、その存在を利用しようとされたがために、聖隆に助けを求めたのである。その脅威が去ったのだから、今まで存在していた場所に――神域へと帰るのは、当然のことだろう。

 それはとても寂しいことだ。しかし避けては通れない事だと、直感した。同時に、肉体が離れた今でも、確かにリューとの絆の繋がりを感じられることを、聖隆は実感しているのである。

 離れれても、リューとの確かな繋がりは、切れることはない。だから聖隆は、笑って送り出せるのだ。

「じゃあな、リュー。お前はいつまででも、俺のムスコなんだって、忘れるなよ」

 感動的なようでいて、なんだか間の抜けた内容のそのセリフは、なんとも聖隆らしいだろう。ただ、惜別の雰囲気に流された胡花や彩乃は、目に涙を浮かべて聞き流しており、違和感に気付いた春一は空気を呼んで黙っておくことにした。

 さようならリューちゃん、向こうに行っても元気でいるのよ、と手を振る中で、リューはニッカリと笑みを浮かべると、身を丸めるようにして屈み込み――

 一瞬にして、その容貌は幼い人間の子供へと変じていた。光り輝くような白い髪、透き通るような白い肌、華奢な体躯に、赤い瞳。その姿に聖隆は見覚えがあった。幼い時分に、母方の田舎の土地で、一度だけ会った事がある、あの生っ白い男の子ではないか。

「そっか、お前がリューだったんだな……」

 懐かしい気持ち。リューは、10年以上も昔の出会いを辿り、聖隆に助けを求めてくれたのだ。それは不思議なほどに湧き出る喜びを伴っており、その郷愁こそが、縁というものであろう。

『みんな、ほんとにありがとう。また、あおうね』

 一際、強くなる輝き。その光の中でリューの像は朧げとなり、やがて溶け込むように、消え去った。

 光が消え去った視界の中が歪んでいる。聖隆の頬を流れる涙は、滂沱となって地に溶けていた。



 別離の余韻が、夜闇に浸された公園の一隅で、4人の少年少女を覆っていた。リューの浮いていた空間は今や虚空と帰し、浮かび上がる涙を拭うべく、春一は視線を下げる。

 そして、気が付いた。前に立つ聖隆の足首に、ベルトを巻いたスラックスと、さらにはトランクス型の下着までが落ちてきていることに。

「マタっ!? おま、ケツ出てっ……!」

 春一の驚愕に、ギャーッ! と彩乃の叫び声が重なった。彼女も聖隆の生尻を見つけてしまったのである。

 そんな後方の2人に気付くことなく、今だ唇を引き結んで涙を流す聖隆。その横に立つ胡花に至っては、ただただ無言で聖隆の股間を凝視し続けるのみ。

「マタ、仕舞え、お前、その股を仕舞うんだ!」

 公共の場で猥褻物を陳列することは犯罪だ、と慌てふためく春一の絶叫も耳に入ることなく、ひたすら仁王立ちの辰野 聖隆氏(16歳)。彼の股間に聳える塔は、久方ぶりの外気に触れた開放感か、満身に血液を巡らせ、若さを全面に誇示したかのように元気な姿を、法律的に晒してはいけない空気に、晒しているのであった。

 胡花は黙ったままゆっくりとしゃがみ込み、しげしげと聖隆のイチモツを観察しながら、ほぅ、と妖しく息を吐く。

「これがマタくんのタマ……。タマなのね、マタくんの、タマなのね……」

 うっとりと呟く親友の姿に、もはや彩乃は取り乱して襟首を引っ掴むのである。

「そんなモノをマジマジと見るなー! 胡花、あんた、こっち来なさーい!」

「マタ! いいからお前、下を履け! ここ外だから、股を隠せー!」

「マタくんのタマ、タマタマ、タマくんのマタ……」

 もはや阿鼻叫喚の地獄絵図とかした夕闇の公園で、それでも聖隆は、二つの佇立を崩さない。ただただ、どこかへ帰った友人への惜別を涙に込めて、短いが濃い時間を過ごしたムスコの独立に、思いを馳せるのみである。

 お巡りさんがやってこなくて、本当によかったね。



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