第七章
7:「春一くん家へお宅訪問」
さっぱりと初デートを了解した様に見えた聖隆だが、その実はかなり嬉しかったようで、教室に戻ってからの浮かれようは結構なウザったさであった。
胡花の手前、落ち着き払っていたのかと思ったが、なんてことはない、後から実感が湧いて急に飛び跳ねたくなったということらしい。ホントに赤服の配管工ジャンプで跳ね回り始めた時は、遂に狂乱かと疑ってしまい、それはもう強かに蹴りつけてしまったのだが、そんな春一の所業をも気にしない聖隆の心ここに在らずっぷりには、なんだかとても心配になってしまうのであった。
一方で胡花も精神をトリップさせているようで、「あの子、週始まりなのに、もうウキウキと地に足がついてないのよ……」と、疲れた顔で溜め息を吐く彩乃を見て、そっちも大変そうだなぁ、と春一も思わず同情してしまうのだ。
そんな訳で、彩乃発の「胡花・マタ初デート極秘監視計画」実行会議は、昼休みや放課後の空き時間などを利用して細々と行われたのだが、如何せん時間が無い。2人ともクラスが違うし授業もほぼ被らず、また胡花たちが居る場所では打ち合わせもできない上に、放課後は基本的に部活があるため、余計な時間が見当たらないのである。
という訳で全く進まない対策会議を打開する為、春一が提案したのが、木曜日の放課後を空けることであった。いきなり具体的な日程を出された彩乃は少しだけ驚いていたが、提案を承諾して予定を変更したのである。
梅雨らしく、木曜日も曇天に雨音を響かせる、生憎の天気であった。サッカー部は雨天の場合、基本的に空き教室でのミーティングや校舎内での筋トレ、もしくは人口密集地となった体育館で白い目を向けられながらのフィジカルトレーニングなど、無理矢理ヒマを潰すようなメニューになってしまうので、サボりが続出するのである。ここ数日は天気が悪く、そんな士気の下がる練習が続いているので、余計に参加者は少ないだろう。
春一はミーティングを開く教室に顔だけ出すと、監督の石沢先生に声をかけてから、早々に退散する。その様子に部員たちからブーイングが上がったが、しかし春一には正当な理由があるのだ。というのも、両親が共働きな上に3人の弟を持つ名張家長男は、基本的に平時の家事を担う存在なのである。だから週に一回、放課後の部活を免除してもらう日を設けてもらっているのだ。7人家族で週末だけで母が家事を片付けるのは不可能なので、中日に春一が掃除洗濯や買い物を担当することで、なんとか回している状況なのである。
むしろ、よくも部活など続けていると言えるほどの超過労働状態であるといえよう。
それを知っている部員たちは、すぐに了解して春一を送り出すと、「それじゃあ俺も」と一緒に逃げ出そうとする聖隆の首根っこを掴んで室内に引きずり込むのだ。ただでさえ普段から好き勝手している我がままエースに、苦行を免除してやるほど優しい者は、残念ながらいない。それを分かっているから春一は、顔出しして聖隆を誘導したのである。
「あああああ――――――っ」
「がんばれよ」
親友の憐れな悲鳴を背に受け流しながら、春一が正面玄関に辿り着くと、そこには下駄箱に寄りかかるようにして彩乃が待っている状態だった。
「ごめん、待たせちゃった?」
靴を履き替えながら声をかけると、二括りのおさげを揺らしながら、彩乃がパッと振り向いた。その仕草を見て春一は、やっぱりカワイイなぁ、と思うのだ。
しかし彩乃は、そのカワイイ顔をムゥとむくれさせて、
「かなり待った」
と唇を尖らせてしまう。
「ごめんね。ちょっと部活に顔出してて」
「アタシはすぐこっち来たのに」
頬を膨らませながら睨む彩乃に、重ねて「ごめんごめん」と謝る春一に、しょうがないなー、と彩乃が尊大に顎を仰け反らせるのだから、実はあんまり怒っていないのだろう。
2人は傘を開いて正門を出る。濃いブラウンの無骨な春一と違って、彩乃の傘はグリーンを基調としたチェック柄の、可愛らしい彩りをしていた。
「それで、これからドコ行くの?」
彩乃が振り仰いで訊ねてくる。身長の低い彩乃が、傘越しに自分を見上げてくる姿は、なんだかとっても愛らしい。
「オレの家だけど、いい?」
「ふーん。そうなんだ」
なんて簡単に頷いて、正面に向き直る彩乃。しかし一拍置いて、驚愕したかのように素早く春一を振り返ると、
「い、家っ!?」
と再び確認してくるのである。
「え、うん」
春一が何とはなしに肯定すると、彩乃はポカンとした表情で、足を止めてしまっていた。
*
いきなり家に行くなんて言われた時はそれはもう仰天したのだが、春一の言うことには、家事が溜まっているから寄り道はできない、という事であった。
そのため、まず帰路にあるスーパーに寄って夕飯の材料なんかを買い込んでから、春一の自宅へと向うことになったのである。
「ごめんね、買いもの付き合わせた上に、持ってもらっちゃって」
さあさあと降る雨の中、傘を差してビニール袋を揺らす彩乃に、同じ状態の春一が謝ってくるので、少女は何度目かの苦笑を浮かべた。
「いいって、別に。あんな風に無理されると、アタシの方が落ち着かないし」
野菜から惣菜まで、やたらと嵩張るものを袋に詰めて、傘を小脇に両手で荷物を掴んだ春一の姿は、なんとも無茶なものであった。それを隣に従えながら、自分は身軽に雨中を散歩とは、流石に身分が良過ぎて気まずいという物である。袋を一つ強奪したのも、自分が座りの良い形にしたかったからだ。
それにも拘らず、すまなそうに何度も同じことを言うのだから、この少年の人の良さと言うのは呆れ果ててしまうレベルだ、と彩乃は思うのだ。
「あ、ここだよ、俺の家」
しばらく歩いた後で春一が指差したのは、築年数が短くはないのだろうと分かる、こじんまりとした一軒家だった。堤防沿いの住宅街に、塀に囲まれ隣家と区切られた、広くはない土地にある普通の家。古ぼけてはいるが汚い感じはしない、どこにでもある様な民家は、隣を歩く少年の雰囲気とぴったりな素朴さで、なんとも安心感を与えてくれる。
「へぇー。ここが、かぁ」
門前に来て軽く仰ぎ見、ちょっとだけ感慨を込めて呟いたのは、彩乃にとって初めての男の子の家だからだ。
「汚いところだけど、どうぞ」
ちょっと照れくさそうに門扉を開け、春一が敷地へと招いてくれる。小さな庭には所々がめくれた芝が張られ、塀側にある花壇の花々ともども、雨露を受けて青々と輝いていた。
(なんか、趣きある雰囲気だなぁ)
悪くない、と思うのだ。
玄関まで来たところで、「傘はそこに置いてね」と申し訳なさそうに春一が軒先に立てかけたので、彩乃もそれに倣った。
「ただいまー。――さ、どうぞ」
カラカラ、と引き戸を開けた春一が、振り返って微笑んでくる。その顔が気恥ずかしさに赤らんでいるのを見て、なんだか彩乃まで緊張してしまうのだ。
「お、お邪魔します……」
そろり、と玄関に入ると、なんだか感じたことのない雰囲気が満ち溢れ、ここが男の子の家かぁ、と意味もなく感嘆してしまう。
「荷物ありがと。助かっちゃったよ」
「あ、うん」
差し出された春一の手に、彩乃は買い物袋を受け渡した。
ちょうどそんな時だ。二回の奥から、けたたましい足音が響き渡り、わーわーと階段へと殺到してきたのは。
「にーちゃん帰ってきた?」
「おかえりー」
「腹減ったー」
口々に春一に呼びかけながら、ひょっこりと顔を出す三つの影。
その六つの瞳が、春一の隣に立つ彩乃を認めた瞬間、彼らの喧騒はピタリと止むのだ。思わず彩乃も、目を丸くして固まってしまった。
階段の途中で静止する3人の小童たちと、それを認める彩乃の間で、妙な緊張感が流れたのは、恐らくほんの一瞬ほどであろう。しかし彼女たちは、その短い時間を長く重く、受け止めたのである。
そんな妙な空気を察した春一が、えーと、と困ったような顔で頬をひと掻き。さてどうしたものか、という感じであろうか。
「あー、と。ただいま。お客さんに挨拶しな」
と春一が3人に手招きした時、彼らは信じられないという用に瞳を見開き、再び活動を再開したのである。
「は、春にーが女を連れて来たー!」
「いっつも男しか来なかったのに、……大変だー!」
「にーちゃん、どうしたんだよ……」
子どもらしい甲高い声で、それぞれバラバラに驚愕を口にする3人の、なんと失礼な反応であろうか。彩乃も我に返り、「お、おじゃまします」とぎこちなくお辞儀。完全に気圧されている。
春一の手招きに応じて、3童子がそろそろと玄関に近づいてくる。その容姿は春一とそっくりで、大中小と3通り揃っているのが、なんとも微笑ましい。
「か、カワイイ……」
彩乃も思わず呟いてしまうのだ。
「この人は桜庭 彩乃さん。兄ちゃんの友達だ」
こほん、と照れくさそうに咳払いしてから、春一は彩乃を紹介する。「よろしくね」とニッコリ笑いかけると、3人はオオーッ、とどよめいた。
「桜庭さん。こっちは俺の弟で、大きい順から冬二(とうじ)、夏三(なつみ)、秋四(しゅうじ)」
冬二が小学校4年生、夏三が2年生、秋四が幼稚園の年長組だ、と教えてくれる。2つずつ離れているということだ。
「ほら、あいさつは?」
「こんにちは」
「こんちわっす」
「……にちは」
兄に促されて頭を下げる弟達は、三者三様で、見た目クローンでも個性はハッキリしているらしい。なんだかそれが、余計に彩乃の母性を刺激して、きゅーんと身悶えしそうになるのである。
「こんにちは。みんな偉いねー」
思わず手を伸ばして、よしよしとそれぞれの頭を撫で撫でしてしまう。すると皆、一様に人見知りして縮こまるものだから、何だか余計に愛らしいのだ。
彩乃がデレッと口元を緩めるのを見て、春一が苦笑を浮かべてしまうが、ここで時間を潰してしまうわけにもいかない。よし、と声をかけると、
「3人とも、兄ちゃんたち買い物してきたから、これ台所に運んでくれるか?」
そう言って買い物袋を掲げると、はーい、と言って彩乃の手から逃れるように冬二が身を翻し、荷物を持って奥ヘと駆け出してしまう。しっかり者で空気を読める次男だが、ちゃんと自分を持っているだけに、撫でられるのは恥ずかしいのだろう。そんな兄の姿に倣い、下の2人も廊下を駆け出すのだ。
「ああっ」
残念、と彩乃が名残惜しそうに声を上げる。その様子に春一は苦笑を深くしつつ、
「さぁ上がって」
と彩乃を促した。
「いいなぁ、カワイイなぁ。あんな弟、アタシも欲しいっ」
「いやいや、普段は結構、生意気だよ? お客さんの手前、いい子ぶってるみたいだけど」
「それでも羨ましい。アタシ、一人っ子だし」
彩乃は眩しそうに春一の弟たちを見つめた。元来が世話焼きで面倒見のいい彩乃である、下に弟や妹がいないことで、昔は胡花の弟の桃史を可愛がっていたものだが、今や180センチを越える大男に成長してしまったために、そういう訳にもいかず寂しさを感じていたのだ。そこに、目鼻立ちの整ったお人形さんみたいな男の子が、大中小と3人も現れたのだから、可愛がり願望が弾け気味なのであった。
「すぐお茶入れるから、そこ座ってて」
畳敷きの居間に通されると、ちゃぶ台を囲む座布団を示し、春一はそそくさと台所へ向ってしまった。彩乃は軽く返事をしてから、物珍しそうにキョロキョロしつつ、とりあえず手前の座布団に腰を下ろす。初めての家に来た時の、特有の緊張感に思わず正座である。
そして、首を巡らせて背後のタンス上に目を向けた時、一枚の写真とメダルが飾られていることに気付いた。
(……これって)
洒落た装飾の写真立てに納められた、横向きに切り取られた在りし日の瞬間には、4人の男の子が何とも無邪気な笑顔を浮かべていた。彼らが首に提げたメダルは、正しく隣に鎮座する物である。
興味が湧いた。思わず腰を浮かせて膝立ちになり、写真を手に取ったところで、奥から急須と湯飲みを乗せたお盆を持って、春一が現れる。
「お待たせ。今日は何となく肌寒いから、温かいお茶にしたけど、良かったかな?」
「あ、うん。ありがと」
よいしょ、と腰を下ろした春一が、湯飲みを置いて緑茶を注ぐ。慣れた手つきで一つを彩乃の前に置き、息つく間もなく、すぐに立ち上がるのだ。
「ちょっと待ってね。なんかお菓子とかあるかな」
「いやいや、お構いなく……」
という彩乃の言葉にこそ構うことなく、奥の背の高い棚に足を向けると、最上段の戸を開けて、中から箱を取り出した。お歳暮で貰うようなクッキーのようだ。
「あー、そんなトコに!」
「前は無かったのに……」
「おいしそう」
台所からひょっこり顔を出した弟たちが、お菓子を見定めて口々に文句を漏らすと、「やべ、見てたのか」と春一が苦い顔をする。なるほど、あの3人から隠す為に、そんな高いところにあったのか。
「お前らもこっち来ていいよ。コップは自分で持って来てな」
苦笑と共に春一が許可を出すと、3人はワーッと奥へ引っ込み、すぐにカップを持ってやって来る。年長の冬二は瞬間湯沸かし器も持ってきて、急須にお湯を足して見せるのだから、中々のしっかりものだ。
「一緒に食べようね」
それぞれの位置に座った兄弟に、彩乃がにっこり笑いかけると、夏三が「うんっ!」と元気よく返事をし、秋四は恥ずかしそうに視線を俯ける。本当に、個性の別れた兄弟である。
春一が、個別包装されたクッキーを人数分に取り分けて、それぞれの前に置いていく。その自然な動作に、お兄ちゃんなんだなぁ、と彩乃は感心しきりだ。
「あーっ、姉ちゃんのが多くもらってる! ズルイっ」
「お客さんなんだから当然だろ」
夏三が目敏く抗議するも、春一はしれっとした様子で受け流すのだから、貫禄は十分だ。
ただ、隣の秋四が羨ましそうに彩乃の前のお菓子を見詰めるので、彼女はついつい、デレッと甘やかしてしまうのである。
「食べる?」
と言って、クッキーを一つ差し出すと、末っ子は「えっ?」と目を丸くした。
「そんな、桜庭さん、悪いよ」
「いーのいーの、アタシは気にしなくても」
軽く春一を制して、再び秋四に向き直る。彼はチラッと春一の方を見ると、長男が頷いたのを見て、おずおずと受け取って、満面の笑みを浮かべるのだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして。2人もどうぞ」
幼児のあどけない笑顔に顔を綻ばせながら、彩乃はすっかり親戚の叔母さん気分で、兄弟たちにお菓子を配ってしまうのである。
「やっりー、ありがとうございまーすっ」
「ありがとうございます」
それぞれが受け取ったお菓子を頬張る様子に、彩乃は満足気な笑みを浮かべてしまう。春一がすまなそうにお礼を述べてくるので、全然いいの、と良い笑顔で手を振るのだ。
「あれ? それ……」
彩乃の手に握られている写真を認めて、春一が軽く目を張ると、彩乃もその存在を思い出した。そういえば持ったままだ。
「あ、ごめん。勝手に見ちゃった」
「大丈夫だよ。目立つもんね」
そう笑う春一は、なんだか照れくさそうだった。
だから気になって、確認しようと思うのだ。
「ねぇ、これって……」
「春にー、全国行ったんだぜ!」
スゲーだろ、と夏三が自慢げに口を挟む。彩乃は、へぇ、と感心した様に頷いた。
「中3の時にね。3回戦で負けちゃったけど」
「じゃあ、これはその時の写真?」
「うん。地域大会で優勝して、全国行きが決まったとき」
照れくさそうに頬を掻きながら、春一はそれでも笑みを浮かべていた。冬二も誇らしげにしているし、秋四も意味は理解していなさそうながらも、嬉しそうだ。この写真が居間の目立つところに置かれている所を見るに、春一の快挙というのは名張家にとって、特別な誇りだという事だろう。
「これって辰野だよね。アンタら中学時代から仲良しだったんだねぇ」
写真には、右端に春一でその隣に聖隆、小柄でまるで女の子のような顔立ちの少年と、背が高く1人だけ中腰の少年が、土埃に汚れたユニフォームを着てなお、眩しい笑顔で肩を組んでいた。
「俺とマタは小学校時代からの腐れ縁でさ。あいつが誘ってくれたから、今もサッカーやってるんだよね」
春一が懐かしそうに目を細める。「あいつ強引でさ、話聞かないのは昔からなんだよな」なんて可笑しそうに笑う表情は、なんとも嬉しそうだった。
「昔からサッカー上手かったんだ」
「うん。今と変わらず、一人でどんな相手も切り裂いてたよ」
「じゃあ、この頃も凄かったんだね」
「凄かったよ。あいつは、ホントに」
と、そこで浮かべた苦笑は、少し影を持っている気がした。
「……なんか引っ掛かる言い方ね」
微妙な言い回しが気になって、彩乃が口を曲げると、あー、と春一が頬を掻いた。どう言えばいいか、と少しだけ迷った後で、また口を開く。
「中学でサッカー部に入るまで、ちゃんとしたチームでプレーしたことなくってさ、俺たち。入部していきなり、油断しきった先輩たち相手に、マタが大暴れしちゃって。――それで、目、つけられちゃってさ」
1人別格のクオリティを持つ聖隆に、保守的な上級生は自らの立場を危ぶみ、彼の封じ込めに動いた。ボス格の3年生が聖隆と同ポジションで、その才能に嫉妬した上に、無名の新入生に手も足も出なかった守備ラインの上級生も大きくプライドを傷付けられていた為、聖隆は部内で疎外されてしまったのだ。
「しかも顧問の先生がサッカーの素人で、競技面に関しては生徒に一任してたんだよね」
指導的な立場にある者が学校側にいなかった事で、聖隆はその才能を掬われること無く、対外試合に出られない状況へと陥ったのである。それでも聖隆は飄々として、能天気に笑いながら部活に出続けた。そういう性格が余計に気に入らなかったのだろう、背番号を与えないどころか、まるでマネージャーのように雑用を押し付ける上級生に、ぶつくさ不満を漏らしながら聖隆はそれでも、練習内の、少ないプレー時間を楽しんだ。
幸い、良くも悪くも目立つ聖隆だが、陰湿なイジメを受けるような事は無かった。横暴な3年生の引退後も、その影響力を強く受けた上級生が聖隆への不遇を続けたが、同時に部内には、聖隆に理解を示す者たちも確実に存在したのである。よって、自分達が最上級生になった時、聖隆は晴れてユニフォームを身に纏い、その奔放な才能を披露することになったのだ。
「それまで練習試合にも出てなかったから、マタがボールを持ったとき、誰も止められなかったんだよね。対抗策が全く無かったことを考えると、干されてたのも上手く作用したのかも」
そんな風に笑う春一の表情は晴れやかだ。当時の聖隆の立ち位置は、それだけ微妙なものだったのだろう。
「それで、そのまま優勝?」
「うん。とてつもない補強もあって、ほぼ負け無し」
春一はニヤリとした。
「補強?」
「そ。こいつ」
春一が指差したのは、写真の中で聖隆と肩を組む、背の低い少年であった。
「この子ぉ? 隣のノッポじゃなくて?」
彩乃が訝しげな声を出したのも無理はない。とてつもないなどと言うのだから、どんなゴツい偉丈夫かと思ったら、その少年はアイドル顔負けの甘いマスクをした、なんとも中性的な美少年である。身体つきも華奢で線が細く、頼りなさで言ったら春一をも凌いでいる。
彩乃の不躾な物言いに、春一は得意顔。彼女の反応を予想していたのだ。
「見た目に騙されちゃいけないよ。その香椎って奴は、カワイイ顔して凶悪なんだ。鋭い読みで相手のボールをカットするディフェンダーで、隣の電柱みたいな太地ってゴールキーパーとのコンビは、尽く攻撃をシャットアウトしたもんさ」
中学3年になる少し前に、その香椎 秋(かしい あき)が転校してきたことで、太地 新(たいち あらた)の反射神経に依存していた守備が格段に安定した。後ろでしっかり守れるようになったことで、チーム全体が落ち着き、最大の武器である聖隆の突破力をより活かせるようになったのである。堅守からのカウンターという強力な武器を手に入れた彼らは、破竹の勢いで勝利を重ね、全国の舞台でその存在感を誇示して見せた。
「その3人の個人能力に救われた部分はあるけど、あの経験はすごい貴重なものだったよ」
春一は懐かしそうに目を細めた。彼のその表情が、正しく当時のチームを表しているのだろう。
「ふーん」
彩乃の相槌は無感動。他人の思い出話など、そんなもんである。
「じゃあ、その頃から無個性だったんだ、アンタ」
『へ?』
唐突な結論に、思わずギョッとする名張4兄弟。そんな彼らの反応を気にかけることなく、彩乃は自分の考えを、直截に述べていく。
「だって今の話し聞いてたら、スゴイのって3人だけだったんでしょ? 他の人から聞いた話だと、名張くんって別に、なんか注目されるようなプレーとかしない、無個性な選手だって言ってたけど」
これは先日の対抗戦で、桃史が聖隆評を話していた時に、ついでに聞いたことである。何とも色々と言われていた聖隆と、いつも一緒にいる春一は、ではどんなタイプなのかと訊ねたら、何とも微妙な顔をした物だ。曰く「地味」で「目立たない」、特に評判がないから「分からない」選手である、と。そんな、散々な言われようだった春一が、よもや全国経験者とは思わなかっただけに、ちょっとビックリしていたのだ。
だから、3人に引っ張られて登り詰めたと聞いて、思わず府に落ちてしまったのである。むしろ安心したといっても良いくらいだ。
ただし、それをこの場で言ってしまうのは、彩乃の無神経なところであろう。
「そんなことない!」
彩乃の不用意な言葉に、反発したのは弟たちだった。
「春にーはスゲーんだ! ボールを自由に蹴れるし、誰も春にーを抜けない、マタだって止められるんだ!」
「……んっ」
夏三の激昂に、同意するように秋四が頷く。激しい反応に、つい本音を漏らしてしまった彩乃は目を丸くしつつ、自分の失言にようやく思い至った。
「ボクも同じ気持ちです。にーちゃんの実力は本物で、だから中学の時も、他の人に負けないくらいチームに貢献してた」
冬二も非難の視線を送ってくるのだから、これは本当に大きな失態だ。弟達の前で、誇りに思っている兄を軽んじる発言をしたのだから、それは怒って当たり前である。彩乃は非礼を痛感しつつ、慌てて「ごめんね」と謝った。
「そんなつもりじゃなかったっていうか、アタシ、サッカーよく分かってないから、人づての話を鵜呑みにしちゃって……」
「ああ、大丈夫だよ、桜庭さん。ホントの事だからさ」
むーっ、と睨む3人に、額に汗して弁明しようとする彩乃。それを見て、苦笑交じりで春一がフォローを入れた。
「正直、自分でも個性は無いなー、て思ってるし、マタとかセーゴとかと比べられちゃうと、むしろ俺が困っちゃうからね」
まぁまぁ、と弟たちを宥めつつ、春一はそんなことを口にした。ただ、続く言葉は、力強い。
「それでもさ、強烈な奴らと一緒にサッカーできてるのって、やっぱ嬉しいんだよね」
それは、誇り、だろう。自分が今まで、天才と呼べるような友人達と同じピッチに立って、それでも仲間として一緒に戦ってきたという自負を、彼は持っているのだ。
彩乃は、ふうん、と小さく頷いた。その後で目を細めると、
「ふふっ。アンタけっこう、カッコいいよ」
そう、眩しそうに笑うのだ。
春一は一瞬、キョトンとした表情になって、それから「あはは」と頭を掻いた。照れくさそうにハニカミながらも、その表情はちょっと、締りがないのである。
「そ、そろそろご飯作んなきゃなぁ。桜庭さんは、こいつらと遊んでてよ」
わざとらしく大声を出してから、慌てたように立ち上がる。ご飯、という単語に秋四が頭をもたげ、夏三がガッツポーズを作り、冬二は兄の狼狽にニヤリと笑う。
「そう? じゃ、お言葉に甘えて」
そそくさと台所へ向う春一を他所に、彩乃はデレッと相好を崩すと、チョイヤ、と秋四を捕獲するのだった。
*
名張家の弟たち3人を陥落し、すっかり仲良く遊び呆けていた彩乃が、ようやくこの家に来た本来の目的を思い出したのは、たっぷり30分を経過した頃である。
その頃には、遊びつかれた秋四がすっかりお眠モードでスヤスヤと横になり、元気だった夏三も空腹を覚えてヘバり始め、冬二は自分のペースで宿題を始めているのであった。どことなく手持ち無沙汰になってようやく、目的とやらに思い至ったのだから、彩乃がどれだけ現状を楽しんでいたのかが窺い知れるというものである。
(……う~む)
思い出したは良いのだが、結構な時間が経ってしまった現状、今さら作戦会議をしようなどと言い出すのが若干、気まずくなってしまったのである。心地良さそうに寝入っている秋四の、その小さな頭を膝に乗せている身としては、動くに動けないのも実情であるだけに、どうしたものかと考え込んだ、そんな矢先だ。
「……ここはボクが見てますから、大丈夫ですよ」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、冬二がノートから視線を外すことなく、しかしハッキリと、彩乃に向けて言葉を紡いでくれるのだ。
「秋四なら気にしないでください。そのまま立ち上がっても多分、起きないですから」
シャーペンを走らせつつも、その口元に浮かぶ優しい微笑は、自分を信頼してくれと彩乃を安心させるかのような気遣いが感じられる。さらに彼は、横で「にーちゃん腹減ったー」とブーたれる三男に、「もう少しだから待ってろ」と、余裕の態度で応じる度量の深さを見せ付けてみせるのだ。
「早くしないと、ご飯できちゃうから、ゆっくり話なんかできなくなりますよ。今なら春にーも1人だから、気兼ねしないで済むでしょう」
どこで覚えてきたのか、なんとも小学生とは思えない言葉遣いの冬二。そんな少年の様子に、彩乃は思わず目をパチクリさせる。
「……スゴイね、分かっちゃうんだ、君には」
「というか、皆が分かり易過ぎるんですよ。春にーもマタも、すぐ顔に出るし、態度にも表れるから」
だからすぐに読み取れる、ということなのだろうか。冬二の、年齢に相応しくない熟達の観察眼と落ち着いた言葉に、彩乃はもはや感心しきりだ。
「うん。そうだね、今のうちに行って来るよ」
彩乃はそう言って秋四の頭を丁寧に浮かせると、近くの座布団を折ってそこに乗せる。起こさないように、そっと立ち上がってから、冬二にニッコリ笑いかけた。
次男坊はゆっくりと顔を上げると、一つ頷いて微笑を浮かべる。ホントつくづく、年齢に似つかわしくない仕草をする少年である。
台所に足を踏み入れると、春一がコンロの前で鍋を回している姿があった。青地の格子柄エプロンを纏って、汁物を軽く小皿にすくって口をつけるその横顔は、慣れた様子で堂に入ったものである。
味見に軽く頷いた後で、彩乃の気配に気付いたのだろう、春一はこちらを振り返る。そして軽く苦笑を浮かべると、
「ゴメンね、ガキ達の相手なんてさせちゃって」
そんな事を言ってくるのだ。
「ていうか、桜庭さん、夕飯は食べてくかな? 実はもう5人分、作っちゃったんだけどさ」
「んー……頂こうかな」
「そか、良かった」
苦笑を深くして、再びコンロに向き直る春一。鍋の横では、美味しそうな香りを漂わせるフライパンが、これまた美味しそうにジュージューという音を立てているのであった。
なんというか……エプロンの似合う男子である。彩乃は思わず浮かぶ口角の笑みを、ちょっと気を入れて引き締めるのであった。
「ねぇ。週末のことなんだけどさ」
そう切り出した彩乃に、しかし春一は一瞬、んっ? という感じで動きを止めると、ゆっくりとこちらを振り返り、それからようやく得心したように、曖昧な笑顔を浮かべてみせた。
「ああ、うん、あの事ね。そういえばそうだね」
という焦り混じりの返答の、なんとワザとらしいことであろうか。
「…………うん。あのこと」
彩乃はゆっくりと、眉間に刻んだ皺を指で解して、ジトっとした眼光を和らげようと努力するのである。
「胡花から軽く聞いた話だと、映画いって食事して、それから街を散歩しつつ夜までには解散、みたいな流れらしいんだけど」
「思ったよりも普通のデートだよね」
「よね。やっぱり途中で、いきなり襲ってきたりとか、そういう感じにしようとしてるのかしら?」
「いやいや、そんな事はしないでしょ。マタだって人生初のデートなんだしさ」
あはは、と朗らかに一笑して、春一は野菜の盛り付けを開始するのだった。
「分からないじゃない。今まで老若男女、新入学生から女社長まで、数多の女性を毒牙にかけたと言われる辰野のことだもの、いきなり何を仕掛けてくるのか見当も……」
勢い込んでそこまで喋ってから、ようやく彩乃は気付くのだ。春一がのたまった言葉の意味を。
「……人生初の、でーと?」
「そっ」
春一はもはや、苦笑すらも浮かべずに、平然と肯定してみせる。
「マタの噂の女性遍歴なんて、ただのでっち上げで、真実は生粋の童貞だよ。小学校からずっと一緒の俺が言うんだからさ」
間違いない、と自信たっぷりにドヤ顔で眼光を光らせる春一の、なんと癪に障る仕草なことか。
「えー……。だって、スゴイ噂になってるし、皆そう言ってるし……」
当惑を禁じえない彩乃に、春一がフフフと含み笑いを漏らしつつ告げる、その真相は。
「マタって昔から告白とか頻繁にされてたんだけど、それを受けたことは一回もないんだよね。気配りとか配慮なんて器用なことも出来ない性格だから、オブラートに包むっていう事をせずに思ったまま断っちゃうから、プライドの高い女の子とかだと、ちょっと許せなくなっちゃうみたいでさ」
もっとも、そう言う手合いの場合は、自分の箔付けのために目立つ恋人を作ろうとするような節があったのである。そういう魂胆を天然で察知できる聖隆は、ズバリ本性を言い当てたりとかしてしまうため、プライドを傷付けられた女子やその取り巻きが、あることない事を拡散するというパターンが幾度も繰り返されてきたために、それらが複雑に絡み合って、なんともエゲツない話に発展してしまったということなのだ。
「そんなことが続いた果てに、いつの間にかマタは婦女子の天敵と見なされちゃったんだけどね。当の本人が、噂話とかを全く気にしないから、訂正されることも無いままでさ。仲良い女友達とかもほとんど居ないのに、なんか千人斬りのマタとか言われるようになっちゃってさ、俺なんかはもう、どう反応したらいいのかと困り果てて……」
なんて言いながらも、その顔に心底から愉快そうな笑顔が浮かんでいるのを見る限り、彼にとっては定番のネタ話なのだろう。
しかしそれを聞かされた彩乃としては、呆然としながらただ、うえぇー、と唸るばかりである。何と言っても彼女にとっては、作戦の大前提が崩れる内容なのだから、それも当然であった。
「だからまぁ、俺はしては週末のことも、なんら心配とかしてないんだけどね。普通に高校生のデートを楽しんでくるんじゃないかと思ってるからさ」
「わ、分からないじゃない!」
と勢い込んで否定してしまう彩乃は、なんだか意固地になっている様子であった。
「デートの経験が無いって言うことは、当日、どんな行動を取るのか、み、未知数だってことでしょ? だったら、やっぱり私達が監視しなきゃ、だ、ダメなんだから!」
彩乃は必死になって捲くし立てる。なんで自分がこんなこだわりを見せるのか、自分でも分からないが、とにかくここは譲れない気持ちなのだ。
春一はそんな彩乃の勢いに若干、気圧されたように目を丸くしていたが、やがてアハハと笑って見せた。
「確かにそうかもね。やっぱり付いてった方がいいのかも」
「で、でしょう? じゃあ週末は、一緒にあの2人を尾行するわよ!」
「うん、そうだね」
彩乃が何故だか、フフンと胸を張ってしまう様子を、微笑と共に受け入れる春一。彼の度量の広さと言うか、諦めの早さと言うかは、何だか本当に老成してしまっている様である。
「それじゃ、方針も決まったところで、ご飯にしようか。これ居間に運ばせるから、弟たち呼んで来てもらえる?」
「あ、うん。分かった」
あっさりと話題を変えてみせる春一に、毒気を抜かれたように返事をして、彩乃はクルリと居間へと反転する。「おーい、ご飯できたってーっ」と声をかけつつも、ちらりと春一の方を振り返ると、お皿の盛り付けを開始したエプロン男子の、お母さん感に溢れた横顔が見える。
そんな少年の様子に笑みを浮かべると、
「うおーっ、メシだーっ」
「はいはい、お皿を居間に持って行ってねー」
寄って来た小学生男子たちに向き直り、したり顔で指示なんかを出してみる彩乃であった。
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