第六章


6:「魔法の竜」


 胡花は弓道場が好きだ。この場所の落ち着いた雰囲気は、実家で花を生ける時にも感じる、一本筋が通ったような気配である。公立の高校内で、このような空気が流れている場所は、そうそう見付かりはしないだろう。それが、慣れ親しんだ緊張感を想起させて、心地良いのだ。

 もちろん、思春期の学生が集まるのだから、完全に統制されたような空気ではない。むしろ、弓道部は女子部員の方が多いのだから、そこには特有の浮ついた香りだって流れていて、ちょっと逸るような落ち着きの無さだって内包されているのだが、それは胡花にとって日常と非日常がブレンドされた、なんとも刺激的な雰囲気に感じられて、余計にすっきりした気分にさせてくれるのである。

 顧問の女性教諭は初老に差しかかろうという年齢だけに、礼を大事にするタイプだ。弓道の技術や成績などは最低限のアドバイスしか口出ししないが、礼儀や態度など、何かに臨む姿勢に関してはとても厳しい。だから弓道場では整理整頓と掃除が行き届き、喧騒は最小限、競技者の集中を乱すような空気は排除され、真剣さを増長させてくれる。

 周囲に比べ静謐、されど華道の教えを請う時のような張り詰めた雰囲気でもない。胡花にとって、それは心地良さを感じさせる空間なのである。

 髪の毛を後頭部に纏め、袴を着付け、弓を絞る。放った矢がヒュッと空気を裂いて、狙い通りの軌道を描く。その一連を意識して、スッと背筋が伸びる自分がいる。目前の動作に集中できることが、とても嬉しいのだ。

 同時に、胡花の立ち居振る舞いは、その場にいる者たちを魅了する。美しいからだ。その姿勢が、動作が、空気が。彼女が弓を射る瞬間、場内は静けさを増し、男女問わず固唾を呑んでしまう。射る瞬間に、ほぅっ、と思わず吐息が漏れる、それほど絵になる光景なのであった。

 胡花はそういう、凛、とした空気が好きだ。それは、自分の家が地元の名家であると理解し、また幼少期から躾をキッチリと受けてきたからこその、真面目さでもあるだろう。

 だから、彼女の規範意識は、とても高い。少なくとも自分ではそう思っている。

 同時に、自分が何ともエキセントリックで直情的な性格だ、というのも認識している。むしろ、強力な本能的性格を有しているからこそ、理性で自分を律しようという気持ちが強いのである。努力を怠ったつもりはない。勉強も運動も、弓道も華道も、全てに真面目に取り組んできた。天然だとかセンスがないとか、そういう天与の部分は自覚しつつ、それを補うべく常識や模範という物をしっかりと学び、実践してきたからこそ、今の胡花は存在しているのだ。

 故に――その時の胡花は、聖隆に良いイメージなど、抱いてはいなかった。

 そろそろ桜も散ろうかと言う春の頃だったろうか。まだ一ヶ月と少ししか経っていない、ほんのちょと前のことだ。

 各部活が新人を獲得すべく目を血走らせる、仮入部期間の浮ついた雰囲気が、学校全体を覆っていた放課後。いつもの様に、休憩時間に体育館脇の自販機の近くで、彩乃とお喋りに興じていた胡花。その周りには当然、同じく喉を潤しに来た者や、何となくその場所に集まっている者など何人かの学生がおり、自由時間らしい賑やかさを形成していた。

 その中で、校庭方面からやって来た女の子の一団は、よりかしましい様子だったのである。初々しい制服姿から1年生であろうと推察できるが、なんとも興奮したような雰囲気で、周囲よりも大きな声で話しているのだ。当然その内容は、離れている胡花たちの耳にも届いてくるのである。

 曰く、

「ヤっバ、サッカー部の先輩、マジかっこいいね!」

「噂どおりって言うか、1人だけオーラが全っ然、違ってたよねー!」

「他にもイケメンいたけど、あの人だけ、存在感パナかったよねー」

「でもやっぱ、チャラそうだったー」

「あー、まぁ、確かにー。聞いた話だと、なんか手当たり次第に手出してるとか聞いたー」

「しかも何人も孕ませたとか聞いたよー。しかも認知しないで、もう何件も訴えられてるとかー」

「あー、それアタシも聞いたわー。しかも一回抱いたらすぐ捨てるとか、貢ぐ女だけ囲んで豪遊してるとか、すげー最低だってー!」

「うっわ、マジ? 見た目いいけど、中身は最悪じゃーん」

「そんなのカレシとかありえないわー。カッコよくても、アタシ的にナシー」

「だよねだよねー。やっぱ優しくてー、尽くしてくれるタイプじゃなきゃー」

「……でもアタシ、あの先輩なら、捨てられてもいいから抱かれてみたーいっ」

「うっわ、マジ? あんたMなんじゃない?」

「マゾだわー。引くくらいマゾだわー」

「でもでもー、あんなにカッコいいんだし、一回、デートとかしてみたいじゃーんっ」

「んー……まぁ、一回なら、試してみてもいいけどー」

「ほらぁー」

「えーっ、あたしパスー。チャラいのとかマジ無理ー。まぁ、顔はいいから、見てる分にはオッケーだけどー」

「アンタなにさまだよー」

「ギャハハーッ」

 何とも中身のない会話である。

 ただ、そんな他愛もない内容に移って行く中でも、やはり彼女たちの興奮は冷めてはいないようで、会話の中心は1人の男子生徒に変わりない様子であった。

 胡花は思わず眉を寄せる。

 そんな少女の気分を知ってか知らずか、彩乃が感心したような口振りで、

「ほえー。あれってサッカー部の辰野って人の事だよね。今年も人気爆発だねぇ」

 なんて言ってくるから、胡花はいよいよ不快そうに口を開くのだ。

「私、不誠実な人って、大嫌い」

 きっぱり。一刀両断、大上段からの唐竹割り並に切れ味鋭い断言に、彩乃が苦笑を浮かべるのである。

「言うねー。良く知りもしない人に、情け容赦ない言葉だわ」

「だって本当にそう思うんだもの。私だって、人の心は複雑で、色んな事情が起こってしまうのは仕方が無いって、分かっているわ。でも、それにしたって、節操もなく色んな女性に言い寄って、関係だけ持って責任も取らないなんて、人間としてあるまじき行いよ。1人の女性に誠意を捧げるどころか、一つの命をも弄ぶなんて、とても残酷なことだわ。許せない事よ」

 唇を引き結ぶように、苦々しい表情で熱弁を振るう胡花。そんな親友の様子がおかしいのだろう、彩乃はニマニマした顔になって、胡花をわざとらしく見上げる。

「んー。でもさ、コバナ? アタシらは辰野って人の事を知らないし、アレだって噂でしかないんだから、そんなこと言うの、良くないんじゃないの?」

 なんとも軽い調子とは言え、あの彩乃が聖隆をフォローするなど、今では考えられないことである。当時の彼女たちが、どれほど聖隆たちと接点が無かったかという事を象徴する事象だろう。

 それを証明するかのように、この時の胡花は素っ気無く返すのだ。

「噂が全て事実ではなかったとしても、囁かれているのだから、何らかの根拠はあるはずだわ。きっと、普段から不誠実な態度を取っているから、そんなことを言われるのだわ。いくら容姿が優れているからと言って、勝手なことばかりしているから、不真面目な風に扱われてしまうのでしょう」

 にべも無く言い放つと、さらに唇を尖らせて、

「火が燃えているから、煙が立つのよ」

 そう付け加える。

 胡花の規範意識は、とても高い。そんな、なんとも生真面目な少女の言葉に、彩乃はカラカラと笑いながら、「確かにそうだねー」と頷いた。彼女にとって聖隆の外聞など、必要以上に庇うような類の物ではないのである。

「そろそろ行こっか」

 結論が出たところで、彩乃が話を切り上げ、胡花を促した。胡花も、ちょっと喋りすぎたかな、と思って軽く頬を染めつつ、彩乃に並んで歩き出す。ジュースの残りを煽ってから空き缶を捨てて、休憩終了を惜しむように笑い合った。

 彼女たちがその場を離れる段階になって、先程の1年生たちが胡花たちに気付き、「うっわ、あの人たち、マジやばっ!」、「すっげー、カワイイー……」、「ヤバイ、ほんと、すごい……」と見惚れてたりしたのだが、それには気付かなかった。

 そして、2人が中庭の音楽堂に差し掛かった時、壁の陰になっていた角から、フッと人影が表れたのだ。

 胡花は自分の失念を認識したが、避ける暇もなく接触してしまう。トンッ、と体が軽く触れ、「あ、ごめん」とぶつかった人物が反射的に謝る。

 そんな、本当に簡単な、接触。

 胡花の中がスパークした。

「――――――――っ」

 膝から力が抜ける。カクン、と視線が一気に落ちて、気付いた時には尻餅をついていた。

 胡花が目を白黒させる。何が起きたのか分からないまま、自分の身体が自分のものではないみたいにフワフワとして、全身に力が入らない。思考が一時停止して、身じろぎ一つできなくなってしまう。

「っ、ちょっとアンタ、何してるのよ! 倒れるくらい強く当たんないでよ!」

 彩乃が怒鳴っているようだ。それに、「えっ、あっ、えぇ?」と戸惑うような気配を感じる。そんな、煮え切らない衝突者の様子に、彩乃の怒気が膨らんだのだろう。「ごめんなさいっ!」と大きな声で、目の前の人物が直立する。

 しかし、呆然。胡花は自失したまま立ち直れない。

「えーっと、大丈夫?」

 胡花が弾かれたように顔を上げると、そこには屈んで手を差し出してくる辰野 聖隆の姿。窺うように顔を近づけた少年の、滝のように流れる汗は、激しい練習をしていたからだろうか。未だ思考が動き出さない状態で、とりあえず捕まろうと背筋を伸ばす。あ、と口を開けたのは、果たしてお礼を述べようとしたからだろうか。

 聖隆の前髪から、つう、と玉の汗が地面に落ちる。近づいた胡花の傍に、ふわりと香るように、少年の空気が触れた。

 背筋に走ったのは電流だ。脳髄が痺れて、全身に衝撃が落ち、自分が火達磨になったかのように、一気に熱が高まった。

「――――――――ふあっ」

 押さえようとしたのはどこなのか、それすら分からないまま、脚の間に手を差し入れて、腿をキュッと閉じていた。顔から火が出ているのを意識しながら、しかし今の事態を飲み込めずに、混乱のまま顔を俯けてしまう。

 そんな胡花を見て、彩乃はいよいよ怒り心頭に達したようだ。親友に向けた心配の視線を、刃物に近い殺気に変えて、聖隆の胸倉を絞り上げた。「何したのよ!?」と怒声を浴びせるも、下方から容赦なく喉を絞められて、聖隆はグエッと嗚咽するのみ。

「コバナがこんなになるなんて、……もしかして、イヤらしいことしたんじゃないでしょうね!?」

「マっ、ちょっ、オレ、しら……っ」

 息も絶え絶えに口をパクパクさせる聖隆を、頭一つよりも小さな彩乃が、目を吊り上げて更に絞り上げる。そんな2人を、一緒にいたらしい春一が、まぁまぁと慌てて宥めようとしていたが、残念ながら効果は無かった。

「…………アヤちゃん」

 胡花は、バクバクと暴れる心臓に耳朶を撃たれながらも、彩乃の裾を掴んで引いた。それで、パッと彩乃は聖隆を離すと、胡花に寄り添うように屈んで、

「大丈夫?」

 と心配そうに訊ねてくれる。

 胡花が何とか顎を引き、心配ないと首肯する。

「ホントに? すごい顔赤いし、汗もすごいし……。震えてるじゃん、大丈夫そうじゃないよ!」

 肩に手を沿えた彩乃が、驚いて尚も言い募るが、胡花は首を振って、「へいき」と掠れた声で呟いた。

 そんな胡花に、彩乃は余計に不安そうな表情を見せるが、胡花は自分を落ち着かせるので精一杯だ。

「あの……?」

 戸惑いを隠せない様子で、聖隆。心配そうに覗き込もうとするも、気配が近づいた瞬間に、ビクッ、と胡花の肩が大きく揺れる。それを見て取った彩乃が、キッと聖隆を睨みつけた。

「もういい、アンタはどっか行けっ!」

「ひいっ」

 思いっきり怒鳴りつける彩乃に、怯えて後ずさる2人の少年。それでも聖隆は、「いやでも、なんか、大変そうだし……」と、食い下がる。その勇気はあっぱれだが、ふーっふーっ、と荒い息で威嚇する彩乃に、完全に腰が引けているのだ。

「あ、あのっ……」

「フーッ!」

「うぅ、いや、その……」

 取り付く島も無い彩乃の様子に、聖隆はあたふたと狼狽しきって、固まってしまった。そんな少年の肩に手を置いて、春一が「行くぞ」と声をかけると、聖隆は躊躇したように胡花と彩乃を交互に見やり――結局、肩を落としてその場を立ち去る。

「ごめんねぇ~っ!」

 情けない謝罪を置き台詞にして、聖隆たちは校庭へと引き返していった。彩乃は彼らの姿が見えなくなるまで睨みつけていたが、すぐに胡花に向き直ると、優しく背を擦ってくれる。

「もうアイツはいないよ、平気、コバナ? ――何したか知らないけど、こんなになるような事するなんて、ほんとサイッテー! コバナが言った通り、不誠実でイヤらしい、人間失格みたいなヤツね!」

 憤慨を露わにしながらも、彩乃の手つきは優しかった。彼女が撫でてくれることを助けに、胡花は徐々に落ち着きを取り戻し、荒い息を整えることができたのだ。

「大丈夫、コバナ。保健室いこうか?」

 胡花が平静を取り戻したことを確認して、彩乃が覗き込んで、訊ねてくれた。

「…………っ、ちゃった」

 胡花は小さく呟いた。それに、んっ? と彩乃が、確認するように反応すると、胡花はゆっくりと面を上げる。

「イッ、ちゃっ、た……」

 瞳をトロ~ンと蕩けさせ。頬を艶やかに赤く染めた、その胡花の表情は、正しく恍惚という表現が正しかったであろう。

「…………はっ?」

 彩乃が思いっきり怪訝な顔で眉を顰めたが、そんな事にはお構い無しに、胡花は瞳を閉じると、余韻を味わうように一回、身震いしたのである。

 ……………………。

 2人の少女に、なんとも言えない沈黙が降りる。

 そんな、どうにも居た堪れない空気が終わるのは、足腰が砕けた胡花が何とか自力で立ち上がるまで待たねばならなかった。

 ちなみに。

 一連の様子を遠巻きに眺めていた1年生女子たちは、細かいことは分からないながらも、心配そうに成り行きを見守っていたのである。

「どーしたんだろーね、あの人たち……」

「なんかモメてるみたいだし、大丈夫かな?」

「マジ、ヤバーイ……」

 そんな、一部始終の目撃者たる少女たちが、後に目を丸めて驚愕を露わにするのはもう少し先。イザコザしていた胡花と聖隆が、なんとも仲睦まじそうに一緒に登校してくる朝の風景を目撃し、何が何だかと首を傾げることになるのである。


 胡花は規範意識がとても高い少女である。少なくとも自分ではそう思っている。

 しかし同時に、彼女は自分の、直情的でエキセントリックな性格という物も自覚しているのである。

 それ故に、自分が運命と感じたことには、素直に何のてらいも無く、従うのだ。

 強すぎるのは、本能。

 それが漏れ伝わるのが、独自のセンスや常識からズレた着眼点と言うものに現れるが、所詮は箱入りの世間ズレ程度にしかならない。突飛な行動や的外れな言動も、なるべく親しい人間の前でしか出さないし、それも周囲から苦笑が漏れる程度でしかない、はずだった。

 だが今回の、胡花を強烈に貫く情動は、今まで感じたこともないくらいに強く、抗いがたい誘惑に満ち溢れていたのだ。

 それはもう、長年の付き合いである彩乃が、戸惑いを隠せなくなるほどに。

 自分の細胞の、いや遺伝子の奥深くから湧き出てくるかのような、この強烈な欲求に、胡花は迷うことなく従った。昔から直感に疑いを持たない彼女にとって、辰野 聖隆に惹き付けられるという事実、この気持ちは、すんなりと受け入れられる物なのだ。

 胡花は即座に行動した。

 まずは聖隆の周辺を簡単にリサーチし、彼の家が意外と近くにあること、チームメイトら男子からの印象が悪くない事、実は女の影が全くない事などを確認。最低限の情報を得た所で、偶然を装って接触し、人間性を直に感じ取った上で、交流を少しずつ深化させていった。家に招かれ、両親とも親しくなり、朝には迎えに行くようにすらなったのである。ここまで何の違和感も無く、わずか1ヶ月足らずで事を運んでしまうのは、胡花のスゴさである。

 胡花は自分が思っていたよりも、規範に従順ではなかったのである。

 ただ、この自分の中の優先順位がスコンと入れ替わったことに、不思議なほど違和感はなかったのだ。だから彼女は、すっぱりとこの気持ちを受け入れ、直感に従った。

 一方の聖隆は、あの胡花が心配になるほど素直で、人見知りする素振りなど全く見せずに、彼女をことを受け入れてくれた。率直で考えなしな所はあるが、そういう子どもっぽい鈍感さを含めて、人好きのする少年である。

 熱に浮かされたような心持ちのまま、それでも冷静に段取りを構え、手順を踏まえて行動する。その賢さこそは、胡花の芯を形成する、らしさ、であったろう。

 もっとも、この時点で聖隆が、胡花が考えていた通りの「サイテーな男性」であったとしても、彼女の行動は変わらなかったはずだ。

 胡花は、自分の目標を成す為だけに、彼と一度の関係を持つだけで生命を宿す、その手順までをも考察していたのである。

 とにかく、自分を貫く灼熱の衝動の赴くままに、聖隆に近づいた胡花。

 いま現在、その目的は達成されていないが、胡花はそれを急ぐ必要な無いと考えるようになった。

 聖隆という少年に間近に触れて、本能の――言うなれば肉体の飢えにも似た渇望だけではなく、その聡明な頭脳によっても、聖隆を求める意識に支配されているのである。

 だから、胡花は今、とてつもなく幸せだ。自分がこんな風に、普通の恋愛に没頭するなんて、思ってもいなかった。でも、それは想像以上に面映くて、どんな事よりも充実している。

 その幸福感を、もっと感じていたい。胡花は、聖隆に深く深く沈みこんでいくような自分の心を、とても愛おしく感じているのだ。



 対抗戦翌日の月曜日は、特に浮かれた風も無い、極めて平穏で、どことなく気だるい空気の漂う朝の八健高校であった。

 それも当然で、勝利したとは言え所詮は練習試合、しかも月に一度は行われる定例の対抗戦である。更に言えば、八健、泰波、洋星の3校定例交流試合は、何もサッカー部だけではなく、様々な部活が互いの学校を行き来して実施されているのだ。確かに、私立で資金力に秀でた泰波学園に対しては、ほとんどの場合に実力・実績面で水を開けられているのだから、戦力的に対抗できるサッカー部への期待は大きいのだが――それも、結局は学校側の都合であり、一般生徒にとっては関係のないことなのだ。実際、昨日は泰波側にバレー部と剣道部が、洋星側にも野球部が出向いて交流試合をしているし、吹奏楽部に至っては三校が協力して市民ホールを貸しきって合同練習まで行っているのである。にも拘らず、サッカーだけに学校側の注目が集まり、観客が入るなんて、他の部活動にしてみればいい気分のものではないかもしれないのだ。

 まぁ、練習試合で無用なプレッシャーに晒されるような事が無いという意味では、サッカー部に同情する向きもあるのではあるが。

 とにかくそういう訳で、この日も八健高校は、なんとも平和な通常運転状態であった。唯一教職員だけ、朝の朝礼で校長が上機嫌に長い口上を述べる姿に、やや苦い気分を味わうというくらいの変化なのである。

 のんびりとした気分が漂うホームルーム前の教室で、胡花もまた彩乃とお喋りに興じていた。

 そんな中、ひときわ元気な少女が、おはよー、と挨拶しながら駆け込んでくる。クラスメイトの加藤 叶(かとう かなう)は、入り口付近の友人から次々に声をかけられるのを、快活に笑いながら応答して、自分の席へと歩を進めるのだ。

「やっほ、2人とも。おはようー」

 叶は、世に言うポニーテールをピョンピョンと揺らしながら、胡花たちに笑いかける。胡花たちの返答を受けながら、その隣の机に鞄を降ろすと、「疲れたわぁ」と大仰に肩を回して、椅子に腰を下ろす。

「昨日は朝からシフト入ってたんやけど、交代で入るはずの人が遅刻してな。その人が来るまで、2時間も残業させられてしもたんよ。おかげで夕飯の準備も遅れてしもて、妹が駄々こねだすし、散々やったわ」

 やれやれと肩をすくめる叶だが、その仕草はどこか芝居がかっており、また表情にも微かな笑みが浮かんでいる。この明るくひょうきんな女の子、今まで胡花の周囲にはいなかったタイプで、胡花は出会ったその日から一気に親しくなってしまったのである。

「はぇーっ、コンビニバイトも大変だねー」

 彩乃が感心したように目を丸めると、叶は我が意を得たりとばかりに目を光らせ、

「そーなんよー。だから胡花ちゃん、慰めてー」

 そんな風に泣き言を発しながら、よよよ、とばかりに胡花に抱きついてくるのだ。胡花も「よしよーし、カナちゃん偉いよー」と抱き締めると、叶は少女の豊満な胸に顔を埋め、何とも幸せそうに目を細めた。

「うわー、ふかふかやー。これはヤバイなぁ……」

「ちょっと、アタシだけ仲間はずれにしないでよっ」

 そこに彩乃まで参戦し、いよいよ叶は揉みくちゃにされ、きゃーきゃー言いながら少女たちは暫し戯れる。

 ぽよぽよとした擬音に溢れていそうなその光景に、教室中の男子が無言になって鼻の下を伸ばしていたのは、仕方が無いことなのである。

 そんな、その空間だけ色彩が別物のような戯れが、暫くばかり展開されたところで。ふいー、と体を起こした叶の、なんともツヤツヤとした肌艶は、至福の時間を堪能した者のみが得られる満足感であろう。

「いやー、乙女パワー、超補充したわー」

 そんな風に目を細める友人の姿に、胡花たちもクスクスと口元を隠してしまうのだ。

 少しの間、反芻するように虚空へと笑顔を向けていた叶が、ゆっくりと視線を戻す。そして、ふと思い返したように口を開くと、

「そういや、2人は昨日、泰波との交流戦を見に行ったんやったっけ。どうやったん?」

 何気ない調子で聞いてくる。途端に胡花が笑顔を浮かべて、

「うん、勝ったよ。マタくんも大活躍だったんだぁ」

 その表情は本当に嬉しそうだ。

「初めて見に行ったけど、意外とエキサイトしちゃったよ。けっこう激しいんだね」

「そうそう、思わず見入っちゃうよね」

 彩乃たちの、感心したような言葉に、話を振った叶も少しだけ興味深そうにする。

「へー、そうなんや。ウチも今度、見に行こうかな」

 次は洋星に行くんやし、とちょっと白々しく呟く叶の、その含意に気付いて少女たちがニンマリした。叶に最近、彼氏ができて、しかもそれが洋星の生徒だと知っているからである。

 ほほーっ、とからかい成分過多でニヤニヤする2人を見て、パッと顔を赤くする友人の、そんな反応が珍しい。しかし叶は、それ以上の羞恥を避けようと、大慌てで話を戻しにかかる。

「そ、そんなに辰野くんが活躍してたんなら、女の子とか大騒ぎだったんちゃう?」

 ワザとらしい話題の転換に、まだまだ叶の反応を楽しみたかった彩乃が唇を尖らせるが、胡花の方は気にせず頷く。

「そうね。みんな、とても喜んでいたわ。私もすごく嬉しくなっちゃった」

 柔らかく微笑む胡花は、あくまで自然な態度であった。叶が意外そうな顔をしたのは、もうちょっと嫉妬とかそういう感情を出してくれるのを期待していたからだろう。

 それは余裕と言うよりも、鈍感さであろう。胡花は大衆の反応よりも、自分や周囲の感情の機微にこそ、力点を置いているのである。だから、聖隆が知らない女子にきゃーきゃー騒がれていようが、そんなことは気にしないのだ。

「ただ……」

 胡花は、少しだけ表情に深刻さを差すと、頬に手を添え息を吐く。

「一部の子たちは、特殊な視線で見ているみたいだったわ」

 彼女の憂えるような反応に、おや、という風に叶が身を乗り出す。これまで聖隆の周囲を気にかけていなかった態度の胡花が、初めて表情を変えたのだから、遂にヤキモチ心が芽生えたのかと、面白がっているのだろう。

「特殊な視線って、どういうのなん?」

 からかう様な雰囲気が多分に含まれた言葉は、先程の意趣返しをしてやろう、という気合いが感じられるのだ。

 しかし、胡花の憂いは、そういう類のものではなかったのである。

「私は知らなかったのだけれどね。どうやら、マタくん達をモデルにして、その……男の人同士で絡み合うような、そんな内容の物語が創られて、流布されているようなの」

 胡花にしては珍しい、苦味を帯びた表情が、彼女の思いを良く表している。

「へっ?」

 叶が、思わずマヌケな声を発してしまったのは、予想していなかった話が出てきたからだ。

 すると、隣で苦笑を浮かべた彩乃が、「あのね」と説明を補足してくれる。

「昨日、グラウンドの脇で、サッカー部の方を見ながらそういう――やおい、て言うの? そんな絵を描いてる子たちと会ってさ。コバナが注意したんだよね」

「注意って……ケンカになったん?」

 驚いて確認する叶に、いやいや、と少女たちは首を振る。

「ちょっとだけ感情的になっちゃったけど、険悪な雰囲気にはならなかったのよ?」

「そうそう。最後は穏やかに別れたし、相手の子たちも気にしてる風じゃなかったし」

「なんや、そうなんか」

 大事には至っていないと了解して、叶が安心したように息を吐く。今まで、胡花が誰かと仲違いした姿など見たことが無いのだから、その驚きはもっともであろう。

「でもまぁ、コバナが面識の無い人に突っかかるなんて初めてだから、ビックリしちゃったけどね」

「あはは。確かにそれは珍しなぁ」

 やれやれと肩を竦める彩乃に、叶もカラカラと笑いながら同調すると、胡花はむぅと口をヘの字に曲げる。

「だってそういうの、良くないじゃない。あんまり感心できないわ」

「頑なだねー。そんなに嫌だった?」

「イヤって言うんじゃなくて……。モラルとして、どうかと思うのよ、私」

「モラルって……」

 お前がそれを言うか、と彩乃が唸ってしまうのは、ここ最近の聖隆周辺への事前工作を知っているが故であろう。

 そんな、自らを省みないお嬢さんは、難しい顔でうんうん頷きながら口を開く。

「だって、まだ18歳じゃないのよ!」

 ………………。

 たしかに。

 じゃなくて。

「え、モラルってそっち?」

 彩乃も思わず前のめりである。

「そもそもそこからなんや……」

 叶が思わず呟いてしまうくらい、胡花はすでに、前提から躓いていたらしい。

「? モデルのマタくんも、創作者の大井さんたちも、18歳じゃないわよね。なのにああいう、くんずほぐれつな物を書くのって、いけない事じゃないかしら」

 心底から不思議そうに、胡花は小首を傾げて見せた。

「うんまぁ、コンプライアンスとしてはそうなんだけど……」

「そこは、ほら、スルーするところやから……」

 聞き手の2人も困り顔はなはだしくなるほど、胡花の視点は、ずっと前のところで止まっていたのである。

「ていうか――」

 彩乃が胡花に顔を寄せると、

「そういうモラルを言うんなら、あんたが部屋に溜め込んでる、年齢制限のある本とかの類はどうなのよ」

「あら、だって私は消費者だもの、何の問題もないわ」

 しれっと自分を棚に上げる、そんな胡花の倫理観という物は、なんとも都合のいいものである。彼女が別だというのなら、もはや何を言っても意味はないことを分かっている彩乃は、呆れた苦笑を浮かべるだけだ。

「なんや胡花ちゃんが怒るゆーから、てっきり中身について思うところがあるんやないか、て思ったわ」

 安心したような笑みを浮かべて、叶。

 すると胡花は、ちょっと唇を尖らせると、

「内容に関しても不満がない訳じゃないけれどね」

 そんな風に頬を膨らませる胡花は珍しい。

「でも、他人の趣味嗜好のことだから、私が何かを言うべきではないと思うの」

 柔らかく微笑んで首を振る、それが胡花の矜持なのだろう。

「コバナは変なところで真面目だよね」

 彩乃の言葉は苦笑交じりだ。

「んー、でも、やっぱり私、男の子同士って、分からないな」

 一転して朗らかに笑う胡花に、その場の雰囲気も、毒気を抜かれて和らいだ気がした。

「あ、あはは、そうだよね。男の子同士、なんてね」

 そこでどもってしまった理由を、彩乃自身もまた分からず、ちょっとだけ慌ててしまうのだ。

 しかし、より露骨な動揺を見せる者が、その場には居たのである。

「あー、そうやんナー」

 叶の返事がやけに硬いので、思わず彩乃は、彼女の方へと向き直ってしまった。

「あれ、カナ?」

「な、なんやの?」

 呼び掛けに答えた声が、なんとも不自然にうろたえるのだから、嘘のつけない少女である。

 ぎこちなく泳ぐ叶の視線に、彩乃はいよいよ確信を得て、呆れたように溜め息を吐いてしまう。叶が内心の動揺を隠そうとしているのは明白で、その理由は話の流れから、推察できてしまうのだ。

「アンタまさか……」

「ど、どないしたん、アヤちゃん。そないな目で見て」

 彩乃の視線に、気圧されたように叶が身動ぎ、そんな2人の様子に胡花が首を傾げる。ちょっと不穏な空気が漂い始めた中、彩乃が核心的な質問を口にしようとして――

 それを遮るように、スピーカーから流れる、大音量のチャイム音。

「あ、センセイ来たで。席につかな!」

「おっと、今日は早いな」

 緊張を一気に解き放って、叶がそんな風に促してきた。彩乃の方も、別に本気で問いただそうなどとは思ってなかったので、あっさり切り替えて自分の席へと歩を進める。

「それじゃ、またね」

「うん、また」

 軽く手を振ってその場を離れると、叶がほぉっと胸を撫で下ろして、安堵の笑みを浮かべたのである。



 朝から雨雲が優勢の肌寒い天気だったが、2限目を迎える頃には雨音が静かに響く、梅雨らしい景色が広がっていた。

 聖隆がリューと一体になった後、彼らは昼食を外で取るようになっている。学校内でリューを開放できる時間が限られているだけに、人目に付かない場所で伸び伸びとご飯を一緒に食べるというのは、非常に貴重なことなのだ。

 それ故に、第二体育館裏口の段差というのは、脇に焼却炉が有るという立地条件も相俟って、人影を気にせずムスコと戯れられる素敵スポットであった。

「リュー!」

 満足そうな鳴き声を雨景色に響かせて、リューはニコニコ上機嫌に目を細める。一見して肉食獣だとばかり思っていたこの未知の生物も、最初に食べたトーストがえらくお気に召したようで、今では完全なパン食になっている。なので基本的に、聖隆は母が作ったサンドウィッチをランチボックスに詰めてお昼に持ってきているのだが、手に持った状態でリューに食べさせることができるメニューと言うのは、とてもありがたい物である。

「満腹になったか?」

 聖隆の確認に、リューリュー頷きながら笑うのは、見た目に反して表情豊かな竜的生命体の、愛嬌に富んだ所作であろう。

「そういやリューって、家でもパン食うの?」

 なんて素朴な疑問は、隣で様子を眺める春一ならではだろう。

「基本はパンだなぁ。雑食だから米も食うけど、茶碗みたいな深い器だと食べ難いみたいだし、俺が手ずから食べさせた方が、テーブルとか床に置くより楽みたいだからさ」

「へー、そうなんだ」

「おにぎりとかも時々、あるんだけど、パンの方が楽ではあるかな。あと結構、甘党だから、菓子パンの美味さにハマっちゃったみたいでさ」

 なので今、聖隆の家では、メロンパンがブームなのであった。

「じゃ、ドーナッツとかも好きそうだな」

「あー、好きだねー」

 リュー、と嬉しそうに鳴き声を上げたのは、大好きだと主張しているからだろう。

 そんな、詮無い会話を楽しむ2人と1匹に、教室でお弁当を食べた胡花と彩乃が途中から加わるのが、ここ最近の彼らのお昼休みである。

「こんにちはーっ」

 そんな挨拶と共に姿を現したのは、しかし胡花だけであった。

「よーっす」

「リュー」

「こんにちは。桜庭さんは?」

 雨中において、なお優雅な足取りで近づいてくる胡花に、春一が不思議そうに訊ねる。

「次の授業準備があるらしくて、少しだけ遅れるそうよ?」

 何故か疑問系だったのだが、そこら辺に気付かないのが、男どものダメなところなのだ。訊ねた張本人の春一は、そっか、と少しだけ残念そうにした後、

「俺もちょっと外すよ。ついでに飲み物も買ってくるけど、何がいい?」

 腰を上げながら面々を見回す、よく気の付く春一くん。素晴らしい。

「コーラー」

「リュー」

「紅茶をお願いするわ」

 各々の返事を聞いて、春一はなんとも渋い表情である。

「リューさん。分からないです」

「リューっ!?」

 とてもショックだったようだ。

「一緒に飲むから良いよ。悪いな」

「あ、そう。じゃ行って来る」

 お願いねー、と手を振って見送ると、春一は苦笑と共に渡り廊下へと歩いていく。それと入れ替わるように、胡花が聖隆の隣に座ると、うふふと笑ってリューの頭を撫でた。

 なんとも自然なその所作に、リューも嬉しそうに身を委ねるのだから、やはりこの竜的な何かは胡花に最も懐いていると言えるだろう。聖隆がそれを嬉しく思う気持ちは、連れ子が再婚相手に甘えてくれたのに安心する、バツ1親父の心境であろうか。その例えはどうなのか。

(う~む、独身のうちから、そんな境地を開くことになるとは……)

 独身どころかまだ学生である。思春期少年の胸のうちは、何かと複雑なものであった。

「うふふ。リューちゃんは本当、不思議な子よね」

 聖隆の年不相応な感慨を他所に、胡花がリューの喉の下をくすぐりながら、そんな事を呟いた。猫でもないのに、律儀にゴロゴロと喉を鳴らしていたリューが、なぁに、と言うように小首を傾げる様は、なんだか愛らしい物である。

「不思議な、リュー……」

 胡花は、ふと真剣な眼差しになると、気付いたように顎に手を当て、

「名前、パフちゃんの方が良かったかしら?」

 それはとても真剣な声音であった。

「パフ……」

 聖隆は少しだけ頭を巡らせる。

「魔法の竜?」

「うん、そう」

 胡花が嬉しそうにニッコリ笑んだ。ドキッ、とするほど、純粋な笑顔。

「『Puff, the magic dragon』!」

 胡花の笑顔に呼応するように、聖隆も柔らかな気持ちになると、リズムを取って唇を開く。

「lived by the sea」

「And frolicked in the autumn mist in a land called Honalee」

 聖隆の唄を引き継いで、胡花も歌詞を唱えると、2人は優しく瞳を重ね合わせ、次いで目を閉じ声を合わせる。

『Little Jackie Paper loved that rascal Puff』

『And brought him strings and sealing wax and other fancy stuff』

 ――パフ 魔法の竜が暮らしてた

   海に秋の霧 たなびくホナリー

   リトルジャッキーペーパー友達で

   いつでも仲良く ふざけていた

 2人の静かな合唱が、ゆっくりと降り注ぐ雨の中、溶けるように消えていく。

 半世紀以上も前にアメリカで作られた童謡が、自然と彼らの心を溶け合わせると、その心地良い共感が、とても貴いものだと思えた。閉じた瞳に呼応するのは、聖隆と胡花の混ざり合う心、刻を越えるかのような旋律なのだ。

 最初は驚いた顔をしていたリューも、2人が合わせて紡ぐ歌声に、聞き惚れるように瞼を閉じている。

 短い、邂逅のような歌唱を終えた聖隆たちが、閉じていた瞳を開ける。するとまず飛び込んでくるのが、ウットリとして首を真っ直ぐに伸ばすリューの姿なのだから、それはちょっと不意打ちだ。

「ふっ……」

「くくっ……」

 思わず同時に吹き出してしまったのは、雨の中で恍惚と佇む未知の生命体の、その何とも俗っぽい姿が似合っていなかったからである。現実感のない光景に、摩訶不思議さが強調されて、どうしようもなくマヌケに映ってしまったのだ。

「りゅー?」

 気配が一変したことに気付いたリューが、不思議な顔をしてグリンと首を回して2人を見てきた時、彼らは爆発してしまうのである。

 あっはっはっ、と朗らかに響く聖隆と胡花の、なんとも愉快そうな笑い声。それを聞くだにリューは混乱して、どうしたもんかと右往左往して、それが余計に笑いの琴線を刺激してしまう。

 人の笑いのツボと言うのは、他人には理解不能なものだ。

 一頻り笑い合ったあと、ひーひー肩で息をしながら、聖隆はリューに向き直った。訳が分からず、むくれた顔のムスコ竜の頬に手を添えると、まぁ許せとばかりにポンポンと撫でる。

「確かに、『魔法の竜』、かもな」

 ある日いきなり現れて、聖隆の股間に住み着いて、何をするでもなく暢気に日々を暮らす生命体。たった数日の間に馴染んでしまって、もはや何の違和感もなく生活に溶け込んでしまっているのだから、それはある意味で魔法と言えよう。

「でしょう?」

 胡花が得意気に胸を張った。

 もっとも、リューがここまで自然に日常を過ごしているのは、むしろ聖隆たちの人間性の賜物であるのだが、彼らはそんな事は気にしないのだ。色んな意味でスゴい胆力である。

「でもやっぱり、リューちゃんは『リューちゃん』よね。『パフちゃん』って呼んでも可愛いけど、『リューちゃん』の方が、リューちゃんっぽいわ」

 胡花はちょっと考えてから、そう言って再びリューをナデナデする。

 聖隆もリューを見つめると、「確かにそうだ」と頷いて、リューをかいぐりかいぐり撫でるので、当のドラゴン的なムスコは、揉みくちゃにされて不機嫌そうに唸るのだった。るるる。

 しとしと、と雨粒が落ちる中、2人は暫しリューを撫でる。

「ねぇ、マタくん」

 満足して手を離した胡花が、おもむろに口を開くので、聖隆が向き直る。

 少女はニッコリと微笑んで、

「デートしましょう」

 なんて言ってきた。

 何とも唐突な申し出。聖隆は、フム、と一つ頷いた。

「日曜が空いてる、かな」

 公式戦の季節でもないので、サッカー部が週末に試合で潰れるのは、月2回の対抗戦や他チームとの練習試合、たまに土曜の午前練。今週は試合を申し込まれているわけでもないので、土曜の午前くらいしか、部活に出ることはないだろう。プライベートの予定など言わずもがなである。

 という訳なので、日曜で良い? と尋ねると、胡花は嬉しそうに頷くのだ。

「うん。マタくんの日曜日は、私が押さえちゃうからね」

「そっか。じゃあ、ハナの日曜日は、俺が抑えるからな」

 なんて言いながら、2人して密やかに笑い合うと、リューも一緒に微笑んでいた。ただ、ちょっと理解はできていないようで、何となく笑っているだけの様子なのが何ともである。

「そういやシュンの奴、遅いな」

 喉が渇いたんだけどなぁ、と聖隆が呟くと、胡花も腕時計を確認し、

「アヤちゃんも来ないのよね」

 もうすぐお昼休みも終わっちゃうのに、と嘆息する。

 そうして、彼と彼女の初デートは、余りにも簡単に決定したのである。



「むぅぅぅ……」

 と難しい顔で唸りながら、彩乃が体育館の壁に隠れて、胡花たちの様子を窺っている。その脇に控える春一は、おそらく温くなってしまったであろう缶ジュースらを抱えながら、自分を陰に引っ張りこんだ彩乃に笑いかけた。硬い表情で。

「あのさ。もうそろそろ、出てっても良いかな?」

「ダメ!」

 申し出はにべもなく断られてしまう。春一の苦笑が思わず深くなってしまった。

「で、デート、ですってぇ……? コバナが危ないじゃない!」

 春一たちの隠れる体育館の陰と、聖隆たちが座るドア前は、微妙な距離しかなかった。故に2人で歌を歌ったりと仲睦まじそうな様子は見て取れるし、耳を澄ませば会話もバッチリ聞こえていたりするのである。

「あの2人、初デートが決まったのに、何の感慨とかも示さないね。見てる方としては、なんか寂しい」

 春一が呆れたように呟く。青春の一大イベントであるはずのデートという言葉に、甘酸っぱさとか浮かれた響きが見られないのだから、ちょっと物申したい気分にもなるというものだ。

 しかし、そんな春一の嘆息に気付いた様子もなく、彩乃はブツブツと呟き続けていた。

「あの色欲魔人の無節操男とデートするなんて、食べてくれと言ってるようなものよ。どう考えても仕掛けてくるに決まってるわ。コバナは自分がどんな危ない橋を渡っているか理解してないのよ。そんなの、コバナが泣く事になるに決まってる。危険よ、危険だわ。ほんとにダメよ。ダメなのよ、そんなの許しちゃダメなのよ……」

「…………えーと」

 親友が酷い事を言われているが、彩乃の雰囲気があまりにも真に迫っていたため、春一はフォローを口にすることもできない。迫力負けして思わず後ずさる春一へと、彩乃はグリンと振り向いた。

 ひっ、と悲鳴が上がったのは、彩乃の瞳が狂気に似た光を放っていたからだ。

 ガッ、と彩乃が肩を掴むと、自分の胸くらいまでしかない少女の圧力に、春一は完全に尻込みしていた。

「見張るわよ!」

 硬直しきった春一に、彩乃は切羽詰ったような声で、そう迫ってきたのである。

「へっ?」

 マヌケな声が出た。

 引きつった顔で問い返す春一に、しかし彩乃は顔を寄せると、

「いい!?」

 それは問いではなく命令である。

 春一は、完全に戦意を失った蒼い顔でカクカクと頷いた。良し、と彩乃が頷いて肩を放すのと、声を聞きつけたのであろう胡花の、「アヤちゃん?」という問い掛けは同時であった。

 彩乃は何事も無かったように陰から飛び出して胡花たちと合流する。その後ろ姿を眺めながら、春一は自失から立ち直り、頭を振って後に続く。

 そして、間近に寄った彩乃の顔の、長い睫毛やふっくらとした頬を――フワリと感じた甘い香りを思い出して。

 今さら顔を赤くしたのであった。

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