第五章
5:「俺たちは騒音のギリギリ一歩手前」
ハーフタイム、ベンチに戻って後輩から飲み物なんかを手渡されつつ、「よーしよし、この調子だーっ」と監督がかける声を聞き流しながら、聖隆は調子の良い自分を実感していた。
(今日はなんか、体がキレてる。リューのことも心配ないみたいだ)
身体に潜む秘密のペットも、言いつけ通り、今日は大人しくしてくれている。リューの存在が、特別、身体に違和感を与えているわけでもない。重心もいつも通りだし、初速も加速も急停止も、ボールコントロールに至るまで、好調時の自分そのもの。どうやら心配は杞憂である。なので、
「シュン、俺、今日はイケるぜ!」
という話を、隣の春一にしてみるのだ。
「あー……。監督の話は聞いとこうぜ」
やや呆れた様子ながら、その実、彼の表情には安堵感が浮かんでいる。春一が指摘したリューによる弊害の可能性は、今のところ、顕在していないのだから。
「まぁ、今日の調子を見れば、オマエがいつも通りなのは丸分かりだよ」
春一が苦笑して、聖隆もそれにつられてニヒヒと笑う。
「おーい、聞いてるかー?」
監督が首を伸ばして注意してくるのを、「聞いてまーすっ」と知らん顔で受け流す2人。この後の作戦なんかを簡単に耳に入れていると、監督も呆れたように首を振りながら、仕方ないなー、という顔をする。
「辰野ー。向こう見てみろー」
指名された聖隆は、一瞬、気付かなかったのだが、横の春一が小突いてくれて、ようやく監督へと顔を向ける。それで、監督が横を指差しているので、視線を右側へと移動させた。
「あっ!」
その先には、泰波応援席からこちらに手を振る胡花の姿が!
「なんで泰波側にいるんだろ」
おーいっ、て感じで聖隆が手を振り返しつつ、そんな疑問を口にする。でも、胡花がニコニコしながら更に手を振り返してくれるのが嬉しくて、自分も相好を崩すのだ。
「…………そっちじゃない」
春一が渋い表情をしつつ、ムリヤリ、聖隆の頭を動かしてくる。
ふぼっ、と変な悲鳴を上げつつ、聖隆はようやく、泰波側でユニフォームの準備をしている少年の姿を捉えたのである。
(………………っ)
ニヤリ、である。聖隆の顔に、先程とは打って変わって、好戦的な笑みが浮かんだ。
「どうだー、やる気でたかー?」
監督の言葉に、口角を上げたままで、静かに頷いた。
それを見て、監督も顎に生えた無精ひげをジョリジョリやりつつ、ニヤリ。
「よし、じゃあ後半も行って来いよー」
『おうっ!』
監督の発破に気合い十分の八健イレブン。身体を解したりなんかしながら、ハーフタイムの短い時間を有効に使う彼らに混じって、聖隆は水分をがぶ飲みである。
「今日は来ないかと思ったけど、良かったなー」
春一の言葉に頷きつつ、その口角は未だに上がりっぱなしだ。
「ふふふふふんっ。今日の俺は、セーゴ如きでは、止められんよ」
自信満々に胸を張るが、その心は前半とは打って変わり、ドキドキワクワクとトキめいていた。
「そうだな。今日こそぶっちぎって来い」
審判がピッチに入って、両チームに手招きするのを見た春一が、ポンと聖隆の背中を一叩き。それに、おうよ、と応えつつ、彼らは戦いの場へと戻っていった。
*
中盤をフラットにした4-4-2でスタートした泰波サッカー部。しかし後半は、ウイングを一人削って中央を固める、変則的な4-3-1-2システムへと変化させた。トップが流れたりトップ下が自由に動いたりと、ゲーム中に形を変える柔軟なスタイルではあるが、正直、これは役割が複雑になるので、選手たちは完全にモノにできていない特殊なシステムであると言える。
だが、それでもこの形を取ったのは、もちろん本日絶好調の聖隆を止めるためである。そして、それを託されたキーマンこそが、泰波一の有名人である麻宮 聖伍なのだ。
聖伍が構えたのは、3人のボランチの右、攻守のバランスを意識するインサイドミッドフィルダーである。当然、泰波の右と言うことは、八健から見たら左サイドであり、そこに対面する聖隆との直接対決は、非常に因縁深い。
何故なら彼らは、これまでの対抗戦でも数々の死闘を演じてきた、ライバル同士であるからだ。
前半とは逆のエンドでポジションを構えた両陣営を確認し、後半開始の笛を吹く主審。それと同時にフォーメーションを崩した聖隆が真っ先に向ったのは、青と白のストライプ柄ユニフォームをハーフパンツに微妙に仕舞おうとしている聖伍のところであった。
「よっ」
と話しかけると、彼は裾の一部をダルダルさせた状態で、チャオチャオ、と手をニギニギしてくる。
「遅かったな」
「今日って日曜だからさ、店の手伝いをしようとね」
「なるほどね、そりゃ仕方ない」
悪びれる様子もなく、人懐っこい笑顔を浮かべる聖伍に、聖隆は頷きを一つ。
「でもねぇ、ちょっと寂しかったんだぜ、お前がいないと」
ニヤリ、と聖隆は嫌な笑顔を浮かべた。それに、へぇ、と面白そうな顔を見せる宿敵。
「今日、キレてんだってな」
「ふふふふふん、だから悪いけど、ブチ抜くぜ」
自信満々に胸を反らせた聖隆が、上から目線で見上げる中、聖伍も頷いて。
「オッケ、寂しがらせた分、思いっきり相手してやるよ」
なんて事を言ってきたので、そりゃこっちのセリフだ、と聖隆は思いつつ。背を向けて、ようやく、ボールの方へと目を向けた。
「覚悟しとけよ、セーゴ。今日こそ完全勝利だ」
短い宣戦布告を残し、聖隆はポジション修正のために自陣へと戻っていく。背後で聖伍が笑っている気配を感じて、自分の口角も自然に上がることを、意識しながら。
改めて、ゲームの方へと集中力を向けた聖隆。味方がしっかり守備ブロックを固める中で、元より守備参加が期待されていない聖隆は、適当なポジションを取って後は眺めているだけである。頭の中はすでに、自分がボールを受け取るにはどういう動きをしたらいいか、それだけを考えながらボールの行方を目で追っているのだ。
泰波側は、機を窺うようにボールを回し、中央へと運んでいく。そこを、待ってましたとばかりにプレスに行く八健ミッドフィルダー陣の中でキープしようとして、意図が合わなかったショートパスが引っ掛かったところで、聖隆はスッ、とボール方向へと身体を寄せる。
それで、近くの敵が何人か、聖隆の動きを警戒して中に寄ったところで、ボールが左バックの春一へと渡った。マークの意識がそっちへと移ったのを意識して、聖隆は身体を反転させてタッチライン際へと走り出すのだ。
前半にも何回か、同じような動きで釣られていたディフェンダーが、ハッと気付いた時には、すでに聖隆がフリーなスペースへと進出している。それを逃さず縦に出した春一のパスが、見事に足元へと納まるのである。
(よっしゃ!)
心の中でガッツポーズをしながら、転がすようにパスを受け止め、ボールを前に置く。それで視線を上げた、その瞬間に、右側から影が迫った。
ザアッ、勢い込んだスライディングタックルが襲い来る。慌ててボールをタッチした聖隆だが、そのまま軸足へと突貫してきた聖伍に、引き倒されるように空中へと舞うのだ。
「、うっ、わっ!?」
頭から地面に突っ込みそうな状態を意識して、右手を前に突き出しながら、精一杯に体を入れ替えて接地点をズラそうとする。受身を取りながらも右肩から倒れて、その衝撃に思いっきり顔を顰めた。
「いったぁぁあーっ」
着地に息を詰まらせながらも、刈られた左足を押さえた聖隆に、甲高い笛の音が被さった。近づいてくる審判を横目に、先に立ち上がっていた聖伍が聖隆を覗き込み、「大丈夫か?」なんて聞いてくる。
眉を顰めながら睨みつける聖隆の横で、近づいてきた審判が、ポケットから取り出した黄色いカードを聖伍に突き出している。それに、露骨に不満顔を浮かべた聖伍の「今のはボールに行ってたって」なんて文句を聞きながら、聖隆もヨイショと腰を上げる。
「やってくれるよな、コンニャロウ」
奥歯を噛みながら、聖伍へと向き直ると、彼は飄々とした表情で腕を広げた。確信犯だ。
「強烈な挨拶を、どーも」
「ああ、寂しいって言ってたから、熱烈にしたよ」
とびっきりの皮肉に返される、聖伍の笑顔は、聖隆の神経をいい感じに刺激してくれる。ふう、と息を吐きつつも、さっさと守備位置に戻る聖伍の背中を睨みつけてから、ボールを味方へと転がした。
*
隣で姉が、息を呑んだのが、分かった。
ピッチに倒れ込んだ辰野のマタが、その原因となった強烈なタックルが、衝撃的な光景だったのだろう。確かにそれは、まるで格闘技か何かのような、非常に激しい激突だったのだから。
だから、砂を噛まされて顔を歪めた辰野が、それでも大事なく立ち上がった姿を見て、ホッ、と一息ついたのだろう。それは彩乃も一緒だった。
「な、何よアレ! あんな勢いで突っ込んだら、ケガとか危ないじゃん!」
憤慨した彩乃が、胡花を乗り越えるようにして桃史を睨みつけてきて、桃史はタジタジに腰を引かせながら、冷や汗を流すのである。
「い、いやあの、その、ね? 確かに強烈だったけど、ある意味、いつも通りというか、アレがあの人のプレースタイルだし……」
「いつも、あんな危険なことをしている、て言うことなの?」
静かな声音ではあったが、姉の瞳は彩乃と同様、いやそれ以上に非難の色が強かった。ただ、そんな風に責められても、桃史は当人ではないので、なんとも曖昧な対応しかできないのである。
「ま、まぁね。麻宮先輩は中盤のフィルター役で、高い守備力を備えていることで知られるんだけど、それはやっぱり持ち前のフィジカルと激しいタックルが武器なわけで……」
「だからって、相手にケガをさせていいって訳じゃないでしょ!?」
「あ、あのね? 特にファースト・コンタクトは重要なんだよ。最初のプレーで相手に強烈な一発をお見舞いすることで、精神的に優位に立って、その後も相手を抑えやすくなるからさ。麻宮先輩は特に、ロイ・キーンばりに容赦なく当たりに行く人だから」
彩乃の剣幕に恐れ戦きつつも、桃史はしどろもどろに説明しようと試みた。だが、言葉を重ねれば重ねるほど、2人の視線は冷たくなってしまう悪循環である。話の焦点を必死にボカそうと試みるも、それは残念ながら白々しさを残すだけだ。
とか言っている間にも、ピッチ上では辰野が再び吹き飛ばされ、姉の視線がより一層、険しくなってしまったのだ。
「つまりは確信犯という訳でしょう。とても乱暴な人だわ」
そんな人が評価されてるなんて、と。姉は苦々しそうに奥歯を噛んでいる。
どうやら、姉たちの麻宮先輩に対する印象は、地の底まで暴落したようである。桃史は何だか居た堪れなくなって、必死に弁解の言葉を探すのだ。
「い、いやいや、そのね? 確かに麻宮先輩は、『泰波のリンギオ』って呼ばれるほど、高い危機察知力と激しい守備が持ち味だけど、そんなダーティーな人じゃないよ? 汚れ役を一手に引き受けて、ピッチの危険な場所を埋めて、相手の攻撃の芽を摘み取るために走り回れるのは、並大抵のことじゃないし……」
と重ねるフォローの言葉は、ジトリと向けられる2人の冷たい視線に、少しずつ尻すぼみである。「さっきのタックルは、ファウルにならなかったし、ね?」とお茶を濁すように付け加えた一言も、2人の様子を変える力など寸分も持ち合わせてはいなかった。
困った。桃史が頬をヒク付かせながら、アハハ、と無駄な愛想笑いで場を和まそうとしたその時、上から伸びてくる救いの声。
「えーっ、と。ちょっと、いいかな?」
苦笑交じりのその声は、上の段に座っていた、麻宮先輩の耳を引っ張っていた女性である。先程のどさくさで、大川 好美(おおかわ よしみ)と名乗ったその女性は、泰波高校の2年生らしい。
(そういえば、学校で見たことあったかも……)
よくよく思い返してみると、彼女は毎朝のように麻宮先輩の耳を掴んで登校してくる、有名な人だったような気がするが、今はそれはどうでも良いだろう。
「……なぁに?」
姉が、未だ興奮冷めやらぬという感じの、つっけんどんな声を返す。あの、様々な仮面を着けて外面よく、本来のエキセントリックっぷりを隠し続けてきた胡花が、初対面の女性に対して感情を露わにした表情を見せている。そのことが本当に珍しくて、ああマジで好きなんだなぁ、と桃史は溜め息を吐いた。
「えっとね。まぁアタシは、サッカーに関しては素人だから、とやかく言うことは出来ないんだけどさ。なんだかセーゴの人格が全否定されてるみたいだから、ちょっとフォロー入れておかなきゃなあ、と思って」
「フォロぉ~?」
彩乃までもが、初対面の大川先輩に、噛み付くような声音で睨みを利かせているのだから、彼女たちの興奮は桃史が思っている以上に大きいようだ。
「あんな危険な行為をするヤツに、どんなフォローがあんのよ。平気で人をケガさせようとするなんて、サイッテーだわ」
「あー、ははは。確かに最初のは危なかったよね、それはアタシにも分かったよ。うん、ゴメン」
2人の少女の苛烈な怒気を正面に据え、しかし大川先輩は、なんら気にせずニコニコと受け流している。先程、強烈なプレッシャーに完全に圧されていた桃史から見て、この女性のなんとサバサバと大らかなことか。
「でもまぁ、正直、それって信頼の現われっていうか、あの2人、良いライバルみたいよ?」
スパッと切れ味良く、言葉を重ねるこの女性は、とても明快だ。だからこそ、怒り心頭に達している2人といえど、思わずスルリと聞いてしまうのであろう。
「それって、どういう意味?」
「さっきも言った通り、アタシは素人なんだけど、それでも泰波の試合はちょいちょい見てんだよね。その中で評価すると、セーゴって、誰でもあんな感じって訳じゃないんだ。なんていうか、エースキラー? 的に1人に張り付くよりも、いつもキョロキョロ周りを見ながら、自分の近くにいる人に当たってくんだけどさ」
ね? と、大川先輩が尋ねてきて、桃史はホケッとした顔をすぐに直し、コクコクと頷いた。
「でもさ、極少数の対戦相手の時だけ、すごく警戒して、張り付くんだよね。それでも普段は周囲を気にするんだけど、八健と当たる時だけは、いつもあの11番の子にベッタリ。いわば特別扱いだよね」
そう言った時の、まるで呆れたかのような大仰な肩のすくめ方を見て、桃史も思わずアハハと笑ってしまう。それは、彼女の言う事が確かに本当で、だからこそ普段の激しくもクレバーなプレーと、闘争心まる出しで辰野を削りに行く今の麻宮先輩の姿の対比がおかしいのだ。
まぁそれも、普段の2人を知らない姉たちには伝わらないようで、ジロリと睨まれて口を噤むだけなのだが。
一方、一睨みで弟を完全に恫喝した胡花は、まだまだ不機嫌そうである。
「それで、だから何だと言うの?」
この刺々しい物言いは、普段からは想像もできない声音なのだ。
「うんまぁ、だからね。セーゴにとってあの子は、何と言うか、とても特別な対戦相手なんだよ。それは11番の子も分かってて、それで向っていく感じの、お互いが認め合った……ライバルってヤツ、かな?」
あはは、と笑ってみせる大川先輩だが、その説明では姉はまだ納得していないようだった。
「もしそうだとしたら……いいえ、むしろそれなら余計、相手をケガさせてしまうような危険な行為は、いけないことだわ」
毅然とした表情で、頑として譲らない姉。その横で彩乃も口をヘの字に曲げている辺り、2人とも、決然とした意思を持っているようだ。その論説は、なんというか、フットボールというスポーツに慣れてないなぁ、と桃史を苦笑させるのである。
一方で、うーん、と悩ましげな声を上げるのが大川先輩である。彼女は一頻り眉間に皺を寄せると、うん、と一つ、頷いたのだ。
「ねぇ、胡花ちゃん、彩乃ちゃん。あの2人、見てみてよ」
そう言って指をさす先には、激しい当たりでアプローチする辰野と麻宮先輩の姿だ。手でブロックしながら身体を寄せた麻宮先輩が、バランスを崩した辰野を押し退けてボール側へと入り込み、引き倒すようにして奪取する光景である。それは確かに暴力的に見えて、胡花は手で口元を覆ってしまった。
ただ――その後、麻宮先輩が差し出した手を受け取る辰野の表情を見て、彼女は身を乗り出すことになる。
「…………なんか、バカらしくなってきたかも」
逆に身を引くようにして、彩乃がそう呟いたのは、倒されたはずの辰野の表情が、悔しさの中に愉悦を含んだ笑みが見受けられるからだろう。
確かに大川先輩の言う通りなのだ。彼らはこのマッチアップを、心の底から楽しんでいる。
彩乃の呟きに苦笑を浮かべたのは、桃史も同じだった。その後で、果たして姉の反応はどんなのか、と横を見ると、彼女は悔しそうに歯噛みしているではないか。
「もう、マタくんっ。私と一緒の時は、あんな顔、してくれないのにっ」
むぅっ、と本気で不機嫌な表情になっている姉を見て、こりゃダメだ、と本格的に頭を抱えてしまったのも、桃史だけではないようである。
*
流れが完全に変わっていた。
八健サッカー部の攻撃は、桃史が言うとおり、完全に聖隆の個人技に依存しているのである。特に崩しの局面において全般的にアイデア不足で、アタッキングサードで攻めあぐねることが多い攻撃陣は、前に運べてもブロックを破るのに苦心してしまうのだ。その時に左の聖隆へ展開し、彼が1人で深くまで突破することで、ヘディング能力に優れたセンターフォワード、シャドーストライカーとしてスペースに出没する右ウイング、中盤から飛び込んでくる2人のインサイドミッドフィルダーが活きてくるのである。だから、聖隆が抑えられてしまうと、チームの攻撃が機能不全に陥るのだ。
そして今、聖隆は対面のサイドバックと聖伍に常に監視された状態で、思うようにボールに絡めていないのである。それを見て攻め手を変えようとした中盤が不用意にボールをロストし、そのまま用意のできていない最終ラインの中央にスルーパスを通されると、あっさりと一点を返されてしまう。それでも2点のリードがあるのだから慌てる必要など無かったのだが、動きが制限されてイラ立っている聖隆は、明らかに不機嫌な様子でボールを要求していた。
それが更に状況を悪くしたのは、チーム全体のメンタルコントロールが脆弱な証拠だろう。サイドに留まっている聖隆を見て出されるパスは、通る前に聖伍が簡単にカットしてしまう。動きの少ない聖隆に、わざとパスコースを空けるポジショニングでボールを通し、インターセプトを狙うのは、罠としては非常に単純だ。だが平常心を保てていない八健ミッドフィルダー陣は、このイージーなミスを何度も繰り返し、ボールに触れない聖隆は「何やってんだ!」と、自らのポジショニングミスを棚上げして怒鳴り散らす悪循環に陥っていた。それはもう、先輩だろうがなんだろうがお構いなしである。
「バカやろー、お前が動かないからパスが通らないんだろが!」
だから、背後から春一の怒鳴り声が聞こえて来た時に、聖隆はギョッとしたのだ。なんだかんだで普段から温厚な春一が怒る時が一番怖いのである。
それでようやく、サイドに張り付くだけでなく、中に入ってボールを貰いに行く動きを見せた聖隆。しかし、やはり平常心は失われていたようで、その狭くなった視野は悲しいかな、チーム全体に波及していたのだ。
中盤から、敵ラインのスペースの聖隆へ角度の浅いボールが入ったときに、久しぶりに触ったそれだけを見てしまった聖隆は、疎かな警戒心と遅れたルックアップによって、仕掛けの瞬間を狙われてしまう。それが、巧妙な聖伍の罠だと気付いたのは、強烈なショルダータックルでバランスが崩れてからだった。
聖隆がボールを失った瞬間、八健側が攻守の切り替えを遅らせた上に、狙っていた側のトランジションが実に迅速だったために、チームは完全に後手に回る。ハッとして囲みに行った数人の動きを見て、聖伍が素早く外にパスを出すと、猛烈な勢いで走り上がるサイドバックがフリーでタッチライン際に抜け出していた。インサイドハーフが中に釣りだされたことで、春一の前にできた大きなスペースを利用された格好だ。
「しまっ……!」
春一は即座に半身に構え、縦を切りつつカットインへの牽制をかける。だが、アンカーとセンターバックのフォローが遅れたことで、彼にできることは非常に限定されていた。
敵サイドバックが春一のポジショニングを嘲笑うかのようにパスを出すと、フォワードとのワンツーで一気に抜き去って、完全に左サイドを攻略される。そして敵サイドバックは、その走力と突貫性から、攻撃に出た時の迫力が県下随一な存在なのだから、背走する春一はノーチャンスだった。
深い位置からの低弾道クロスに、八健側の全員がボールウォッチャーになった隙を逃さず、ファーのフォワードがニアに入る動きでクロスに飛び込み、そのままニアポスト脇を掠める巧みなタップインでゴールを割ると、その電光石火のカウンターに会場が一瞬、呆けたように静まり返るのだ。
シュートがネットを揺らした瞬間に、罪悪感から頭を抱える程度には、聖隆にも責任感と言うものが存在するのである。
「あああああ……」
一点差に詰め寄られたプレッシャーに変な呻き声で対抗していると、背後から肩を叩かれて、振り向くとそこには聖伍がいる。
「お前の悪い所だぜ、その集中力のない感じ」
ニヤニヤ笑いでそんなことを言って来るのが憎らしい。
「んだよ、こらぁ」
「拗ねんなって。お前のためを思って言ってやってんだから」
恩着せがましい口調で出てくる皮肉に、聖隆が眉を顰めるのを楽しむように、聖伍はポンポンと背中を叩いて、トドメの言葉を発してきやがるのだ。
「karajo、カラーホよ、マタ」
言うだけ言って、さっさとポジションに戻って行く聖伍。
(carajo……)
それはスペイン語であり、男性の局部を示す単語であることから、現地では放送禁止用語になってしまう種類の言葉ではあるのだが。
(『根性入れろ』、だぁ、あの野郎……!)
隠語として含むその意味を知っているからこそ、聖隆の中に湧いてくる沸々とした怒りが、大きくなっていくのである。
しかも微妙に、バスク的な発音を残して行くあたりが、何ともいやらしい感じなのである。
ギリリと強く、奥歯を噛んだ。
「おーい、マター。早くこっちに戻ってこいよ」
リスタートになっても自陣に来ない聖隆を迎えに来た春一が、思わずギョッとしてしまったのは、仕方のないことだろう。
「お前に言われんでも分かってるぁ、こんちきしょーっ!」
悔しさに怒髪が天を突かんばかりの聖隆の、そのボルテージに合わせるように股間の辺りが暴れ出しているのを見たものは、春一だけだと信じたい。そんなテンションマックスな聖隆少年の怒声は、低く力強く、自分の中に反響していくのである。
ただ、それでも暫くは、泰波側の流れで続いていくことになる。相変わらずオフ・ザ・ボールの動きが少ない聖隆にはボールが渡らず、しっかり守備ブロックを敷いた相手を崩せるような攻め手が他にない八健オフェンス陣は攻撃に行き詰まり、奪いどころでカットされたボールが素早くゴール前に渡り、何度も危機に晒されることとなった為だ。
これはもはや、同点ゴールも時間の問題と思われた。
しかし、その流れへの余裕が、一瞬の隙を作るのだ。八健ディフェンスがカウンターを凌いで、ボールが春一に逃げてきた時、まだまだ攻撃への意識が切れていなかったであろう泰波陣内に、多くのスペースがあることを確認する。だから、こちらを見た聖隆を見返した。
体を内に向けて中盤へのパスを匂わせた後、それをフェイクにボールを持ち上がると、サイドライン際で縦に長いパスを出す。聖隆はボールが出るタイミングを見計らって走り出し、内跨ぎでゴール方向へ体を向けると、聖伍のフォローが後ろにあるのを認識するのだ。
(よしっ)
久しぶりに触れたボールをコントロールしながら、一気にギアをトップに入れて翼を生やす。踏み出した一歩でディフェンスの反応を振り切り、次のタッチで完全に置き去りに。眼前の広いスペースにテンション上がってドリブルが長くなってしまったが、敵陣深くを抉りきると、左足でマイナスのクロスを放つのだ。
どうだ、と思ったパスは、飛び込んできた味方の前でクリアされてしまうのだが、セカンドボールを拾った味方が倒されてファールを貰う。終了も近い良い時間に、流れを切る八健側のフリーキックが与えられた。
ボールのプレースポイントからゴールまで、およそ35メートル。左に寄った長い距離に、何人かが顔を突き合わせては小声で、
「直接は厳しいし、合わせに行くか?」
「時間も時間だから、キープでも良いだろ」
「ディフェンダーは上がんなくていいや。ゴール前は数人で」
とか、なにやらセコイ話を打ち合わせているのである。
そこに聖隆がノコノコと歩いてきて、自信満々にこういうから、迷惑はなはだしいのだ。
「オレに任せろ!」
正直、久しぶりのドリブル突破にテンション上がって、気が大きくなっている状態だ。キラキラと瞳を輝かせて踏ん反り返る聖隆に、チームメイトたちは疲れた表情を見せていた。
「いやお前、ここはムリとか、しなくていいから」
春一のそんな言葉も、念仏を唱えられた馬のような聖隆には、当然ながら通じない。
だから皆、近くに寄ってきたキャプテンの方を見て、判断を仰ぐのである。
「……しょうがない。聖隆、蹴っていいぞ」
監督の渋い表情を確認しながらも、半ば諦めた声音でオーケーを出すキャプテンに、中間管理職の悲哀を見た。
溜め息である。
「任せて任せて!」
聖隆は喜色満面に、ボールをセットし直していた。
主審が近づいてきて、もういいか、と確認してきたので、キャプテン含む何人かは自分のポジションへと戻っていく。最後に春一が、「大丈夫か?」と確認すると、聖隆は笑顔で
「クリスティアーノばりのトマホークをお見舞いしてやるぜ!」
そう宣言して親指を立てるのであった。
ピッ、と再開の笛が鳴る。ボールを睨むように集中していた聖隆は、ゆっくりと助走をとりながら勢いを増し、軸足を踏み込んでボールを捉え――
「っ!」
壁を越えた弾道は、ゴールに向って落ちることなく、弧を描いて天高くホームランしていくのであった。
*
アディショナルタイムは思ったよりも少しだけ長かったが、それも含めて、両チームとも見せ場なく試合終了のホイッスルを聞くことになる。
スコアは3-2。練習試合の枠をちょっとだけ超えた、毎月恒例の対抗戦は、見事に八健高校サッカー部の勝利に終わったのである。そして、最後はちょっとバタついた試合展開に、固唾を呑んで手に汗握っていた八健応援席は、過剰ともいえる歓喜の様相で、オラが学校のサッカー部を祝福しているのであった。
練習試合の枠をちょっとだけ超えた程度の、そんな位置づけの対抗戦なのに、もはや全国大会出場を決めたかのようなお祭り騒ぎに、サッカー部員たちはむしろ引き気味。校長や教頭から露骨なプレッシャーをかけられていた監督は、冷や汗の浮かぶ顔面に安堵の表情を乗せ、露骨なプレッシャーをかけていた校長は、晴れやかな顔で泰波代表の教頭と握手を交わしている。「いやはや、今日は素晴らしい試合でしたなぁ」「いやいや全く、本当に素晴らしい勝負でした」という社交辞令の応酬も、出ているオーラは言外に、『見たかこの薄ら成金どもが、ザマァ見やがれ』『ハッ、たかだか一競技に勝ったくらいでデカい面して。他の部なら話にならないくらい圧倒してるんだっつの』という、大人気ないプライドの鍔迫り合いが発生している状態であった。
そんな、悲喜交々と言うと少し御幣がありそうな様子の会場では、むしろ淡々と試合後の礼をしてベンチに下がる両校イレブン。前後半で流れが違い、展開が速かったゲームだけに、選手たちの疲労感は小さくないのだ。さらに、敗者の泰波側も、公式戦ではないので余り気落ちしていない、というのがあるのだろう。もちろん、勝者である八健側は笑顔が多いのだが、それよりも彼らには気になることがある様子である。
「おぉい辰野。お前、流れ分かってたんだよなぁ」
喜色満面に歩いていた聖隆の首に腕を回して、ドスの利いた声で語りかけてくるのは、副キャプテンの大木先輩である。
「んへ? 何すか、流れって」
聖隆のマヌケ声は、ちょっと怖い先輩様を殊更に不機嫌にするようだ。
「最後のほうのフリーキック。ゴールから離れてたけど、絶好の位置だったろが。アレを何でお前が蹴ったんだよ?」
凄味を利かせて尋ねてくる副キャプテンに、ただならない気配を察して、流石の聖隆もちょっとだけ口ごもる。しかし彼は、すぐに迷いない口調で、こう答えるのだ。
「行けると思ったからっす!」
それはもう真剣な表情で。この回答を聞いた時の大木先輩が、真夜中に単車でパラリラパラリラ爆走しているお兄さん方に混じっていても不思議では無い位に、飛び切りメンチを切った表情になったくらい、真っ直ぐな言葉であった。命知らずもいいところである。
今すぐ聖隆が殺されてもおかしくない、そんな空気を察したのだろう、背後から苦笑の混じる声音で、キャプテンの河市先輩が乱入するのだ。
「辰野、お前、自分がフリーキック決めたとこ、見たことあるか?」
練習でも見たことないぞ、と肩を叩く先輩の表情は、とても優しい。
「いやでも、今日は決められると思ったんすよ。調子いいし」
「その自信はどっから出てくんだ、テメェ」
大木先輩の言葉はとても正しい。
ただ、ヤーさんもかくやの迫力を持つ大木先輩に、優しく面倒見のいい河市先輩が介入したことで、その場の雰囲気は随分と丸くなっていた。その様子を見てチームメイトたちも茶化すように、
「そーだぞマタ、お前、いっつも打ち上げんじゃん。アメフトじゃねーんだからフかすなよ」
「あれじゃトマホークじゃなくてスカッドだな」
「フッ、むしろテポ●ンと言えよう」
口々に残念キックを揶揄しては去っていく。うるせーよ、と怒鳴ろうと思った聖隆だが、大木先輩が恐い顔を継続していたので、飲み込んだ。聖隆が空気を読むなんて余程のことなのである。
「ハハハ。まぁ、次からは状況を読んで名乗り出てくれよ」
「いーか、リード1点まで追いつかれて流れが悪い状態で、お前みたいなド下手キッカーなんざ有り得ねぇからな。覚えとけよ」
と釘を刺して去っていく先輩たち2人。
「そんなに言わなくても良いじゃんなぁ」
そう1人ごちた聖隆に、呆れ顔で近づいてくるのは春一である。
「いやいや、せっかく流れが向いてきたのに、下手すりゃまた向こうのペースに逆戻りだったぞ」
「えー。でも、決めれば文句ないでしょ」
「そういうのはさ。一度でも決めてから言ってくれよ」
達観したような渋面を浮かべる春一くん。言い回しがソフトなのも、聖隆との長い付き合いがなせる諦めの賜物と言えるだろう。
そんな、やや微妙な心もちの春一を気遣ったように、おーい、と声をかけてくる男が1人。
「いやー、参ったわ。ベンチに帰るなり、皆して取り囲んできてよ、やれ『早く来てれば勝てた』だの、『負けたのはお前のせい』だの、嫌になっちゃったよ。勘弁して欲しいよなぁ」
思わず避難して来ちゃったよ、と渋い表情の麻宮 聖伍がグチグチ言いながら近づいてきた。この、試合中は守備陣の前に立ち、相手の攻撃を体を張って阻止する献身的なプレースタイルとは対極的な、チームへの忠誠心の無さこそが、一度は呼ばれた地域選抜の座を軽く手放してしまった要因なのである。
「うん。正直、セーゴが始めからいたら、この試合は分からなかったよ」
春一が泰波側の言い分を即座に肯定するのは、当然である。聖伍は拗ねたようにヘの字口である。
すると後ろから、「やい、セーゴ」と聖隆が口を挟んできた。
「今日はオレの勝ちでいいよな、一回ぶち抜いたし」
勝ち誇るように胸を張る。それに対して聖伍は、何を言っているのか、というように眉根を寄せると、
「あぁ? あれは別に、一対一じゃなかったし、カウントしないっしょ。今日もオレの零封勝利だよ」
バチバチバチッと、2人の間に火花が散るのだ。聖隆と聖伍、県内屈指の矛と盾の強烈なライバル関係は、知ってる人は知っているローカル常識なのである。故に、試合毎に優劣を競い争っているのだが、1人でボールを持って突進していく聖隆と、流れを見ながらスペースを埋め周囲を動かしボールを奪う聖伍ではスタイルが違うので、一概に勝敗なんか着けられない、と言うのが関係者の公式見解なのだ。当人たちはそんなこと知らないが。
一触即発の空気の中、互いがメンチを切りながら距離を詰め、今まさに殴りあえる間合いまで接敵したところで――
振り下ろされた掌が、両者の間で小気味よい音を立てながら、力強く結ばれるのである。
「今日も良いドリブルで」
「そちらこそ、今日も良いタックルで」
そして2人は、ニヤリと笑みを浮かべたのだ。
ふうっ、と息を吐いた春一の、毎度よくやる、という感じに竦められた肩が、聖隆と聖伍のライバル以上の友人関係を表していた。
「よっしゃ歌おう、今日の良き日に!」
「おおそうしよう、3人で歌うぞ、今日の良き日に!」
と言って肩を組み、春一をもムリヤリに巻き込んで、ピョンピョンと飛び跳ねながら歌いだすのだ。
「Standing on the edge of the noise!」
「Standing on the edge of the noise!」
オレたちは騒音のギリギリ一歩手前――
オレたちは騒音のギリギリ一歩手前――
春一が、おいおいまたか、という感じの苦笑を浮かべながら2人の唱和に加わると、彼らは陽気に不器用なステップを踏み、ロックにシャウトをスクリームするのだ。
『Ahh~、Yeah~』
『Ahh~、Yeah~』
唐突に歌いだした3人に向けて、会場中から思いっきり奇異の目が向けられる中、彼らは恥ずかしげもなく歌声を響かせ続ける。
諦めたような表情の春一も含め、彼らの強靭な羞恥心と、驚くほど厚い面の皮は、称賛されて然るべきなのかもしれない。
*
『Standing on the edge of the noise!』
『Standing on the edge of the noise!』
と、正しく騒音さながらに喚きながら、不器用なステップで飛び跳ねる3人を見ながら。胡花がチパチパと拍手している、その横で、彩乃は呆れた表情を崩せずにいるのだ。
「ライバルとかなんとか言う前に、もうマブダチなんじゃん、あいつらって」
試合中のエキセントリックなタックルや、派手なボールの奪い合いで、さんざん戦い合っていた――というより聖隆が一方的に吹き飛ばされていた――というのに、今では肩を抱き合って笑顔で叫びあっているのである。これはもう、そんじょそこらの好敵手関係が裸足で逃げ出すくらいの仲良しさんではないか。
「大川ちゃんが言ってたことも納得だね、胡花」
そう話しかけると、聖隆が地に伏すたびに浮かべていたのとは正反対の、まるで初孫のお遊戯を眺めるかのような穏やかな微笑で手を叩く胡花が、ゆっくりと振り返るのだ。
「うん、そうね。仲良しなのはとてもいい事だわ」
切り替えが早くて助かるのである。
まぁ、プレースタイルが危険なものだと思うことに変わりは無いが、好美がフォローしていたように、人間性まで否定されるような男ではないようだ。彩乃はそう納得した。
会場内は、練習試合終了後の緩やかな空気の中、勝利した八健側の観客が明るい顔で帰り支度を進めていたり、OBなんかは現役部員に声をかけたり、とにかく和やかムードだ。敗れた泰波も、試合中の緊張感とは打って変わって、笑顔なんかも見られる弛緩した空気を漂わせている。それは、対抗戦と仰々しく銘打ってはいても、公式戦ではない、祭りを楽しむ的な気楽さがあるからだろう。ちょっとヒートアップしてるのは、会場の隅で顔を突き合わせて、大人気なく満面の笑みを浮かべる我が高校の校長と、見るからに不機嫌そうなオーラを発している泰波の教頭だけだ。
ちなみに、彩乃たちと一緒に観戦していた好美は、試合終了と共に「用があるから」とさっさと帰ってしまった。耳を引っ張ってまで連れて来た聖伍に何らかのアプローチをするでもなく、颯爽と身を翻して帰路につく彼女に、格好いいなぁとちょっとした憧れを抱くと共に、2人はどんな関係なのかと訝る気持ちも湧くくらい、なんともドライな対応だったのである。
彩乃は、アウェーの撤収準備に駆り出される1年坊主の桃史をチラッと見やり、大変そうだなぁ、と思いつつ。
「さてっと。そろそろアタシらも行こっか」
そう告げると、隣でニコニコしながら、すでに踊りをやめて奇声を止めた聖隆に向けて手を振っていた胡花が振り返り、
「あ、うん。そうね。行きましょう」
なんとも眩しい笑顔を浮かべたまま、腰を浮かすのであった。
正直、イラっとしたのだが、それは胡花ではなく聖隆への殺意である。
2人は帰り支度を済ませて席を立つ。校舎の方へと足を向けると、その途中で胡花が立ち止まった。
「どしたの?」
と尋ねつつも、彼女の視線を追った彩乃は、その理由を察する。校庭手前の体育用具倉庫の影で、2人の少女が肩を寄せるようにして蹲っていたからだ。
「まあ。どうしたのかしら」
胡花が心配そうに呟いて、少女たちに近づいていく。なにか体調に障りが合って動けなくなっているのではないかと考えたのだ。彩乃も少し心配になって、胡花の背中を追った。
「あの、どうしたの? 大丈夫?」
そう胡花が声をかけるも、2人は気付いていないようだった。しかし近くに寄ったことで、彼女たちが体調を崩して座っているのではなく、スケッチブックのような物を見ながら話し込んでいるだけだと分かる。彩乃はホッと息を吐くも、近くで覗き込むようにした胡花が、そのまま固まったように動かない。
どうしたのかと思い、彩乃も傍まで寄っていく。するとボソボソと、2人の会話が聞こえてきた。
「うへ、うへへへへ、これはまた何とも素晴らしい収穫だわ。サッカーなんて良く知らないけど、わざわざ試合に出向いた甲斐があったってもんよね」
「う、うわ、うわわわわ。なぁなぁ、ど、どうすんのこれ、これ、どうなっちゃうのさ椿ぃ!」
「激アツかぷのマタ×シュンに割ってはいる第3の男! これで妄想の幅は飛躍的だわぁ。『対抗戦が色々とアツい!』って情報くれた洋星の子たちには、ホントに感謝しなくちゃねぇ」
「さ、さささ、3人? 3人で色々しちゃう展開? ややや、ヤバイよそれ、ほんとヤバイよ!」
「落ち着きなって亜希子ぉ。これから3人のかぷを1から見直して、色んな形を発展させるんだからぁ。アタシの創作意欲はギュン伸びだっての」
「い、いいい、色々? 色々って、やっぱり、3人で色々しちゃったりとかも、アリなわけ? わわわ、それマジヤバイ……!」
「聞けば洋星もスゴイの揃ってるらしいし、次の対抗戦も楽しみかもぉ。バリエーションは何通りになるかな、描き切れないかもしんないわぁ」
「これ以上? これ以上になってくの? うわわ、ちょっとヤバ過ぎ。ヤバ過ぎだよ椿ぃ!」
「ふおぉぉぉっ、これはもう、色んなルートが分岐しまくり、妄想ビックバンだよ亜希子ぉ! これであと10年は戦える!」
なんだか情熱に溢れた会話が展開されているが、その内容がイマイチ理解できなくて、彩乃は困惑顔になってしまう。
しかし、そんな微妙な断絶感を、隣に立つ親友は感じていなかったようだ。というより、なんかもの凄い冷めた、とんどもなく重い空気を纏っているような気がするのだが、気のせいか?
「貴女たち……?」
その声のトーンを聞いて、気のせいじゃなかった、と彩乃は震え上がる。その声音は、いままで彼女が聞いてきた、どんな時よりも腹の底に響くような胡花の情感だったのだ。
パッ、と。自分たちだけの会話にのめり込んでいたはずの少女たちが、血相を変えて振り返ったのも、声に籠められた呪力のような響きに反応したからなのだろう。
彩乃の位置からでは、胡花の表情は分からない。
しかし、少女たちの片方――明るく染めた髪の毛をボブにそろえた、少し派手な見た目の女の子が、怯えたように顔色を蒼くしている様子を見るに、分からない方が良い事なのであろうと了解するのだ。
同時に、なんでそんなに怒っているのか、という疑問が、言い知れぬ恐怖を増幅させているのである。
「それ……なぁに?」
声のトーンは変わらない。口調だけなら優しそうなだけに、余計に含まれる感情が空気を重くした。
ただ、その声を受けるもう1人――三つ編みに結った黒髪と、フレームレスの大きめなメガネが特徴的な女の子は、まるで胡花の迫力に気付かない様子で、驚いたという表情から笑顔へと変わる。
「おや、アナタはもしや、早乙女さん? それに隣は、桜庭さん? こんなところで会おうとは。こんにちは、奇遇ですねぇ」
マイペースに、人懐っこい笑みを浮かべて、挨拶なんてしてくる。一見して地味目な装いながら、正面から見た彼女の印象は、なんとも魅力的に写った。
「あ、ああ、うん。こんにちは。アタシらのこと、知ってるんだね」
彩乃はちょっと鼻白みながらも、人好きのする笑顔に思わず、そう返していた。すると少女は、何の気負いも無い笑顔のまま、
「2人とも華やかって言うか、目立つから。有名人ですし」
なんて、カラカラ笑いながら言ってくるのだ。
「あ、失敬、こっちだけ知ってるのも気持ち悪いですね。アタシは大井 椿(おおい つばき)、こっちは芳野 亜希子(よしの あきこ)って言います。よろしく」
大井さんと名乗ったメガネの少女が頭を下げると、芳野さんと紹介された茶髪の少女も後に続く。ただ、芳野さんの動きがぎこちないのは、やっぱりまだ胡花の雰囲気が変わっていないからだ。
「よ、よろしく」
彩乃もぎこちなく返事をすると、一瞬、微妙な沈黙が下りた。
「ねぇ」
沈黙を破ったのは胡花だ。
「それ、なぁに?」
先程と同じ質問。内包される怒気もまた、同じ。
そして、含意を全く鑑みない大井さんの太い神経も、同じなのである。
「ああ、これ。見る? アタシの作品、けっこ評判いいんですよぉ」
朗らかに答えながら、彼女は胸に抱えていたスケッチブックを披露する。彩乃も、どれどれ、とスケッチブックに描かれているものに注目した。
…………………。
彩乃は愕然と目を見開いた。
――こ、これ!?
そこに描かれていたのは、男性だった。様々な構図で、色々な姿勢で、3人のキャラクター。おそらくモデルは、聖隆、春一、それに麻宮 聖伍だろう。特徴を掴んでおり、それぞれの個性が良く分かる描写だ。
が。
裸。
(はだか――――――っ!?)
と思わず叫びそうになったが、呆然として、言葉は上手く出なかったのだ。
スケッチブックに描かれていたのは、半裸全裸問わず、様々な場面が散りばめられた、3人の絵だった。しかも単体ではない。左右のページに所狭しと、聖隆たちがくんずほぐれつ、何かしら怪しげな雰囲気で『致して』いるシーンが何パターンも点在しているのである。
その、あまりにも上手に描かれたイラストは、彩乃の脳内で変換されてしまう。今もまだグラウンドにいる本人たちが、まさに目の前でそのような『まぐわい』をしているかのような、衝撃的な映像を連想させてしまうのだ。それはもはや強力な雷に打たれたかのようであった。
彩乃が驚愕に固まっている横で、しかし胡花は動揺を見せない。先ほど覗き込んだときに確認していたのであろう。むしろ燻らせた怒気を更に濃密にして身に纏わせつつ、再び、口を開くのである。
「……見たの?」
………………。
主語の無い確認に、その場の全員が戸惑いを見せる。彩乃は未だ衝撃から脱しきっていない頭で、胡花の言葉を処理しながら、しかし真意を測りかねて視線を向ける。
そして、胡花が漂わせる底冷えのするオーラに、顔を引き攣らせるのである。
「見た?」
大井さんが確認するように呟く。彼女はまったく怖気づいていない。凄いタフさだ。
胡花がゆっくりと頷き、
「マタくんの裸……見たの?」
と、訊ねた。変わらぬゆったりした語気。吹きすさぶ寒風の如き声音。殺気にも似た、差すような、怒り。
――――えっ、ああっ!?
そこでようやく、彩乃は思い至ったのだ。胡花がなぜ、こんなにも感情を露わに――というより、敵意を剥き出しにして眼前の少女と対峙しているのか。普段から温厚でのんびりしており、誰かにケンカを売るような真似など、幼馴染みの自分でも見たことが無かったこの太平楽思考の少女が、なぜ激情を隠しもせずに大井さんに詰め寄っていたのか。その原因が分からず、余計に恐怖を感じていただけに、その理由が思った以上に俗的なことに、彩乃は少し拍子抜けする。
同時に湧き上がるのは、小さくないショックだった。
そんな彩乃の胸中など知る由もない大井さんは、胡花の疑問を了解すると、にっこりと明るい表情を浮かべるのだ。
「まっさかぁ。これは想像で描いたモノだよぉ。確かに辰野くんたちとは、1年の頃から同じクラスだけ、正直それだけだからねー。遠巻きにネタにさせてもらってはいるけど、喋ったこともないから、裸体の観察なんてプールの授業くらいだってー」
快活に笑いながら、「本人のモノは分からないけど、良く描けてるでしょー?」とスケッチブックをパラパラと捲ってみせる、大井さん。確かにそこに描かれた少年たちには、立派にいきり立った局所的なモノが、グロテスクなくらい良く描かれている。想像とは思えないモノの無修正の生原稿なので、彩乃などは思わず頬を熱くさせてしまうが、当の本人は何のてらいも無く披露するのだから、この少女の精神力たるや、何たる強靭さなのか。
むしろ隣の芳野さんの方が、恥ずかしそうに視線を逸らしているのだから、相当である。
そして、大井さんの返答を聞いた胡花は、先程まで放っていた、氷点下に届こうかと思われる極寒のオーラを瞬時に霧散させると、ふうと一つ息を吐くのだ。
「まぁ、そうなの。ビックリしたわ。ごめんなさいね、勘違いしてしまって」
平時の彼女の――むしろ、安堵が伝わる朗らかなオーラが伝わる、優しい声音だ。その場の空気が一気に氷解し、張り詰めていたように感じられた息苦しさが、瞬時に消え去った。思わず飛び出る大きな吐息は、彩乃と芳野さんである。
「そうだよぉ。アタシだって実物なんて、小さい頃にお父さんとかお兄ちゃんとかのを見ただけだもん。ましてや臨戦態勢のなんて、それこそマンガとかしか知らないよぉー」
大井さんだけは、全くペースを崩していないのである。
あらあらまぁまぁ、うふふふふ。と胡花が笑う。その中に恥ずかしそうな響きが混じっているのは、早とちりした事に対する照れだろう。それで誤魔化そうとするのはちょっと乱暴だ。
そんな胡花の様子を横目に見て、彩乃は自分の頬が膨らむのを意識した。
(胡花がこんなに余裕をなくすなんて……)
面白くない、と思うのだ。初めて見る幼なじみの嫉妬。それも、こんなに苛烈に心を乱して、聖隆のことに必死になるなんて。本当に、面白くない。
複雑な胸中の彩乃が唇をちょっとだけ尖らせる中、そんな彼女に気付かない胡花は、軽く咳払いして空気を変える。
「えふんっ。……それよりも、大井さん。私、そういうの、感心しないわ」
心なしか赤い顔で、彼女は説教モードに入るのだ。
「へっ、何が?」
大井さんが小首を傾げる。
「そういう、男性同士で卑猥なことをする、みたいな物。あまり道徳的に良くないんじゃないかって、私、そう思うの」
まさかの事態。あの胡花が、他人に道徳を説こうとは、普段の彼女を知る彩乃としては、なんとも渋い顔になるしかない。
だが、普段の胡花を知らない大井さんたちは、互いに顔を見合わせて苦笑する。しまったなぁ、という表情だ。
「あ~。そっか、早乙女さん、こういうの苦手なのねぇ」
「ご、ごめんね、変なもの見せちゃって」
芳野さんがようやく喋った。思ったよりカワイイ声だ。
「いえ……、個人の趣味志向だから、あんまり口出しすることじゃないのだけれど、ね。私はあまり快く思えないの」
胡花が困ったように眉根を寄せる。口出しすべきではない、それは本心なのだが、それでも言ってしまう自分に苦笑しているのかもしれない。
「まぁねぇ。ちょっと興奮しすぎて、周りが見えなくなってたのかも。いきなり見せるものじゃなかったね、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
2人が揃って頭を下げると、胡花はいよいよ困り果てて、「そんな、謝らないで!」と慌てている。余計なお節介で、押し付けがましい主義主張を言っていると分かっているのだ。だから、それ以上は両者とも、踏み込めないのである。
そんな、ちょっと微妙は雰囲気が場を支配したので、彩乃は頬を掻きながら苦笑してしまう。
「えーっ、と」
と、視線を自分に集めるように声を出してから、
「こっちこそ、ごめんね、いきなり声かけちゃって。邪魔しちゃったよね」
その言葉で、双方の空気が解れた様だ。大井さんがさっぱりと顔を上げると、にっこりとしながら「いいんだよ」と笑う。それで、釣られたように胡花も笑みを浮かべるのだから、話は終わりだ。
「それじゃあ」
落ち着いたところで、彩乃が別れを切り出すと、大井さんたちも、うんじゃあね、と頷く。胡花が背を向けて歩き出そうとしたところで、背後から思い出したように、ねぇ、と大井さんが声をかけた。
「早乙女さんって、本当に辰野くんが好きなんだねぇ」
からかっている風ではない、むしろ本当に感心したように、一言。
その言葉を受けた胡花はゆっくりと振り向くと、
「うん、好き。大好きなの」
何の気負いもなく、言ってのけた。その堂々たる態度に大井さんが、ごちそうさまです、と笑ってしまうほどだ。
(…………ちぇっ)
彩乃の心に、昼過ぎに胡花の家を離れた時と同じ、苦い思いが去来する。同時に、胡花が浮かべる淡い笑みが、あまりにも美しくて、見惚れてしまう自分が寂しい。
面白くない、と思う。
大井さん達に簡単に手を振って、再び帰路についた2人。彩乃はむりやり、モヤモヤした気持ちを振り払って、胡花に笑いかけた。そうして仲良く、いつも通りにお喋りしながら帰るのだ。
ただ――
彼女の脳裏に、張り付いてしまって離れない衝撃が残っているのも、また事実なのだ。
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