第三章


3:「そんな日曜日」


 その日の日曜日は、早乙女家の広大な日本家屋が解放される、晴れの舞台であったのだ。

 地元の名士にして、華道の名門・早乙女流の宗家でもある早乙女の家は、月に一回のペースで一門の作品を展覧する会が催される。その会場は、家の正門を入って東に折れる、専用の特設ルームだ。普段から地元の芸術家による作品展などのため、よく利用されているスペースだが、この日はそんな小規模な開催ではない。早乙女流の宗家が新作を発表する場でもあるため、日本全国の華道の名家や批評家などが、この町へと足を運ぶのである。その広い展覧スペースでゆったりと鑑賞してもらうため、一門総出の準備に追われた後の、粛々とした雰囲気の中で行われる、大切な行事なのだ。

 そんな、大事な展覧会が開始してから少しのことである。早乙女家の長子として、将来的に早乙女流を引き継ぐ立場にある胡花は、前の師範であり前線を退いた今も多大な影響力を保持する大宗家・早乙女 菊子(きくこ)の部屋へと呼び出されていたのである。ちなみに弟の桃史(とうじ)も一緒に。

「二人とも、顔を上げなさい」

 上座に座す小柄な老婆は、すっかり白く色抜けてしまった髪の毛と深く刻まれた皺の奥で、鋭い視線を光らせていた。下座にて控える胡花と桃史は、朝の爽やかな日差しが障子から透けるその部屋で、有名政治家たちすらも萎縮させる菊子の迫力を受けながら、垂れていた頭を上げるのである。

 スッ、と。少女の視線が、鋭い老婆の眼差しと交じり合い。胡花はゆっくりと口を開いた。

「お祖母さま」

 その呼び掛けには、なんだい、という厳かな声。

「障子を開けても良いかしら?」

 ちょっと暗いわ、との胡花のセリフは、少しだけ場違いであったろうか。

 菊子の瞳が、中庭に面しているはずの、その廊下へと向った。

「……そうだねぇ、ちょっと暗いよねぇ」

 と言って戻される視線に、胡花はにっこり笑顔である。

「やっぱり暗いと、目付きも険しくなってしまいますものね」

「せっかく日が昇ってるんだから、明かりを入れなくちゃいけないよねぇ」

 なんて談笑が簡単に起こり、ほほほほほっ、と二人の笑い声が木霊すると、隣の桃史がややゲンナリ顔をしていたのであった。

「なぁ祖母ちゃん、何で呼び出されたんよ?」

 その弟は、なんだか疲れたような声であったのである。そちらへと視線を向ける祖母の眼つきは、優しく孫を見守る慈愛なのだ。

「あたしが呼んだんじゃないんだよ。なんだか百合が、話があるからって言って、お前たちを集めたようでねぇ」

 なんて祖母の言葉の間に、胡花は展覧会用の和装を引き摺りながら、障子際へと移動しているのである。

「お母さん、何の用事なのかしらね?」

 胡花が中庭側の障子を開けようと手を伸ばす、その後ろで桃史が、うへぇ、という顔をしているのが分かった。話が長くなりそうだ、と感付いているのだろう。その気配にちょっと笑顔である。

 そこで、スッと影が落ちたことに気付いて、胡花は顔を上げた。障子に映ったのは、日を背にした和装の女性であることが、その造形で了解できる。コホン、と影の女性が咳払いをしたので、その声音で噂の本人であることを了解した。

「失礼いたします」

 凛、とした。その表現がピッタリ当て嵌まる声だ。女性は座して、そっと障子を開けると、楚々とした仕草で部屋の中へと入る。その際に頭を垂れると、二児の母とは思えぬほど木目細かく整ったうなじが、和装の襟から顔を覗かせるのだ。

 顔を上げたのが、胡花の母である早乙女 百合(さおとめ ゆり)なのは分かっていたのだが、母は隣の胡花をちょっと睨みつけるかのように見据えたのが、驚きだった。

「胡花、今は門下生もいるのです。お母さん、じゃないでしょう」

 窘めるようなその声は、早乙女流の師範である責任を背負った母のものであることを了解して、胡花は素直にごめんなさいを言うのだ。

「申し訳ありません、師範」

「よろしい」

 すましたような応答を終えて、母は再び障子を閉める。その仕草の間に、隠れるようにして笑いを堪えてしまうのは、もはや胡花の習慣であった。

(いつもは『お母さん』って言わないと、スねて頬っぺを膨らませちゃうのに)

 門下生は知らないことだが、普段着の母は凛々しさとは正反対の、ちょっとドジで可愛い主婦なのである。ギャップ萌えである。モヘモヘである。

「ほら、胡花。早く戻りなさい」

 無駄なことを考えていた胡花を窘めるように、母は下座の座布団を示す。その様子に、自分が何をしに移動したのかを思い出して、胡花は視線を戻すのだ。

「でもお母さん、私、障子を開けたいのだけれど……」

 と、母が先ほど閉めてしまった引き戸に手をかける。しかし母は、「お母さんではないでしょう」と言いながら、それを止めさせた。

「今から大事な話をするのです。ここは閉じておきましょう」

「そうなの? でも……」

 と継ぎ掛けた胡花より先に、「ここは少し暗いでしょう」、と言ってくれたのは祖母である。せっかく日が昇ってるのだから明かりを入れたほうが良いでしょう、という先の結論を伝えてくれた。

 だが母は、小さく一つ、溜め息を吐いたのみ。

「あのね、母さん。胡花もよ、今は大事な話をしたいの、家族のね。だから全ての戸を閉めておいて、聞かれないようにしているの」

 実際には、襖も障子もそんなに厚い物ではないのだから、外から聞こうと思えばいくらでも聞こえるだろう。しかし閉じていることで、意思だけでも明確にさせる、という意図があることを、母は言いたいのだ。

「これ百合、母さん、じゃあないでしょう。門下生もいるんだからね」

 からかう様な祖母の揚げ足取りに、一瞬だけ母がクッ、と引き攣るが、すぐに表情を戻してみせる。ただちょっとだけ、戻らなかった眉間の皺は、人差し指でゆっくり解すお茶目さも見せるのだ。

「さぁ、早く話をしたいから、胡花も戻って」

 そこまで言われては胡花も従うしかない。少女は障子から離れ、先程まで座っていた座布団に、再び膝を畳むのだ。

「でも、家族の話をするのに、お父さんいないよ?」

 と言ってしまうのは、小さな抵抗だったろうか。

「この『家』のことを話すのだから、あの人がいても仕方ないでしょう」

 なんて冷たく言われてしまうのは、父の聡史(さとし)が入り婿で、華道家・早乙女とは関係のない一般企業のサラリーマンだからであろう。ちなみに今日は休日出勤である、お疲れさま。

「なー、かーちゃん。いいから早くしてくれよー」

 先刻からソワソワしっぱなしの弟が、痺れを切らしたように声を上げるが、母がギロリと一睨みして息を呑んだ。早乙女家は女性上位がとても顕著である。

「今は『かーちゃん』じゃなくて……?」

「う、ぇ? えっと、師範?」

 母は、ふうっとまた溜め息を吐いて、よろしいと一言。

「それで、ここに集めた理由はなに?」

 胡花がそう問いかけると、母は一瞬だけ、もの凄い、表現の難しい複雑な表情をして。また溜め息。

「胡花。あなた、本気なの?」

 そんな問いが返されてきて、少女はキョトン、である。パチクリと瞬いて、なにが? と真顔で聞くと、母は無言で胡花たちの後方を指差した。

 部屋の奥には、二つのお盆と、そこに活けられた花。活け花の作品がちょこんと、並んでいるのだ。

 一つは綺麗に飾られた、荒削りだけれど彩り豊かな作品。そしてもう一つは、キレイな花を使っているはずなのに信じられないほどバランスを崩している、ちょっと表現に困る禍々しい作品なのである。

 胡花はそれを見た後に、真顔で母へと向き直るのである。

「……あなた、本気で活けて、アレなのね?」

 確かめるような、噛んで含めるような、母の言葉。それに全く動じることなく、胡花は頷いてみせる。

「ええ、そうよ。私が真面目に活けたお花が、あのお皿なの」

 むしろ自信満々の態度である、そんな娘に、母はむしろ気圧されているような雰囲気すら感じられた。

 胡花の全センスを注ぎ込んだ集大成は、今も背後で、その毒々しい色合いを表現し続けているのだ。

「…………そう。分かったわ、アレがあなたの本気なのね」

「分かってもらえて良かったわ。でも大丈夫、あれは私の本気だけど、ちゃんとマズイものだって言うのは、理解してるから」

「当たり前です!」

 母はとても頭が痛そうだ。嫡子の胡花の様々なセンスが、色々とズレているのは、昔から家族全員が知っていることである。そればかりか、一部の門下生もよく存じている、公然の秘密となってしまっているのは、さらに頭痛の種である。もっとも、常識的な胡花は本気さえ出さなければ、普通の作品を作り出すことはできる。なので今回の展覧会も、至極まともな、教科書どおりの作品が展示されているので、一門の外では問題は知られていないのは、せめてもの救いであろう。

 そして同時に、母が抱えるもう一つの悩みが、隣に鎮座しているのである。

「なー、オレ、もう行っていい? そろそろ試合の準備なんだよ」

 とブー垂れるのは、私立高校のサッカー部に所属している桃史である。時計を気にしてソワソワしつつ、180センチ近い体躯を揺すっているのだ。

「あら? 確か試合は、午後からでしょう?」

 とノンキな姉が問いかけると、

「そうだけどさぁ。一年は準備があるんよ。だから早くしないと、先輩たちにドヤされんだって」

 と言う遠慮会釈ない態度の弟が返すのを、母は眉間に皺を寄せて聞いていた。

「桃史。あなたはもう少し、礼儀作法というものを学ぶべきですよ。そわそわと落ち着きなく座っていては、とてもじゃないけど、早乙女の家人は務まりません。口も直しなさい」

 そんなお叱りを受けても、えー、と不満そうに口を尖らせてしまうのが、長男なのだ。「ねーちゃんが継ぐんだから良いじゃん」なんて言葉も、彼はごく自然に出してしまう。

 早乙女流は2代前、菊子の頃より、女系の流派となっている。継承における男女の差が取り払われたことにより、周囲は皆、長女の胡花が継ぐものと、当然のように思っているのだ。だが、母の悩みとは正しく、そこにあるのである。

「あのねぇ。胡花の実力は、貴方たちの後ろに置いてある、それなのよ。とても流派を継げるレベルではないでしょう」

 ようやく、話の本題に入った。室内の全員がそれを感じ取り、自然と、居住まいを正してしまう。空気が変わったのだ。

「……それはつまり、私に家を継ぐ資格がない、ということですか?」

 という胡花の問いは、重い。

「――、そうね。そこまで言うつもりは無いけれど、将来的に進歩が無かったら、そう判断せざるを得ないでしょう」

「ちょっと待てよ! ってことは、オレがここを継ぐのか!?」

 そう叫んでしまう桃史の声は、驚愕に満ちている。しかも、決して喜びのトーンでは、ない。

「落ち着きなさい。桃史、まだ決まったことではないけれど、貴方は態度に難があります。だから決断を強いられる前に、礼儀作法だけでも、しっかりして欲しいと思っていることは確かよ」

「待っ、そんな! そしたらもしかして、部活も続けられないのかよ!?」

「仕方ないでしょう。貴方の方が、お花に関しては、才能があるのよ」

 それは、遠まわしに、その可能性を示唆するものである。桃史の顔が、情けなく歪んで、項垂れるように座りなおす。

「ねーちゃんは、どう思うんだよ……?」

 桃史が呟くように、そう放つ。母は一瞬だけ目を伏せて、祖母はついと視線を動かして、黙した胡花へと目を向けた。

「そうね……」

 少女は俯いている。その表情を窺い知ることは、上座の二人には不可能だった。

「もし、もしそうなったら、私は――」

 空気が少し、重苦しい。障子に透ける日の明かりは、より暗い室内を強調しているかのようであった。

 胡花は顔を上げた。嬉しそうに。

「私、お嫁に行ってもいい、っていうことよね!?」

 彼女の満面の笑みは、なんというか、色んなものを吹き飛ばしてしまうものだ。

「はっ……?」

 母と弟が、そんなマヌケな吐息を漏らしたのも、頷けるというものである。

「良かったわぁ、マタくん、一人っ子だものね。それに私、お母さまもお父さまも素敵な方だから、悲しませるようなことはしたくなかったの。だから、モモくんが家を継いでくれるなら、私は安心してお嫁さんになれるわよね」

 ウキウキした調子で、揚々と語る孫娘に、菊子がホッホッと笑い声を上げる。調子を崩された弟が、呆然としたように頬を引き攣らせている前で、母は頭を抱えながら、娘の方へと移動した。

 そして、ガッ、と浮かれる胡花の肩を掴むと、カッと目を見開いて、放つのだ。

「精進しなさいって、そう言ってるのよ、バカ娘――――――――――――――――――っ!」

 屋敷に響くその怒声は、聞き耳を立てていた門下生諸氏が腰を抜かすほど、威力抜群の物だったとか。


 普段は粛々とした空気に満ちた早乙女の屋敷も、展覧会当日は騒がしいもので、門下生たちがパタパタと忙しそうに走り回っている。庭に面した廊下を、和装の婦女子が駆け回るのは、いつもなら咎められるものだが、この日だけは特別だ。それは、注意すべき師範その人が、慌しく東奔西走しているのだから、言わずもがなである。

 だが、それはあくまで裏方の話である。一旦、お客様がいらしている展覧スペースに入ったら、静かな鑑賞時間を邪魔することは許されない。だからその場は、深い絨毯の中をゆったりと歩き、息の乱れなど微塵も感じさせずに周囲に笑顔を向け続けねばならないのだ。

 それは、いかな高校生の胡花と言えど、例外ではないのである。

「失礼いたします」

 一声かけて、胡花が展覧会場に足を踏み入れた時、会場の視線は瞬時に彼女に集中し、そして溜め息と言う感想がそこかしこで放出される。薄緑の、けっして地味ではないが派手過ぎない着物を纏い、長く美しい髪の毛は、かんざしで簡単に纏め上げられている。ごく控え目に塗られた化粧がその顔立ちをより際立たせ、和の装いは少女の艶やかさを更に引き出しているのだ。たおやかな所作で、その憂いを秘めたような瞳を柔らかく細める胡花の姿は、老若男女を問うことなく、見惚れさせてしまうほど魅力的である。

 ここに来る人間のほとんどは、将来的に早乙女の名を継ぐであろう胡花のことを知っているし、実家の行事に何度も顔を出している彼女とは顔馴染みであろう。しかしそれでも、思春期を迎え日に日に美しさを増していく胡花には、多くの人々が毎回、驚きの目を向けてしまうのだ。

「やあ、胡花さん。こんにちは」

 と声をかけてきたのは、丸眼鏡の著名な評論家である。

「またお美しくなりましたな。とても10代のお嬢さんとは思えませんよ」

 続いての初老の男性は、他の流派で名の通った先生だ。その他、批評家や有力雑誌の編集長、地元の名士や政治家なんかも集まって、わっ、と胡花の周囲が混雑する。しかも口々に出てくるのが、彼女の容姿を賞賛する言葉なのだから、彼らは少し、この場所がどういう所なのかを忘れているのだろう。

「こんにちは。本日は足を運んでくださってありがとうございます」

 やんわりと、胡花は彼らに対応するが、一人ひとりを簡単に済ませてしまうのは、ちょっと時間が無いからだ。

 その理由は簡単、胡花には順番が存在するのである。最初は有力な男性たちが押し寄せてくるが、すぐ後には、より力を持った人々が来るのを、経験則で理解しているのだ。

「失礼」

 胡花の前を人壁のように覆っていた有力者の人々は、後方からの凛とした声に、昂揚したような表情を瞬時に固まらせる。そして、ザァッ、と左右に避けて、一本の道を作ってしまうのだ。

 その先にいたのは、涼しげな表情をした中年の女性である。紫の着物をまとったスレンダーな女性は、胡花の方を認めて、切れ長の瞳で少女を見据えながら、近づいてきた。

 ただ、目前まで来たところで相好を崩すのは、いつものことなのである。

「お久しぶりね、胡花ちゃん」

 弾むような声で挨拶されて、胡花もにっこりだ。

「はい、お久しぶりですオバさま。――きゃっ?」

 と、思わず上げてしまった悲鳴は、女性がいきなり胡花を抱き締めてしまったからだ。

「もう、また綺麗になってない? それにタオルもたっくさん。悔しいわぁ、相変わらず、すっごいスタイルよねぇ」

 なんて、背中に回した腕で胡花のウエスト補正用タオルを確認する彼女は、早乙女の分家の師範であり、つまり胡花の叔母さんなのだ。その名も杉野 蘭(すぎの らん)、母の妹である。

 ちょっとキツそうな顔付きで門下生に恐がられたりするが、その実はひょうきんで、とても優しい女性だ。

「オバさまも相変わらずですね。お元気そうでなによりです」

「ありがと。ちょっとこっち来なかったけど、変わりない? 母さんたちは元気?」

 と、抱きついたまま、顔だけを突き合わせて話を続ける叔母である。

「ええ、家族そろって、みな元気ですわ。これから会って行かれるのでしょう。久方ぶりですもの、母も祖母も喜びます」

「ん~、ふふふっ。そうね。母さんや姉さん、寂しがってたんじゃないかと心配だったのよ。すぐにでもお茶を出してもらわなくっちゃ」

 なんて、茶目っ気たっぷりに笑う表情は、10代の少女のように生き生きとしている。胡花も、顔を出した叔母を前に母が、「このクソ忙しいときに!」と睨みを利かせる姿を思い浮かべて、思わず噴き出してしまうのであった。

「それじゃあ、早速、お会いになられてくださいな。祖母ならお部屋にいるでしょうから」

 ちょっと笑いを残しながら、そんな風に言ってみる。すると目前の叔母は不満そうに唇を尖らせて、

「あらぁ、胡花ちゃん。もしかしてオバさんとは話したくない? 早く行って欲しいのかしら?」

 なんて、ホントに寂しそうにするのだから、この人は可愛らしいのである。

「そんな! 私、オバさまとお話できるの、とても楽しいんですよ」

「んふふー。嬉しいこと言ってくれるじゃないの、カワイイわぁ、このこの!」

 途端に相好を崩して、胡花の頭を寄せ、まるで抱かかえるように少女の髪に頬を摺り寄せる叔母である。公衆の目がある中でも、このような茶目っ気を表に出せるのは、姉妹なのに母とは大きく違うところだろう。

 やめてくださいなー、なんて言いながらも、困っているというお芝居ができずに笑顔の声になってしまう胡花もまた、母とは違って修行が足りないのである。

「胡花ちゃん」

 ふと叔母が、じゃれてる様にしながらも、胡花の耳に唇を寄せていた。その声はちょっとだけ、トーンが違っている。

「……なんですか?」

「この会場に、ね。吉羽のせがれが来てるんだけど」

「吉羽、さん? ――ああ、あの人、ですか」

 見上げた叔母の瞳は、ちょっとだけ苦々しい輝きを帯びていた。

「もしかして、姉さんや母さんが呼んだ、とか?」

「いえ。特別にご招待した、というお話は聞いていませんし。それにこの展覧会は、一般開放されてるものですから、どなたでも入れますでしょう?」

「そっか。……そりゃそうよね、まったく。厄介なことにならなければ良いけど」

 叔母はこっそりと溜め息を吐くと、すぐに笑みを取り戻して、胡花の頭を解放した。

 胡花が離れる一瞬、彼女にだけ見えるように、こっそり唇に人差し指を付ける。それに小さく頷いて、胡花もにっこり、笑顔に戻るのだ。

「さ、それじゃアタシは、母さんたちに挨拶しなきゃね。また後で、かな?」

「はい。また後で、一緒にお茶を飲みましょう」

 ひらひら、と手を振った叔母は、そのまま胡花の背後へ歩き出し、出てきた門下生が慌てて頭を下げる。そんな光景を、笑みを残したまま見送る胡花だが、悠長な時間は短い。

 正面を向いた時には、叔母の背後に控えていた女性たちが待っていて、「まぁまぁお久しぶり」とか、「またキレイになって、羨ましいわ」とか、「うちのお嫁さんに来て欲しいくらいよ~」なんてカシマシトークに囲まれることになるのである。その時にはすでに、最初に周囲にいた紳士の方々が入り込む余地は無く、散り散りになってしまっているのだ。

 そうして、奥さま方のお相手を終える頃には、すっかり胡花の周りは静かになる。一時の狂騒が忘れさせてしまう、華道の展覧会という厳かさが、時間と共に思い出されるからだ。落ち着きを取り戻した人々が、ようやく本来の目的に専念する中で、胡花も悠々と会場を回り、懇意の人と雑談を楽しむ。胡花にとっては、このような社交的な場では、いつもの事なのである。

 ただ、今日が少しだけ違うとしたら、それはもう一人に話しかけられたことであろうか。

「やあ、胡花さん。こんにちは」

 ご機嫌うるわしゅう、なんて古めかしい挨拶をしてきたのは、若いが少し細い感じの声である。

 玄関から見て正面の入り口に近いその場所で、にこやかな笑顔を浮かべながら歩み寄ってくる男性は、長身で細身、小さい輪郭に整った顔立ちであった。明るく染めた長めの髪の毛を整えて、仕立ての良い黒のスーツに茶の革靴、赤のシャツは胸元のボタンが開けられて、そこに提げられたサングラスと、やや上のシルバーネックレスが彼の肌を強調しているのだろうか。

「あら、こんにちは。ええと、吉羽……さん」

 ちょっと詰まった部分はつまり、その人の名前である。

「大貴です。ちょっとビックリしているようですね?」

 その吉羽 大貴(よしば たいき)が、苦笑しながら胡花の前で止まる。この、早乙女の遠縁に当たる吉羽家の長男は、胡花にとって馴染みが薄い存在だ。

「ええ、その……。こちらに来られるのが珍しいですから、少し驚いてしまいました。失礼ですわね」

 ほほほ、と誤魔化すように笑みを浮かべるが、来ていることは先に叔母が知らせてくれた。それより驚いたのは、正直、およそこの場には相応しくない派手ないでたちの方なのである。

「その、お召し物も、とてもお似合いですよ」

 なんて言葉で、やんわりと格好を意識させるのが、胡花にとっては精一杯である。見下ろした彼の左腕には、バッチリ高級腕時計が光っていて、なんだかホントに、展覧会には似合わないのだ。

「はは、そう言ってくれて嬉しいな。仮にもこういう場だし、やっぱりスーツの方がいいと思って、特注したんですよ」

 大貴の方は、そ知らぬ顔でそんな事を言ってのけてしまうが、胡花の言葉の意味は理解しているのだろう。口元の笑みが確信を持っているのに気付いている胡花は、鼻持ちなら無いその表情に、眉間の皺を消す努力をせねばならなかった。

「胡花さんの着物も、とてもキレイだね。君の美しさを更に引き立てているよ」

「あら、うふふ。お上手ですこと」

 なんて笑って見せて、隠した口元が少し引き攣っているのは、それが完全な営業スマイルである証だ。胡花は、仄かに漂う彼の香水と緊張感を嫌って、早く本題に入ることにした。

「それで、本日はわざわざ足を運ばれて、どうしたのです?」

 スッ、と。笑みを湛えたまま、視線だけ見据えた胡花に、大貴はちょっとだけ目を張って、不思議そうな顔を作る。

「理由ですか? いえね、たまたま近くに寄ったら、今日は一般開放の日だと聞きまして。ちょっとお邪魔しただけですよ」

 まるで事も無げに、そんな言葉を返してくる、図々しい態度である。それが嘘なのは、早乙女の人間なら百も承知で、吉羽と言ったら先々代から裏の仕事を引き受けてきた一門の面汚しなのだ。先代の吉羽家当主が貿易関係と名乗る会社を立ち上げて、よくない噂の仕事をし始めた時から、正式に早乙女家より破門を言い渡された家系である。本当なら早乙女の敷居を跨ぐこともできない男だが、一般開放日であるが故に、展覧スペースまでは追い出すこともできないのだ。

「でも良かったですよ。こんなに上品なお花も見れて、さらに美しくなった胡花さんにも会えた。気まぐれを起こして正解でした」

 なんて、普通の女性なら瞬時に虜にしてしまいそうな、ホストのような笑顔を向けてくる大貴。

「まぁ、そうですか。それでは、ゆっくりとご覧になって行ってくださいね」

 ここが切り上げ時だ。そう思った胡花が、にっこりと笑顔を残したのは、彼の脇を通り過ぎるためである。しかし大貴は、胡花が進行するであろう方向に身体を寄せて、予め通せんぼするようにして、さらに笑顔を向けてくる。

(……何かを聞き出そうとしているの?)

 穿った見方だが、そう判断した。胡花はまだ10代の少女である。早乙女の中でも、情報を引き出しやすい存在だと思われている可能性は、高いだろう。

 だから胡花は、立ちはだかるような大貴を無視して、迂回するように先へと進む。しかし彼は、すぐに方向転換すると、彼女の横に並んで歩き始めた。

「そうそう、胡花さん。実はボク、今、ロシアの貿易会社と仕事をしているんですよ」

 話しかけられたら、人目もある手前、無下にはできない。ただでさえ胡花は、このような公共の場では、良き跡継ぎを演じなければならないのだ。

「まぁ、そうなんですか」

 なんて簡単な返事にも、彼は気分をよくしたようだ。

「良質のキャビアを輸入してるんです。今度、よろしければ一緒に、食べに行きませんか」

「まぁまぁ、それはご立派ですわね。でも私はまだ高校生ですから、そんな高級な物をご馳走になんて、なれないですわ」

「なるほど、確かに、キャビアを味わうには最高のワインが必要ですからね。いやはや、胡花さんの美しさに、年齢を忘れてしまっていましたよ」

「おほほ、お上手なこと」

 なんて和やかに笑ってはみせるが、胡花は静かに、緊張感を高めているのだ。このまま奥の廊下に行けば、流石に付いては来れないだろうと、その距離を測るのである。

「ところで、取引相手のロシア人が面白いことを言っていてね。彼らが日本に来たのは、珍しい探し物をしている、ていう理由もあるらしいんですよ」

 そんな話を、「そうなんですか」、なんて適当に聞き流しつつ。あくまで焦らず、優雅な足運びを意識しなければならない事に、少しだけ苛立ちを覚えていた。

(和装で走り回ることには慣れているのに……。この場の空気が、こんなに煩わしいなんて、ホントに久しぶり)

 胡花の歩幅が、いよいよ焦れて大きくなろうとしているところでも、大貴は気にせず会話を続けている。彼は核心を焦らすように、一拍、間を置いた。

「彼らが探しているのは、とても珍しい、伝説上の生き物です。未だ確認されていないその生物が、この日本に現れたのだ、と言ってきたのですよ」

 興味深い話でしょう、なんて大貴の声。もはや意識外と聞き逃していたその話、ただその単語だけが胡花の耳に飛び込んできて、少女の歩みは急停止する。

「……伝説上の、生物?」

 振り向いた時の怪訝な顔、それは胡花の素の感情であった。もはや幼少の頃より、母にキツく言われ続けた、愛想の良い公共用の仮面が剥がれていたのだ。

(それって、まさか……)

 つい最近、身近で起きた大きな異変。少しマヌケな姿で現れたその存在は、しかし確かに、伝説にのみ息づく生物のはずだ。

 胡花の心に、小さく広がる不安の漣が、視線となって男の瞳に向けられる。

 大貴は、初めて真っ直ぐ捉えられた少女の視線に、上機嫌な笑みを浮かべた。

「ええ、そうです。とても信じられないような生き物ですよ」

 彼の、人の良さそうな笑顔に張り付く、小さな歪み。口の端の楽しさが、隠しきれない皮肉を写して、胡花の眉根が少し曇る。

「それはね……」

 もったいぶった口調で語られる言葉。しかし、その先が紡がれる前に、人の気配が来てしまう。

「やぁやぁ、胡花ちゃん、お久しぶり!」

「今日もご機嫌、麗しいかい?」

 なんて声と共に、ドヤドヤと近づいてきたのは、ご近所で顔なじみの老人たちである。その言葉で、ハッ、と我を取り戻した胡花は、急いで大貴から視線を外した。

「あら、こんにちは。今日はようこそ、お出でくださいました」

 と明るい調子で笑顔を返す、その姿はいつもの胡花である。

 老人たちも、歳に似合わずデレッとした笑顔で、着飾った胡花に手を振るのだ。しかし隣の大貴に目を移すと、「お邪魔だったかな?」なんて不安そうに聞いてくる。

「いいえ、お邪魔だなんて、そんなことはありません。こちらは遠縁の、吉羽さんという方なんです」

 そう紹介すると、彼らはすぐに笑顔を取り戻し、大貴にはあからさまな表情を向けるのである。

 微妙な空気を察したのだろう。大貴は微笑と共に会釈をすると、胡花に向き直って、「私はそろそろお暇しましょう」と言ったのだ。

「そうですか。分かりました、お帰りの際は、気をつけてくださいね」

 そういう胡花の心は、先の不安よりも、安堵の方が勝っていたのだ。出口へと向う遠縁の姿に、ホッと胸を撫で下ろしつつ、彼の話を心から追い出す。きっと杞憂だ、そう自らに言い聞かせて。

 改めて翁たちに向き直ると、彼らは機嫌よく口を開いて、

「いやあ、今回も胡花ちゃんは、素晴らしい作品を出してきたね!」

「いやいや、ホントに、その若さには似合わない、スゴイ才能だよ!」

「わしらも色々と見てきているが、胡花ちゃんはどれよりも勇壮じゃて」

 と賛辞の嵐を贈ってくれるのだ。胡花はそれに、嬉しそうに目を細めると、

「イヤですわ皆さま。私なんて、お祖父さまに習ったことを、そのまま再現しただけですもの」

 などと答えるが、その言葉は大きな照れを含んでいるのだ。

「そんな謙遜すること無い。あれは、ホントに素晴らしい盆栽だ」

「うむ、そうじゃ。アレなら、海外の見本市に出しても、十分に通用するぞい」

 そう言って、その場の全員が集中させる視線の先は、会場の隅にひっそり置いてある盆栽の鉢。

 胡花の活けた花の隣に、一つだけ存在する小さな針葉樹は、明らかな異彩を放っているのだ。だがその木は小ぶりながらも勇壮で、枝葉の張りと、湧き出る根っこは逞しい。

 とても良い盆栽作品なのである。

「胡花ちゃんのお祖父さんは、素晴らしい才能を君に残したね。趣味でやってるなんて信じられないよ」

 と言ってくれる、この道の先達者たちに、胡花は満面の笑みで頭を下げるのだ。

「ありがとうございます。そのお言葉、きっとお祖父さまも、喜んでくれますわ」

 それは、心の底から出る感謝の気持ちであったのだ。



 吉羽 大貴は、会場入り口に程近いその場所で、老人たちに囲まれるその少女を観察していた。

(早乙女 胡花、か……。想像以上に手強い、かもな)

 彼はこれまでの人生において、これほど婦女子に相手にされなかった経験は持ち合わせていなかった。だからこそ、最後には余計なことまで口走りそうになったのである。

 危なかった。あんな、ヨタ話と鼻で笑われる可能性のある事柄まで用いてでも、彼女の気を引こうとしたのは、彼の自尊心がさせたことだろう。

 反省せねば、という思いと同時に、彼女が想像以上に喰い付いて来た事に、興味も持っている。

(――このまま、親父殿の言い成りの様に動くのは、癪ではあるな)

 そう思いこそするが、大貴の視線は未だ、美しく成長したその少女へと注がれている。

 あれだけの女だ。10代でこれなら、数年を経ただけで、絶世という言葉がピッタリと当て嵌まるようになるだろう。

 モノにするだけの価値がある。

(早乙女への復帰が、吉羽一族の悲願なんて、興味が湧くもんじゃないが……)

 昔から口を酸っぱくして、そう叩き込まれてきた教育に、反発心を抱くのは事実。しかし、あの強欲な父親が、真剣な表情で真っ直ぐに口に出す話題なのも、また事実である。

 早乙女の次期当主を篭絡すること。それは確かに、両家の間柄を考えれば、最も効率的な方法であろう。

「ふふっ。そうだな、たまには親孝行をしてみるのも、良いかもしれない」

 今の商談を片付けたら、しばらくはこっちに精力を傾けるのも、悪くない。

 そう考えた大貴は、遠巻きに眺める少女をもう一度、ねめつける様に下から上まで観察すると、笑顔を隠すように背後を向いた。

 次の瞬間には、普段通りの微笑を湛え、和装で忙しそうに歩く門下生らしき女性に声をかけているのだ。

「あの、すみません。ちょっとお伺いしたいことが……」

 迷惑そうに振り向いた若い女性が、目を合わせた途端に頬を朱にして、潤んだ瞳で見上げてくる。内心の哄笑を押し隠した、大貴のその笑みはあくまで穏やかであった。



 時刻はすでに昼過ぎだ。

 ピンポーン、と。馴染み深い呼び鈴の音を鳴らしたのは、他ならぬ彩乃である。ショートパンツに厚手のTシャツ、緑と白のボーダー柄な長めのパーカーに赤のスニーカーという普段着に、ランチボックスを携えて、彼女がいるのは早乙女家の玄関である。ただし、裏口の。

 裏口といっても、この巨大な日本家屋で、胡花たち家族が生活する一般居住スペースに直通するのがこの出入り口なだけだ。正門は、華道家としての早乙女を訪ねる門下生や来客用で、普通の家族としての住人を訪ねるのなら、こっちを使うというわけだ。

「ごめんくださーいっ」

 そう呼びかけて、彩乃は玄関の戸を、カラカラと開けた。現れた玄関は普通の大きさで、リビングやキッチンに通じる通路と、上階へ上がる階段はフローリングである。数年前の改装でちょっとだけ洋風になっている住宅スペースは、ちょっと外観とそぐわない感じだが、見慣れてしまえば同じである。

 ただ、月に一度の展覧会が開かれているお屋敷だ、喧騒はこの裏口にも少しだけ漏れ聞こえてくるのである。

「はいはーい、ちょっと待ってねー」

 戸を開けてから、少しだけ間があって、奥からトタトタ近づいてくる人影がある。その和装の女性は、玄関に入って座っている彩乃を見つけると、あっと目を丸くした。

「あれっ? 蘭オバさ……」

 ん、が言えなかったのは、その女性がいつものような抱きつき癖を見せたからである。

「きゃー、もしかしてアヤちゃん!? お久しぶりね、相変わらずカワイイわー!」

 目を糸にして、ガバー、と襲い掛かってきた胡花の叔母は、男だったら投げられていた勢いである。

「お、お久しぶり……。来てたんだね。どうしたの?」

 なんてフランクに言い合えるくらい、二人は歳の差を気にしない間柄なのである。

「どうしたのって、今日は展覧会ですもの。久しぶりに、お客様としてここに来たのよ、アタシ」

「へー、だから履物がこっちに無かったんだ。……でも、ちょっと着物が、着崩れてるけど」

「それはほら、日曜のお昼だもの、クギ○ケ見なきゃ。ご飯も食べたいし、しょうがないわ」

 なんて、平然と言ってしまうこの叔母は、本家の喧騒をすっかり他人事扱いである。

 彩乃が苦笑を浮かべていると、蘭オバさんはようやく身体を離して、その装いに目を向けるのだ。

「アヤちゃんこそ、どうしたの? 今日は展覧会だし、胡花ちゃんとは遊べないんじゃない?」

「ああ、ううん。コバナと一緒に出かけるんだよ」

 なんて言ってのけてしまうと、蘭オバさんは不思議そうに首を傾げるのだ。ただ、その背後でドタドタと階段を駆け下りてきた胡花を確認し、その疑問は本人にぶつけることにしたようである。

 慌てたような身形の胡花が彩乃に、お待たせー、と挨拶するが、その横で彼女は口を開く。

「胡花ちゃん。展覧会の最中にお出かけなんて、関心しないわね」

 流石に、分家とはいえ流派の責任を持つ女性である。窘める言葉は少しキツイ。

 ただ、胡花本人は悪びれることなく微笑むと、

「お母さんの許可は貰っています。だって私、展覧会には一度だけ顔を出すように、てお達しが出てるんですもの」

 なんて言ってのけるのだ。

 それには蘭オバさんも苦笑である。胡花のエキセントリックな本性が露呈しないように、公共の場では一度だけ、顔見せ程度に会場入りする、というのは早乙女流の固い決まりだ。

「でもねぇ。一門の者が忙しく走り回ってる中を、楽しくお出かけって言うのは、ちょっと……」

 尚も言葉を紡いでしまう叔母の気持ちも、分からないではない胡花である。いつもは裏方の手伝いか待機に入るところだが、今回は免罪符もあるので、それは抜かりが無い。

「オバさま。私はこれから、早乙女家を代表して、桃史の応援に行くのですよ」

 と言うと、「えっ?」と蘭オバさんが首を傾げたので、補足するのは彩乃である。

「え~、と。これから、ウチの学校で、サッカー部の試合があるんだけどね。その相手が泰波だから、もしかしたらモモちゃんが出るかもしれないんだよね」

 なんて言いつつも、彩乃が浮かべる苦笑は、ダシにされた可哀相な早乙女弟を憂いたものだ。

「まぁ! そうなの、桃史が出る試合なのね?」

「うんまぁ、対抗戦だから、練習試合みたいなものだけどね」

 しかも当人は補欠である。一年だから当たり前だが。

「ふ~ん……」

 という、叔母のからかう様な笑顔には、それを十分に了解しているという意思がよく見て取れる。その、普通ならちょっと居た堪れないような視線を受けても、胡花は平然と正面から微笑を向けることが出来るのだから、それはスゴイのかもしれない。と、彩乃は呆れ気味だ。

「それじゃあ、しっかりと応援してこなきゃねぇ」

 なんて風にほくそ笑まれても、胡花のポーカーフェイスは崩れない。幼少の頃より、会場を飾る壁の花としての教育を徹底されてきた彼女だからこその、貫禄の鉄仮面である。

「ええ、オバさまの分も、しっかり応援してきますね」

 それでは失礼しますわ、なんて、しゃなりと一礼して白のサンダルに足を通す一連の流れは、なんとも流麗なのであった。

「あははっ。それじゃ、行くねー」

 彩乃は蘭オバさんと苦笑を交換すると、手を振って戸を開けた。その後ろを、ちょっと底の厚い胡花のヒールが音を立て、「行って参ります」と表情を崩すことなく頭を下げるのだ。

「あー、オバさん、もう少しでお暇すると思うから、今日はこれでバイバイね」

「そうなんですか、残念です。それでは、シューちゃん達にもよろしくお伝えください」

 ちょっと眉根を寄せた顔は、演技ではなくホントに残念な表情だ。ただ、すぐに笑顔を取り戻すと、くるりと振り向いて、玄関を出る。

 そんな、ウキウキ気味な珍しい調子の胡花を彩乃も追いかける。すると、戸が閉まる直前に、蘭オバさんが不意打ちの言葉を投げてきたのだ。

「胡花ちゃんの彼氏が活躍できるように、アタシも祈ってるからねーっ」

 その声が聞こえた時には、もう叔母の姿は見えなかったが、彩乃にはその表情は見当がつく。肩を竦めながら、胡花に追いついて、苦笑を浮かべているだろう彼女の顔を覗きこんだ。

「カレシ……」

 ねぇ、と掛けようとした声を、止めてしまう。その時の胡花が、真っ赤な顔で胸に手をやって、投げられた言葉を大切そうに反芻している、見たことも無い表情をしていたから。

(…………ちぇっ)

 なによ、と思う。

 彩乃は、今まで感じたことのない苦い気持ちが広がって、自分が俯いてしまったことを自覚した。

 尖らせた唇の先。浮き足立った親友の、危ない足元が並んだ自分の影を、見詰めてしまう。

 今日は日差しが強い。梅雨の晴れ間に、絶好のスポーツ日和の日曜日だ。

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