第二章

2:「友人たちのファースト・コンタクト」


 2人並んで、いざ行かん。聖隆と胡花は、仲良く県立八健(やつけん)高校へと向かい、楽しくお喋りに興じながら学び舎へと入るのである。

 その時に聖隆が感じることは、やはり隣を歩く少女の、格別とも言うべき美しさであろう。肩を越えるくらいまで伸びた、黒く艶やかな美しい髪の毛に、アクセント程度に飾り付けられたお洒落なヘアピン。スルと別けられた前髪の下には、綺麗に整えられた細い眉と、長く美しい睫毛を湛えた、少し切れ長の輝く瞳。適度な距離の眉間に、スッと通った鼻梁、プックラとした唇に、スッキリした顎と血色の良い頬っぺた。左右対称の完璧な顔立ちに、たおやかな視線と控え目な笑みを湛えた表情は、慈愛と呼ぶに相応しい感情を添えて、少女の魅力を一層に引き出している。その下に続くのは、160センチ強の身長に10代特有の瑞々しい肌、スッと伸びた背筋が彼女をより大きく見せているようで、そこにスラリと長い手足は美しさを引き立たせている。さらに、程よい肉付きがムチムチした色香を内包させており、特に胸部と臀部は服の上からでも充分に大きさを主張しているのだ。そこに、短めのスカートから伸びる太腿、カワイイ膝小僧、キュッとした足首など、学校指定の、ワイシャツにカーディガンとリボン、プリーツスカートという味気ない夏服ですら、異性も同性も須らく引き付けてしまうような少女の魅力を隠すことなど出来ないのである。

 説明が長いのである。

 つまりそれほど、この早乙女 胡花という少女は、完成された女の子なのだ。

 そういう事が傍目からでも分かるから、聖隆は、うんと一つだけ頷いてしまう。それは、もう2年生である彼女が未だに、通るだけでその周囲の生徒をザワつかせてしまう、圧倒的な存在感への納得である。

(やっぱスゴイなぁ、ハナは)

 その結論に至るまでの思考過程を毎日、繰り返しながら、聖隆は校門を潜り、玄関へと向って行くのだ。

 ただ、ここで補足せねばならないのは、感心している当人である聖隆自体が、胡花にも劣らないルックスの持ち主である、という事であろう。

 適当に伸ばされた程度の髪の毛は、ボサボサにならないほどには艶があり、彫りの深い顔立ちは鼻梁が真っ直ぐに通っている。しっかりした眉に切れ長の瞳は精悍さを印象付け、引き締まった頬から顎へと伸びる線は細身である。175センチ強の身長に、細身ながらも引き締まった肉体は、その瞬発力と身体能力を周囲に伝えてくれるだろう。

 ヤローの説明はこれくらいにしておこう。

 ただ、聖隆も十二分に、目立つ外見をしているということなのだ。

 そんな、学内でも格別に注目度の高い組み合わせが、毎朝のように一緒に登校してくる風景。この八健高校では、数ヶ月前から見られる珍現象と化しているのである。

 しかしながら、そんな物見遊山的な光景にされているとは知らない当人たちは、気にせず玄関を通り過ぎて、自分たちのクラスの前で別れるのだ。

「それじゃあね、マタくん」

 2年1組へと向う胡花は、階段を上がって右側へと歩き出した。

「ああ。また、な」

 3組な聖隆は、左方向へと歩くのである。

 こうして、本日も八健高校の珍百景が終了したのであった。

 ただ少し違うところは、やはり胡花が聖隆の後で、彼の股間にも手を振った事だろうか。それを了解しているのかいないのか、制服のスラックスの中でちょっとだけ、リューがモゾモゾしたのは、おそらく気のせいではないだろう。


 2年3組の扉の前で、数人の顔見知りと簡単に言葉を交わした聖隆は、笑いながらドアを開けた。それなりに親しい奴らに、手を挙げて挨拶すると、窓際の自分の机へと足早に歩を進める。そして、鞄を置くのもそこそこに、前の席の少年に声をかけるのだ。

「へい、マグロダイブ、シュン」

 すでに入り口のドヤドヤから聖隆に苦笑を向けていたその少年は、いつも通りの挨拶に呆れ顔で、はいはいと適当に返事をしてくるのであった。

「おはようさん、マタ。本日もお変わりなく」

 名張 春一(なばり しゅんいち)は聖隆の親友である。しかも小学校時代からの腐れ縁で、もはやツーと言えばカーと返ってくるほどの名コンビなのだ。と勝手に思っているのだ、聖隆は。自分のケツを安心して任せられる、女子だったら結婚しても良いくらいの信頼を持っている、そんな気配り自慢の少年である。

 だから、春一の溜め息まじりの皮肉にも、聖隆は気にせず話を続ける気になるのである。

「いや、変わったぞ。ちょっと変わった」

 椅子を引いて腰を落ち着け、聖隆。思わせぶりな口調で述べる言葉に、春一もちょっとだけ眉根を寄せて、どうせ大したこと無さそうだなぁ、という空気で続きを促す。

「あ、そう。何が変わったのさ」

「いやね、ちょっと股間がね」

 ピキーン。

 時は確かに止まるのだ。

「こ、こか……なんだって?」

 朝のさわやかな教室には、あまりにもそぐわない単語の発声に、春一は困惑気味だ。当然だ。

「いやだから、股間が大変なことになっちゃってさ。困った困った」

 聖隆は全く困ってなさそうだった。声音とか。

「困ったこと、って?」

 訝るような質問。その頬は確実に引き攣っているぞ、春一。

「あー、それがさ。……んぅ、言葉じゃ説明し難いな」

 全く意に介していないぞ、聖隆。朝っぱらから素敵な下トークを繰り広げる、普段から仲睦まじい少年2人に、遠巻きに眺めるクラスの腐女子も興味津々だ。キャアキャア言いながら、数人の集団でこっちを見ているぞ!

 そんな空気を察していないのか、冷や汗バリバリの春一の目前で、聖隆はちょっとだけ考えて、こう言うのである。

「あーん、そうだな、見てみるか? そっちのが手っ取り早いし……」

 とまで言ったところで、腐女子連中が一際、大きな絶叫を響かせたのは、もはや偶然ではないだろう。キャーッ、という悲鳴に近い彼女たちの歓声に、教室中がビックリして、聖隆も目を丸くしている。一方の春一は、額に浮かぶ冷や汗を拭くかのように頭を抱え、「アイツらのオカズになるのは勘弁だぜ……」と小さく呟いている様子であった。

「なんだろな、ありゃ……」

 と丸くした目で悲鳴元を見つめる聖隆を、春一は溜め息と同時に見て、

「いいや、ちょっと来いや、オマエ」

 そう言って席を立ち、教室外へと促すのである。

「んぇ、どーしたん?」

「ここでこれ以上、んな話はできない。出るぞ」

 春一は諦めたような声だった。

「んー、あいよー。トイレでいいか?」

 そんな不用意な発言に、キャーッ、と再び腐女子が色めき立ったが、春一は天を仰ぐだけである。

 こうして2人の少年は、そそくさと廊下へ踏み出したのだが、時計はちょっとホームルームまで時間がない事を示していた。

 出席は諦めよう。


 ガタッ、ガタンッ!

 という音は、春一がトイレ個室の狭い空間内で飛び退ったからであり、したたかに背中をドアにぶつけたせいである。その後で、痛たたたっ、と鍵部分の金属に接触した背骨を擦る。そんな、普段の真面目で落ち着き気味な春一とは違う、お茶目な行動に聖隆もニヤニヤである。

「うへへっ」

「リュー?」

 親友が痛んでいるのを笑っている薄情な聖隆の股間から生えるリューは、初対面の春一を心配そうに覗き込み、大丈夫か、と言うようにダメージ部分に触ろうとする。

「あ、ああ、触らなくて良い、から」

 近づいてきたリューに、慌てたように春一が声を出して、ちょっと距離を取る。その瞳は白黒していて、まだまだ混乱状態であることが窺えた。

 無理もない事である。

 春一は暫く、トイレの壁に腕を預けて顔を俯け、落ち着けオレー、と呪文のようにブツブツと呟きながら、深呼吸を繰り返したのだ。

 大丈夫かー、と聖隆が尋ねると、ああちょっと待って、と制されてしまう。

 数十秒後。

「――っ、はぁーっ」

 と長い溜め息の後で、ようやく春一はこちらに向き直った。

「リュー?」

 リューはまだ心配そうだ。

「ああ、うん、もう大丈夫」

 先程に比べれば、春一の落ち着き具合は格別であろう。相も変わらず、順応力の高い親友である。

「まぁほら、大変だろ?」

 聖隆は、全くもって困って無さそうな語気で、そう語りかけてしまうのであった。

「…………オマエそれ、どうしたんだよ」

 春一の視線はもはや、呆れ以外の何物でもないのであろう。

「いやね、起きたら、付いてたんだよ」

「リューっ」

 聖隆の手振りに併せて、一声、リューが鳴く。そして、答えを聞いた春一は、頭を抱えるようにして俯くのだ。

「ああ、そーかい」

「あ、呆れてるな。いま呆れてるだろ?」

 溜め息交じりの春一の様子に、ちょっと傷つく聖隆である。

 しかし春一は、それはもう無視することにしたようだ。

「んで、そいつは何よ?」

 股間から生える謎の生命体を指差す姿は、ちょっとだけ滑稽である。

 聖隆はリューを見下ろした。リューは視線を感じたのだろう、クリッとこちらを向くと、円らな瞳で聖隆を見詰めてくる。

「竜の、リューだ。よろしく」

 と聖隆が言うと、リューも、よろしくと言わんばかりに頭を下げて、リューと一鳴き。

「ああもう、どこから疑問に思っていいのかすら、もはや分からん!」

 あっけらかんとした聖隆に、春一は天を仰いで絶叫である。

「もういい。色々とツッコミたいことはあるが、それは全部、破棄だ」

 春一はジェスチャーで、物事をポイと捨てる仕草をして、聖隆に向き直る。

「えー、と。竜? の、リュー? だっけ」

「そうそう。竜のリュー」

「なるほどね。リューで良いんだな。――んで、そのリューを、オマエはどうするつもりなん?」

 これだけは確認したい、と真剣な表情で、春一は問うてくる。

「……どうする、て?」

 聖隆はキョトンだ。

「これから、だよ。そんなんを股間に付けて、どうしてくんだ?」

 そう聞かれて、聖隆はちょっとだけ思案した後に、

「どうもしないよ。リューは俺に付いてきてるし、どうしようもないだろ。家族公認なんだ、このままさ」

 こう答えると、「家族公認なんだ……」と春一の口元がヒクついて、なんだか苦笑しているようだった。

「それにな、こいつはもう、俺の一部だ。そう、まさしく俺の、ムスコなんだよ!」

 そう力説して、いきなりリューの首根っこを掴んで抱き寄せる聖隆。突然のご主人さまの行いに、一瞬だけ目を白黒させるムスコだが、すぐに甘えるようにリューリューと頬を摺り寄せてくる。

 固い。主にウロコと角が。でもちょっと嬉しい。

「そうだな、丁度、ムスコの部分に生えてるしな……」

 春一はもはや力なく、切れ味のないボケにツッコむ余裕すら失っているようだった。

「んで、そいつのこと、早乙女さんは知ってんのか? 朝は一緒だったよな」

 そう聞かれて、ちょっとだけキョトンとした聖隆はしかし、

「ああ、ハナは知ってるよ。ってか、ほぼ第一発見者だし、名付け親もハナだ」

 何故か偉そうに踏ん反り返る聖隆。

「うへー。どんなリアクションだったんだ、それ見たとき」

 オレみたいに飛び退ったか、と聞いてくる春一に、聖隆は真実を告げるのだった。

「ビックリしてた、膝から崩れ落ちてたよ」

「やっぱ、そんだけ驚くよなぁ、うん」

「んでさ、内腿を震わせて、ステキ、て溜め息つくんだぜ。いやー、ありゃ色っぽかった。カワイイよなー」

「…………あ、そう」

 春一は呆れている様子だ。

「前から思ってたけど、あの子ってなんか、ズレてるよな。美人なのに」

 そもそも、リューというそのまんまの名前を付ける辺り、ちょっとセンスがアレである。

「そうかー?」

 聖隆は、心底から不思議そうに、そう聞くのだ。

「…………ああ、そうだな、オマエもズレてるよな」

 春一はもはや、諦めの境地のようだ。

 はぁー、と心底から疲れたような、そんな重い溜め息をついた春一。それで気分を変えたのだろう、呆れの中にも、オマエらしいや、ていう感じが浮かぶ苦笑を張り付けた表情を向けてきた。

「オーケー、分かった。リューだったな。よろしくよろしく」

 春一が、握手の代わりとでも言うようにリューの顎をコチョコチョすると、嬉しそうに瞳を細めて頬を摺り寄せてくる。そんな人懐っこい謎生物の様子に、ちょっとカワイイかもな、と春一はさらに苦笑だ。

 そんな親友の態度に、聖隆は満足そうに笑って、うんうんと頷くのである。春一なら受け入れてくれるだろう、というその信頼感を再確認して、良い友達を持ったなぁ、と納得顔なのだ。

「さ、もう行くか。一限にゃ間に合うだろ」

 一頻りリューを撫で擦った後で、春一は時計を確認しながら、ドアのキーに手をかける。そうだなー、と聖隆は答えて、リューにズボンの中に戻るように指示を出した。

 リュー、と大人しく言うことを聞いて、シュルシュルと股間に戻っていく子竜を見て、はたと春一が聞いてくる。

「それさ、ションベンとかどうしてんの?」

 至極当然な疑問である。

 それに答える声は、こうだ。

「口から出てたぞ」

「…………うわぁ」

 嫌そうな顔をする春一。

「うん、俺も流石に、ちょっと恥ずかしかったわ」

「だよなぁ」

 ちょっと眉根を顰めながら、春一は個室のドアを開けた。

「でもな、ちょっと開放的な気分になったというか、少しだけ何かが芽生えた感じがしてさ。いつかアレも、気持ちよくなるんじゃないかって、期待してんだよなぁ」

 開いた瞬間に、そんな突拍子も無い発言をする聖隆。そんな言葉に我が耳を疑うように、春一が振り返ろうとして……

『あっ』

 異口同音。なんとトイレの中にはもう一人、小さい用を足しにきた男子生徒が存在しており、個室から二人で出てくる聖隆と春一をバッチリ目撃していたのである。しかも先の危ない発言も、しかと聞いていたようで、春一と合致した視線は真ん丸に見開かれているのだ。

 ………………。

 スゴイ空気だ、この沈黙は。

「や、ヤバイ」

 春一が呟いた、その瞬間に、男子生徒はビクリと身体を震わせる。どうやら現実に戻ったようである。

 いやその、と春一が声をかけようとした瞬間、それよりも早く、男子生徒は後ずさりした。

「ご、ゴメン! お、俺、二人がそういう関係なの知らなくて、えっと……」

 なるほど、これはとてつもない勘違いをしているらしい。それは分かる。

「と、とにかく、俺は何も見てないし、聞いてないから! この事は誰にも言わないからーっ!」

 男子生徒は盛大な絶叫とともに、脱兎の如く駆け出して、トイレを飛び出してしまった。

「あ、ちょっ! 違う、誤解だー!」

 と叫ぶ春一の横で、聖隆は一人、ボソリと呟く。

「おーい、手ぐらい洗ってけー」

 汚いぞー、という言葉の響きは、なんとも空虚なものであった。



 桜庭 彩乃(さくらば あやの)は放課後の学校で、柔道場から出て来て、渡り廊下を歩き始めるのだ。ふうっ、と一息ついて、ダクダクと流れ頬を伝う汗を、フローラルな香りが満腹なフワフワのタオルで拭って、中庭の新緑をサワサワと揺らす微風を感じる。

 悪くない心地だ、こういうのは。衣替えが済んだとは言え、まだまだ梅雨が明けていないこの時期、不安定な天候が続いて肌寒い時があるがが、今日はめずらしく爽やかな陽気である。ちょっと強い6月の太陽光線に目を細めながら、彩乃はゆっくりと深呼吸。湿気は多いが気持ち良い、そんな空気を、その小さい身体いっぱいに吸収したような気分になって、些かの心配事を吹き飛ばそうとする。

 身長150センチ未満、華奢な身体つき、クリクリと大きな瞳にカワイくカーブを描く頬っぺた。プリプリした唇に、長めの髪を頭の上側に二つ纏めている。その束がフリフリ揺れる下で、大きく吸う息と同時に上下する胸は、不釣合いなほど大きく柔らかそうであった。子供のような外観に、そこだけ大人が混じる彼女は、なんだかとても色んな男の本能とか煩悩とかを刺激してしまう、非常に魅力的な女の子なのだ。

 だ、が。しかし。見た目に騙されると痛い目を見るとはこの事で、彼女の身を包む白の柔道着に、折れそうな腰を巻いているのは黒の帯。実家が合気道の道場で父親は達人級、本人も幼少の頃より武芸を嗜み、学校の柔道部では右に出るものの居ない上位有段者。男子も軽く投げ飛ばす人間凶器であり、おそらく八健高校で最も強い人物として、全校にその名を知らしめる有名人なのである。

「……はぁっ」

 そんな有名人が吐く溜息は、学校内でさらに有名な彼女の親友を思っての物である。そこには、心配とか配慮とか、とにかく友情に起因する内容の他にも、苦笑とか諦観とかの、付き合いの長さに起因する部分も多分に含まれているのだが。

 ただちょっと、今回は以前とは毛色が違う、しかも長くて予想不可能な事態が起こってしまっている訳だが。

「コバナは人の話を聞くんだけど、聞くポイントがズレてるのよねー、いつもいつも。まったく、今回はどうなるのかと、気が気じゃないわよ、アタシは」

 と呟くのがいつもの習慣みたいになっているのだから、ホントにこれは、考え物である。幼馴染みで親友、いつも一緒に行動してきた早乙女 胡花は最近、校内で最も色々と軽そうな男に入れあげているのである。チャラくて頭が軽くてサッカー部の辰野 聖隆は、外見ばかりが良いだけで中身はまったくのダメ人間、しかも女癖が悪くて、泣かされた女生徒は数知れず。それどころか学校外でも、年上年下人妻社長、関係なく喰い続けてきた女の敵だと、もっぱらの噂である。

 そんな脳みそ黄表紙に、見た目ばっかり完璧で着眼点が人とオカシイあの子が近づいたら、すぐに騙されて身も心も喰い尽くされ、ボロボロにされるんじゃないかと、本気で心配で仕方ないのだ。あまりにも心配で、今日も気付いたら男子柔道部の畳に行って、片っ端から部員を投げ飛ばしてしまうほど上の空だったくらいである。部員が全員ノびた光景を見兼ねた顧問が、堪らず休憩を言い渡したのだが、その怯えようはちょっと大袈裟である。まさかあの後、自分も投げられるとでも思ったのだろうか、まったく。そんなことはこの間の一回だけ、もうやらないと決めてるのに。

 話がズレた。

 とりあえず、あのノンキな世間知らず娘が、そんな現代のオットセイ将軍みたいな男の手に落ちたら、即座に種を植え付けられて捨てられる羽目になるのだ。ちょっとズレてるけど素直で良い子な胡花を護るのは、親友である自分の役目に違いないと、彩乃は背に闘志を滾らせながら思っているのである。

「それにもう、今日も朝から、なに言ってるのか分かんなかったしね……」

 ちょっと疲れた感じで、今朝の胡花の無駄な興奮とともに語られる、ワケ不明な言葉の羅列と、爛々と目を輝かせる親友の姿を思い出す。落ち着かせるのが大変だった、ホントに。

「もう大丈夫、かな?」

 胡花はちょっとオカシイけど、とても頭の良い少女である。今まで、彩乃や家族の前以外では、その妙な部分の脳細胞を活発化させることはなかった。着眼点と発想力のおかしさを、常識でカバーできる良識はあるのだ、ただちょっとタガが外れると大変なだけなのである。だから校内随一、というか近隣随一の才色兼備で通ってるわけだし。きっと放課後で、しかも部活の時間になってれば落ち着いているだろう。そのはずだ。

(もう来てる、時間だよね)

 出る前に柔道場の時計を確認したら、いつもより少しだけ早いくらいの休憩時間だった。これなら胡花も、すでに第一体育館脇の自動販売機でジュースを選んでいる頃だろう。

 胡花は弓道部のエース格である。長く艶やかな黒髪に、切れ長の瞳と整った造作を凛とさせ、抜群のプロポーションで袴を着こなす彼女の弓道着姿は、とっても絵になるのだ。地元の名士であり華道の家元の跡取りである彼女は、姿勢からマナーまで、何から何まで完璧なのだ。だからこそ、弓道と言う伝統的な競技は最適であり、その姿に女子生徒すら惚れ惚れしてしまうのである。

 という訳で、彩乃と胡花は互いの部活の休憩時間に、自動販売機でジュースを買って簡単に話すのが習慣となっている。渡り廊下の自販機ではなく第一体育館の脇に行くのは、そこが弓道場と近いからだ。

(今日は炭酸を飲みたい気分だなぁ。でも、炭酸はお腹に溜まるから、運動の前はダメだよねぇ)

 とか考えながら歩いていると、すぐに第一体育館が見えてくる。第二体育館の前を曲がって、自動販売機のある方へ目を向けると、いつもの様に袴姿で髪の毛をアップにしている胡花がいた。

 いた、けれど。そんな彼女の前には二人の男の子。しかも、こちらに背を向けてはいるものの、胡花の正面にいるのは間違いなく、辰野 聖隆であろう。

 彩乃は、彼と話す胡花の表情が、見たことも無いくらい楽しそうな……というか、とろんっとした瞳なのに、ムゥっとした気持ちを抱いてしまう。眉間に皺を寄せて口をヘの字に曲げると、彼らに近づきながら声を挙げるのだ。

「コバナーっ!」

 すると、こちらに気付いた胡花が細めた目を優しく開いて、手を振ってくる。

「あ、アヤちゃん来た来た。こっちだよーっ」

 早く早く、と手招きしてくる胡花は、彩乃と二人きりの時みたいなポヤポヤ声で、決して他人と一緒の時では出さない音色だ。だからこそ、聖隆たちを仲間扱いしているように思えて、またちょっとムスっとしてしまうのだが。

 ただ、聖隆の隣にいつもいる少年(そういえば名前を知らない)がこちらを向いて、ギョッとした表情になったのが、ちょっと気になった。正直、失礼である。

「なによ、お邪魔だっての――」

 抗議するように、その少年に言葉を投げて。そこでようやく、聖隆がこちらを振り向いたのだが、同時にもう一対の瞳が彩乃を捉えたことに、挙動が全停止してしまうのだった。

(――っ、えっ!?)

 その、聖隆のハーフパンツからニョキッと突き出たモノは、明らかに彼の股間から伸びているのであり、余りにも衝撃的だったのである。

「あ、これは……」

 ビックリ、と目を丸めた彩乃に、聖隆がモノを隠そうともせず近づいて来て、事態はさらに悪化した。

(―――――――――――っ!?)

 至近距離に来た、その何か怪しいハリボテ動物みたいなものが、ちょうど彩乃と同じ目線にあって、目が合った瞬間に少女は自我を取り戻した。そして、その破廉恥きわまりない光景に背筋が粟立ち、頬は一瞬にして紅潮したのである。

「っ、きゃあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫ぶが早いか、不幸にも間合いに来ていた聖隆の右手と首根っこを捕まえると、一歩で懐に入り込み、彼の軸足を内から刈った。

「うっ、え?」

 体勢が崩れたことを、果たして彼は認識していたのだろうか。しかし彩乃は、首根っこを押さえた右手を聖隆の肩口に移動させると、キレイに身体を反転させ、グッと縮こまる。そして、その小さな背に聖隆を担ぐようにして力を入れると、自分より30センチ以上も大きな男子の身体を宙へと舞わせたのである。

 ズダーンッ!

「ぐえっ!?」

 カエルの潰れたような声、という表現がピッタリであろう。受身も取れずにコンクリートへと身体を打ちつけた聖隆が、衝撃に圧迫された肺から、少しだけ漏らした呼気である。場に砂埃が舞う中で、眼前で決められた美しい背負い投げに、ギャラリーの胡花と少年が呆気に取られた表情をしている横で、彩乃は掴んでいた聖隆の腕をポイと捨てる。

「へ、へへへ、変態! 痴漢! バカッ! 近づくなー!」

 上げられた瞳は動揺に揺れ、真っ赤な顔で呂律の回らない罵声を浴びせる彩乃は、もう何が何だか分かっていない状態なのである。

「近づくな近づくな、近づくなー! あ、あああ、アタシにも近づくな、コバナにも近づくな、このヘンタイーっ!」

 と怒りなのか羞恥なのか分からない、複雑な感情の恫喝を叫ぶと、次に聖隆の股間から鎌首を持ち上げているモノへと手を伸ばす。

「だ、大体、何よコレは何なのよ! こんな、こんな変なのをその、あ、アソコに付けて見せびらかすとか、なに考えてんのよアンタ! 最低の、ささ最低のセクハラ、セクハラをコバナにするなんて、アンタ絶対に許さないんだからね!」

 と未だ動揺と困惑を隠せない表情で叫んで、そのモノの首根っこを羽交い絞めにするのである。

「り、リューッ!」

 モノが何か叫んだが、それを彩乃は気付かない。

「ここ、こ、こんなもの抜いてやる! 悪ふざけにも限度があるわよ!」

 と、固い外皮だけどなんか柔らかい感じもする独特の触感なそれを抱かかえるようにして、思いっきり引っ張ったのだ。

 ムギューっ

「り、リューッ! リュー! リュリュ~、リュ―――――――っ!?」

 ジタバタと暴れるモノが、イヤイヤとその首を振ってパニックのような声を出す。するとその下で、

「ぎ、グギャ―――――――――――――――――――――――――――――ッ!?」

 腹の底から搾り出すような、絞め殺されるニワトリのような絶叫が湧き上がって、辺り一面に響き渡ったのである。

 その悲鳴に、彩乃は驚いたように手を離し、ズザッと後ろに飛び退いて間合いを測る。

「ま、マタっ」

 聖隆の友達が、焦ったように飛びつく先は、泡を吹いてビクンビクンと全身を痙攣させる、白目を向いた聖隆本人であった。

「え、えっ? あ、アタシ、そこまではやってないよ?」

 と当惑する彩乃の横で、胡花も倒れる聖隆へと膝を折っているのだ。

「ああ、マタくん、どうしたの? こんな、こんなタブンガスを多量摂取したような姿になって……」

 その例えはどうなんだろう。

「リュー?」

 聖隆の股間から生えているモノも、心配そうに彼の顔を覗いて、頬をペロペロ舐めたりしているのだ。まるでペットみたいに。

 って。

「う、動いてる?」

 ジッと、信じられない気持ちでそのモノを見詰めると、視線に気付いたモノはちょっと居心地悪そうに首を竦めた。その姿は、すごく動物だ。

「あ、ああ。そいつ、本物だよ」

 聖隆の友達が、ペチペチと意識不明の友人の頬を叩きながらも、こちらの様子に気付いてそう言った。

「ほ、本物? 本物って、何の本物?」

「いや何か、竜らしいけど……。取り付いてたんだってさ、今朝」

「取り付いている? って、竜が? ウソ!?」

 彩乃はモノをよくよく観察して、ウロコとかツノとかキバとか特徴的な各パーツ、そしてこちらを見返してくるクリクリした瞳なんかを見据えた。視線を交わして、ちょっと気弱そうな竜の感情を見ると、「ホントに生きてるよ」なんて聖隆の友達の声なんか聞こえないのだ。

「……なんか、ちょっとカワイイかも」

 照れてる感じがグーである。

「ほ、ほーらほら、よしよーし」

 チチチ、と猫にするように呼びかけながら手を伸ばすと、モノは「リュー……」とちょっと怯えたように首を引っ込めてしまう。

「さっきはゴメンね、驚いただけなんだよ。もうコワくないよ、よしよーし」

 と彩乃が笑顔を向けると、その竜は恐る恐るという感じで首を伸ばしてきて、そっ、と彩乃の指に触れる。

 スリスリと撫でてやると、竜はスグに目を細めて、人懐っこく鳴いた。

「リューッ」

「あはは。カワイイじゃんキミ、いい子だねー」

 と戯れ始める彩乃。それを聖隆の友達が、「可愛い……」なんてボソッと呟いているのだが、彩乃にはちょっと聞こえなかった。



「た、タマ、タマが……」

 彩乃がリューと戯れて、その姿に春一が心奪われているころ。その下で聖隆は、うわ言のようにそう呟きながら、痙攣を止められないでいた。

「マタくん、大丈夫? どうしたの?」

「タマ、タマが、タマが……」

「タマって、タマなの? タマなの、マタくん?」

「タマが、タマが、タマが……」

「タマって、マタくんのタマよね? このタマなのよね?」

 ハァハァハァ。

 胡花はとても興奮した様子で、気絶した聖隆の股間を撫でているのであった。

 サスサス。

 ハァハァ。

 胡花の息はとても荒く、その瞳はなんだか妖しい輝きを放っているようだ。

 どうでも良いが、リューは聖隆の、大事な玉を握っているようである。

 恐ろしい。

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