第8話 マリナと阪田

 翌朝、ルカが事務所にやってきて、鍵を開けようとすると、鍵はかかっていなかった。そっとドアを開け、中に入ると、既にユイが出勤していた。テーブルの上に資料を広げ、考え込んでいた。まだ九時前だ。こんな時刻にユイが出勤してくるなんて、珍しい。

  「おはようございます。今朝は早いですね? 」

 と、ルカが聞くと、ユイは資料から目を離さずに、どこか物憂げに答えた。

  「何故か、早くに目が覚めちゃって・・・。この二人だったら、趣味も同じだし、上手くいくと思うんだけど・・・うーん、どうかなぁ・・・」

 ルカに言うというよりは、独り言のような口調だった。


 もう十二月。ルカがこの事務所で働くようになって、三ヶ月近くが経とうとしていた。この間に、ルカは彼女なりにユイとの対話のコツをつかんでいた。ユイの淹れる紅茶が、対話の潤滑剤だった。ユイの独り言に即応するのではなく、まずは紅茶を淹れる。ユイが絶賛する「ルカブレンド」だ。そこがスタートラインだった。

紅茶をユイの前に差し出す。今日のお茶請けはラスクだった。

  「アリガト」

 と小声でつぶやき、ユイは早速ティーカップに口をつけた。ふーっ、と一息つき、顔を上げたユイの表情には、疲労が濃い影を落としていた。

 ユイの向かい側に座り、ルカも紅茶を飲みながら、さりげなく聞いた。

 「昨日、大変だったんですか? 」

 天井を見あげたままの姿勢でユイは答えた。

 「母親の頼みだから、むげに断れないしね。直接話したいから、と言うんで、依頼主のお宅まで出向いて行ったの」

 ユイの母親、ルミ子は自宅で、華道、茶道、着付けの教室を開き、大勢の弟子に囲まれて、忙しい日々を送っていた。そのお弟子さんから、結婚相手を紹介して欲しい、と頼まれることがしばしばあった。以前は、ルミ子が仲人の役割をしていたのだが、今では、結婚相談所を開いた娘のユイに、話を全て回すようになっていた。

  「母のお弟子さんの友人の方から、娘の結婚相手を探して欲しい、と頼まれたの。その家に出向いたら本人とご両親が待ってたの。お父さんは経営コンサルティング会社の社長で、結構押しの強いタイプ。お母さんは専業主婦で物静かな方だった。お父さんばかりが喋っていて、このまま娘の好きにさせておいたら、独身で40歳になってしまう。その前に何とか嫁がせたい、と言われるのよ。

 娘のマリナさんは、私の一つ下で37歳。ぽっちゃりしていて、笑顔の愛くるしい女性だったわ。

 音大を出ていて、バイオリンの勉強のために、一年間イタリアに留学したって言ってたわ。卒業後も、バイオリンで食べていけるようになりたいと、努力したらしいんだけど、なかなか上手くいかなかったみたい。

 今も、お父さんの会社を手伝いながらプロを目指しているらしいけど、実態は家事見習いってところね」

 ユイは、ふーっ、とまた大きく息を吐いた。

 そのタイミングを逃さずに、ルカは聞いた。

  「マリナさんのお相手になる候補者はいるんですよね? 」

 ちょっと眉根に皺を寄せて、ユイは答えた。

  「いるわ。・・・でもね~。・・・いやいや、マリナさんなら、きっと上手くいく・・・と思う」

 最後の方は尻すぼみだった。ユイの迷いが、露骨に現れていた。

  「訳あり・・・なんですか? 」

  と、ルカは聞いたが、ユイは問いに直接答えようとはせず、念頭にある候補の男性について語り出した。

  「阪田洋一さんと言ってね・・・」

 と言いながら、カバンの中から資料を取り出した。

 三枚の写真とプロフィールシートをルカに手渡した。写真に目が留まった。一枚目は怒ったような顔で写っていた。それと比べ残りの二枚の写真は微笑を浮かべ、優しそうで、愛嬌のある顔だった。お見合い用の写真に一枚目はボツだわ、とルカは思った。 

  「写真では、よく分からないけど、身長170センチと書いてあるでしょ? 実際にはそんなにはなくて、ずんぐりむっくりの体型。年齢は36歳。

 学歴は芸大ではトップのT大卒。文句なしだわ。マリナさんはバイオリンだけど、阪田さんはピア二スト志望。幾つものコンクールに挑み続けているけど、マリナさん同様、結果が出ないまま、現在に至っている。

 卒業後もプロを諦められずに、コンクールへの挑戦を続けてる。ピアノの練習時間を確保すること、それを一番に考えて、正職には就かず、塾で講師のアルバイトをしていたの。けっこうな高給取りだったらしいんだけど、結果が出ないことの焦りから、塾の講師も辞めちゃったの。だから、今は無職― 」

 思わずルカは資料から目を上げ、ユイの顔を見つめてしまった。

 (無職って・・・。高収入を条件にして、結婚相談所に入会している女性が大半なのに、それじゃぁ、お見合いの可能性ゼロじゃない!? )

 そんな思いから、ユイの顔を見つめてしまったのだが、ルカの疑問はちゃんとユイに伝わっていた。

  「でもね、生活面では問題なし。父親が総合病院を経営しているから、無職でも困らない。心おきなくピアノの練習に専念できる、けっこうなご身分なの。

 父親は有名な外科医で、医療法人の理事も務めているんだけど、将来的に彼を後継者に、と考えてるみたいなの。理事は医師免許がなくてもできるから。今は好きにさせているけど、いずれ病院経営を学ばせたいそうよ」

 ユイはルカに紅茶のお代わりを頼んだ。ルカはキッチンに向かいながら聞いた。                                                                        「それで、そんなピアノ一筋の阪田さんなのに、結婚相談所に入会したいというの  は、どうしてですか?」

 ユイはラスクを頬張りながら答えた。

  「あなたも写真を見て、感じただろうけど、阪田さんの恋愛事情はどんなものか、想像つくんじゃない? 」

 ルカは、自分にそれを口にする資格はない、と思ったが、思い切って言ってみた。                             

 「余り経験豊富な方には見えません」

 ユイはニヤッと片頬を上げ、ツッコミを入れた。

  「余り、というのは余分ね。

 今年の初めに、事務所に本人がお父さんと一緒にやってきたんだけど、自分の口から

 『ボクは、今まで女性と付き合ったことがありません。ピアノ以外に、ボクにとりえがあるとは思えないし、不細工だから、女性に好かれるとは思えません、全然』

 と言ったの。

 一時間ばかり話をしたんだけど、阪田さんは、一度も笑顔を見せなかった。対照的に、お父さんは表情豊かで、大笑いされたりもしたんだけど、そんなときにも、阪田さんはムッツリしたまま。女性にモテない、ということが、相当のコンプレックスになってる、と思ったわ」

 ユイは阪田さんについて語り続けた。彼のことを語るユイの顔には、複雑な表情が浮かんでいた。


 入会後、この一年で阪田さんは三度見合いにまで漕ぎ着いた。本人ではなく、父親が熱心で、見合いが成立しなくても、早く次の相手を紹介してほしい、と何度もせっついてきた。三度の見合いはクリアし、仮交際にまで進んだのだが、残念ながら本交際には至らなかった。

 それでも、見合いを続け、仮交際とは言え、デートを重ねていく内に、ユイの目にも阪田さんが変化していくのが、はっきり分かった。

 スポーツクラブやエステサロンに足を運んでいるようで、パッと見の印象がずいぶんと変わった。スッキリとして、着る物までオシャレになってきた。

 人間、外見が変われば、内面も変わる。仏頂面が消え、柔和な表情が増えるとともに、声が大きくなり、話す内容も明るく、前向きな感じのする言葉が多くなっていった。入会前は女性と出会い、親しく言葉を交わすことなど皆無だった男性が、突然、毎月のように見合いの話が舞い込むようになり、一年間で三人もの女性が、自分に興味を持ち、見合いに応じてくれた。さらにはデートを重ねたのだ。

  「ボクは、女性にモテない・・・」

 と、ブツブツ呟くばかりだったコンプレックスの塊だった男性が、

  (もしかしたら、ボクはモテるのかもしれない・・・)

 と、自信を持つようになった(カン違いも含めて)。

  「それはそれでイイことなんだけどね。ある程度、自分に自信をを持った人でないと、誰だって緊張する見合いの席で、自分の魅力を相手に伝えるなんて出来ない。三度の見合いはとりあえず成功し、仮交際までいった阪田さんの進歩は立派だと認めるわ。でも・・・」

 と、ユイは口ごもった。ルカは黙って、その言葉の続きを待った。

 「過剰なのよね。プラスの積み上げなら、心配しないけど、マイナスが一気にプラスに転じるような劇的な変化には、どうしたって、副反応が生まれる。それが、悪い方に現れなければいいんだけどね」

 と、ユイは言葉を締め括った。

 とっさに、ルカは昨日起きた変事を思い出し、ユイの口にした「悪い方に現れる」という言葉と結びつけていた。そんな突飛な話を、ユイにするつもりなど、さらさらなかったが、しばしの間、ルカはこのことにこだわっていた。

  例のガラス製のランプは、そのままに置かれていた。今は青い光を放っていない。しかし、糸は切れたままだった。まだ、ユイには伝えていない。いずれは糸が切れてしまったことを伝えなければならないのだが、そのタイミングは今ではない気がした。いたずらに、ユイの抱いている不安を増幅しかねない変事を伝えるべきでない、と思えたからだった。

 手にしたティーカップに残った紅茶に目を向けつつ、ユイはボソボソとした調子で喋りだした。

  「見る前に跳べ、か・・・。芸術家同士のお見合いなんだから、紹介すればどちらも食いついてくるだろうし、見合いの席での会話も間違いなく弾むでしょ。後はなるようになる。何かが起きても、その時は私の出番となるだけのこと。・・・クリスマスプレゼント。見合いのシチュエーションとしては、申し分なしね」

 それから、ルカの方をチラリと見た。ルカは、うなずくだけだった。変事は変事。それが凶事の予兆、と解釈する必要はない。そう自分に思い込ませようとしていた。

 ユイは席を立つと、小さくガッツポーズをしてから、事務机の前に座った。電話を手に取ると、すぐに相手につながった。今までルカと交わしていた声のトーンとは明らかに違う営業用の声、結婚相談所の所長になっていた。

 マリナさんと阪田さんのマッチング作戦。今、賽は投げられたのだ。

 


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