知らない感情

 攻防が始まってから十数分。私の目の前に、信じられない光景が広がっていた。周囲にはうめき声を上げて倒れ伏すゴロツキたちと、側近メイドのキーツとエルシーの姿。そして現在バレル・プランダーと対峙しているのは、執事のウィンソープ。この場に残ったのは、私を含めて最早三人だけとなっていた。いや、三人とは言ったものの、普段はカッチリと整えられているウィンソープの服装や髪は乱れに乱れて、既に左手のナイフは失われ、息も絶え絶えの状態だ。


「おい、もう止めようぜ。あんたのガッツは大したもんだが、いい加減他の連中を見習って倒れたらどうなんだ?」

「……お気遣い、ありがとうございます……。ですが、まだまだ……これからで、ございますので……」

「ったく……損な性格をしてるよ、あんたは」


 一呼吸の後、先に仕掛けたのはウィンソープ。そのボロボロの見た目とは裏腹に、繰り出したレイピアの鋭い一突きは確実に標的の喉元を捉えていた。筈だった。バレル・プランダーは鋭いレイピアの突きを難なく躱すと、一瞬でウィンソープの懐へと潜り込み、強烈なボディーブローを腹部へと見舞う。その一撃を最後に、ウィンソープは肺の中の空気を全て吐き出して、体を折り曲げるように地面に倒れた。


 三十八名のゴロツキも、信頼の置ける三人の従者たちも、たった一人の男にやられてしまった。これでこの男と戦えるのは、最早私一人だけ。しかし、何十人もの相手をしていたバレル・プランダーは、見るからにもう戦えるような状態ではない。ゴロツキたちから奪った剣を杖代わりに地面に突き立てて、肩で息をしながら気炎を立ち昇らせており、自らの血と汗で全身を湿らせているその有り様は、この場の誰よりも痛ましいと思える姿をしていた。


 このとき私が感じていたのは、従者や私兵を倒された怒りでも、今なら私一人でもこの男に勝てるという打算でも、損失を被った焦燥感でもなかった。“有り得ない”。今日だけで幾度も感じた、ただその一言だけ。何故ならこの男、全身に傷を負いながら、私以外の全員を倒して見せたものの、誰一人にさえ致命的な怪我などは負わせてはいない。偶然とは思えない。このバレル・プランダーは、狙ってこんな馬鹿げた芸当をやって見せたのだから。


「ったく、どいつもこいつも碌な武器を持ってねぇなぁ。あんた、こいつらの上司だってんなら、今後はもっとマシな武器を持たせてやれよ。俺の剣みたいに、百年は・・・使える・・・ような物をさ」


 そう言うと、バレル・プランダーは杖代わりにしていたボロボロの剣を放り投げ、足元に転がっていた別の剣を掴み、肩に担ぐ。


「……貴方……貴方は一体、何者なのです。Sクラスリベレーターとか、アリーナコロシアムの上位ランカーだったりするのかしら。いえ、それよりも……名高い賞金首とか?」

「どこの世界にこんな善良な賞金首がいるってんだよ。俺はリベレーターだが、どこにでもいる普通のリベレーターさ。こんなことで驚いていちゃ、この先の人生は波乱ばかりに感じるだろうぜ」

「これだけの人数を相手に、その辺の有象無象うぞうむぞうがたった一人で立ち回ったと、本気でそう言うつもりなのですか? しかも、誰一として再起不能になるような怪我を負わせずに? 冗談を言うにしても、もう少しまともなことを言ってほしいものですわね……」

「こういうのはな、数を用意すれば良いってもんじゃないんだ。下手なやつが撃った銃の弾なんて、どれだけ撃とうが的には当たらないもんさ。要するにあんたのやったことは、ただの弾の無駄遣いだったんだよ」

「……フン。そんなボロボロの状態で、よくもそんな口が利けますわね。貴方はもう立っているのだって限界の筈でしょう?」

「あぁ、ちょっとでも気を抜いたらすぐにでも倒れちまいそうだ。だから、今日はもう、あと一人を相手にするのがやっとってところかな。まぁ残っているのはもうあんた一人だけのようだし、どうにかなるだろう」


 背筋が寒くなった。少し押してやるだけでも倒れてしまいそうなこの男は、瀕死の状態でありながら、尚も私を倒そうとしている。ハッタリなんかじゃない。口角を吊り上げるようにして笑うそのギラついた笑みからは、焦燥感など微塵も感じらない。自棄やけになった訳でもなさそうだ。凶悪でいて、それに腹の立つ顔。ならば私はどうする。一体私は、どんな選択をすれば――。


「わ、分かりました。バレル・プランダー、貴方とそこのシャーロット・チョークスを、我がHDWグループの専属闘技者として迎え入れて差し上げましょう。当然、最高クラスの待遇付きで、ですわ」


 そうだ、好待遇を提示してこちら側に取り込んでやれば良いのだ。こんな瀕死の男、今戦えば私が勝つに決まっている。しかしそんなことをしたところで、こちらには何の利益にもならない。確かに、私を侮辱したことは許されないことではある。けれど今後の社の利益を考えたなら、今回ばかりは目を瞑り、いずれ上に立つ者として、ここは穏便に済ませるのが賢い選択というものであろう。


「おい、ちょっと待――」

「貴方がたはその価値を理解できていない。だから先ほどのような暴挙に走ったのでしょう。ですから、今度はちゃんと、具体的な金額を提示して差し上げますわ」


 今度の勧誘には大いに勝算がある。先ほどのシャーロット・チョークスの発言に加え、この二人の武器や身形を見る限り、金銭的に困窮こんきゅうしていることに恐らく間違いは無い。とは言え、これだけの戦力を有している者たちだ。下民とは言え、それなりのプライドを持ち合わせているということなのだろう。ならば私は、そんな些細なプライドなんて気にならない程の条件を明確に提示してやるだけで良い。


「いや、だからさ――」

「まずは専属闘技者の契約金として、一人あたり年間五千万。それに武器のテスターや広告塔としての仕事をしていただけるならば、その都度に別途報酬をお支払いしますわ。それだって、決して安い金額ではありません。それからお二人には今後――」


 おかしい、何故か全く手ごたえを感じられない。それは向こうの反応の良し悪しとは関係なく、私の口から出る言葉が無価値で、ただダラダラと意味の無いことを話しているような気にさせられる。


 そしてそんな話をいつまでも続けていると、次第にあることに気が付く。私の言葉の切れ間にバレル・プランダーが口を開こうとする度、それを遮るように早口で言葉を被せているのだ。次第に私の意識は男の口元にだけ注がれて、まるでただ男の口を塞ぎたいが為だけに、話を続けているようだった。


 どうして私は、こんなにも無意味な言葉を早口でまくし立てるように話をしているのだろう。一体私は何を焦っているのか。いや、焦っているのとは少し違う。胸の内側にあるこの感覚は焦りではなく、もっと、他の――。


「――ですので、あなた方二人には常に最新の武器が供給されることになりますし、整備も当然うちの専属のスタッフが全て担うので、メンテナンスの手間なども考える必要はありませんわ。それに、それに……――」

「なぁお嬢様、あんたそろそろ――」


 何かを言いかけた瞬間、ザクリという鈍い音と共に、バレル・プランダーの右脚部後方から細身の剣が突き出した。


「駄目、です……お嬢、様……この男に、は……」

「ウ、ウィンソープ……?」


 男の右脚部に剣を突き刺したのは、執事のウィンソープだった。体が起こせない為か、ウィンソープは地を這うようにしながら剣の柄に手を掛けていた。


「……抜けよ、痛ぇだろうが」

「えぇ。お望みと、あらばッ――」


 そう言うと、ウィンソープは剣を捻じるように反して、脚部の傷口を広げるように引き抜いた。剣の引き抜かれたバレル・プランダーの脚部からは、大量に出血するも、そんなことは関係無いと言わんばかりに、たった今剣の引き抜かれた方の脚で倒れているウィンソープへ強烈なキックを見舞う。蹴られたウィンソープは、負傷した脚で蹴られたとは思えない勢いで吹き飛んで、幾度も地面をバウンドした後、遠くの壁に叩きつけられた。


「……お、嬢様……お逃げ、下さい……。その男は、獣……。金では……従えられ、ません……」


 その言葉を最後に、今度こそウィンソープは意識を手放す。


「クソ、全身ボロボロじゃねぇか。服もズボンも、こんなんじゃもう変えなくちゃならねぇし。まだ仕事も見つけてないってのに、出費ばかり増えていきやがる……」


 そんなことを言いながら、バレル・プランダーは未だ激しく出血する脚を引きずるようにして、地面に血の痕を残しながら私の方へと歩み寄って来る。


 カチ、カチカチカチ。


 聞きなれない音が聞こえた。しかし、音の出所はすぐに判明する。それは自分の奥歯が小刻みに噛み合って鳴る音だった。奥歯の震えは次第に肩へ、脚へ、全身へと広がって行き、今まで体感したことの無い感覚が頭を支配していた。


 今日までの人生で、他人が私の思い通りにならないことなどありはしなかった。欲しい人材はこちらの提示する金額で下に付け、従わないなら壊してやるだけで良かったのだから。しかし、目の前の二人はどうだ。金で従わない。制裁にも屈しない。


 ならば私は、一体どうすれば良いのか。分からない。知らない。理解できない。それが私は、とても――。


「……い、いや……いやッ……いやぁぁぁぁ⁉ こ、来ないでぇぇぇぇッ‼」


 許容範囲を遥かに超えるレイジスを全身に循環させると、無茶苦茶に強化した体で、我武者羅に斧槍を振り回す。しかしそんな闇雲に振り回しただけの攻撃はいとも簡単にいなされてしまい、一歩、また一歩と、男はこちらに向かって距離を詰め寄って来る。


 次第に全身から力が抜けて、攻撃を出す手は止まり、気付けば地面に尻もちをついて座り込んでしまった。何か、股座またぐらの辺りに、嫌な生暖かさを感じる。どうやら失禁してしまったらしい。けれど私は、ただただ目の前の男が怖くて、羞恥心を感じることさえできなかった。


「あっ……あっ……だ、誰か……誰……か……」

 

 怖い。怖い、怖い怖い怖い。殺されてしまう。誰も私を助けてはくれない。何故、どうして私がこんな目に遭わねばならないの。こんなにも怖い思いをしているのに、どうして誰も助けてくれないの。


 気付けば男は私の目と鼻の先にまで迫り、構えた剣がゆっくりと持ち上がる。あぁ、次の瞬間にはそれが振り下ろされて、きっと私は死んでしまう。だけど、私はあまりの恐怖に、そこから目を逸らすことができない。


 剣が頂点に達し、私に向かって振り下ろされようとした、そのとき――男の左肩後方から突き出された槍の先端。それが剣を振り下ろすのを差し止めた。


「今です‼ エルシー‼」


 掛け声と同時、動きを止めた男の脇腹に、メイドのエルシーの戦斧が食い込む。


った‼」


 ほんの一瞬、恐怖に塗り染められていた頭が真っ白になる。しかし、目の前で血を吹き出しながらも尚、私から視線を外さない男と目が合うと――。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁッ⁉」


 再び脳の空白を埋めるように恐怖が広がるのを感じ、私は座ったままの状態で、斧槍を男に向かって突き出す。先端に取り付けられたスパイクは、ボディーアーマーの硬い感触を貫いて、その先の肉体へと達する。今の一撃を最後に、男は完全に動きを止め、地面へと倒れ伏した。


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