6 The Night does not come city.

教団

 ――時刻不明 場所不明――


 視線の先、そこには上も下も存在せず、四方のどこを凝視しても果てなく白い壁に覆われている空間。それはまるで無限に奥行きを有しているとさえ思えるほどに広大で、幾ら先を見通そうとせども終着を見据えることはできない。


 そんな広大な白の空間に、幾つもの影が浮遊する。


 人だ。しかしそれらは全て微細な肉体の動きはおろか呼吸や心臓の拍動さえも止め、凡そ人間が発する動きを完全に停止させたかのようにピクリともしない。


 それら全ての者は一様に白いローブを目深に被り、それぞれが共通点の無い姿勢で宙空ちゅうくうに浮き静止していた。それがこの広大な空間の終わりなき果てまで続いているかのような光景は、明らかに常軌を逸している。


 そんな中、地面と思わしき場所に足を付けて歩く者が一人。歩みの先には、なにも無い空間で座禅を組むようにして座る人影が、ひと際高い位置で逆さまに浮いて静止していた。


「(ブジ―ア司祭、信徒カイラスのことですか?)」


 柔和にゅうわな口ぶりで、逆さまの男が言葉を発する。否、正確に言うならばそれは口を介した言葉ではなく、ブジ―アと呼ばれた者の頭に直接響く音無き声だった。


「(アルノートン司教、カイラスの件、お気づきだったのですか。それでは制裁を加える為、信徒数名を送ってもよろしいでしょうか?)」

「(ふむ。此度の行いを見る限り、信徒カイラスにはまだ確かに不要な人間の性質を色濃く残しているように思います。ただ彼のその姿勢が信仰心の現われだとするならば、一概に無下にするのも酷な話でしょうか)」

「(恐れながら申し上げます。力なき信仰など、我々の教義を正しく解釈するならばそれは無力な人間の抱くただの雑念でしか有り得ません。信徒カイラスを正しき道へ誘う為、どうか制裁のご許可を)」

「(彼の‟深度しんど”は、今幾つでしたか?)」

「(未だ七を脱してはおりません)」

「(なるほど、確かに浅い。ならば彼の行いを正当化するのは難しいですね)」

「(ではカイラスを追跡し、制裁を加えても?)」

「(その前にお聞きしますが、彼がどこへ向かったは分かりますか?)」

「(騎士連合を横断し、旧ロシアの方へと向かったことが観測されています)」

「(ロシア? あそこは今、人類の住めぬ大雪原となっている筈ですが……。どうして彼はそんな場所に?)」

「(申し訳ありませんが、理由までは……。それと、もう一つ気がかりなことがありまして)」

「(今まで所在の分からなかった彼を、何故今になって捕捉できたのか、ですね)」

「(はい。未熟なカイラスの深度で我々の目を欺けるとは思えません。であるならば、或いは……)」

「(誰かが彼を手引きしている、ということですね。そして教団の者に手を貸すとなると、それは恐らく同胞である可能性が高い)」

「(そのようなこと……一体、誰が……)」

「(いえ、可能性の一つというだけのことですよ。そうでなくとも、例えばかつて教団から離れた者が接触したとも考えられなくはありません)」

「(教団を抜けた者が、一体何の目的で?)」

「(分かりかねますが、相当な深度の‟神威かむい”持つ何者かの存在を否定できなくなりました。だとするならば、困りましたね)」

「(……アルノートン司教、なにを迷うことがありましょうか。教団を出るなど、如何様な理由があろうともそれは神に対する背信行為です。そして手を貸した者が離反者だと言うならば、総出で追跡を行うべきではありませんか。一体なにを――)」

「(先日、ミアーニ大司教がある言葉を残されました)」


 アルノートンと呼ばれた男が憤るブジ―アの言葉を遮ると、ブジ―アは固唾と共に言葉を飲み込んだ。


 ミアーニ大司教という存在。曰くそれは神託の拝聴者はいちょうしゃ。その名の通り、彼女は教皇きょうこうを除けば唯一一人神の声を聞くことを許され、それを予言として信者に伝える役割を担う教団の導き手に位置される。


 存在こそ教団内でも広く知られてはいるが、その姿を拝謁はいえつできる者はごく一部に限られており、多くの信者たちは彼女の言葉は幾つもの人を経てようやく賜ることができる。そんな天上の存在の言葉を、この場で聞くことを許されたブジ―アの心内こころうちは恍惚に緩み、歓喜に打ち震えんばかりであった。


「(そ、それは……どのような、お言葉だったのでしょうか?)」

「(‟流刑るけいの地、欲望輝き渦巻く中央の場に、闇よりも深き深淵来たる。神のしもべと偽りの信徒は、名状し難き闇との対峙を余儀なくされるであろう。片や闇に飲まれ、片や――”)」

「(……つ、続きは?)」

「(残念ながら、ミアーニ大司教はこの言葉を最後に、なにかに怯えるように祈祷室きとうしつの奥へと下がってしまわれました。そこの言葉の意図は、我々には推し量ることはできません。ただ)」

「(ミアーニ大司教のお言葉にあった神の僕が、まさかカイラスであるとでも?)」

「(もしそうであるならば、離反者りはんしゃが信徒カイラスに手を貸したという推論が成り立ちます)」

「(……直ちに、カイラスの追跡を――)」

「(いいえ。この話がもしも件の予言に関わる話なのであれば、行く末を見守るのが最善です)」

「(しかし――)」

「(これは猊下げいかの御意向でもあるのです。見守ることもまた、神への信仰となることを知りなさい)」

「(……承知しました)」

「(ところで話は変わりますが、ブジ―ア司祭、貴方からもまた未だ色濃く人間の不要な因子が色濃く感じられますね)」

「(い、いえ! そのようなことは、決して……!)」

「(羨望、嫉妬、疑惑、疑念、恐れ。そしてなにより強い他者への嗜虐心しぎゃくしん。それは我々の信仰にとって全てが不要なものです。司教として命じます。ブジ―ア司祭、これより五十年間の‟旅路たびじ”を行き、ただひたすらに信仰心を高めなさい)」

「(…………は、……ひ…………)」


 再び司教が目を閉じて瞑想するのを確認すると、司祭の男は震える足で目的の場所へと歩き始める。


 どこまでも白に染まる空間を進み続けていると、気付けば目の前に、人が通るにはあまりにも巨大で重厚な門構えの扉が鎮座していた。


 扉の上には‟iterイテル”と、ラテン語で旅路を意味する文字が書かれている。扉の前に立った司祭の顔は真っ青に染まり、まるでこの世の終わりを目前にしているかのような面持ちをしていた。


 栄誉と神の力の一旦を賜る代償として与えられる死よりも遥かに恐ろしい終わりなき苦痛。それがこの先に待ち受けていることを、教団の者ならば誰もが知っているからである。


 しかし、この道を行くことを断ることなどできる筈も無い。そんなことをしようものなら自らの信仰心を疑われることとなり、扉の先を歩く以上の苦痛を与えられかねないからだ。しかも下知げちを下したのが、あのアルノートンともなれば尚更である。


 司祭は血の気の引いた手で扉に触れると、それは鈍い音を立てながらも、見た目からは想像も付かない程にすんなりと開く。扉の中はこちら側とは対照的に圧倒的な暗闇で満たされていて、全ての光を吸い尽くさんばかりであった。


 ‟御身に神の祝福と信仰のあらんことを”。


 後ろからそう声を掛けられたような気がした司祭の男は、恐怖に震えながらも扉の中へと足を踏み入れる。

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