安全地帯

 あれから約一時間後。朝からお風呂を堪能した私は、応接室のソファーに腰かけて、火照った体を冷ましていた。シャロの入れてくれたお風呂の湯加減があまりにも絶妙だったものだから、朝から贅沢にも随分と長湯を堪能してしまったのだった。


 えっ、何があったのか、ですって? いや、ただ普通にお風呂に入っただけですが。強いて昨夜と違うところを挙げるならば、脱衣所に置いてあるコンポから、お洒落な音楽が流れていたということくらいかと。


 はい? シャロとはどうしたのか、ですって? いや、別にどうと言うことは。確かに、二人で一緒に湯船には入りましたけど……。


 ………………。


 そりゃあ私だって色々と期待――……んんッ! 何か起こってしまうのではないかと不安にはなりましたとも。だけどお湯に浸かっているときのシャロは一切口を開かずにとても静かで、そんな彼女を前にした私は声を掛けることもできず、終始無言で湯船に浸かることしかできなかったのだから。


 そうこうしていて音楽の再生が二週目に突入した頃「おい、そろそろ出て来いよ。このままじゃブランチどころかディナーになっちまうぞ」と、脱衣所からバレルさんに声を掛けられて、結局何事も無いまま私たちはバスルームを後にしたのだった。


「顔が赤いぞ雫。まるでボイルされたシェルクラブだ」

「……はい……」

「その顔、原因は長湯ですか? そうでなければ、うーん、私には皆目見当も付きませんわ。ねぇ雫、何か思い当たる節はありませんか?」

「――ッ!」

「お前も朝からはしゃいでるんじゃねぇよ」

「善処はします」

「ったく。おい、もう朝の九時半だぞ。いい加減腹が減った、さっさと朝飯を食いに行こう。いつもの場所で良いよな?」

「異議なしですわ」

「だ、大丈夫……です……」

「なら決まりだ。行こうか」


 入口にクローズドの看板を掛けて、私たちは事務所を後にする。



 ***



 ストーンヒルでの食事は、外食かテイクアウトのどちらかで済ませるのが大半だった。事務所の奥には古くも立派なキッチンがあるけれど、その場所が使われているところを、私はまだ殆ど見たことがない。強いて言うなら、以前雨の日の朝に外へ出かけるのが面倒だからと言って、その日調理を担当したバレルさんが、大量のピーナッツバターをパンに塗っているのを見たことがあるくらいだろうか。


 そういえば、そのときバレルさんが「もしもシャロの奴が気まぐれを起こしてキッチンに立とうとしていたなら、命懸けであいつのことを止めてくれ……」なんて、迫真の表情で言っていたのを思い出す。あれは一体、どういう意味だったのだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると、私たちはバレルさんの言ういつもの場所へと到着する。目の前には“Boogieブギー Peopleピープル”と看板に名前の書かれたダイナー。私はまだ数回しか来たことがないけれど、ストーンヒルでの朝食は殆どこの場所で済ませることになっているようだ。


 二人がこの店を贔屓ひいきにしている理由としては、味良し、量多し、栄養バランス良しである上にメニューが豊富で、三百パックスも持っていけば、大概の人は満腹になれてしまうような良心的な価格設定だからということ。


 それにもう一つ。店の中では何があっても絶対に争いが起こらないというのが、この店最大の特徴にして、足を運ぶ大きなポイントと言えるのだろう。道を歩けば常に誰かが殴り合いの喧嘩をしていて、街のどこからでも銃弾が飛んできたっておかしくはないこの街で、である。


 その理由の一つとして、お金さえ払えば、安全で良心的な食事ができる数少ない店だということが挙げられる。


 以前オックスフリードのフランクルと屋のおじさんが言っていたように、ジャンブルポールのデブリストリートには、多種多様な飲食店が存在している。しかしその中には、暴利な金額を要求する店や、この星の食べ物とは思えないような物体を食事と称して提供する店が、この街には少なからず存在しているらしい。要するに、安心して食事ができる店というのは、荒くれ者たちにとっても、それだけで重宝するだけの大きな理由と言えるのだ。


 それにもう一つ。この店で絶対に争いが起こらない最大の理由というのが、この店の店主にある。それがどういうことかと言うと――。


「いらっしゃーい。あっ、バレルにシャロ、それに雫ちゃんは久しぶりねー」


 バレルさんが入口のドアを押し開けると、カランコロンと子気味の良いドアベルの音と共に、快活な声が出迎えてくれた。


「お久しぶりです、キリエさん」

「また来てくれて嬉しいわ。確か、リベレーターの試験を受けに行ってたんだっけ? 今回は随分と長かったのね~。大体長くても一か月ちょっとくらいで終わるものだと思っていたのだけど、違ったかしら?」

「あ、えっと、その……う、ぅぅ……」

「悪いがキリエ、今はそのことには触れないでやってくれ」

「えっ、あれ? 何か私、マズイことでも言っちゃった?」

「いえ……大丈夫です……」

「そ、そう? あー……、なんか、ごめんね?」


 彼女の名前はキリエラ・サラグッドさん。たった一人でこの店の調理とウェイターを兼任している、もの凄い人である。ポニーテールに纏められた長いブロンドの髪に、この店のロゴが入ったトレードマークの赤いエプロンを押しのけるように主張する胸。快活で健康的な表情。そう、このキリエさんこそが、この危険な街において唯一争い事が起こらない場所を成立させている最大の理由と言えるだろう。


 店の中を見渡すと、既に朝食時を随分と過ぎているものの、未だに殆どの席が埋まっている状態だった。しかも席に座っている客の大半が、どこを見ても屈強そうな男性のお客ばかりで、全てのテーブルにはコーヒーの入ったマグカップが置かれている。男性客の視線はその全てが通路を行き来するキリエさんに釘付けで、自分のマグカップが空になる度にキリエさんを呼んでは、目の前でコーヒーを注いでくれるその姿を目に焼き付けるように凝視していた。要するに、今この店に居座っている男性客の大半はキリエさんが目当てで、何杯もコーヒーをお代わりすることでどうにか居座ろうとしているのだ。


 噂では、キリエさんには非公式のファンクラブが存在しているらしく、この街ジャンブルポールで結婚したい女性ランキングナンバーワンに選ばれているという。ただし暗黙あんもくのルールとして、キリエさんにちょっかいをかけることは禁止されているのだとか。それを知らずに間違ってナンパでもしようものなら、常にこの店に居座るファンクラブの誰かに消されてしまうと、そんな噂がまことしやかにささやかれている。


「そう言えば、雫ちゃんって日本出身だったでしょう? 前にそれを聞いた後でね、私、日本の料理について色々と勉強してみたのよね。それでライスを握った、オニギリ? 作り方をちょっと練習したんだけど、食べてみる気はある?」

「えっ、凄い! 今ここでおにぎりが食べられるんですか⁉」

「アメリカ人の私が作ったもので良ければ、だけどね。どう、嫌じゃない?」

「勿論ですよ! 是非お願いします!」

「それじゃあ雫ちゃんはオニギリね。二人はいつものを?」

「あぁ、六ポンドだ」

「いつものを。それと私には、キリエのミルクも一緒にお願いしますわ」

「うーん、うちにはその辺の店で買ったミルクしか置いてないんだ。悪いけど、それで我慢してね」

「いえ、良いのですよ、その辺の店で買ったミルクで。ただ持ってくるときに、これは私のミルクだ、と言ってもらえればそれで――ヴッ⁉」

「朝から発情するんじゃない、気持ち悪いんだよ。悪いな、キリエ」


 バレルさんはシャロのセクハラ発言を止めるように、シャロの頭を掴んで目の前のテーブルに押し付ける。また、シャロだけはキリエさんにこのような発言をすることが許されているらしく、今もこの状況を見聞きしている筈のファンクラブの人たちに連行される様子は無かった。そもそも周囲からは異様とも言えるような静けさが漂い、それはまるで二人の会話を決して聞き逃すまいとしているかのような、そんなある種一つに統一された意思のようなものを感じさせられる。


「シャロはいつも元気ね。いいよバレル、別に私は気にしてないって。それじゃあちょっと待っててね。すぐに作っちゃうから」


 そう言うとキリエさんは、全く気にした様子も無くパタパタとキッチンの方へと向かって行く。


 確かにキリエさんは美人だけれど、それは彼女が人気である理由のほんの一部でしかないのだろう。キリエさんが誰からも好かれているのは、細かい気配りができることや、誰に対しても分け隔ての無い、あのサバサバとした性格があるからこそなのだろうと、そう私は感じた。


「バレル……頭……手を、どけて下さい……」

「ったく、お前は朝飯くらい普通に注文できないのかよ?」

「キリエと楽しくお喋りをして、キリエの作ってくれたモーニングをキリエに運んでもらい、時間の許す限りキリエを眺める。これ無くして私の朝は始まりませんわ」


 シャロのその発言で、周囲のお客さんたちが一斉に頷く。本当になんなのだろう、この異様な一体感は……。


「……幸せそうで何よりだ」

「ア、アハハ……」


 そうして暫く待っていると、コツコツという足音と共に、誰かが私たちの座る席の方へとやってきた。


「待っていましたよキリエ、さあ私のモーニングとキリエのミルクを――」

「おはようストーンヒルの皆さん。キリエは調理にもう少し時間がかかるようだから、私で我慢してちょうだいね」

「……ネイト……」

「……えっ、ネ、ネイトさん⁉」


 そこに立っていたのは、食事の乗ったトレイを持ったネイトさんだった。彼は私が初めてこの街にやって来たときに、親切にも道案内をしてくれた人だ。あれから一度も会うことができないでいたけれど、まさか今この場所で再開することになるなんて。


「久しぶりね、雫ちゃん。心配していたのだけれど、あの後無事にストーンヒルへ辿り着けたようで安心したわ。色々あったって噂で聞いているけど、大活躍だったそうじゃない」

「い、いえ、私は別に……。それより、あのときは助けてくれてありがとうございました!」

「いいのよ、気にしないで。私もこっちに来る用事があったんだから。むしろ最後まで一緒に行ってあげられなくて、本当にごめんなさいね」

「そんな、それこそ気にしないでください。ところで、どうしてネイトさんがここにいるんですか? 食事をしに来た、って感じじゃないですよね?」

「あら、知らなかった? 私もこの店で働いているのよ。と言っても、本業は別にあって、私はたまにしか顔を出せないのだけれど。最近はキリエ一人じゃ忙しいみたいだから、なるべく顔を出すようにしているわ」

「へぇ、そうだったんですね。改めまして、よろしくお願いします」

「えぇ、こちらこそよろしくね」

「くっ……キリエがテーブルにモーニングを置いてくれるとき、屈んで胸が前に押し出されるのを見るのが楽しみだったのに……」

「キリエは厨房で変わったことをしていたわ。なんだか不慣れな料理をしていて苦戦しているみたい。そういう訳で申し訳無いけど、雫ちゃんはもう少し待ってちょうだいね」

「はい、全然大丈夫です」

「もう、良いです……キリエの作ったモーニングで、この気持ちを払拭しますから……」

「あら、残念ね。そのモーニングを作ったの、私なのよね」

「……う、うぅぅぅ……」


 ネイトさんのその一言で、シャロは器用にも表情を変えず、さめざめと泣き始めてしまった。


「おい、何も泣くことは無いだろうが……」

「安心してシャロ。そのオムレツ、キリエにも負けないくらい愛情を注いで焼いたんだから」


 そう言うと、ネイトさんは二人に前に食事の乗った皿を乗せる。シャロの前に置かれたのは、オムレツにパンとサラダのセット。これがシャロの言ういつもの朝食だ。それに対してバレルさんの前に置かれたのは、ジュウジュウと音を立てる塊のステーキ肉。もう何度か見た光景ではあるけれど、朝からこの量のステーキは見ている私の方が胸焼けを起こしてしまいそうだった。


「悪いな雫、肉が冷めちまうから先にやらせてもらうぞ」

「あっはい、お構いなく。お先にどうぞ」


 バレルさんは巨大なステーキに、シャロはオムレツにナイフとフォークを入れる。お構いなくとは言ったものの、こうも目の前で美味しそうに食べられると、生唾を飲み込まずにはいられなかった。このままでは私の腹の虫が空腹を訴えるのも、時間の問題かもしれない。


「どうシャロ、お味の方は?」

「……おいしいです……すんっ……」

「それは良かった。もうバレル、貴方ったらまた野菜を残すつもりなのね? せっかく私が丁寧にソテーしてあげたっていうのに」

「問題ない、ちゃんと残さずに食べるさ」

「そんなこと言って。またシャロのお皿にどけているじゃないの」

「俺が食べるとは言っていないだろう。いつも言っているじゃねぇか、野菜が嫌いなんだって」

「そのくせ野菜抜きでは注文しないのよね」

「俺はこれ以上デカくなる必要は無いが、こいつはもう少し身長を伸ばしてやろうと思ってさ。まぁ、ちょっとした親心ってやつだよ」

「余計なお世話ですわ。そもそも、こんな凶悪な顔の男が私の父親と言うのは無理があるでしょうに。私の顔を見れば分かると思いますが」

「ウフフ、言われてみればそうよねぇ」

「……おい、朝飯の話をしていたのに、どうして朝から俺の顔が侮辱されなくちゃいけないんだ?」


 バレルさんは大の野菜嫌いである。それは料理に添えてある僅かな野菜でさえも、今のようにシャロの皿にどけてしまうくらいに。ただ当のシャロはというと、こうして文句を言いつつも、毎回黙々とそれを完食するのだけれど。ただ、普段は大人の雰囲気を漂わせているバレルさんのこういうった一面を見ると、なんだか少し子供っぽくて可愛いところもあるんだな、なんて、私はそんな風に考えてしまう。


「お待たせー。ごめんね~雫ちゃん。やっぱり慣れないものだから、作るのに時間が掛かっちゃったよ~」


 そう言って運ばれてきたプレートの上には、拳大に握られたおにぎりが三つに、大ぶりのソーセージとサラダにスープのセットと、ボリューミーなラインナップが揃っていた。


「いえいえ、気にしないで下さい。あっ、美味しそう……それじゃあ、いただきます!」


 私はまず、何よりも待ち望んでいたおにぎりに手を伸ばす。天辺から頬張ると、少し湿った海苔の香りにお米と塩気の風味が一つとなって口の中に広がり、それを噛み締める度、私はなんとも言えない幸せな気分になってしまう。


「ん~ッ……! 美味しいです! こんなに美味しいおにぎりを食べたの、本当に久しぶりですよ!」

「本当? 良かった~。ライスもノリも、合成品の安物なんだけどね」

「そんなの全然気にならないですよ! 米の硬さも塩加減も完璧です!」

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいわ。ライスを握るのって難しいのよね。握るのが強すぎても弱すぎても失敗しちゃうんだもの」

「ちょっと待って下さい。握る、とは……どういうことなのですか?」

「シャロはおにぎりを見るのは初めて? 炊いたお米を握り固めて、海苔を巻く料理なんだけど」

「……それはつまり、キリエの手で、直接握って成形せいけいされる、ということなのですか……?」

「えっと……そう、なります、よね?」

「うんまぁ、そうね」


 シャロの視線が私の持つおにぎりに突き刺さる。その表情は、まるで獲物に標的を定めた猛禽類もうきんるいが、今にも襲い掛かろうとしているかのようで――。


「……あの、シャロ。一つ、食べる?」

「……いえ、そんな。人のものを欲しがる、なんて……そんな、はしたないこと、私には……」

「えっと、そのー……、私は三つも食べられないから、もし良かったら、貰ってくれたら嬉しいかなー、なんて……」


 嘘だ。正直に言えば、三つくらいならペロリと食べられそうなくらい美味しいおにぎりだった。だけどシャロのそのあまりにも鋭い視線に気圧されて、つい嘘を吐いてしまった。


「…………、まぁ、雫がそう言うならば、仕方ありませんね。それでは一つ」


 シャロはおずおずと私の皿の上のおにぎりに手を伸ばす。するとそれをすぐに食べようとはせず、注意深くその握り固められたおにぎりを観察し始めた。


「あの、この表面に巻かれている黒いシートは、包みか何かですか? 雫は剥がさずに食べていたように見えましたが」

「それは海苔って言って、海藻を乾燥させたものなんだ。ちゃんと食べられる物だよ」

「海藻を、乾燥……? あの、これを剥がすという選択は……」

「駄目だよ! それはマストで必要不可欠なんだから!」

「そ、そう、ですか……。それでは……」


 そう言うと、シャロは恐る恐るといった表情で、お握りを咀嚼そしゃくする。


「どう、シャロ。おいしい……?」

「…………非常にシンプルな料理です。言ってしまえば、ただライスを握って塩を塗し、この黒いシートを巻いただけのもの。だというのに、なんと奥深い料理なのでしょう。これには、作業工程や素材がどうのというだけでは決して説明のできない神秘の美味が凝縮されています。恐らくこの料理を一つの料理として昇華しょうかさせている最大の要因は、その硬度にあるのでしょう。固すぎず柔らかすぎず、絶妙な状態で米がほどけることこそ、この料理の最大の特徴と言える。そしてこのオニギリが他とは確実に一線を画す特筆すべき点、それはこのオニギリが、キリエの手によって直々に握られたという事実!」


 シャロのその一言を皮切りに、静かにこちらの会話に聞き耳を立てていたと思われる人たちに変化が生じる。


「キ、キリエちゃん‼ こっちにオニギリを‼」

「こっちにもオニギリだ‼ 十個食うぞ‼」

「馬鹿ヤロウこっちが先だ‼ 俺にはオニギリを十二個くれ‼」


 店の至る場所から沸き起こる突然のONIGIRIコール。なんということでしょう。あっという間に、おにぎりがワールドワイドになってしまったではありませんか。恐るべし、キリエさん……。


 火中のキリエさんはこの異様な光景に困惑した表情を浮かべ、対して火種を巻いたシャロは我関せずという表情でおにぎりを頬張り続け、バレルさんはそれを呆れたような表情で見ていた。


「はぁ~い静かに! キリエ一人でそんなに沢山作れる訳がないでしょう。今注文した人には私が愛情を込めて握ってあげるから、静かにその場で座っていなさい!」


 そんな中でネイトさんがそう言い放つと、騒がしかった店内が一瞬で静寂に包まれる。そして間を置かず、席に座っていた客が立ち上がり、レジの前に長蛇の列を作って並び始めた。いや、まぁ確かに、キリエさんのお握りが食べられなかったお客さんの気持ちも分からないこともない。でも、それはちょっと、ネイトさんに対して失礼というものではないだろうか。ただ、当のネイトさんはそんなことを気にした様子もなく、今まで大騒ぎしていたお客さんの勘定を笑顔で淡々と済ませてゆく。


「凄いんですね……ネイトさんって……」

「う~ん、まぁ、うちではいつものことなんだけど。ごめんね、騒がしくって」

「迷惑を掛けたのはこいつだろ、悪かったな。おいシャロ、ちゃんと二人にチップを弾めよな」

「しっ、静かに……今キリエの指の感触を堪能している最中なのですから、話しかけないで下さい」


 こうして私たちの一日は、賑やかな朝食から始まったのだった。



 ***



 おにぎり騒動から少しした頃。私とシャロは紅茶を、バレルさんは三杯目のコーヒーを飲みながら、食後のひと時を満喫していた。流石にこの時間ともなると店の中に他の客の姿はまばらで、残っているのは私たち三人と少しのお客を残すだけとなっていた。


「さて、飯も食ったところで、そろそろ今日の話をしておこうか」

「あぁ、そうでした……。あの、結局私は何をすれば良いのでしょうか?」

「そう焦るなって。今日の予定は試験の下準備ってやつだよ」

「下準備……それってもしかして、また山籠もりをする為の準備、ということは、ない、ですよね……?」

「なんだよ、山はもう嫌か?」

「いえ、まぁ……。一ヵ月もの間山にいたともなると、正直、ちょっと……」

「ハハッ、まぁそうだよな。気持ちは分かる。だがそういうことなら、雫にとっては好都合ってもんさ。なんてったって次の試験会場は、世界でも有数の大都会なんだから」

「大都会、ですか?」

「そうだ。今日はその場所で使う為のある道具を調達しに行く訳だが。そうだ、なぁネイト、今日は店が休みってことはないか?」

「大丈夫、ちゃんと開けるつもりよ。開店は十六時頃を予定しているのだけど……なるほど、雫ちゃん、ね?」

「そういうことだ」

「だったら今からうちにいらっしゃいよ。夕方までなんて待っていられないでしょう? 他に予定が無いなら、すぐに店を開けてあげるから」

「いや、良いんだ。今日は気分転換ついでに、雫に街を案内するつもりだったんでね。店を開けるのが夕方だって言うなら、そっちの方が都合が良いくらいだよ」

「それは良いわね。だけど、あまり街の中心部に行き過ぎちゃ駄目よ? それと、喧嘩もなるべく控えるようにして」

「あぁ、分かってるって」

「もしも早く来るようなことになれば、電話でも寄越してちょうだい。いや、貴方は電話なんて掛けないわね。まぁ余程変な時間にでも来なければ、いつでも応対できるようにしておくから」

「助かるよ。それじゃあ、また夕方頃に」

「ご馳走様ネイト。勘定とチップはここに置いておきますから。キリエ、また来ますわ」

「はーい、いつもありがとうー。気を付けてねー」

「それじゃあ雫ちゃん、後で私のお店でね」

「えっ、あ、はい……。それでは……」


 疑問を挟む余地も無く、何も分からない内にどんどん話が先に進んでしまった。結局今日は何をして、ネイトさんは一体何をしている人で、私の試験の行方はどうなってしまうのだろう。

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