3 Calm days.
祝杯と涙と大人の階段と
――深夜 ストーンヒル事務所 バスルーム――
「あぁ~……ふぅー……」
山を下り、ジャンブルポールに帰って来た私の一番最初にやりたかったのは、何よりもお風呂に入ること。幸運なことに、ストーンヒルのバスルームには体を温めるための湯船があって、今私はそれを全力で堪能していたのだった。
私のキャンプ地の近くには川があったので、できるだけ毎日体を清めるように努めてはいたのだけれど、冬である今時期に川に飛び込んで体を洗おうものなら凍死してしまう。だから体を清める際には、少量のお湯を沸かしてタオルで拭くくらいしかできなかった。
ストーンヒルは古いバーを改装した建物であるらしく、このバスルームはシャロの強い希望によってリフォームされたらしい。ちなみに表の入り口には、“バスルームでの洗身禁止”とシャロ直筆の張り紙がされている。聞いたところによると、シャロは大のお風呂好きであるらしく、バレルさん曰く『あいつが風呂に入って脱衣所のコンポから音楽が流れ始めたなら、三時間は出てこないと思え』なんてことを言っていた。
ただこうして湯船に浸かるのは格別の気分で、今ならそんなシャロの気持ちも分からないでもないかもしれない。
***
一ヵ月ぶりの入浴を堪能し、火照った体をタオルで拭いて脱衣所から出ると、二人は応接室横のバーカウンターでお酒を飲んでいるようだった。
「随分と長湯でしたが、その様子だとうちのバスルームを十分に堪能できたようですね」
「いやぁ、それはもう。やっぱり湯船のあるお風呂は最高ですね。今度山に行くときは、このバスルームごと持っていきたいと思ったほどですよ」
「フフ、それは良いアイディアですわ。愚かなことに、この男はあのバスタブの良さが分からないと言うのですから」
「ダラダラ風呂に浸かるなんて俺の性には合わないんだよ。風呂なんて汗を流せりゃ良い。シャワーがあれば十分さ」
「不潔な男ですわ。あぁ、嫌だ嫌だ」
「風呂の入り方一つでそこまで言われる覚えは無ぇよ!」
「ですが、雫があれの良さを分かってくれて嬉しいですわ。うちの連中ときたら、誰一人として湯船に浸かろうとしないのですもの。ねぇ雫、話の分かる者同士、次は一緒に入りましょう。それこそ、明日にでも」
「う、うーん……でも、そのぉ……」
確かに、あの湯船ならば私とシャロが一緒に入っても大丈夫なくらいは広い。それに女同士なのだから、そこまで気兼ねすることなんてないのかもしれない。だけど……。
「心配いりませんわ。私はその辺上手にできると自負していますので、しっかりと丁寧に、体の隅々まで
「な、何をするつもりなのさ⁉ 言い方がいやらしいよ‼」
「いやらしい? はて、私は体を洗って差し上げると言ったのに、雫は一体どんな想像をしたのでしょう。良ければ詳細を教えてもらえませんか?」
「……、……ッ⁉ ……ッ、……んぅぅッッ……‼」
「シャロ、セクハラはその辺にしておけって。おい雫、とりあえずこっちに来なよ。座って一杯やろうぜ」
「うぅぅ……はい……」
バレルさんに助け船を出されると、私はそそくさとシャロの隣に座る。シャロの顔を横目でチラチラと盗みると、私の気持ちなんて知らないと言わんばかりに、いつもの無表情でお酒を飲んでいた。なにさ、そうやっていつも私のことをからかって……。
「それで、何にする? 一か月頑張ったんだ、今日は好きな物を飲ませてやるよ」
「……えっ? あっ、は、はい! えっと、それじゃあ、どうしようかな……」
「それでは、私にはラガヴーリンをストレートで。イミテーションではなく、棚の下に隠してある貴方のコレクションを、ですわ。チェイサーには冷水に、同じ酒を少量溶かしたものを出してください」
「ふざけるな、お前は安い合成酒でも飲んで……、……いや待て、お前、何故それがあることを知っている?」
「へぇ、ただのブラフのつもりだったのですが、ここにあるのですね?」
「無い。いいか、絶対にこっち側に来るなよ。ここは俺のステージだ。観客は客席から顔を出すんじゃない!」
「演技も褒められたものではありませんが、役者を気取るには特に顔が不合格ですわ」
「余計なお世話だよ! 何かとあれば毎回毎回顔顔言いやがって……。お前は水でも飲んでろ!」
「ま、まぁまぁ……。あの、それじゃあバレルさん、私にはあまり強すぎないお酒をお願いします」
「強すぎない、か。なら、ミルクだな」
「ミルク、ですか?」
「カルーアミルクさ。ホットとアイスの両方で作れるが、どうする?」
「えっと、それじゃあアイスでお願いします。長湯しちゃったせいで、今凄く熱くて」
「OK。少し待っていな」
バレルさんは手慣れた手つきで氷と褐色の液体をグラスに入れて少し混ぜる。すると今度は牛乳と、
「出来たぞ。ストーンヒル特性のカルーアミルクだ」
そう言って差し出されたグラスの中に注がれていたのは、氷の浮かぶ、淡い褐色を帯びたクリーム色の液体だった。これは、本当にお酒なのだろうか。私にはただの氷の入ったコーヒー牛乳のようにしか見えないのだけれど。
「さて、何に乾杯する?」
「決まっていますわ。雫の帰還に」
「そうしよう。雫の帰還に」
「お帰りなさい雫。帰還に」
「あ、ありがとうございます! 乾杯!」
そうして三人でグラスを突き合せる。二人の持つグラスには、前にも見たことのある琥珀色の液体が注がれていた。二人はそれを静かに、見方によっては舐めるように飲み下す。ただお酒を飲んでいるだけのその所作があまりにも格好良くて、その光景につい私は見入ってしまう。
少ししてから、カランと音を立てて手の中のグラスで氷が揺れると、そのとき私は自分もグラスを持っていたことを思い出す。
「……い、いただきます!」
二人の後を追うようにグラスの中の液体を口元に近付けると、ほろ苦いコーヒーの香りと、微かになにか、甘く
「あぁ……おいしいです……」
「そいつは良かった。本当ならカルーアとミルクだけで作るんだが、こいつにはほんの少量だけアマレットを加えているんだ」
「アマレット?」
「イタリアのリキュールさ。コーヒーの味と香りの奥に、アーモンドやココナッツみたいな香りがしただろう?」
「あっはい、しました。ほんの少しだけ」
そう言うと、バレルさんはニヤリと笑った。私はそれがなんだか無性に嬉しくて、再びグラスの中の液体を口に運ぶ。実は今まで本心からお酒をおいしいと思ったことは無かったけれど、このお酒はスイスイと飲めてしまう。本当に、このお酒は魔法のようだ。
そうして二口、三口と口を付ける度、冷たいお酒で冷まされた筈の体の奥から、少しずつ熱を帯びて行くのを感じる。すると次第に心地の良い倦怠感がやってきて、私はその優しい疲れに身を任せてしまいたいと思い始めていた。
「あぁ~なんらか、
「おいおい、たった一杯でご機嫌に出来上がっちまったぞ」
「カルーア一杯でこの様子では、蒸留酒のストレートは危険でしたね」
「雫が初めてここに来たとき、用意したウィスキーは飲まなくて正解だったな」
「えぇ~
「勿論良いですわ。えぇ、そんな日もありますよね。酔いに身を任せたいという欲望は大人の特権ですもの」
「発情して早口になるんじゃない。気持ち悪いんだよ、お前は。ほら雫、グラスを返せ。今日はもう終わりだ。ちゃんと水も飲めよ」
「ちっ、無粋なやつ……」
「えぇ~大丈夫れすよ~
「そんなベタな酔い方をしておいて良く言うぜ。本当に大変なのは明日からなんだからな。酔いを残さないように早く寝るんだぞ」
「
「試験の続きだよ。気を抜いて良いのは今日までだからな」
「あい~わかぃま、…………、……ん? あの、バレルさん? 今、聞き違いじゃなければ、試験って聞こえたような気がするんですけど、違いますよね?」
「なんだ、酔ってはいても耳はちゃんと聞こえているじゃないか。そうだよ、試験だよ。追試の続きがあるんだろうが」
「……試験は、終わった筈なのでは……?」
「寝ぼけているのか? あの仙楽がそんなに簡単な課題を出すわけがないだろう。今までのはただの準備で、本番はこれからだぞ」
「……それはその、何かの冗談とかでは……?」
「気の毒だとは思うが、本当だ」
「…………う、うぐぅ……え、えふぅ……」
羞恥心に耐え、レイジスの修行に耐え、一ヵ月もの山籠もりにも耐えたのに、それがただの準備? 明日からが本番? そんな耐えがたい現実を突きつけられた私は、気が付くと、古いドラマのように突っ伏して、カウンターを涙で濡らしていたのだった。
「う、うぁ……お、お代わり、お代わり下ざい~うぅぅぅ……」
「マスター、こちらのレディに先ほどと同じものを。アルコールは少な目で」
「分かったよ。まぁ、そんな日もあるよな」
飲まねばやっていられないと、いつか大人の誰かが言ったのを覚えている。それほど人生とは過酷なのだろうかと、当時の私は疑問を抱いたものだ。だけど今日、そんな大人の心境を実感した、雨衣咲雫二十二歳の夜でした。
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