病棟奇譚

第1話 岡本さだ子の場合 

 ———目の前に、見覚えのない天井が広がっている。ここはどこだろうか。私は一体、何をしているのだろうか。


 ◇


 岡本さだ子は、今年82歳を迎えるごく普通の老婆である。腰は以前と比べるとほんの少し曲がってしまって髪には白髪ばかり生えるようになってしまったが、頭はまだ正常だと自負している。


 優しい長男夫婦と孫と共に幸せな日々を過ごす。毎朝6時に起きて庭の花に水やりをした後、夫の墓参りに行くのが日課だ。それが終わると簡単な家事を手伝う。


 今日もいつも通りの日課をこなし、家族で少し早めの昼食を囲んでいた。ここ最近、なんとなく調子が悪いような気がしている。

 季節の変わり目のせいだろうと大して気にも留めなかったが、それが1週間続くとなるとさすがに心配になってきたところだ。


 今日も何となく、身体がだるい感じがする。睡眠はしっかり取っているはずなのに。


「…さん、母さん!」


 大きな声で呼ばれて、さだ子ははっとした。


「あら、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ。」


「お義母さん、お食事があまり進んでいないみたい。お口に合いませんでした?」


 そんなさだ子の様子を見て、嫁の美喜江が少し遠慮がちに聞いてくる。


「違うのよ。最近何だか調子が優れなくて…それにこの部屋、ちょっと寒くないかしら。」


 それを聞いた息子が、驚いたような表情をして言う。


「今日は暑いくらいだよ、母さん。」


 言われてみれば今朝のニュースで今日は夏日だと言っていたし、墓参りの時は額にじんわりと汗が滲んでいたことをさだ子は思い出した。


 そんな事を考えているうちに、さだ子は自分の目が潤んでくるのを感じた。寒さは先ほどよりも少し収まっている。


「お義母さん、熱でもあるんじゃないですか?」


 そうかもしれないと体温計に手を伸ばした。脇へ挟みしばらくするとピピピッと乾いた音が鳴る。表示を見ると


「………38度…」


「あら、やっぱり。大丈夫ですか?」


 数字を見た途端、さらに具合が悪くなったように感じた。そんなさだ子を見かねたのか


「一度病院で診てもらいましょうか。今ならきっと午前の診療に間に合うと思います。」


 嫁の美喜江がそう提案する。


「ええ、そうね。お願いしようかしら。」


 ◇


 病院へ到着し、受付を済ませる。問診票を記入してもう一度体温を測るが、自宅で見たものとさして変わらない数値が表示される。


 身体のだるさはより一層増したようだ。待合室で待機している間に、少し頭痛がしてくるのを感じていた。


「岡本さーん!診察室へどうぞー。」


 名前を呼ばれ、診察室へと入っていく。待ち時間は10分ほどであったが、さだ子にはそれがとてつもなく長い時間に感じられていた。


 ◇◇


「軽い肺炎と脱水ですね。しばらく入院して、様子を見ましょう。」


 診察を終え、医師はそう口にした。


 あの体調不良の原因は、どうやらそれらしい。1週間ほどの入院だというので大人しく従うことにした。


「お部屋へ案内しますので、こちらへどうぞ。」


 看護師に促され、病室へと向かう。4階でエレベーターを降り、長い廊下のちょうど真ん中あたりにある部屋へ通された。入り口には405と書かれている。病室は大部屋で、ドアを開けると4人部屋になっていた。


 ドアを入ってすぐ右手に洗面台、左手にトイレがある。どうやら共用らしい。さらに進むと4つの部屋に別れており、入り口はカーテンで仕切られている。隣の部屋との間にはテレビのついた大きな戸棚が置かれていて、荷物はそこへしまうようだ。

 一番奥の2部屋には窓が付いていたが、さだ子が案内された部屋は入り口側で薄暗かった。病室の中にはほのかに薬品の香りが漂っている。


 ———ここで1週間過ごすのね。思っていたよりも薄暗いし、なによりこの匂いが気になるわ。早く帰れるといいのだけれど。


 これから始まる入院生活に少し憂鬱を感じ始めたさだ子のもとに、担当の看護師が挨拶にやって来た。20代後半くらいだろうか、野中さんというらしい。長い髪を後ろでひとつに纏めていて、テキパキとした口調で入院の説明を始めていく。テレビ台や冷蔵庫などの使い方を聞いていると、隣の部屋から声が聞こえてくる。


「あーーーーー。あーーーー。」


 声のする方を見ると、どうやら隣の部屋で看護師が患者に何かをしているようだ。カーテンが引かれていて、部屋の中までは見えないけれど。


「ちょっと、そこ掴まないでください!榎本さん!」 「今度反対側向きますよー。」などとカーテン越しに声が聞こえてくる。


 さだ子が気にしていることに気づいたのか、野中さんが声をかけてきた。


「ちょっと隣の声が気になるかもしれませんが、処置の時以外は大丈夫だと思いますので。」


 夜もあの声が聞こえてくるのだろうか、そう心配していたさだ子はそれを聞いて少し安堵する。


「わかりました。よろしくお願いします。」


 点滴の準備をしてきますと言って、野中さんが退室して行く。ひとり残された病室はがらんとしていて、心細さをを感じさせた。ベッドに腰掛けながら、さだ子は憂鬱を振り払うように退院後の穏やかな生活に思いを馳せていた。


 ◇


 その後しばらくして、野中さんが点滴ボトルを2つ持って病室へ入ってきた。抗生剤と水分補給のための薬らしい。


「点滴を入れるための針を刺しますね。少し腕を見せてもらっても良いですか?」


 そう言うと、野中さんは近くにあったテーブルをさだ子の前に運んできた。


「わかりました。どうぞ。」


 さだ子はベッドの脇へ腰掛け、両腕を目の前にある机の上に置いた。野中さんはじっくりと両腕を観察すると


「ここに針を刺しますね。」


 そう言ってさだ子の左腕の真ん中あたりにある血管に点滴用の針を刺し、長めの管(点滴用ルートというらしい)につなげると外れないようテープで腕に固定した。続いて点滴ボトルを長い棒のようなもの(足元には3つのタイヤが付いていて、動かせるようになっている)へ引っ掛けると、ボトルの下側から出ている管を先ほど固定したルートへと繋げた。


「点滴を始めていきますね。お手洗いなど、どこかへ行く時はこの点滴棒も一緒に持ち歩いてください。」


 そう言って先ほど点滴ボトルを引っ掛けた長い棒を指刺した。



 ————必要なものなのだろうけど、これは少し不自由ね。仕方がないけれど…


 そう思いつつ、さだ子は「わかりました。」と返事をするのであった。


 ◇


 その後は病室で特に何をするでもなく過ごし、夕食やシャワーを済ませてテレビを見ているとあっという間に消灯時間になった。食事は薄味だろうと思っていたが、気になるほどではなかった。

 他の部屋も時々看護師がおむつや点滴を変えに来る気配があるくらいで、あれ以降あの声が聞こえてくることもない。廊下の方からは、時々慌ただしい雰囲気が漂ってきたりするけれど。


 ————なんとか無事に1日を終えられたわね。このまま夜も静かに過ごせると助かるわ。明日は朝にレントゲンがあるくらいだし、美喜江さんに本でも持ってきてもらおうかしら…


 そんなことを考えながら、就寝の準備を始めるのであった。


 ◇◇◇


 さだ子ははっと目が醒めた。熱が上がってきているのか、体が火照っていて気怠い。少し水でも飲もうと思っていると、暗闇の中に規則的な声が響いていることに気づいた。


「あーーー。あーーー。あーーー。」


 初めは小さな声であったが、それは段々とその声量を上げていく。


「あーーー。あーーー。あーーー…… あーーー。あーーー。」



 ————昼間に聞いた声だわ。何かされているわけでもないのに…なんだか不気味ね。


 一定のリズムで繰り返されるそれに、さだ子は恐怖を感じ始めた。熱のせいもあるのか少しばかり悪寒もする。


 しばらくすると、誰かが大部屋のドアを開けて中に入ってきた。そのまま隣のカーテンを開ける音が聞こえる。


「榎本さん!みんな寝ているから、ちょっと静かにしてくださいね。」


 そう言ってその人は部屋から出ていった。隣の声もそれで収まったようだ。


 ————よかった、眠れる。


 そう思ったのも束の間、


「あーーーーーー。あーーーーーーー。」


 再びあの声が聞こえてくる。繰り返されるそれに、さだ子は段々と飲み込まれていくのを感じていた。





















 

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病棟奇譚 @HarunoHarenoHi

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