水たまりを、跳ぶ

ミドリ

水たまりを、跳ぶ

 昼間に空が落ちてきたみたいに降っていた雨が止んで、放課後の通学路は水たまりの海になった。


 初江はつえは、買ってもらったばかりでまだ少し大きい赤い長靴を、水たまりのなるべく浅い所にそっと浸しながらゆっくりと前へと進む。普段は砂埃が立つ道は、今日は泥の道になっていた。


 すると、横から隣の家の孝臣たかおみが走って追い抜いて行く。


 バシャンと跳ねる水しぶきに、思わずよろけた。


「わっ!」


 汚さない様にしていたのに、足にも、それに大事な長靴にも泥水が付いてしまう。思わず初江が涙ぐむと、孝臣が戻ってきて不貞腐れた顔になった。


「なに泣いてんだよ、三年生にもなって情けないなあ」

「だって、綺麗だったのに汚れちゃったんだもん……」

「長靴なんて洗えばいいじゃん」


 孝臣の青い長靴は、何をしたらそうなるのか分からないくらいに汚れている。黒いペンで書かれた名前に横線が入っているから、お兄さんのお下がりなのかもしれない。


「水たまりの真ん中、結構深くって楽しいぜ」


 孝臣はそう言うと、楽しそうにその場でガボガボと水たまりに長靴を突っ込んで遊び始めてしまった。

 

「やだ、だってこれ気に入ってるんだもん」

「足が汚れない様に履くもんだろ。長靴が汚れてなにがいけないんだよ」

「孝ちゃんの意地悪」


 べ、と舌を出すと、孝臣はムッとした顔になってから同じ様にあかんべえをした。


「ふん、一生やってろ」


 捨て台詞を吐いた孝臣は、そのままずんずんと泥の道を先に行ってしまう。バシャンバシャンとわざとみたいに水たまりを踏み抜くから、孝臣の手も足も泥だらけだ。


「……孝ちゃんのばか」


 一緒に帰ろうと思っても、いつも先に走って行ってしまう。初江はもっと孝臣と話をしたいけど、孝臣はそうじゃないみたいだ。


 しょんぼりと項垂れながら泥の道を歩いていると、大きな水たまりに道を塞がれる。


 端の方なら浅いかな、そう思って縁を歩いてみたけど、どこもぼこぼこで、踏み間違えたら長靴の中に水が入ってきてしまいそうだ。


 どうしよう。困り果てて、ただひたすら水たまりの前をウロウロしていると。


「――ん!」

「え?」


 俯いていた視界に伸びてきたのは、孝臣の右手だった。顔を上げると、孝臣が初江の手を握る。


「初ちゃん、勇気を出すんだ!」


 突然の励ましに、初絵は目をぱちくりとさせた。


 孝臣は、家がある方を指差し、初絵に伝える。


「初ちゃん、あの先に俺の宝がある! 勇気を出してこれを跳び越えたら、初ちゃんに見せてやる!」

「孝ちゃんの宝物? それなあに?」


 初絵が尋ねると、孝臣は顔を真っ赤にして前を向いてしまった。


「そっそれは初ちゃんが勇気を出してここを乗り越えたら教えてやる!」


 孝臣は、初絵がここで立ち往生しているのに気が付くと、戻ってきてくれたのだ。一歩を踏み出せないでいる初絵の為に、宝物まで見せてくれると言って。


 水たまりを乗り越えたら、孝臣の大切な物を見られる。


 初絵は大きく頷いた。


「孝ちゃんの宝物、見たい!」

「おう! じゃあいっせーのせで行くぞ!」

「うん!」


 孝臣の掛け声と共に、雨上がりの白い雲が映る水たまりの上を、初絵は孝臣と共に跳んだ。



 結局は泥だらけになり、長靴の中を泥水でジャポジャポ言わせながら、孝臣に手を引かれて泣きながら帰った。


 初絵を家に送り届け、初絵の母親に自分が手を引っ張ったんだと庇ってくれた孝臣。その後、約束だからとお菓子の空き缶に入れられた宝物を見せてくれた。


 中から出てきたのは、父親が町に出かけた時に買ってきてくれた綺麗な千代紙で折って孝臣にあげた、折り鶴。


「いいだろ、俺の宝物だ」


 顔を真っ赤にした孝臣の照れくさい顔が、忘れられない。


 それから先も、くだらないことでウジウジ泣く初絵を見る度、孝臣は初絵の手を取って「勇気を出すんだ!」と励ましてくれた。


 一緒に上京しようと誘われた時も。


 夫婦になろうと言われた時も。


 年老いた実家の母を訪ねると、子供の頃はでこぼこだった道は舗装され、もう深い水たまりが出来ることはない。


 だけど、孝臣は今も初絵の手を取り、この辺りも変わったなあと隣で穏やかな笑みを浮かべている。


 孝臣が、初絵の小さな笑顔に気付いて尋ねた。


「初ちゃん、なにが可笑しいの?」


 孝臣は、子供が生まれても、孫が生まれても、相変わらず初絵のことを初ちゃんと呼ぶ。だから初絵も孝ちゃんのままだ。


「孝ちゃんに一杯勇気をもらったなあと思って」


 クスクスと笑うと、孝臣は皺だらけになった優しい頬を綻ばせる。


「泥だらけにするつもりはなかったんだって」

「うん、分かってる」


 考えてみれば、水たまりを飛ぶ勇気なんてくだらないものだ。だけど、孝臣の存在はいつだって初絵にとっては宝物で、孝臣の言葉も行動も全部が初絵の為だから。


「あの時、一緒に飛んでくれて嬉しかったよ」

「初ちゃん……へへ」


 これから先、困難が待ち受けていたとしても、あの時手を取り合って水たまりを跳んだ様に、きっと孝臣と一緒ならうまくいく。


 そう、思えた。

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