第5話 躓く石も縁の端

「私ができることは簡単なことだよ、今の君ならできる。ほらこの前ローマ字を覚えたのだろう?ならもう大丈夫だ、わからなかったらネットで調べれば良い。きっとそっちの方がもっと詳しく書いてある」


「ちがうよくまさん、僕はくまさんにおしえてもらえるから、色んなことをおぼえることができたんだよ!」


「なら、それをやめよう」


 そのくまのぬいぐるみは一向に引こうとしなかった。


「君は将来このくまのぬいぐるみを抱えて社会に出るのかい?」

 

 リク君は想像した。将来自分がスーツのようなかしこまった服を着て、ぬいぐるみを抱える姿を。

 端から見れば恥ずかしい光景かもしれないが、自分にとって他人の目線よりくまさんの方が優先だった。


「もちろんだよ、くまさんは一生ぼくといっしょなんだよ!」


 自分は次の言葉を待った。

 感動しただろうか、恥じらいながらも感謝を伝えてくれるだろうか。

 

 しかし、帰ってきた言葉は予想の真逆だった。


「さっき君は私のことを役立たずと言ったくせにか?」


 言葉に詰まる、嘘に決まってるじゃないか、今謝れれば許してくれるはずなのに自分は言葉を発せずにいた。   

 有無も言わさぬオーラがくまさんから溢れ出てきて、それに自分の体ごと押しつぶされそうだった。


「いい加減自立しろ!俺の手なんか借りずに、一人で歩けるようになってくれ、俺がまだ話しているうちに!」


 機械の補正のせいでかわいらしくなった声に反して叫ぶ訴えに、リク君は呼吸さえも忘れていた。


「俺は、お前の親なんかじゃない!」


 ぬいぐるみは怒鳴る。


「親は常にそばで子供を守らなきゃいけない存在なんだ。こんなぬいぐるみじゃ守れるわけないだろ!それなら、それならせめて」

 

 くまさんが呼吸を整えるような音がした。

 心はもう限界を迎えている。引き留める気力も、すでに持ち合わせていなかった。


「お父さんが帰ってきたときに、自立して成長した自分を見せたくないと思わないのか!そのためには、俺はいらないんだよ」

 

 そんなことはない、くまさんがいてもいなくても自立ぐらいできる。

 そう言おうと思っても脳が、口から言葉を発することを許してくれない。


「俺は君を自立させる前準備の存在なんだ、だからもう、休ませてくれ」

 くまさんの声どんどん遠くなっていくように感じる。


「くまさん!」

 俺は体中の力を振り絞って声に出す。人生で1番声を出した自信があった。


 しかしその言葉は、たったの4文字は自分が思っていたほどに弱く、細々しい声だった。


「別れの時だな」

 くまさんは言う。


「俺は君が生まれる前から名前をりくと決めていた、まぁ実際は別の名前になってしまったが。」

 急に訳のわからないことを言われ、リク君は戸惑う。 


「俺の中では君はりくだ。」


 リク君はりくという名前が気に入って、ずっと使っていたらしい。 


「なぁりく、人生には無限の可能性がある。俺は君が選んだものを精一杯応援している。俺がしゃべれなくなっても、くまのぬいぐるみは残る。俺はそこでずっと、見守っているからな。」

 

 最後にくまさんは言った。


「りく、大好きだ。」


 機会の補正をなくした声は、どこか聞いたことのある、優しい声だった。


                 


 リク君は満足そうに話を終え、立ち止まった。


 周りを見ると、やはりそこは廃墟の街にぴったりな風景だった。

 戦争の舞台となったのにも関わらずほとんどの家が残っているところも多く、ここの人たちは反旗を翻すこともなく相手の指示に従ったのだろう。

 

 リク君がある家の前に立つ。そこはかつてのリク君の家でもあった場所だ。


「話を聞いて思ったけど、君はまだくまさんに会えてないのかい?」


 りく君は自分の家に視線を移し、少しはにかんだ。

 そして俺に体を向けずに静かに言った。


「いや、会えたよ、今ここで。」

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