昔ばなし②
眼の下に血色の悪いクマをはりつけたまま家をでた。低血圧のうえに、睡眠不足でなんだか頭がぼーっとする。
それでもバス停まで歩いていると、いくらか頭がすっきりしてくる。
毎日決まった時間のバスを待っている顔ぶれは大体同じで、その中に混じって見慣れない背の高い人がいるなと思ったら、驚いたことに蓮だった。
いつも通り麗しい。
二十代くらいのスーツを着た女の人がちらちらと蓮の方を気にしてる。
「おはよう」
蓮がわたしに向き直った。その顔を見てほっとした。
昨日からずっと不安だったのだ。重大な秘密を打ち明けられたことで、二人の関係性が変わってしまうんじゃないかと。
でも蓮のすっきりとした表情を見ると、そんな心配は無用だったようだ。
「おはよう。朝からどうしたの?」
朝から蓮に会えて、思わず頬が緩む。
「冬桜が寝込んでいないかと気になってさ」
蓮は身を屈めて、わたしの顔を覗き込んだ。
「一睡もできなかったって顔だね」
「やっぱり?」
眼の下のクマを両手で隠した。こんな寝不足のむくんだ顔を大好きな人には見られたくなかったのに。
「無理もない。それが普通の反応だよ。昨日のことはあまりにも衝撃的だっただろうからね。体調は大丈夫?」
そういう蓮はいつもと変わらず、爽やかで琥珀色の瞳が朝日に照らされて金色の輝きを放っている。このビジュアルでわたしの心配をしてくれる優しい彼氏。
寝不足でふらふらなこの体にストレートのパンチがもろに入った感じ。
倒れそう。
「体調は大丈夫。ただ恐ろしく眠いっていうだけ」
ほどなくして到着したバスに乗り込む。
二人掛けの座席に座り、はい、と渡されたのはクリアファイルに入った大量のプリント。
「何、これ?」
「冬桜の英語の課題」
「嘘でしょ?」
見てみると、わたしの字にそっくり。
「ちょっと待って・・・・・・これ、どうして持ってるの? それにいつやったの?」
「昨日の夜」
「凄い・・・・・・」
「話した通り、どうせオレは三時間くらいしか寝ないから、夜は暇なんだ。いつも一緒に課題やってるから冬桜の字は完璧に真似できるし」
感激して何も言えないでいるわたしにそっと言った。
「少し眠るといい。肩にもたれて」
そう言ってわたしにその広い肩を貸してくれた。
ほんと・・・・・・優しい鬼だ。泣きそう。
わたしが絵本作家なら本当の鬼の姿を誤解のないように描いて、後世の人達にぜひ伝えたい。鬼は人間と同じように、いやそれ以上に愛情深い存在なんだってこと。
バスの心地い揺れといつも通りの蓮に会ったことで、すっかり安心しきったわたしは、学校に着いて起こされるまで爆睡してしまった。
長かった火曜日がやっと終わった。
バスを降り、蓮と手を繋いで歩く冬の夜道。
昨晩ふと気になって、今日も授業中ずっと気になっていた疑問をぶつけてみる。
「……あのね、気を悪くしないで聞いてもらいたいんだけど。というか、もちろん違うとは思うけど、一応確認のために聞いておきたいだけなんだけどね」
マフラーをしているのに、その上から重ねて蓮のマフラーを巻いてくれる。
巻き終わると満足そうな顔で訊く。
「ん、なに?」
「ありがとう。えっとね・・・・・・」
「そんなに聞きにくい質問なの?」
口ごもるわたしに蓮は興味津々と言った感じ。
「ああ、もしかして昨日の続き? 鬼に関すること?」
「うん、まあそうなんだけど。昨日ね、蓮はわたしを帰したくなくなるって言ってたじゃない? それって、あの・・・・・・」
言葉を一度切り、思い切って訊いてみる。
「・・・・・・わたしを頭から食べたいと思ってたわけじゃないよね?」
一瞬眼を見開いて、蓮は体をくの字に折り曲げた。
何が起こったのか分からなくて、じっと見つめていると蓮の体が微かに震えている。
もしかして怒ってる?
「・・・・・・蓮?」
心配になって手を伸ばしかけたその瞬間、蓮は顔を上げ思いきり爆笑した。声高らかに。わたしは辛抱強く待たなければならなかった。
──かなり長い間、蓮が笑っていたから。
「冬桜はほんと、面白いな。一体どうしたらそんな発想になるんだ?」
可能性は低いだろうけど、そうだったらどうしようと真面目に悩んでいただけに、わたしは顔をしかめた。
わたしの表情に気がつき、眼を潤ませ、口許にはまだ笑みを浮かべながら、蓮は形だけ謝った。
「ごめん」
「……いいけど」
「鬼は人間を食べないよ。絵本や昔話には、そんな話が溢れてるけどね」
「そうそう。まさにそれなの。わたしが小さい頃読んだ本にそんなことが書いてあったから、なんか変なこと考えちゃって」我ながら言い訳がましい。
「人権侵害も甚だしいな。それに鬼についてそんな風に書くなんて、名誉毀損で訴えたいところだ」
わざとらしく咳払いをする。
「オレは鬼だけれど、男でもある。だからそのへんは・・・・・・人間と変わらない。つまりそういう衝動もあるってこと」
蓮が言っている意味がなんなのか分かって、俯きながらうん、そっか、そうだよね、ともごもごと言った。
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