キンモクセイ


入ってきた時と同じチリンという音が鳴り、店から出る。

しっかりと防寒対策をしたはずなのに、身を切るような冷気が肌と服の隙間から入り込んできて、思わず首をすくめた。

近くに街灯もない狭い路地だから、辺りは星が瞬く音さえ聞こえてきそうなほど静かで、暗闇に包まれている。



足元がよく見えないまま歩きはじめると、コツン、と見事に少しの段差につまづきよろめいた。隣を歩いていた蓮が、素早くわたしの腕を掴み支えてくれた。


「ありがと」


「ほんとそそっかしいな」


「運動神経がない上に、暗くて全然見えない」


「じゃ、こうしよう」


蓮はわたしの手をぎゅっと握った。蓮の手は大きくてものすごく温かい。

つい頬が緩んでしまう。暗闇で良かった。きっと耳まで赤くなってるから。


「こんなに暗いのに見えるの?」


「視力はいいよ」


「視力はいいよって・・・・・・、他にもいいことだらけじゃない。頭も良くて、スポーツ万能で蓮にはできないことがあるわけ?」


「ないな」

即答する。


「不公平すぎる」わたしは呟いた。

蓮は声を出して笑った。 



それにしても寒かった。マフラーに鼻をうずめて、ぎゅっと身を縮めた。

昔から寒さは苦手だけど冬の匂いは好きだ。ぼやけた感じの匂いじゃなくて、木や土や雨からするくっきりとした自然の匂い。今もそんな匂いがどこからかした。


「寒い?」


「うん、寒い」わたしは答えた。


蓮が距離を詰めた。わたしが寒くないのか、暑くないのか、大丈夫なのか、大丈夫じゃないのかいつも気遣ってくれる。


星が瞬く寒空の下、蓮とこうして手をつなぎくっついて歩く。

何十年経っても、蓮と一緒に過ごした時間を思い出してきっと愛おしく思うだろう。

その時も、わたしの隣には蓮にいてほしい。

蓮への想いで胸がちりちりと痛んだ。


苦手だった季節がだんだん好きになってくる。厳しい冬が終わる頃には、もしかしたら一番好きな季節になってるかもしれない。


マンションの前に着くと、そうだ、と呟き蓮は鞄の中に手を入れて、口のところをリボンで留められたオレンジの小さな袋を取り出した。

わたしに差し出す。


「なにこれ?」


「退院祝い。といっても大した物じゃないんだ。気に入ってくれるといいけど」


「嬉しい、ありがとう」

蓮から貰った初めてのプレゼント。中身がどんなものであれ、気に入らないなんてことは絶対にない。


「ここで開けてもいい?」

わたしは訊いた。


「もちろん」


リボンをほどいて袋を開ける。

箱が入っていて、それも開けるとふわりと優しく爽やかな匂いがした。

日本髪を結った女の人が描かれている小さな瓶を手にとる。


「・・・・・・もしかして香水?」

キャップを軽くひねり、匂いを嗅いでみる。

蓮には負けるけど、いい匂い。


「キンモクセイのコロンだよ」


「ありがとう。入院中もそうだし、退院してからもいろいろ助けてもらったのはわたしの方なのに」


「オレがしたくてそうしてるだけだよ」


「わたしも蓮の為に何かしたいのに、蓮は出来ないことが何もないから、出る幕が全然ないんだもの」ため息まじりに言った。


蓮は静かに頭を振った。

「冬桜は何もしなくていいいんだ。ただ側にいてくれるだけで」


蓮ぎは少し屈んで腕を伸ばし、両手でわたしの顔を包んだ。

蓮の顔がすごく近くにあって、さっきまで寒かったはずのに、途端に顔が火照ってくる。


次の瞬間、お腹がグーッと鳴ってしまった。

このタイミングで・・・・・・もうサイアク。


蓮は笑った。

「もう入って。外は寒いし、何よりもまず冬桜のお腹を満たさなくちゃ」


「・・・・・・うん。じゃ、またね」

蓮に小さく手を振り、エントランスに向かった。





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