三十秒

演奏を終えた直井くんは、ぽつぽつと話しだした。


「この曲はね、いつも母親がいなくて淋しい時によく弾いていた曲なんだ。母は公演で世界中を飛び回ってたから、家にいないことが多かった。帰ってきた時には母はできるだけ僕と一緒にいてくれたけど、また少しすると遠くに行ってしまう。ずっといないことに慣れていると平気なのに、数週間一緒にいた後に離れるのはたまらなく辛くて、よく泣いて母を困らせたんだ。そんなふうに子供時代を過ごしたからか、僕は引っ込み思案で友達もいなかった。その頃は身体も小さかったし、同級生の男子にもからかわれて、よく泣きながら帰ったよ。音楽を恨めしく思ったこともあったけど、僕を慰めてくれたのもやっぱり音楽だった。厳しい世界だからと、両親は僕に音楽を強要したりしなかったけど、自然に音楽の道を選んだ。熱心に打ち込んで、いろんな人に褒められて、コンクールで受賞するたび、ああ、僕もやればできるんだって思えるようになったんだ」

そこで口をつぐんだ。


「・・・・・・ごめん、僕の昔話なんて面白くなかったよね」

わたしは首を振った。


「ううん。直井くんにもそんな頃があったなんて、なんか想像できない」


「そうかな」


「直井くんはいつも自信にあふれてて、前を向いていて、わたしよりずっと大人びてるから。きっと今までも順風満帆で完璧な人生を送ってきたんだろうなって勝手に思ってた」


「僕の人生がずっと完璧だった時なんてないよ。良いときも悪いときも必ずあるんだ」直井くんは静かに言った。


その言葉が胸に刺さった。わたしは頷いた。


「なんか演奏を聴いてたら、さっきまでなんかもやもやしていた気持ちがスッとした。ほんと凄いね。たった一つの楽器で人に感動を与えたりできるんだもん。わたしにはないな。そういうもの。これだけは絶対誰にも負けないって自信をもてるもの」


わたしにもそういうものがあったら、些細なことで心揺らいだりしないんだろうか。蓮に近づく女の子達を見ても、不安な夜を過ごさなくてもいいんだろうか。



「前にも言ったけど吉野は充分、魅力的だよ。僕が・・・・・・好きなんだから」



そのことを最近忘れてるみたいだけどね、と直井くんは付け加える。

ごめんね、わたしは謝った。

もちろん、告白されたこと忘れてたわけじゃない。

でも直井くんは居心地が良くて、その優しさについわたしも甘えてしまう。今みたいに。


「それでも吉野が自信が持てないのなら作ればいい。誰にも負けないって胸張って言えるものを」

わたしの眼をじっと見つめる。


「さ、僕たちも帰ろう」

わたしの涙の訳を最後まで何も訊こうとしなかった。


「送るよ」


「大丈夫だよ。バス停から家まですぐだから」


「それくらいはさせてほしいな。」切なげに言った。


「分かった。ありがと」



ただでプロ並みの演奏を聞かせてもらって、そのうえ家まで送らせるなんてなんだか申し訳ない気持ちになる。

バスを降りて、マンションまで直井くんとゆっくり歩いていた。


「忙しいのに家まで送ってもらっちゃってごめんね。今日は本当にありがとう。直井くんにはいつも助けてもらってばかりだね」


「本当にそう思ってる?」


「もちろん」わたしはきっぱり答えた。


「今度、何かごちそうする。今日の演奏のチケット代として」


「・・・・・・それよりもこの前、保留にしておいた僕のお願いを今、聞いてくれるかな?」


「うん、いいけど」


「三十秒だけ僕にくれる?」


言い終わらないうちに、直井くんは両手を延ばしてわたしを胸に引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。


──え?


友達としての抱擁じゃなく、情熱的な抱擁。

息が止まるほど、強く、きつく。

わたしの耳元で囁いた。直井くんの吐息がかかる。


「僕なら君を泣かせたりしない」


予想外のことに驚いて、身じろぎひとつ出来なかった。

抗議の声をあげようと思ったところで、わたしを解放した。


「ごめん、三十秒少し過ぎたかも」

微塵も後ろめたい様子を見せず、ほほ笑んだ。


「じゃ明日」


わたしが口を開く前に、行ってしまった。

闇に紛れて見えなくなる背中を呆然と見送った。

・・・・・・さっきのは、ホットココアじゃなかった。

いつもみたいにわたしに癒しをくれる友達じゃなく、男としての直井くんだ。


──僕は吉野が好きだ。


わたしの心臓がうるさいほど反応してる。

そして彼の胸はこの上なく温かかった。

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