立ち聞き
蓮は万華さんに何て言ったのだろう。
考え過ぎなのは分かってるけど、つい悪い方に考えてしまう。
さっき聞こえなかった蓮の音声が頭の中で再生される。
──期限が終わるまで、もう少しだけ待ってくれないか。
暫くそうしていたけど、いつまでもここにいるわけにはいかない。
きっと蓮が心配して、探しにくるだろう。わたしはようやく立ち上がった。
だけどどんな顔して、蓮に会えばいい?
何事もなかったように振る舞う自信はない。
重い足取りで会議室に向かった。
まだ何人かの生徒が残っていた。万華さんもいる。
いつもと変わらない様子だったけど、眼は少し赤い。やっぱり泣いたみたいだ。
冬桜、楽器片付けるよー、と吹奏楽部の友達に声を掛けられて、上の空で返事をした。
自分の身長ほどある弦バスを持って、のろのろと音楽室に向かう。足に力が入らなくてふらついた。
「譜面台持とうか?」直井くんにぽんと肩ををたたかれる。
「吉野どうした? なんか顔色悪いみたいだけど」
直井くんの優しさに涙がでそうになる。
「きっと緊張したせいだと思う。すごく疲れちゃった」慌ててごまかす。
「なんか眼も赤いような気がするけど、大丈夫・・・・・・」
直井くんがわたしの顔を覗き込むように近づいた瞬間、後ろから尖った蓮の声がした。
「冬桜の心配はオレがする」
直井くんを敵意のこもった眼で睨むと、わたしの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫か? 送るよ。帰ろう」
蓮の眼を直視することができなかった。
「・・・・・・まだちょっと吹部だけでやることがあるんだ。遅くなりそうだから、先に帰ってくれる?」
咄嗟に嘘をついた。今は蓮と一緒にいたくなかった。
ふたりの会話を立ち聞きしたことを知られたくはないのに、一緒にいたらさっきのことを問いただしてしまいそうで怖かった。
「待ってるよ」
「でも何時になるか分からないから、今日は先に帰って」
眼を伏せたまま言う。
「・・・・・・冬桜、どうした?」
いつもと違うわたしの様子に気がついた蓮が、手を伸ばしてくる。
長い指がわたしに触れる前に、思わず一歩下がってしまった。
──今、触れられたらきっと泣いてしまう。
蓮の手はわたしの鼻先をかすめ宙に留まったまま。
明らかに様子がおかしいわたしに、もう気が付いてる。
「何でもないよ。帰りは直井くんに送ってもらうから」
直井くんの名前をわざと出した。
沈黙している蓮に、本当に大丈夫だから、とそっけなく告げる。
蓮はそれ以上何も言わなかった。伸ばした腕を下ろし、分かった、と一言だけ言った。
「気をつけて帰って」
「うん」
蓮に初めて嘘をついた。
大好きな人に嘘なんかつきたくないのに。自己嫌悪でまた涙がでそうになる。
じゃよろしく頼む、と直井くんに言い、くるりとわたしに背を向けて帰ろうとしている蓮に、走り寄っていきたくなる衝動を抑える。
自分で言ったのに、バカみたい。
涙が浮かんできて頬を伝う。一度溢れた涙はなかなかとまりそうになかった。
直井くんはわたしの手を取り、誰もいない教室の椅子にわたしを座らせた。
自分のケースからチェロを取り出して、弾き始めた。
聴いたことはなかったけど、どこか懐かしいようなそんな曲。
わたしは眼を閉じたまま、じっと聞き入った。
演奏が終わるまでたっぷり十五分くらいかかった。
終わる頃には、涙はとまり、いくらかは胸のつかえが取れた気がした。
きっと、わたしが泣き止み気持ちが落ち着くように、長めの曲を選んでくれたんだろう。
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