恋は走り出した②

ヨーイドン、で走り出す。

耳の横を風がビュンビュンと通り過ぎる音がする。走ると何より気持ちいいのはこの音だ。頭の中の何かがはじけるような爽快な音。

忘れてた。走るってこんな感じだったっけ。



 この音が耳に響いてる間は、現実の世界を振り切ってほんの少しだけ飛んでいる気がする。このままずっと走り続けたかったけど、普段から運動不足のわたしは、すぐに息が上がってペースが落ちる。

ゆっくり歩いて息を整える。また、走り出す。ずっとその繰り返し。何周も走った。気が付くと全身汗まみれだった。



肩で息をする。心臓もバクバクして、脳まで酸素がいかなくて倒れそう。

もう一歩も走れない。



 普通ならあんなこと言われても、ほんとムカつくやつ、で終わりだ。

でもそれで終わりにならないのは、──そう、わたしが彼を好きだからだ。

認めたくなかったけど、高下蓮のことが好きなんだ。

好きだけど、大嫌いで大好き。



 ホント笑っちゃう。わたしはあんなに嫌われているのに。

美咲やはづきも好きだし、前の学校の友達も好きだし、家族も好きだし。人だけじゃない。食べることも好きだし、コントラバスを演奏するのも好きだし絵を描くことも好き。



 人生の中に好きはこんなにたくさん溢れてる。

なのにどうして彼を好きなことは、他の好きとは違うんだろう。

どうしてこんなに苦しいんだろう。つらくて痛いんだろう。



何周も走って走って、もう一つだけ分かったことがある。

やっぱり彼を諦められないという気持ち。どんなに苦しくても、つらくても、胸が痛くても。



のどがカラカラだった。ベンチに戻り力なく座り込んだ。水筒の麦茶をがぶ飲みする。失った汗の分と涙の分。


 

 さっきまでがんじがらめになっていたわたしの心の鎖が、少しだけほどけた気がする。もやもやした気持ちは、汗と一緒に溶けて流れでるみたい。

汗ばんだ額を撫でる風が気持ちいい。

体はくたくただったけど、真っ青な空と同じようにわたしの気持ちは晴れようとしていた。



 家に着いた時は猛烈にお腹がすいていた。こんなにつらい恋でも減るものは減る。

冷蔵庫を覗くと昨日の夕飯の肉じゃががあったので、ぺろりと平らげた。

恋も体力勝負だ。腹が減っては戦はできないというではないか。ママがよく食べる理由が分かった気がした。



 洗面台の鏡を見ると、想像よりずっとひどいことになっていた。

一日中、ゾンビと死闘を繰り広げた女子高生の顔って感じ。



 泣いたせいで、眼が充血しピンポン玉のようにむくんでいる。

制服はしわくちゃで、汗でべとべと。頬には白く乾いた涙の跡がうっすらと見えるし、後ろの髪には芝生があちこちに刺さっていて、これ以上ないってほど悲惨だった。



 公園から帰るとき、森徳の誰にも会わなかったのは不幸中の幸いと自分を慰める。

お気に入りの入浴剤を入れたぬるめのお風呂にゆっくりと浸かり、全身をきれいに洗った。むくんだ眼のまわりのマッサージも念入りに。



 お風呂からでて着替えると、体中を駆け巡ってるアドレナリンの勢いでこのまま課題を片付けにかかる。

普段は一時間以上は余裕でかかるのに、集中して四十分。多分、最高記録。

課題が終わっても勢いは止まらない。今度は夕飯の仕込みにかかる。

といっても簡単なカレーだけど。



 ママを待ってようと思ったけど、今日は残業で遅くなるってさっきメールがきた。

さっき昨晩の残り物の肉じゃがを食べたのに、まだお腹がすいていて、カレーもぺろりと平らげた。



 食べ終えてスプーンを置いた途端、猛烈な眠気に襲われた。電池がきれたロボットみたいに動けなくなる。

さっき課題をやっておいて良かった。最近、いろいろ考えて寝付けない時もあったけど、今夜は秒で眠りに落ちそうだ。

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